ルドルフ・シュタイナー

「精神的な探求における真実の道と偽りの道 (GA243)

トーケイ、ディヴォン、1924年8月11日−22日

佐々木義之 訳

 

第九講 

精神的な世界への異常な道とその変容

 

 私たちはこの連続講義を通常の夢の生活への探求から始めて、私たちが誕生から死までの間に住むところの世界とは異なる世界に参入することを可能にするさらなる意識状態についての考察へと進んできました。最後に、私たちは霊媒的な意識、人間が夢遊病の状態で経験するところの意識、何故なら、霊媒状態とはいつでもこの性格を有するものだからですが、そのような状態について議論しました。 

 さて、これら両方の経験は、通常の生活においても、その真の姿において見いだされるような魂の状態です。それらが真の道、あるいは偽りの道へと分かれていくのは、それらが強められたときだけです。 

 今日は、私たちの夢の生活をもう一度検証してみましょう。私たちは、人間が通常の意識において、覚醒状態から眠りの状態に移行するときには、夢に曝されるということ、彼のアストラル体は眠りの状態にある間、エーテル体や肉体の中にあるときの彼の経験についての残響を記録している、ということを見てきました。混乱し、本当に途方もない夢の経験がそれに続くのですが、それを正しく説明できるのは秘儀に参入した人だけです、何故なら、精神世界の本性により深く貫き至ることのない人は、これらの通常は混乱した経験にただ当惑するだけだからです。 

 けれども、私たちはまた、瞑想や集中の訓練を通して、いかに夢の生活の横糸がより高次の意識の縦糸に織りなされることができるかを見てきました。ですから、私たちは驚くほど混乱した夢の世界に移された人間を目の当たりにするのですが、彼は、彼にとって通常の生活と同じくらい現実的な夢の生活の中にあって、完全な意識を保持しています。そして、彼が死者をその死後の存在において追っていくことができる別の世界への洞察を獲得するとき、彼は私たちの世界に比べて遙かに大きな現実性を有する世界に包まれていると感じるのです。さて、問題は、彼が今や接触する世界の真の本性とは何か?ということです。これについては既にお話ししましたが、今日は別の角度からこの問題に触れてみたいと思います。 

 かつて地球には、肉体ではなく、繊細なエーテル体に住み、したがって地球を包むエーテルの中に受肉することができた偉大な教師たちが生きていた、ということをお話ししましたが、彼らはインスピレーションを通して人間を指導し、地球上における古代の文化の基礎を築きました。適切な意識状態によってこれらの太古の時代を振り返るならば、これらの教師たちが人類と生活をともにしていた、ということが分かります。その後、彼らは月の領域へと退き、今日ではその領域から、今まで一度も地上に生きたことのないあらゆる種類の存在たちを彼らの目的に仕えさせているだけです。彼らはこの元素存在たちのただ中に生き、死の門を通過した人間たちに自分のカルマにどのように対処すべきかを教えながら働きかけています。私たちが最初に精神世界に入るときに関わってくるのがこれらの存在たちなのです。ちょうどこの地上の生活においては、社会や社会関係を無視できないように、より高次の認識を達成するためには、これらの別の存在たちと共に働かなければなりません。私たちは、太古の時代に地上の人間の教師であったこれらの月存在と彼らが従える存在たちの助けを得て私たちの世界に直接境を接するところの精神世界を探求するのです。私たちはそこで地球の以前の時代と人間の以前の受肉への鍵を見いだします。そのとき私たちはかつて地上に生きていた人物たちを、彼らが私たちとカルマ的な関連を有していたかいなかったかに関わらず見いだすことになります。私はこのことを示すために、私たちがこのレベルの意識をさらに発達させることによって、いかにブルネットー・ラティーニ、ダンテ、アラヌス・アプ・インスリスやその他の今日ではもはや地上には受肉していない存在たちと次第に接触するようになるかについて指摘しました。

 ですから、この意識状態は夢の状態が照らし出されたもの、半透明に光るものなのです。通常の生活において、夢は単にいわば基礎的なはじまりを示しているに過ぎません。さて、秘儀に参入した人と通常の意識レベルで生きている人との違いを示すのは非常に簡単です。 

 通常の眠りの状態の下では、人間の肉体とエーテル体が後に残される一方、彼のアストラル体と自我は体の外にあります。夢の状態における経験では、自我だけが本領を発揮します。夢の中で経験されるできごとがまだ肉体とエーテル体の外にあるアストラル体に属しているということは確かですが、通常の意識という意味では、自我だけが夢を経験することができるのです。 

