ルドルフ・シュタイナー

人智学的共同体形成 (GA257)

第6講

シュトゥットガルト、1923年2月27日

佐々木義之 訳


 今日の講演の背景にある雰囲気は、以前、ここで皆さんにお話しさせていただいた時に卓越していた雰囲気と同じものではなく、昨年の大晦日以来、燃え上がるゲーテアヌムという恐ろしいイメージよって規定されています。そのイメージがゲーテアヌムを愛していたすべての人に必然的に生じさせたところの痛みと苦しみが筆舌に尽くしがたいのは、ゲーテアヌムと人智学との結びつきの故です。
 私たちの運動のように精神的なことがらを指向する運動にとって、その存在を物質的に表現するものが失われたとしても、嘆き悲しむ理由はないのではないか、という感じ方にある種の正当性があるように見えるかもしれません。けれども、それは私たちの場合には当てはまりません。ゲーテアヌムは私たちの仕事のために恣意的に作られた建物ではなかったのです。ほぼ10年かかったその建設中に何度も説明する機会を持ったのは、その他の精神的な運動や似たような運動を納めるのには適しているかも知れない建物でも、私たちの人智学運動には適していないだろう、ということです。と申しますのも、私たちの運動は、何度もお話ししてきましたように、会員数が増えるにしたがって、その組織の各階級に属する人数が増え、その人たちが単に何かありきたりの様式の建物を本拠地として建てることを望んだたような精神的運動とは違うからです。ここで重要なのは、人智学は宗教的、科学的、あるいは芸術的なものに偏った精神的基盤に基づくものではない、という点です。それは人類の偉大な理想、つまり、道徳−宗教的、芸術的、そして科学的な理想におけるすべての側面を示すことを意図した包括的な運動なのです。したがって、人智学運動のために何か恣意的な形式の建物を建てるということは問題外なのです。その設計図は人智学的な認識の途上で獲得された精神的な観点を表現するものとしての人智学的な思想がその形式を受け取る源泉と同じ源泉に由来しなければならず、その観点との芸術的な調和をもってデザインされなければなりません。人智学的な探求、人智学的な生活、人智学的な態度という泉から湧き出して来ていたものを、ひとつひとつの線、あらゆる建物や彫塑の形態、ひとつひとつの色の選択の中に組み込み、表現しようとする試みの中で、多くの友人たちが、ほぼ10年に渡って、その働きを私と共にしてきました。そのすべてがそこに組み込まれているのです。そして、その建物には運動における芸術的な努力や科学的な努力が密接に関連しています。ゲーテアヌムでのオイリュトミー講演を見た友人たちは、例えば、講堂の建築形態や装飾がいかにオイリュトミーの動きに調和し、それに応えているかを確かに感じ取ったことでしょう。そのステージ上のオイリュトミストの動きはそれらの建築的、造形的な形態に担われていた、という感情を持つことさえ可能だったはずです。誰かがその演壇に立ち、真に人智学的な精神において心から語るとき、あらゆる線や形態がその人が語っていることに応え、調子を合わせました。それがそこにおける私たちの目的だったのです。もちろん、それは最初の試みではありましたが、私たちのゴールとはそのようなものであり、それを感じ取ることができました。ドルナッハでゲーテアヌムのために働いてきた人たちが、自分たちが努力する中で注ぎ込んできた感情そのものが大晦日の夜の炎とともに炎上した、と感じているのはそのためです。私たちが被った喪失によってもたらされる悲しみを測り難いほど深くしているのはゲーテアヌムの形態―それは、精神的な思索によって、精神的な思索のために、芸術的な仕方で作られた形態です−に対して人智学的な感情や意志が有するこの親密な関係なのです。
 このすべては、ゲーテアヌムを愛し、今お話ししたような、それとの親密な結びつきを感じるようになった人たちの記憶の一部となるべきなのです。ある意味で、私たちは、私たちの心の中に、記憶の形でその記念碑を建てなければなりません。今、私たちに避難場所がないのは、正にそれと私たちとの密接な結びつきによるものなのですが、私たちはそれだけよけいに集中して、私たちが失った避難場所に代わるものを私たちの心の中に求めなければなりません。私たちは用いることができるあらゆる手段によって、芸術的な刺激の外的な源泉としては失われたこの建物を、私たちの心の中に、永遠にうち立てようと試みなければなりません。けれども、人智学の分野でこれからなされようとしているあらゆる努力の背後に存在しているのは大晦日の夜の炎、すべてのより重要でない炎がそれに引き寄せられたところの恐ろしい炎です。生きたものとしての精神的な人智学は炎の中でも傷つけられることはなかったのですが、私たちが、今日の社会の中で、人智学のために成し遂げようとしていた多くの仕事が無に帰してしまいました。
