ルドルフ・シュタイナー

「精神的な探求における真実の道と偽りの道 (GA243)

トーケイ、ディヴォン、1924年8月11日−22日

佐々木義之 訳

 

第八講 

精神的な探求において陥る可能性のある過ち

 

 既にお話しした意識レベルを発達させるとき、それぞれのレベルにおいてある特別な宇宙領域への扉が開かれます。人間が有する知覚の本性と適切な意識状態を発達させることによって到達することができるところの様々な領域との関係を概略的に記述してみる、ということを提案したいと思います。これらの領域は実際にはお互いに重なり合っているのですが、隣接したものとしてしか描くことはできません(黒板に描かれる)。月と水星の領域がいかに私たち自身の領域に浸透しているかについては既に示されました。

 死後数年以内の死者と関わりを持つことを可能にするところの意識レベルを私たちが発達させると想像してみましょう。その世界は私たちの世界と境を接しています。

rot 赤色

gelb 黄色

unser Welt:

私たちの世界

hell 明るい

 次の意識レベルは、死者が(カマロカにおいて)その地上生活を逆向きに辿った後に入るところの生活へと貫き至ることを可能にするものです。私はそれを空になった意識と呼びました。しかし、それは物理世界との関係では目覚めた意識です。私たちが次に参入するのはより広い領域であり、そこでは水星存在、すなわちラファエルの領域に特徴的な事象やできごとと密接な関わりを持つことになります。特に、人間本性に生来備わっている治癒力が意識されるようになります。

 こうして私たちは、それぞれの意識状態によって固有の宇宙領域に参入し、その時々において、これらの領域に属する存在たちを知るようになるのです。もし、死後間もない人間が置かれる状態を知りたいならば、彼らが住む世界に参入するのに適した意識を発達させなければなりません。彼らの真の姿は彼らが属する世界においてのみ私たちに示されます。もし私たちが水星存在を観察したいのであれば、彼らの世界の意識に与らなければならないのです。ですから、これらの世界はある意味でそれぞれ切り離されており、当然それぞれの世界には固有の意識状態がある、と考えることができます。それは実際、私たちが正しく宇宙を理解するための必要条件なのです。何故なら、私たちはそのように考えることによって初めてこれらの存在たちをその真の性格において知る準備をすることができるからです。ここで、簡単な例によって、そのような認識−ある特定の宇宙領域に適した意識状態を正しい仕方で発達させようとする認識−がどのような方向に導いていくのかを皆さんに示す、ということを提案したいと思います。

 私たちの前に植物がその葉や花とともにあると考えてみましょう。私たちは既に、植物とは精神世界に存在する元型の地上における反射像である、ということを学びました。そして、私たちがこの元型の世界へと意識を上昇させ、植物世界の認識を獲得するとき、決定的に重要なことがら、すなわち地上に見いだされる植物の種類は明確に区別されなければならない、ということが明らかになります。適切な精神的知覚力をもって、私たちがある特別な試料、例えばチコリを検証するとき、その外観は他の多くの植物とは異なっています。典型的な例として通常のスミレを取り上げ、それをベラドンナと比べてみましょう。今お話ししたような方法で植物の世界を探求しつつ、スミレが属する世界に参入するとき、つまり、空になった目覚めの意識に参入するとき、スミレはその全く無垢の姿で精神の目に映る、ということが分かります。

 他方、ベラドンナはその存在を別の世界から導き出します。私たちが、植物は物質体とエーテル体を有している、そして、その花と実は普遍的な宇宙の要素に取り囲まれている、ということを知覚するとき、私たちは通常の植物という存在を理解することになります。地球から芽生える植物の有機的な生命、その周囲のエーテル体、そして、一見雲に包まれたようなアストラル的な要素が至るところで見られます。スミレのような植物の性質とはそのようなものです。ベラドンナのような植物はそれとは異なって構成されています。その釣り鐘型の花の内部には実が形成されるのですが、アストラル的な要素はその実の中へと浸透していくのです。スミレが発達させる「さく」は単にエーテル的な要素の中にあります。ベラドンナは、その実がアストラル的な要素を同化しているため、毒を持っているのです。いずれかの部分が大宇宙のアストラル性を同化している植物はすべて毒を持っています。動物の中に入っていく力、動物にアストラル体を付与し、それを感覚的な存在へと内的に形成する力は植物における有毒な要素の源泉でもあるのです。