 ところが、秘儀に参入した人は、彼の自我と、特に彼のアストラル体によって経験します。ですから、秘儀に参入した人と普通に夢を見る人との違いは、後者が肉体とエーテル体の外にあるときには彼の自我だけで経験するのに対して、秘儀に参入した人は彼のアストラル体によっても経験するということです。 

 さて、この知覚様式は特に古代の秘儀において超感覚的な世界を探求するという目的のために高度に発達させられ、退廃した形においてですが、中世とその後の時代全体を通してさらに発達させられました。それは近代においては実質的に消滅しているとはいえ、通常の夢の生活の中でいかに全く意識的な状態に留まるかということについて、太古の秘儀の教師たちから精神的な方法によって、あるいは伝統を通して教えを受けてきた人々があちこちに存在していたのです。そのような人々はいつの時代でもこれらの世界に貫き至ることができましたが、その試みは危険に満ちたものでした。イマジネーション的な認識を有する秘儀参入者が通常の夢の世界に浸るとき、直ちに物理世界とのつながりを失うとともに、意識を失い、無の中に沈み込むような感じを持ちます。まるでしっかりした地面が彼の足下で崩れ落ちるかのように、もはや重力に引きつけられていないかのように感じるのです。彼は内的な解放の感情、宇宙の海の中に吹き飛ばされるかのような、もはやしっかりとアンカー留めされていないために自分に対するコントロールを容易に失ってしまうかのような感じを経験します。 

 私の本「より高次の世界の認識」の中で述べられている精神的な訓練の目的はこの危険を回避するということです。正しい仕方でこの瞑想に取りかかる人であれば誰でも、魂の「翼」を発達させることができるということ、今や重力を克服して翼を広げることができるということが分かるでしょう。秘儀参入者が足下の物理的、エーテル的な大地を失うにもかかわらずアストラル体と自我の「翼」を発達させていない場合には、危険な状況が生じます。図式的に表現していますが、皆さんにはこの意味がお分かりと思います。危険は十分に現実的なものなのです。これらの訓練の結果として私たちが参入する世界のために怠りなく準備するならば、あらゆる危険の可能性は排除されます。私たちは、ちょうど肉体とエーテル体を通して物理世界に与るように、これらの世界に徐々に参加することができるようになるのです。 

 これは多かれ少なかれずっと以前の人間の状態なのですが、今日では、私たちはこの状態を精神的な訓練を実行することによって達成しなければなりません。太古の人間の成り立ちとは、私たちの目覚めの意識とは対照的に、私が記述したようなカルディア人たちの間で見られた精神的な視界、つまり、私たちの夢の意識と同じようなものではなく、ひとつのイマジネーション的な知覚形態であるところの状態に自然に恵まれている、というようなものだったのです。他の人間に出会ったとき、彼はその物理的な輪郭を知覚しただけではなく、彼を取り巻くオーラについての夢のような印象を持ちました。それは本物のオーラであって、単に主観的な幻想ではありませんでした。肉体のオーラを知覚するというこの才能に加えて、彼は別の能力−と申しますのも、それらはお互いに関連しているからですが−、肉体に受肉していない精神的な存在のオーラを知覚することを可能にする能力をも有していました。ですから、彼は精神的な存在の姿を夢見たのです。

 それらの違いに注意して下さい。つまり、太古の時代において、人間が肉体に対応するものを見るときには、そのまわりのオーラを本当の夢の中でイマジネーション的に知覚しました。精神的な存在、天使や元素存在に出会うときには、最初からそのオーラについての精神的な知覚を有しており、その存在が有するところの形態を「夢見た」のです。 

 最も初期の画家たちはこのようにして描いたのですが、今日、私たちはそれに気づいていません。これらの画家たちは精神的な存在を見て、それに対応する形態を「夢見た」のです。天使のヒエラルキアに属する存在はほとんど人間に似た形で、大天使については、体は明確ではありませんがはっきりと規定された翼と頭を有しているものとして、アルカイは翼の生えた頭をだけを有しているものとして描かれました。彼らがそうしたのはその形を「夢見た」からです。太古の人々にとってこれらの洞察はちょうど今日、私たちが他の人の姿を自然なものとして見るのと同じように自然なものだったのです。人間は、徐々に失ってきたその超感覚的な能力を精神的な訓練によって再び獲得しなければなりません。しかし、太古の人間にとって超感覚的な能力は自然なものであり、精神的な訓練によって再び獲得するのは比較的容易であったことから、その課題は何年にもわたって精力的に探求されてきました。月の領域への探求やそこでの死者たちとの出会い、そして、世界がその領域からどのように見えるかについて多くの語るべきものを持つとともに、真の探求者であるところの太古の秘儀参入者や月存在たちに支配される世界への活発な興味がいつも存在していたのです。