 けれども、私は、もし、そのときの私たちの経験が私たちの会員の心に深く根づくようになるならば、私たちが被った悲しみと痛みは、近い将来において、私たちが人智学のために成し遂げるように求められることになるあらゆることがらに関して、私たちを支える力に変化し得る、と本当に信じているのです。あるグループに属する人々が共通の災難に直面するとき、有効な行動を起こす方向で共に前進するための力とエネルギーが得られるような仕方で団結する、ということは人生においてはよくあることです。私たちは、私たちの人智学的な仕事に必要な力を得るために、灰色の理論や抽象的な考えではなく、経験に頼るべきです。
 親愛なる友人の皆さん、この講演のために選ばざるを得なかったテーマ、人智学的な共同体形成の中で卓越すべき条件とは何かというテーマについてのコメントに次のような記述を付け加えたいと思います。私がそれを望んだのは、それらが私の心に深く刻み込まれているからだけではなく、これからの数日間、私たちが注意を向けた方が良いと思われる事実をそれらが指し示しているからです。非常に多くの犠牲と献身がゲーテアヌムに関わる仕事に注ぎ込まれました。私たちの20年間に渡る仕事の中で、人智学が本当に生きているところであればどこであれ、そこからその犠牲と献身が湧き出してきたところの衝動はいつでも頼れるものとしてそこに存在してきました。そして、それらは人智学への熱情で満たされた心によって担われていました。ゲーテアヌムは人智学的な考えを持つ個々人による行為の結果だったのです。様々な理由により、私たちは今日、いかにして協会を再建するかについて考え、あるいは、考えざるを得ないでいるのですが、他方、私たちは、協会が既に20年間に渡って存在し、相当数の人々がその共通の仕事や運動における運命を経験してきたのであり、協会は何か全く新しく設立できるようなものではない、ということを忘れてはなりません。と申しますのも、歴史、真の歴史、経験され、生きられた歴史というものは消し去ることができないものだからです。20年前に始まったものを今始めるわけにはいかないのです。私たちがこれから討議を進めるに当たって、これらの間違った考えは慎まなければなりません。長年に渡って協会への道を見出してきた人たちは、確かにそこに多くの非難すべきことがらを見るかも知れません。しかし、それは当然のことです。その関連で、既に多くの、真実で重い発言がこの場所でなされています。それでもやはり、これまで協会は効果的であったということ、そして、ものごとを遂行してきたのだという事実は考慮されなければなりません。「我々は愛するゲーテアヌムを失うという苦しみを共有している」という言葉に込められた嘆きと悲しみの重さを表現できる十分な数の人々が確かに存在しているのです。
 ある人が1917年以降に協会に加わったのか、あるいは、その人と協会の関係が、そこでの長く深い経験からそれらの悲しみに打たれた言葉が出てくる、といったようなものなのかによって状況は変わってきます。私たちの討議はそのようなことがらがらによって影響されるべきなのです。もし、それによって、私たちの友人の何人かがここで表明した感情、それを表明するに十分な理由がそこにあるような感情が和らげられるのであれば、それは有益なことでしょう。私は誰かが次のように言うのを(そして、その見解は確かに正当なものであると感じられたのですが)聞きました。「ここで述べられたことを聞いた以上、かつて全く幻想に捕らわれていたときと同じのように人智学について語り続けることはできないので、私は家に戻るつもりだ」と。この言葉について言えることは、もし、20年間に渡って人智学徒であった人たちがいかに多くのできごとを共に体験してきたかということ、そして、いかに多くの苦しみをお互いに被ってきたかということ、何故なら、その苦しみは人智学協会の中で長く過ごしてきたことの産物だからですが、そのことをよく考えてみるならば、その内容の一部は消え去るのではないか、ということです。現在、私たちが心配事という重荷を背負っているからといって、人々が経験してきたことのすべてをぬぐい去ることはできません。それらは私たちと共に留まります。ここでの状況がこれまで以上に悪化したとしても、それでも、それらはそこに存在しているでしょう。表面的なことのために深層を忘れるとしたらどうでしょうか?人間の心と魂の深層から生まれてきた精神運動においては、そのようなことが起こるのを許すわけにはいきません。人智学運動として存在するようになったものが太陽を失ったものと呼ばれてはならないのです。ときとして、太陽も日食を受けるとしてもです。
 もちろん、そのことによって、真の人智学協会という形で再び真正な乗り物が人智学に提供されるという方向でこの集会が直面する状況に対処する、ということが妨げられてはなりません。けれども、私たちがそれに成功するかどうかは、正しい雰囲気を創造する、ということに完全に係っているのです。