 これは非常に興味深いことです。私たちのアストラル体は植物によって同化されるとき、毒性を示す力の担い手になる、ということが分かります。毒についてはこのように考えなければなりません。私たちは人間のアストラル体が実際にあらゆる毒の力を含んでいるということに気づくときにだけ毒についての内的な理解を獲得することができるのですが、それはそれらの力が人間存在を構成するひとつの重要な部分になっているからです。

 私がこの議論の中で、後になって精神的な探求における真実の道と偽りの道を区別するための助けとなるであろうようなはっきりとした観点を提示しようとしているのです。スミレとベラドンナの例から私たちは何を学ぶことができるのでしょうか? それぞれの植物世界に適した意識を発達させるならば、スミレはその本来の世界の内部に留まり、外の見知らぬ世界から何も引き寄せることのない存在である、ということが分かります。他方、ベラドンナの場合、見知らぬ世界から何かを自分に引きつけます。それは、植物の世界ではなく動物の世界の特権であるところの何かを同化しているのです。このことはすべての毒のある植物に当てはまります。彼らは、植物存在には属すべきではないもの、実際には動物界に属すものを同化しているのです。

 さて、宇宙には様々の領域に属す多くの存在たちがいます。私たちが死者たちに出会い、彼らがそこを離れるまで10年、20年、あるいは30年にわたって付き添っていくことができる領域にも、人間に気づかれることなく私たちの物理世界に入り込んでいる多くの存在たち、疑いもなく現実的な存在たちが見いだされます。彼らはある特別な種類の元素存在として記述するのが最も良いでしょう。こうして、私たちは、死の門を通過して間もない死者たちの後を追っていくとき、あらゆる種類の形態を付与された元素存在たちが住む世界、彼らが現実にそこに属すところの世界へと入っていくことになります。私たちは、これらの存在たちはその世界に属している限り、その世界に適した力だけを実際に使用すべきである、と言うかも知れません。さて、これらの元素存在の中には、その活動を彼ら自身の世界に限定せず、例えば、人間がものを書く様子を観察したり、人間が生まれてから死ぬまでにその世界の中で行うところのあらゆる活動を追跡するものたちがいます。私たちは私たちの活動の観察者であるそのような存在たちにいつも取り囲まれているのです。

 さて、この観察者としての役割自体は害があるというものではありません。何故なら、今私がお話ししていることがらの背後にある全体計画の本質とは、人間が物理的な世界との関わりを通して獲得するところのあらゆるものが、私たちの世界と境を接するあらゆる世界、私たちが死後直ちに入っていく世界、私たちが死後何十年も経った死者たちと接触を持つ世界、つまり、これらすべての世界には欠けている、というようなものだからです。この死者の世界には、例えば、書くことや読むこと、私たちが知っているような飛行機、自動車、あるいは客車は存在しません。

 私たちはこの地上で自動車を組み立て、読み書きをし、本を書きますが、このすべてに天使たちは参加していない、とは言えません。これらのすべてが宇宙一般にとって意義がないものである、とは言えないのです。今私が記述したような存在たちは私たち自身の世界と直接境を接する世界から「委嘱」を受けている、というのが実際のところであり、彼らは人間の活動を見守らなければならないのです。彼らは人間の本性に関心を持ち、未来の時代のために、その分野で彼らが学ぶものを保持する、という任務を別の世界から負っているのです。

 私たちは人間として、私たちのカルマや外的な文化によるカルマへの影響をひとつの人生から別の人生へと運んでいくことができます。私たちは自動車に関連した私たちの経験をひとつの地上生から別の地上生へと運んでいくこともできるのですが、自動車の組立そのものを運んでいくことはできません。地上の力だけに担われたものを、ある人生から別の人生へと運んでいくことは私たち自身にはできないのです。ですから、人類は文明を通して何らかのものの基礎を築いてきたのですが、それは、もし、別の存在たちが力を貸してくれなかったとすれば失われていたであろうようなものなのです。さて、私がお話ししてきた存在たちは、人間がひとつの地上生から別の地上生へと運んでいくことができないものを未来のために保持する、という任務のために「分遣隊」に分けられます。