 コペルニクスはその太陽中心説を地上的な意識による観点だけから打ち立てました。古いプトレマイオスのシステムは間違っているのではなく、月の領域に関する意識の観点から見ると正しいのです。さて、これらの探求者、すなわち月領域の秘儀参入者に特徴的なのは、彼らの活動がその領域に限られている、ということです。 

 ここにおられる皆さんは現在の人智学協会が以前は神智学協会の一部であったということをよくご存じです。神智学協会は、最近になって設立された多くの同種の協会と同じく、豊富な文献を収集していますが、皆さんがこの文献を参照するならば−それが正しいか間違っているかはさしあたり重要ではありません−、今お話ししている世界、月の領域、すなわち、私たちが月存在との関係で探求するところの世界についての記述がある、ということが分かるでしょう。私に神智学協会で働いてはどうかという提案があったとき、それは私にとって重要な意味を持っていたのですが、最初はある困難に直面しました。それは、神智学協会においては、研究や文献がこの月の領域のみに限定されている、ということが分かったからです。この素材は確かに多くの間違いを含んでいたのですが、H.P.ブラバツキーの著作にはユニークで非常に重要なことがらが特に多く含まれていました。しかし、H.P.ブラバツキーの著作の中に見いだされるあらゆることがらは、彼女の月領域との交流、そして、犠牲行為としてこの月領域に留まることを自ら選んだ秘儀参入者と彼女との関係で決定されているのです。

 私はこれらの秘儀参入者の多くを知るようになりましたが、私が皆さんに保証できるのは、そのような月領域に貫き至る精神が、さらに発達したいという人間の望みにいかに無関心であるか、ということです。 

 私は、1906年から1909年にかけて書いた「神秘学概論」の中で、地球を、月、太陽そして土星という以前の受肉状態において記述しましたが、私の記述は月の受肉状態で終わることなく、遠く土星の受肉状態にまで遡って地球を記述しました。一方、これらのことがらについて語ったすべての秘儀参入者は彼らの説明を月と太陽の間で完結させ、実際には、ただ月領域にまで地球の受肉を辿っただけでした。さらに以前の地球の受肉にまで遡るべきである、という趣旨のいかなる示唆も無関心か、ときにはいらだちの感覚をもってさえ迎えられました。彼らは、そこへの道は越えることのできない障壁によってブロックされているため、それは不可能である、と断言しました。その理由を理解することは当然ながら最も重要なことであり、無関心ではいられません。さらに親密になってまもなく明らかになったのは、これらの秘儀参入者たちは現代の科学的な観点に対して敵意や反感を持っている、ということです。これらの秘儀参入者たちは、ダーウィンやヘッケル、そして彼らの追随者たちの考えを紹介されると、非常に憤慨し、それらを子供じみてばかげたものと見なし、それらと関わりを持つのを拒否しました。最初、ゲーテの考えにはそれほど反感を示しませんでしたが、結局は彼も現代の科学者の言葉で語っているとして、すべてが退けられたのです。 

 要するに、そのような考えはその秘儀参入者たちにはアピールしなかったのです。私が太陽や土星の領域に貫き至ることができるということを初めて理解したのは1906年から1909年にかけて現代科学の考えに没頭し、それにイマジネーションを吹き込もうとしていたときです。私はこれらの科学的な概念をヘッケルやハクスレーのやり方に基づいて認識の手段として用いたのではなく、現代科学の観点がまだ存在せず、したがって、単に夢の世界にイマジネーションを吹き込むことによってのみより高次の意識を達成することができた時代に秘儀参入者たちがぶつかっていた限界を克服するための内的な動機づけとして用いたのです。私の著書「神秘学」の中で、私は通常は外的な世界にのみ関連しているハクスレーやその他の人々の完全に意識的な科学的観点に内的な意味を浸透させるとともに、それをイマジネーションの世界に吹き込もうとしました。土星、太陽、そして月というこの連なりの全体を理解し、古い秘儀参入者の認識を地上で探求することが可能になったのはそのときです。 