 もちろん、今日のところは全般的な状況についてカバーすることは不可能ですが、今後予定されている二つの講義の中で、触れられるべきことがらについてはできるだけ多く触れるようにしたいと思います。いくつかのことがらについては触れられないままになるかも知れませんが、二つのことについては特に強調しておきたいと思います。ひとつは協会における共同体形成の差し迫った必要性であり、もうひとつは青年運動による人智学運動への参入という、とりわけ感謝すべき前兆的なできごとです。とはいえ、人智学的なことがらにおいては、他の場所で卓越する観点とは異なる観点を発達させなければなりません。もし、私たちが現代世界の習慣的なものの見方とは異なる光の下にものごとを見ることができなかったとすれば、私たちは、多くの人々にとって大いに意味のある基盤の上に立つ、という選択はしなかったことでしょう。
 それが共同体形成なのです!共同体形成という理想が私たちの時代に出現していなければならないというのは特筆すべきことです。それは今日の多くの人々の魂の中に見出される深く根元的な感情の産物であり、協働への衝動を含む、人と人との特別な関係に対する意識の産物なのです。
 少し前に、多数の若い神学徒たちが私のところにやって来ました。彼らは聖職者になる準備をしていたのですが、特に宗教を改新するという意図をもっていました。それは今日のような伝統的な信仰告白によっては導かれ得ない多くの人々を、彼らが望む仕方で導くことができるような真のキリストの力にどこまでも浸透された改新だったのです。私はそのような運動の発展にとって決定的に重要と思われることを提案すべきであると感じ、共同体を形成するための適切な方法を見出す必要がある、と言いました。そのとき私が心に描いていたのは、人々を本当にひとつにすることができるような宗教的、牧師的な要素を発達させる、ということでした。私のところにやって来なければならなかったこれらの友人たちに私が伝えたのは、現在、大部分の教会が提供することができるのは抽象的な言葉、ありきたりの説教、そして、神的な祭祀(カルト)の無味乾燥な名残であり、そのようなものによっては宗教的な共同体を効果的に形成することは不可能である、ということでした。宗教分野でますます卓越するようになってきた知的な傾向は、今日の大多数の祈りを合理的、理知的な要素で満たす効果を持つようになりました。これに人々を結びつける働きは全くありません。逆に、それは人々を分裂させ、孤立させ、社会共同体をバラバラの状態にします。合理的、理知的な価値観は、個々の人がたったひとりでも発達させることができる、ということに気づく人であれば誰であれ、このことを容易に見て取ることができます。単にある程度の文化レベルを達成しさえすれば、各人は、他の誰に頼ることもなく、ますます完全に知的な装備を身につけることができます。人はひとりで考え、論理を発達させることができるのですが、実際、自分だけでやれば余計にうまくそれを行うことができます。人は、純粋に論理的な思考に携わっているとき、可能な限り世間や人々から遠ざかる必要を感じます。けれども、人は、自分だけで何とかしたい、という傾向だけを持っているのではありません。心の奥底にある共同体を求めるものとは何か、ということに光を当てようとする今日の私の試みが必要とされるのは、人間の本性が意識魂を発達させ続け、ますます意識的にならなければならない時代に私たちは生きている、という事実のためです。
 より意識的になるということは、より理知的になるということと同じではありません。それは、単に本能的な仕方で経験することから抜け出す、ということを意味しているのです。とはいえ、そのようにして明確な意識レベルにまで引き上げられたものをその全く根元的な活性化状態において提示するということ、つまり、それを非常に生き生きとした形で提示することによって、人々が自分で素朴に経験し、感じているかのようにするということは、正に人智学を提示するということの中にあるのです。私たちはそのようにしなければなりません。
 さて、人間生活の中には、地球上に生きるすべての人が知っているような種類の共同体があります。そして、それが示しているのは、共同体とは人間の中に打ち立てられるような何かである、ということです。それは現代の文化的な生活において、そして、政治的あるいは経済的な生活においてさえ非常に注目され、しかも、しばしば有害な仕方で注目されているような種類の共同体です。とはいえ、そこには、初歩的な種類のものではありますが、学ぶべき教訓があります。