 これまで、これらの存在たちの多くにとって、その任務を成就するのは最も難しいことでしたから、太古の時代に見いだされたものの多くが再び人類から失われてきました。私が確立しようとしている顕著な点とは、私たちは、人間がひとつの地上生から別の地上生へと自分で伝えることができないようなもの、例えば文献中の抽象的な内容を宇宙的な計画にしたがって未来に運んで行くという使命を負った存在たちに取り囲まれている、ということです。人間と直接的な関係にある精神的な存在たちにはそれは不可能です。したがって、人間としての私たち自身にもそれは不可能なのです。これらの存在たちが彼らの手助けをするものとしてリストアップしなければならないのは、彼らとは長らく疎遠であった別の存在たち、すなわち人間と関わってきた精神的な存在たちとは全く異なる進化を経験してきたものたちです。これらの異なる進化を遂げた存在たちを、私は私の本の中でアーリマン的な存在たちと呼びました。彼らは異なる進化を経てきたにもかかわらず、ときとして、例えば、私たちが自動車を組み立てるとき、彼らが私たち自身の進化に関わりを持つことがあるのです。彼らは、彼らのアーリマン的な宇宙の力によって、自動車の組立のような現代技術を理解することができる存在であり、人間自身がひとつの受肉から次の受肉へと運んでいくことができないような文明の技術的な成果を未来の時代へと伝える存在なのです。

 私たちが手に入れることができるこの情報によって、私たちは今、霊媒とは本当に何なのかを記述する地点に立ちます。もちろん、私たちは最も広い意味での霊媒と文字通りの意味における霊媒とを区別しなければなりません。「霊媒」という言葉を広い意味に取ると、基本的には、私たちはすべて霊媒です。私たちは皆、誕生から死までの私たちの人生を生き通すために受肉する以前には、魂と精神からなる存在でした。私たちの精神的な本質が物質体に受肉するのです。物質体は精神が活動するための媒体となるものです。ですから、「霊媒」という言葉を最も広い意味に取ると、あらゆる存在はある程度は霊媒である、と言うことができるのです。これは私たちが通常、「霊媒タイプ」という言葉に与える意味とは異なります。誕生と死の間の世界においては、霊媒的な人とは、脳のある部分を彼の全体的な存在性から切り離すというような仕方で発達させた人のことです。ですから、ときとして、これらの脳の部分、特に自我の活動を支える部分が、その基盤的な役割を果たさなくなることがあるのです。

 私たちが自分に向かって「私は」と言うとき、つまり、私たちが十分に自我を意識しているとき、この意識は脳のある特定の部分に根ざしています。これらの脳の部分が霊媒によって切り離されますと、私が先ほどお話ししたような段階にある実体が、人間の自我の代わりにそのような部分に滑り込みたい、という衝動を感じるようになります。そのとき、そのような霊媒は、文明の成果を未来に伝えることが本来の機能であるところのあの存在たちの乗り物になるのです。これらの実体たちは、たまたま自我が不在になった脳に取り憑くとき、この脳の中に自らを確立したいという圧倒的な欲求を感じます。そして、霊媒がトランス状態にあり、脳が切り離されるとき、アーリマン的な影響を被るこの種の実体、文明の成果を未来に伝えるのがその機能であるところのこの種の実体が脳の中に滑り込むのです。そのような霊媒は、一時的に、自我の担い手ではなく、宇宙における自らの義務を怠っている元素存在の乗り物になるのです。皆さんには、宇宙的な義務を怠る元素存在、という表現を全く文字通りに受け取っていただきたいと思います。

 そのような存在の義務は人間がどのようにして書くかを観察することです。人間は私がお話ししている脳の部分に根ざした力を用いて書くのですが、これらの存在たちは正常な仕事としての単なる観察の代わりに、切り離される可能性がある霊媒的な脳を絶えず探しているのです。そして、その中に滑り込み、書くという技術について彼らの観察が教えるところのものを同時代の世界に導入します。こうして、彼らは、霊媒の力を借りて、彼らの使命に従えば未来に伝えるべきものを現代に投影します。霊媒主義は、未来の能力となるべきものが混乱し、ぼんやりした仕方で既に現代において発達させられる、という事実に依拠しているのです。これが霊媒の予知能力の源泉であり、他の人々を魅了する元ともなっているものです。実際、その機能は今日の人間の機能よりもずっと完璧なものなのですが、それは既に述べたような仕方で導入されるのです。