 私は、これらのことがらがどのようにして生じたのかを皆さんに理解していただくためにこの認識への道を記述しているのです。皆さんは、それは個人的な説明である、と言うかも知れません。けれども、この場合、個人的な要素は、実際には、完全に客観的なものなのです。私の本「神秘学」に対して向けられた批判は、それが数学の教科書のように書かれており、私が議論してきた発達の道全体が数学的な公平無私の態度で記述されている、ということでした。けれども、この道は正確に私が記述した通りのものであり、コペルニクスとガリレオの時代以来存在し、ゲーテによって豊かなものにされた思考の様式性が、通常はイマジネーションの中に存在するのと同じ魂のあり方に結びついている、という状況の中にその起源がありました。私が秘儀参入者たちにはいつでも近づくことが可能であった領域をその土星における起源にまで遡って辿ることができたのはこのようにしてだったのです。 

 この例からお分かりになると思いますが、これらのことがらには、漠としたでたらめなやり方ではなく、はっきりと意識した思慮深さをもって近づき、容易に無思慮が取って代わるところで注意を喚起する、ということが重要なのです。自我だけと接触を持つというのが夢の生活における通常の状態ですが、アストラル体とも接触する場合があるというのがその例です。 

 私が「神秘学」の中で提供した情報は現代の自然科学とどこが違うのか?という質問に対する私の答は、現代の科学者は自我にアピールすることができるだけであり、自我を手放すやいなや夢を見始めるのに対して、私は自然科学の概念を夢の生活の中に持ち込むことができ、私が記述すべき世界にアストラル体を差し向けることができる、という点で異なる、というものです。 

 これは皆さんに正確にお話しすることができる道なのであり、いかに真の道が偽りの道と異なっているかを恐らくより正確に示すのに役立つひとつの例となるでしょう。

 この夢の状態の正反対が夢遊病や霊媒の状態です。夢を見ている人は完全に彼の自我とアストラル体の中に生きています。彼は、アストラル体の中では意識的な知覚を有していませんが、肉体とエーテル体の外にいるときにも、完全に自我とアストラル体の中に生きているのです。彼は彼自身の存在の中に突き落とされ、その中に浸されるのですが、そのとき、その存在は別の世界と関係づけられています。このように、夢を見ている人はいわば彼自身の存在の中に、したがって宇宙の中に、そして、ある程度は彼の肉体組織の中にも沈み込んでいるのです。

 その正反対が霊媒と夢遊病者の場合です。人間が霊媒や夢遊病の状態になるのは、その自我とアストラル体が肉体とエーテル体の外にあるときだけですが、この場合、既に指摘したように、彼の自我とアストラル体は見知らぬ存在に乗っ取られているのです。 

 ですから、霊媒や夢遊病者は物理的な体を有していますが、その自我とアストラル体は肉体とエーテル体の外にあり、別の存在に取り込まれて抑圧されているのです。そのため、霊媒は正しい仕方で肉体とエーテル体に影響を及ぼすことができませんが、私たちは、例えば夢のない眠りの状態にあるときでさえ、肉体とエーテル体に影響を行使しています。私たちは、起きているときには内側から肉体とエーテル体に浸透し、眠っているときにはそれらへの侵略を外側から防いでいるのです。 

 このことはもはや夢遊病者には当てはまりません。霊媒や夢遊病者は、その肉体やエーテル体をコントロールすることができず、いわば遺棄された領地のようになっているのです。 

 私たちの時代においては普通であるような魂のあり方をしている人の場合、その肉体とエーテル体に影響を及ぼすのは植物や鉱物の力だけです。もし、鉱物の力すなわち鉱物地球の力がに私たちの肉体に影響を与えなかったとすれば、これらの力に依存する私たちが歩いたり動き回ったりすることは不可能だったでしょう。鉱物世界の力に与ることは許されます。つまり、その状態は正常なのですが、それらの力はエーテル体の中に入り込むべきではないのです。

 同じことは植物にも当てはまります。あまり強すぎなければ、植物の力がエーテル体に働きかけることはある程度許容されます。しかし、動物の感覚を刺激するところの力や別の人間の力が人間の体、特にエーテル体に影響を及ぼすことはもはや許されません。動物や地上的な人間の力が霊媒あるいは夢遊病者の肉体やエーテル体に働きかけるのは、それらが放棄されるときです。その肉体やエーテル体はまわりの影響を受けるようになります。ちょうど思考が夢から環境中に移行するように、この場合には意志が人間から引き離され、環境と融合するのです。霊媒や夢遊病者に指示して立たせたり歩かせることができます。ジャガイモを差し出して、それがおいしい梨であるとかその他のものであると示唆することができるのです。私たちが霊媒や夢遊病者に指示をだすときには、人間としての私たちがその肉体と直接的な関係を持ち、したがってそのエーテル体と直接的な関係を持つことになります。霊媒や夢遊病者は、普通の人間の場合もそうであるように、肉体にのみ反映されるべき物理的な環境を彼らのエーテル体の中に有しています。ですから、普通の人間は、夢に似た状態の中で、彼自身を彼の内の精神的な世界にゆずり渡すのですが、霊媒は外的な自然の世界にゆずり渡すのです。

 さて、霊媒や夢遊病の現象は、その状態自体が正常なものである限り、正常な状態です。何故なら、動き回ったり、ものを掴むことができる能力、いかなる種類のものであれ外的な活動を遂行することができる能力とは、誰の場合にも、魔法や夢遊病のようにして達成されるものだからです。けれども、この活動は肉体にのみ限定されるべきであり、エーテル体にまで及ぶことがあってはなりません。もしそうでなければ、正常な状態から異常な状態に移行することになります。

 ですから、夢を見ている人は完全に彼自身の内に生きており、霊媒や夢遊病者はその外にいるのです。彼らの肉体とエーテル体はいくらか自動人形と同じ仕方で機能し、私たちはそれらに働きかけることができるのですが、それは彼自身の自我やアストラル体がそれらをコントロールし損なうからです。その結果、ちょうど夢を見ている人の場合に内なる精神的な世界が創造されるように、霊媒や夢遊病者の場合には外なる自然の世界、形態の世界とその起源、すべての知覚可能なもの、時空に関係するあらゆるものとの合一が生じるのです。

 私たちが夢の世界に沈むとき、私たちは形態のない状態、絶えざる変容の状態の中に浸されます。私たちが肉体とエーテル体をもって夢遊病者や霊媒が何らかの指示の下でその意志を行使する世界に貫き至るとき、そこではあらゆるものが明確に規定されているのが分かります。つまり、外からの影響の結果として生じるあらゆるものが非常な正確さをもって遂行されるのです。 

 これは正に通常の夢の世界に対する反定律の世界です。つまり、それは、夢遊病者においては、夢の活動であり、外的なものとなった自然な行為なのです。行為の中で見られる夢、夢に似た状態の中での行為、単に内的な経験に留まらない夢です。 

 秘儀に参入する立場から見ると、この反定律は最も興味深く、意義深いものです。秘儀参入者が夢の世界をイマジネーションによって満たそうとしてそれに沈潜するとき、彼はある困難に出会います。このことは既にお話ししましたが、彼は、もはや重力の影響下にはない、自分の足下にはもはやしっかりとした地面はない、と感じるのです。夢遊病者は無意識的にそこに入り込みますが、秘儀参入者がこの世界に入るときにはそれに意識的に近づかなければなりません。彼はいつでも意識を失うかも知れないと感じ、絶えずこの可能性に直面するのですが、完全な意識を保持するために、自分自身をしっかりと支えていなければなりません。もし、私たちが秘儀参入者としてこの世界にもっと深く貫き至るとすれば、見たり知覚したりできる世界の通常の存在たちと同じように、そこでも分別をもってかつ知的に前進していかなければならないのです。秘儀参入者は、通常の人生を生きるのと同様、精神的な世界においても完全に意識的な生活を送るという事実に背くべきではありません。と申しますのも、もし、ほんの一瞬でも物理世界から離れたと想像するようなことがあれば、もったいぶった態度を取り始め、仲間の人間からむしろ変なやつだと思われるであろうからです。そして、彼らは、こいつはとうとう気が狂ったと言うでしょう! ちょうど感覚の世界が周囲のいたるところに存在するように、いたるところの存在する精神的な世界を通過するとき、完全な意識を保つために、自分自身をしっかりと支え続けることをしなければ、このようなことが起こり得るのです。