 ちょうどベラドンナがアストラル世界を媒介するように、つまり、その実に吸収したある種のアストラル的な力を媒介するものとして働くように、人間もまたその特別な脳のタイプを通して、ある未来の時点において私たちの文明に参加すべきこれらの元素存在のために、と申しますのも、人間にはある地上生から別の地上生へとすべてのものを運んでいくことは不可能だからですが、それを媒介するものとなるのです。これが霊媒現象−ある種のクラスの存在たちによる憑依−の秘密です。

 さて、一方で、皆さんは、これらの存在を実際に創造したのはアーリマン的な存在たちである、と結論づけるかも知れません。アーリマン的な存在たちは宇宙にあって人間の知性を遙かに凌駕する知性を有しているのです。私たちは、私たちの世界と直接境を接する世界においてアーリマン的な存在たちに出会うとき−あるいは、洞察を達成することによって、物理的な世界においても彼らに出会うかも知れませんが−、彼らの広大で卓越した知性に驚きます。彼らの知性は人類のそれを遙かに越えています。そして、私たちはいかに彼らが無限に知性的であるかに気づくとき、初めて彼らを尊敬するようになります。この知性のなにがしかが彼らの子孫、霊媒的な脳に滑り込む元素存在たちに伝えられることから、霊媒という手段で重要な情報が明らかにされるというようなことが起こり得るのです。私たちは多くの決定的に重要なことを、特に、霊媒たちが十分に発達した意識の中で伝えることに関して、学ぶことができるかも知れません。私たちが精神的な世界の本性と成り立ちを正しく理解するならば、霊媒が多くの権威ある情報を伝えることができる、ということを否定することはできません。私たちは彼らから多くの重要なことを学ぶ可能性があるのですが、それは精神的な認識に向かう正しい道ではありません。

 このことは植物霊媒、つまり植物毒の元となるある種のアストラル的な力を媒介する植物の例からもお分かりと思います。このような状況がいかにして生じたのかに気づくことができるのは、正しく発達させられた意識を通してだけです。このことを次のような方法で記述してみたいと思います。と申しますのも、精神的な世界について議論するときには、抽象的な概念で語るよりも、明確で具体的な記述の方がよいからです。

 死者たちが死後の生活を送る世界に超感覚的な認識をもって参入すると仮定してみましょう。私たちがそのようにして死者を追っていくとき、最初に入っていくのは私たち自身の世界とは全く異なる世界です。これについては既にある程度述べましたが、そのときに指摘したのは、その世界は私たちが誕生から死までの間を生きる世界よりも遙かに現実的な印象を与えるということでした。

 私たちがこの世界に参入するとき、私たちは死者たちの魂とは別に、そこに見いだされる特筆すべき存在たちに驚かされます。最近亡くなった人々の魂が奇妙なそして悪魔的な形態をしたものに取り巻かれているのです。死者が入って行かなければならないこの隣接する世界、私たちがある種の超感覚的な視覚によって彼らを追っていくことのできるその世界の入り口で、私たちはアヒルか野鴨、あるいはその他の水性動物のように、水かきのついた巨大な足−地上的な基準に照らして巨大ということですが−、絶えずその形を変える巨大な水かきのついた足を持つ悪魔のような姿をしたものに出会います。これらの存在たちはいくらかカンガルーのような形をしていますが、半分鳥のようでもあり、半分ほ乳類のようでもあります。私たちが死者に付き添って行くときには、そのような存在たちが住む広大な領域を通過していくことになるのです。

 私たちがこれらの存在たちはどこに見いだされるのかと問いかけるとすれば、まずそのような存在たちの在処、彼らの居場所についてのはっきりとした考えを持っていなければなりません。彼らはいつも私たちの周りにいるのです、何故なら、私たちは死者と同じ世界に住んでいるからです。しかし、皆さんは彼らをこのホールの中に探すべきではありません。真性で正当な探求はこの地点から始まるのです。

 秋のクロッカスがたくさん生えている牧場を歩いていると想像してみましょう。秋のクロッカスのただ中で、死者を追っていくことができる意識状態を引き起こすように努めるならば、それが生えているところであればどこでも、ちょうど今述べたような存在、水かきのついた足と奇妙なカンガルーのような体を持った存在が見られるでしょう。秋のクロッカスのひとつひとつからそのような存在が現れて来るのです。