 ここにおいて、神智学協会によってではなく、大物自然科学者たちによって取り扱われたきた世界、すなわち心霊的な探求の領域が開かれます。これらの探求は科学的なバックグラウンドや限定された潜在能力を持つ人たちによって遂行されましたが、彼らは精神的な世界の本性を確かめるために統計的な手段と霊媒による実験を用いました。人間の魂が別の存在によって保有されている間、通常の意識状態においてではなく、完全な無意識状態あるいは減退した意識状態で手足を動かしたり、反応したりするとき、何が起こっているのかについて客観的に探求しようとする試みがあらゆる種類の団体で様々の観点からなされています。 こうしてそのような方法で意識が減退させられた人々の反応が記録されてきたのです。 

 この種の探求に熱心な人が私に勧めたのは、内的な世界の現象を客観的に探求してもらうために、私と私の探求の成果を彼らの実験のために提供すべきである、ということでした。これは、誰かがやってきておよそ次のように言うのと似た状況です。私は数学のことは分からないので、数学者の言うことが本当かどうかを確かめるため、彼を実験室に連れていこう。彼が偉大な数学者かどうかを示す実験をやってみるのが一番だ、と。私がここでお話をしているのは、人間の内面に貫き至ろうとする真の試みについてではなく、単に科学的な方法を漫画的にしたものによって、外側から夢遊病者や霊媒を探求しようとする現代的な試みがなされている分野についてです。と申しますのも、もし、人々が本当に人間の内面に貫き至るならば、霊媒や夢遊病の現象の中に見られるのは外的な乗り物、肉体とエーテル体からなる自動人形であるということ、つまり、彼らが探求しているのは精神的な現実についてではなく、彼らが探求しようとしているものが置き去りにした外的な乗り物である、ということに気づくはずだからです。彼らは精神世界のより精妙な側面をのぞき見ようとはしません。彼らはしばしば内的な経験を通してだけではなく、見たり知覚したりすることができる形においても精神的なものを感じ取ろうとするのです。 

 このアプローチは、私が既にこの道についてお話ししていた正にそのときに起こったように、ときとして別の形を取ります。彼らは肉体の中にあるキリストの精神的な姿を求め、精神的なものの直接的な顕現を外的な世界の中に見いだすことを欲していたのです。 

 私たちは物理世界をそのようなものとして認め、精神的なものをそれが本当に存在するところに−もちろん、物理的な世界にですが、本質的には、物理世界に浸透した精神的な領域の中に求めなければなりません。 

 ここにはさらに別の領域があります。健全な状態にある人は、内的な経験の領域と外的な知覚、混乱した夢の世界と霊媒や夢遊病者の異常な世界との間にあるギャップに橋を架けなければならない、という感じを持ちますが、芸術はこれらふたつの世界の統合によって、そして、それらがお互いを実り多いものにすることによって生まれました。つまり、芸術においては、外的な形態が精神によって浸透され、精神的な内容が外的な形態をまとっているのです。 

 神智学協会が普通の人間を精神的な実存であると言い立てるのに忙しくしている間、私たちは人智学協会において、秘教的な流れを「芸術」に向けるように駆り立てられました。神秘劇とオイリュトミーが生まれ、言語造形の芸術が発達させられました。これらは人智学協会において発達させられた他のものと同様、精神的なものと物理的なものの間のギャップに橋を架け、混乱した夢の世界と霊媒や夢遊病者の混乱した世界とを意識によって結びつけようとする衝動が実りをもたらしたものでした。これらふたつの世界は芸術において意識的に融合させられるのです。 

 いつかはこのことが理解されるでしょう。マリー・シュタイナー婦人が実践しているような言語造形がかつて人間がまだ本能的に精神的であった時代に享受していたようなレベルを回復するとき、人々は私たちの努力の目的を理解するでしょう。当時の人々にとっては、空虚で抽象的な言い回しよりも言葉のリズムと韻の方がもっと重要だったのです。これらのことを再び生き返らせなければなりません。そして、オイリュトミーが再び私たちのために回復するのは私たちの前で動きを通して展開する人間、魂と精神からなる存在である真の人間です。私たちがオイリュトミーから学ぶことができるのはこのようなことなのです。 

 ですから、私たちはまず最初に芸術の中で、夢を見る人が目的もなくさまよう世界から霊媒や夢遊病者がつまづきながら盲目的に歩き回る世界への橋を架けなければならなかったのです。今日の唯物的な時代にあっては、夢を見る人は孤独な省察の中に取り残され、精神的なものを表現し、明らかにするところの実質的な形態や構成について何も知ることがありません。そして、夢遊病者たちは霊媒としての名声を享受しているかどうかや、共産主義者たちのように理想的な国家理論を発明しているかどうかなど気にすることもなく自分の人生を生き、そして、霊媒もそうですが、あらゆる種類の顕現を周囲の世界にばらまき散らしています。夢を見る人も夢遊病者も、精神的なものの存在についてのほんのわずかな疑いを持つこともなく現代の世界を生きているのです。