 もし、さらに移動を続けて、ベラドンナが道ばたに生えている場所に行き、皆さんを今お話ししたような意識状態に移行させるとすれば、皆さんは全く異なる存在、やはりこの世界に属する恐ろしい悪魔のような存在に出会うでしょう。ですから、秋のクロッカスとベラドンナは隣接する世界の存在たちが彼らの中に入ってくるのを許すところの霊媒、別の側面から見ると、実際に死者の世界に属する霊媒なのです。

 このことを心に留めれば、別の世界は私たちの周囲の至るところにある、ということが分かります。この世界に意識的に参入するということが、ただし、単に通常の意識をもって秋のクロッカスとベラドンナを知覚するのではなく、死者と関係を保つことができるより高次の意識をもって知覚する、ということが本質的なことなのです。

 さて、ここに秋のクロッカスが生えている牧場があると考えてみましょう。ベラドンナの花をつける植物を見つけるためには、遠くまで旅をし、山岳地帯に登らなければならないかも知れません。物理世界の中では、ベラドンナと秋のクロッカスが一緒に見いだされることはありません。しかし、精神世界の中では、彼らはごく近くに見いだされます。空間が別のあり方をしているのです。物理世界においては、遠く離れて存在している物体同士が、精神世界においては、ごく近くに見いだされることがあります。精神世界はそれ自身の原初的な法則を有しており、そこでは、あらゆることが異なっているのです。

 さて、これらの植物に死者の世界で出会うと想像してみましょう。私たちが初めて死者と連絡を取るとき、彼らの中には、これらの植物が私たちの中に引き起こすところの恐ろしい印象が引き起こされることは決してない、ということが分かります。彼ら、死者たちは、これらの悪魔的な存在たちは賢明な宇宙の計画にしたがってそこにいるのだ、ということを知っているのです。ですから、私たちが死者と連絡を取るとき、中間的な世界には、毒のある植物に対応する悪魔的な形態をしたものたちが多く住んでいるということが分かります。さらに進んで、死者が10年、20年、あるいは30年後にさらに高次の領域に入っていくために後にするところの領域に至るとき、私たちは毒のない植物に関連した形態を見いだします。ですから、植物界は物理世界におけるのと同様、それに隣接するより高次の世界においても重要な役割を果たしているのですが、後者の中では異なる形態を取っているのです。

 その真の姿においては星の世界に属するところのものが、地上におけるその対応物として、ベラドンナ、秋のクロッカス、あるいはスミレのような形態を有しているのです。それは、その真の姿が既に述べたような仕方で反映されるところの死者の世界の中にもその対応物を有しています。ある世界の中に存在するところのあらゆるのものは別の世界にも働きかけるのですが、私たちがこれらのことがらを真に認識するためには、それらが実際に属する世界に意識的に参入して行かなければならないのです。

 同じことはこれらの別の世界の存在たちにも当てはまります。私たちは、私たちの世界と直接境を接する世界に参入するときはじめて、元素存在とは、つまりアーリマン的な力の子孫とは何なのかを知ることができます。さて、これらの存在たちは霊媒を通して現れます。彼らは霊媒に憑依し、それによって一時的に私たちの世界に入ってくるのです。もし、私たちが人間の霊媒を通してだけ彼らと接触するならば、私たちは彼らを、彼らにとって本当は見知らぬはずの世界において知るのであって、彼らをその真の姿においては知らないということになります。彼らが現れているのは彼らにとっては見知らぬはずの世界ですから、ただ霊媒による出現のみによってこれらの存在たちを知るようになる人たちが真実に至る可能性はほとんどありません。精神的な顕現が伝えられている、ということに疑いはありませんが、彼らが属しているのではない世界からそれらが流れ出してくる限り、それらを理解することは不可能なのです。霊媒的な意識に結びついたあらゆるものの中にみられる高度に幻惑的で当てにならない要素は、これらの存在たちと接触を持つ人たちが彼らの真の本性を理解していない、という事実によって説明することができます。