 物質から精神に、そして精神から物質に導く橋を再び見いだすことが本質的なことであり、私たちはまず芸術の分野においてこの橋を見いだし、もはや半意識的な状態で躓きながらさまようのではなく、普通とは異なる種類の精神運動を通して芸術に対する感覚を発達させなければなりません。ですから、オイリュトミーはその真の内的な源泉を秘儀への参入の中に有しており、私たちが言語造形という芸術において実践するあらゆるものはその同じ源泉から生じてくるのです。そして、予定されている舞台芸術のコースがドルナッハで催されるとき、私たちは舞台芸術の精神的なイメージを再び回復するように努めることになるでしょう。長い間、どうすれば俳優を舞台の上で最大限の現実性をもって提示することができるかに注意が払われてきました。このテーマに関する90年代の議論は全く漫画的なものでした。シラーの登場人物たちがその英雄的なせりふを演説調に話すとき−結局、当時は自然主義が勝ちを収めたのですが−、彼らの手をズボンのポケットに入れておくべきかどうかという問題について−と申しますのも、それが現代的なファッションであったからですが−議論されたのです。ですから、精神世界を探求するための正しい道を見いだす、ということについては色々な理屈がありますが、芸術の道にしたがうというのは健全な基本方針です。 

 最も重要なのは、月の秘儀とそれに関連するあらゆるものに浸された古代の秘儀参入の学を超越し、秘儀参入者の隠された認識を実り多いものにするために自然科学の成果−この文脈では自然科学による知的な征服に言及しているのですが−を使うことができるときにだけ達成することができるところのあの魂の内的な状態を発達させる、ということなのです。他方、同様に重要なのは、夢遊病者あるいは霊媒がトランス状態で元素存在に取りつかれるとき、エクトプラズムの形態の中で何が起こっているのかを確かめるために行われる生半可で混乱した実験を特別な探求の場にする、ということです。と申しますのも、これらふたつの道は本当は同一のもの、つまり、夢から意識的な夢への出現であり、自然科学がその鉱物的な側面においてのみ知っているところの外的な世界の意識的な理解であるからです−あのいわゆる心霊研究が提案するのはそのやり方による生半可な探求です。科学の時代に生きている私たちにとって重要なのは、精神的な探求において、この道を追求し、夢の世界の対極にある別の世界を精神的に探求するということです。 

 夢遊病者や霊媒は私たちが生じさせるのは通常の生活においては見られない現象です。彼の筆記や動き、会話や味覚は普通の人間のものではありません。それは、彼のアストラル体と自我が肉体とエーテル体の外にあり、私たちが扱っているのは、打ち捨てられ、宇宙の影響下に置かれた肉体とエーテル体である、ということによります。私たちは、自然の通常の働きを反映した物理的、エーテル的なものの顕現ではなく、精神的な世界から進み出てくるものに直面することになります。と申しますのも、結局のところ、私たちが霊媒に指示を出しているかどうか、あるいは、霊媒が何らかの星座、天候、あるいは金属の影響を彼のエーテル体の中に取り入れ、その影響下にあるかどうか、ということは問題ではないからです。 

 私たちは霊媒の乗り物が魔術的な目的のために精神的なものの用に供されているのだということを心に留めておかなければなりません。心霊研究協会は外的な実験によって探求しようとするかも知れませんが、精神的なものに関する知識なしにこれらの顕現を研究することは私たちにはできません。それらの精神的な関連が調べられなければならないのです。私たちは霊媒や夢遊病者が生じさせる現象とその背後にある精神的な基礎を観察しなければなりません。 

 霊媒や夢遊病者を通して示されるこれらすべての現象は他の霊媒的な現象とも関連しています。霊媒がトランス状態において、人間的あるいは宇宙的な影響の下で何らかの行為を行うとき、つまり、肉体やエーテル体が何らかの行為を遂行するとき、それは人間を病気にさせる毒のある植物の中で生じている過程と一時的に、とはいえ、それは別の要素によって決定されているのですが、同様のものとなっているのです。霊媒的なあるいは夢遊病の状態の中で示されるのは単に外的かつ一時的な病気の仮面に過ぎません。ある観点から言えば−これについては次の講義でもっと詳細に議論する予定ですが−、私たちが霊媒や夢遊病の現象の中に見ることができるのは(別に必ずしもそうする必要はないのですが、それはいつでも可能なことです)病気の人の中で生じていることなのですが、それは、その人の自我とアストラル体が何らかの異常な仕方である器官から、あるいはその有機体全体から立ち去り、別の精神的な影響によって置き換えられている、ということによるのです。 