 さて、彼らはこのようにして世界の中に入り込んでくるのですが、そのため、特別な運命がこれらの存在たちに用意されることになります。私が述べた宇宙についての知識は私たちの知識の範囲を広げるのに役立ちます。私たちが死者の世界に参入し、秋のクロッカスや紫のジギタリス、棘リンゴ等々の悪魔的な森を横切るとき、私たちはスミレが未来において変容を遂げ、全く異なる形態を取るであろう、ということに気づきます。彼らは宇宙の未来にとって、何らかの意義を有しているのです。秋のクロッカスは、正にその本性によって、それが運命づけられているところの死を準備します。毒のある植物は絶滅すべき植物、未来においては発達する可能性がなく、死滅しつつある植物なのです。彼らは未来においては別の毒のある植物に取って代わられるでしょう。今日、毒のある種類の植物は私たちの時代において既に死滅しつつあります。もちろん、ひとつの時代は長い間続きますが、これらの植物は彼らの内に死の種を宿しているのです。そして、それは植物界全体の運命になるでしょう。私たちがこの精神的な視界をもって植物の世界を探索するとき、私たちは未来に向けたダイナミックな衝動をもって成長し、発達する力と、死につつあり、消滅することが運命づけられた世界を知覚するのです。

 そして、これは霊媒に憑依する存在たちにとっても同様です。彼らは、現在を遙かな未来に向けて運んでいくことがその使命であるところの彼らの仲間から自らを引き離します。彼らは霊媒という代理を通して現在の世界に侵入し、そこで地球の運命に捕らえられ、彼らの未来の使命を犠牲にするのです。こうして彼らは人間からその未来の使命を大いに奪い取ります。これが霊媒主義の真の本性を私たちが理解するとき、私たちが目の当たりにするところのものです。と申しますのも、霊媒主義が示唆しているのは、現在だけを重要なものとするために、未来を消滅させる、ということだからです。ですから、私たちが真正な秘儀の関連性と宇宙の真の本性に対する洞察をもって心霊主義的なセッションに参加するとき、まず最初に驚かされるのは、心霊現象を見に集まった人々のサークル全体がまるで毒のある植物に取り囲まれているかのようであるのを見いだすときです。あらゆる心霊主義的なセッションは実際、毒のある植物の庭に取り囲まれているのですが、それらの植物はもはや死者の王国におけるのと同様の側面を見せるのではありません。心霊主義者のサークルの周りで成長し、そして、その実や花からは悪魔的な存在たちが現れるのが見られるのです。

 超感覚的な視覚を持つ人が心霊主義的なセッションで経験するのはこのようなことです。彼は、大まかに言って、内部から活性化され、部分的に動物となった毒のある植物の一種の宇宙的な茂みを通過するのです。私たちが彼らを毒のある植物であると気づくのはただ彼らの形態からだけです。私たちはこのことから、この心霊主義的な形態の内部で働くあらゆるもの、本来ならば人間進化の過程を前進させ、未来において実を結ぶべきあらゆるものが、それらが属していない現在へと引きずり下ろされている、ということを学ぶことができるのです。それらは、現在にあっては、人間性に有害な働きを及ぼします。

 心霊主義の内的な秘密とはこのようなものです。この秘密について、ここでもう少し学ぶことにしましょう。

 さて、心霊主義のどの側面が人間の構成にとって主要な問題を提示するかを正確に示すことができます。この文脈の中では、私の説明は必然的にいくらか抽象的なものに見えるに違いありませんが、それは心霊主義の本性に関するなにがしかの理解に向けて、いくらか皆さんの助けになるでしょう。

 さて、頭蓋の空洞中に横たわる人間の脳は平均で1500g、あるいはそれより少し重い程度の重量があります。これは本当にかなりの重量です。もし、人間の脳がその基底部にある繊細な血管をそれ自身の重量で押しつけるとすれば、それらは直ちに押しつぶされてしまうでしょう。ところが、私たちがどんなに長く生きたとしても、私たちの脳の重量がその下にある血管網を押しつぶすということは決してありません。このことは正しい説明によってすぐに理解できます。現在のような構成を持つ人間を取り上げてみましょう。脊椎管は上方にのび、脳のところで終わります。ある部分を除いて、脊椎管は液体で満たされており、脳はこの液体中に浮かんでいます。

lila 淡紫色

rot 赤色

 さて、アルキメデスの原理について考えてみましょう。皆さんは物理学の勉強でよくご存じですね。彼が風呂に入っているときにインスピレーションのひらめきで発見したと言われています。彼は次のような実験をしました。彼が風呂に浸かっているときに、片方の足を水の上に上げ、続いて別の足を上げました。彼は彼の足が水の上にあるか水の中にあるかで重さが異なることに気づきました。水に浸かっているときには重さが失われたのです。アルキメデスのような人物にとっては、この経験はもっと広い意味を持っていました。彼は、物体が液体に完全に浸されているとき、見かけ上、押しのけられた水に相当する重量を失う、ということを発見したのです。

 水を入れたビーカーを実験台の上に置き、バネばかりからひもでつるした物体をその水の中に下げていきます。その物体は、水中では、空中にあるときよりも軽くなります。物体が液体に浸されるとき、それは押しのけられた水の重量に等しい浮力を受ける、というのがアルキメデスの原理です。

 この原理は人間にとって大変ありがたいものです、何故なら、脳は脊椎液の中に浮かんでおり、脳の見かけ上失われた重量は押しのけられた脊椎液の重量に等しいからです。こうして、私たちの脳は1500gの重量を有してはいません。それが見かけ上失った重量は押しのけられた脊椎液の重さ、つまり、1480gですから、アルキメデスの原理に従って、その実際上の重量はたったの約20gということになります。

 私たちは、脳組織の中に、その実際の重量よりもはるかに軽い何かを有しているのです。私たちの脳は20gしかありませんが、私たちはこの20gを大切にしなければなりません、何故なら、それだけが私たちの「自我」を担うことができるものだからです。

 さて、私たちの体全体には、液体の媒体中に浮かぶあらゆる種類の固体成分、例えば血球が含まれています。それらはすべてその重量の喪失を被り、その一部分だけが残ります。それらもまた「自我」を担っています。このように、「自我」は重力に左右されることのない血液の中に拡散しているのです。私たちは人生の過程の中で、私たちの中にある知覚可能な重量を有するあらゆるものを注意深く観察しなければなりません。私たちは、脳の重い部分に位置するところのもの、まだ文字通りの意味で重量を有しているものに対して、最も厳密な注意を払わなければならないのです。何故なら、他でもなくそこに「自我」が位置しているからです−そうでなければ、アストラル体やエーテル体等々が取って代わることになります。

 霊媒とは、彼の構成体におけるこの固体である部分、20gの重量を有する脳がもはや「自我」を包含しない人のことです。「自我」は放逐されても、これらの部分はまだ重量を保持しており、元素存在たちが直ちに入り込むことが可能になっているのです。

 唯物的な思考様式はあらゆるものを位置決めしようとしますから、元素存在が霊媒に憑依するとき、人間のどの部分に入るのかを知りたがります。これは機械的、数学的に考える唯物的な心が語る言葉です。ところが、生命は機械的、数学的にではなく、ダイナミックに進行するものです。ですから、私たちは、その霊媒が純粋に数学的、幾何学的に位置決めすることができるあれこれの場所において取り憑かれている、と言うべきではありません。霊媒が取り憑かれているのは彼の構成体におけて重量あるいは重さを有している部分、つまり地球に引きつけられている部分である、と言わなければなりません。とはいえ、アーリマン的な存在たちはそのようなところ入っていくことができるだけではなく、別のところにも入っていくことができます。皆さんにお示ししたこの記述はものごとの最も粗雑な側面を示したに過ぎません。もっと繊細な側面についても議論する必要があるのです。

 さて、目は私たちが外の世界を見るための器官です。目の中に配置された視覚神経は脳に結びついており、色を感じ取るための基盤を与えています。唯物主義者は視覚神経がどのようにして色の感覚を脳に伝え、そこでそれを解き放つかを説明しようとします。彼はそのプロセス全体を船の荷役あるいは鉄道輸送と比較します。何かが視覚神経に外から「積み込まれ」、神経によって輸送され、それがどこそこの場所で下ろされて魂の中に入っていく、と。もちろん、その説明はこれほど粗雑なものではありませんが、結局はそういうことになります。本当の説明はこれとは全く違うのです。

 視覚神経の機能は色の感覚を脳へと運び込むことではなく、ある地点でそれを切り離すことなのです。色は周辺部においてのみ存在しています。視覚神経の機能とは、色の感覚が脳に近づけば近づくほどそれを絶縁し、そのため、脳には実際、色の感覚がなく、ただ弱く、かすかな色だけが脳に達するようにする、ということです。そして、色の感覚だけが絶縁されるのではなく、外的な世界とのあらゆる種類の関係もまた絶縁されます。聞くことと見ることは感覚器官に関連しています。脳の近傍においては、視覚神経と聴覚神経、そして熱を感じ取る神経が、周辺に位置するあらゆるものを弱い印象へと減退させているのです。この感覚についての関係は、1500gに対する20gの関係と同じです。と申しますのも、20gは脳の重さのかすかな印象を与えているに過ぎないからです。これだけが私たちに残されたもののすべてです。私たちが感覚を通して夜明けのすばらしい光景を取り込むとき、後脳はそのかすかな影、ぼんやりとした印象だけを捕らえます。私たちはそのぼんやりとした影に注意を払わなければなりません、何故なら、私たちの「自我」が入ることができるのはそこだけだからです。