 太古の時代においては、人間はこの関連に気づいていたので、秘儀はいつでも治療と関連していたのです。そして、人々は今日ほど詮索好きではなかったために、霊媒や夢遊病者に興味を示す必要性を全く感じませんでした。と申しますのも、彼らの行いは病気の状態と同じく彼らにとってはよく知られたものだったからです。これらのできごとには医学的な観点からのアプローチがなされましたが、これは私たちが再び獲得しなければならない立場なのです。 

 そして、自然現象を通して、自然科学を通して、生半可なやり方で精神的なものにアプローチするもうひとつの道も正しい仕方で追求されなければなりません。すべての現象は、特に人間や動物の病理的な状態を通して表現されるあらゆるものは正しい見通しの下に再び見直されなければならないのです。私たちは、そのときはじめて、心霊研究のための協会が探求することを欲するであろうような現象を調べることができる位置に立つでしょう。 

 そして今、この研究分野は人智学協会によって開かれました。病理的な現象の研究に際して、それを通して精神世界への扉が開かれるというような仕方でそれを行うことが可能になったのです。これが可能になったのは、イタ・ベークマン博士と私がこの研究分野を、心霊研究からは無視されてきた正しい道筋に沿って発達させるように努力してきたからであり、イタ・ベークマンが、有能な医者としての知識だけではなく、医療上の所見から精神的な洞察へ、そしてそこから真の治療へと直接導くあの先験的な治療の才能を有していたからです。 

 ですから、ここに横たわっているのは私が示した領域を探求するために従わなければならない道です。私たちは、自らの努力によって、それ自体が秘儀に参入する自然科学であるところの真正な秘儀の医療を発達させることを望んでいるのです。こうして多くの偽りの道とははっきりと区別される真の道がすべての人に示されることになります。そして、ベークマン博士と私が書いた本の最初の巻によって、踏み出されるべき最初の一歩が示されるでしょう。

 この関連で、指摘しておいた方がよいと考えられるのは、真の道と偽りの道との違いは例を上げることによって最もよく示されるということです。

 私は以前、精神の領域を再び自然科学の領域に結びつけるところの芸術への道が見いだされなければならない、ということを述べました。私が今付け加えなければならないのは、自然現象についての探求と関係のある正しい道、すなわち精神科学の道を最初に探求してはじめて芸術に向かう正しい道を見いだすことができる、というのは現代文明のおかれた状況から本質的なことであるということです。と申しますのも、人類は特に病理現象の発生の中に見られる精神的なものの活動を確信できてはじめて、つまり、いかに精神が物質の中で作用し、自らを現すかについてのはっきりとした証拠があるときはじめて、芸術の中には精神が活発に浸透しているのだ、ということを納得するのですが、今日、芸術の分野においては、人類は私がお話しした橋を架けるのとはそれほどまでに遠いところにいるからです。人類が、精神を直接世界に提示することができるのは芸術作品の形によってであるという考えに対する心からの熱情を十分にかき立てることが可能になるのは、恐らく、自然界における精神の活動に気づくようになるときでしょう。 

 明日はこれらのことがらについてもう少しお話しするつもりです。

 

(訳注)

 この講義は、一読してそれほど重要ではないという印象を受ける方もおられるかも知れませんが、鉱物や植物の精神が動物や人間の精神よりもより高次の領域にあるように、自然科学の精神はいわゆる精神科学の精神よりもより高次の領域にある、ということを示唆しているように思われる点で興味深いものがあります。自然科学が存在していなかった古代には、低次の精神的な領域に昇ることは比較的容易であった反面、それ以上の上昇が不可能であった理由がよく分かります。知的な人間は超感覚的な認識を獲得するのが難しい代わりに、もし獲得できればより高次の認識段階に昇ることができる可能性がある、極悪人が改心すれば善人よりもより聖なる存在になる(この逆の例がアーリマン)可能性がある、というようなことも考えさせられます。

 

(第九講・了)


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