 「自我」が隔離され、霊媒的な力が現れる瞬間、元素存在たちがこのかすかな影、聴覚から進み出てくるわずかな音の中に入り込みます。この存在は外的な感覚知覚が忘れ去られ、「自我」がいなくなった場所に滑り込み、霊媒に取り憑くのです。次にそれは神経網、すなわち意思の形成を司るところの神経という意志の器官に入り込みます。その結果、霊媒は活発に反応し始めるのですが、それは「自我」の支配下にあるべきものが元素存在たちに取って代わられたからです。あらゆるかすかで影のような要素、脳の残存重量、色や音の感覚の名残はファントムのように私たちを捕らえます、何故なら、この20gの重さはファントムであり、私たちの内的な存在を貫いて入ってくる色のかすかな影はファントムのようなものだからです。元素存在たちがこのファントムの中に入り込み、霊媒が深い昏睡状態になることによって、彼の体が全く受動的になるとともに、本当は「自我」によって浸透されるべき−通常は「自我」が間借りするはずの−かすかでファントムのような影の中に存在するところのあらゆるものが今や彼の中で活動するようになるのです。

 人間が霊媒になることができるのは、普通の人間にとって役に立つ能力が昏睡や完全な不活性によって阻止されるとともに、今述べたファントムが活性化されるときだけです。このことは、例えば、霊媒がものを書くときの仕方で観察することができます。もちろん霊媒は、脳の場合のように、彼の内のあらゆるものがより軽くなっていなければ書くことはできないでしょう。と申しますのも、元素存在が書く領域とは、重量を有するあらゆるものが液体の媒体中に浮かび、軽さの感覚やその感じを与え、そのため重力に左右されない領域、通常は「自我」がペンを操るはずの領域だからです。そのとき、霊媒の中で、この人間ファントムの中で、ペンの支配権を握っているのは元素存在なのです。

 すべての霊媒現象において別の世界の侵入が見られる、という事実は否定できません。別の世界のアーリマン的な存在たちは、ちょうど霊媒によって遂行される動きの中に入り込むことができるように、昨日お話しした放射の中にも入り込むことができるのです。人間有機体の、特に腺組織の領域には強力な液体放射が存在しています。これらの元素存在たちは液体放射の中だけではなく、呼吸放射や光放射の中にも貫き入ることができます。化学放射の場合だけは、これらの化学放射を利用する人とその中に入ってくる存在たちとの間に意識的な交流があります。ここから始まるのが黒魔術、私がお話ししたような仕方で入り込んでくるところのこれらの存在たちとの意識的な共同作業です。

 霊媒や霊媒を使って実験する人たちは実際にどのようなプロセスが起こっているのかに気づいていません。ところが、黒魔術師は、これらの元素存在たちを、彼自身の目的のために、人間の、特に彼自身の化学放射の中に誘い込んでいるのだ、ということを十分に意識しています。ですから、黒魔術師はこれらの元素存在たちからなる無数の僕に絶えず取り囲まれ、彼らが秘密の化学衝動を現象世界において用いることを、彼自身の放射を通して、あるいは実験室で香木を焚くことによって可能にしているのです。

こうして、私たちは、ちょうどベラドンナが見知らぬ世界に踏み込むことによって、毒を持つようになるのと同様、精神世界が、霊媒を通して、私たちが誕生から死までの間に住むところの世界に踏み込んでくる、ということを学びます。そして、基本的には、人間の意識、つまり彼の十全なる自我意識が抑圧されるとき、麻酔や昏睡状態にあるとき、あるいは実際に気絶しているときにはいつでもその危険が存在しているのです。眠りによってではなく、何か別の要因によって人間の意識が抑制されるときには絶えず元素存在たちの世界に曝される危険が存在しています。次の講義では、このことが人間の生活においていかに重要な役割を果たしているかを見ていくことにしましょう。

(第八講・了)


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