 子供がまだ小さい内に、絶対的に現実的で具体的かつ人間的なある人間共同体、つまり、それなしでは誰も存在し得ないような共同体の中へとそれは導入されます。私が言っているのは言語の共同体です。言語は、自然が私たちの考察のために提供した、と言ってもいいような共同体の形態なのです。言語、特に私たちの母国語は、子供のエーテル体が生まれる前の時期に、私たちの存在全体の中に組み込まれますが、それは私たちが最初に経験する共同体形成の要素なのです。今日の人々は言語や国籍に対してある程度の感情を有しており、民俗的な集団を言語に関連づけて考えるのですが、それは政治的−扇動的な立場からであって、その背後に深く横たわる親密な魂のあり方、すなわち言語やその背後にある精神に結びついた運命やカルマの途方もない側面−そして、それらのすべては人間が共同体を求めて叫びを上げる真の、本来の理由なのですが−そのようなものに対しては何の注意も払われていません。もし、私たちが他人の言葉の中に、その同じ言葉を私たちが使うときに私たち自身がそれに込めるのと同じ魂の生活が響き渡るのを聞くこともなく、お互いに通り過ぎるとしたら、私たちはどうなるでしょうか?もし、一人一人がほんの少しでも自己認識を行使してみるならば、最初の原初的な共同体形成の基礎としての言語に私たちが負っているすべてについての十分なイメージ、今はそれについてお話しする十分な時間がありませんが、そのようなイメージを形成することができるでしょう。
 しかし、言語よりもさらに深い共同体形成のための要素(私たちがそれに出会うことはあまりないのですが)もあります。共同体生活の中での言語は確かにある一定のレベルで人々を結びつけるものですが、それは魂生活の最奥にまでは浸透しません。私たちは私たちの地上における生活のある瞬間に言語の要素を超越する別の共同体形成の要素について知るようになります。人は子供の時に知っていた他の人たちに運命によって再び引き合わされるときそれを感じます。典型的な例を取り上げてみましょう。ある人が人生の後半に―そうですね、40代か50代になって―10才から12才の間、一緒に過ごしたけれども、その後、何十年も会っていなかった何人かの仲間たちと一堂に会することになったとします。彼らの間には良い関係、実り多く、愛すべき関係があったとしましょう。今、これらの人々の魂が若かった頃の共通の記憶によって共に掻き立てられるという経験を分かち合うとき、それが何を意味しているかを想像してみましょう。記憶は言語のレベルでの経験よりも深いところに横たわっています。魂たちは、記憶という純粋な魂の言語によって結びつけられるとき、たとえ彼らがそのようにして分かち合った共同体の経験が短時間のものであったとしても、より親密な協調の中で反響するのです。そこにいる人たちの魂の中で反響すべく呼び出されるもの、彼らの魂のそれほどの奥底で騒ぎ立てるものは確かに単なる個別の記憶ではない、ということについては、誰でもそのような経験から知っています。それは何か全く別のものです。それは呼び出される特別な記憶の具体的な内容ではありません。これらの人間の魂の中では、全く不確かではあると同時に全く一定の共同体の経験が進行しています。これらの仲間たちが共に経験したことがらについての無数の詳細が、単一の全体性へと溶融しながら、ひとつの復活が起こっているのです。そして、それらの詳細とともにそれぞれの人が他の人たちの思い出の中へと入っていくとき、その人はその全体性を経験する能力を目覚めさせる要因となっているのです。
 これが地上生における状況です。この魂生活についての事実を精神的な領域にまで追求していった結果、私は先にお話しした目的のために私のところに来た神学者の友人たちに次のように伝えなければなりませんでした。それは、もし、真の共同体が宗教的な改新という働きの中から生じるべきであるならば、私たちが生きている時代に合った新しい形態の祈り、新しい祭祀が存在しなければならないだろう、ということでした。祭祀を共にするということは、共同体を形成する要素を全くそれ自身の本性から人間の魂の中に呼び覚ますような何かなのです。「宗教改新運動」はそのことを理解し、祭祀を受け入れました。私は、リッテルマイヤー博士がこの演壇から述べた言葉、そのような共同体の発展は人智学運動に対する「宗教改新運動」からの考え得る最大の脅威のひとつになるだろう、という言葉には重要な意味があったと信じています。と申しますのも、祭祀には途方もなく重要な共同体形成の要素が含まれているからです。それは人間をお互いに結びつける働きをします。この祭祀の中にあって人間を結びつけるもの、知性や論理によってバラバラになった個々人から共通性を作り出すことができるもの、そして、最も確実に共通性を創造するものとは何でしょうか?と申しますのも、それこそが共同体を作るものとしてリッテルマイヤー博士が心に描いていたものであるに違いないからです。けれども、共同体は人智学協会の目的でもありますから、もし、「宗教改新運動」がその方面からの協会に対する脅威になるべきではないとすれば、協会は共同体を構築するためのそれ自身の方法を見出さなければならないでしょう。
 さて、特に共同体の構築という目標を視野に入れた「宗教改新運動」のために展開される祭祀の中で、共同体を形成する要素の秘密とは何でしょうか?
 祈りの様々な形態の中に表現されるあらゆるものは、それが儀礼的な行為であれ、言葉であれ、真の経験の反映、あるいはイメージなのです。もちろん、それは地上における経験ではなく、人間が生まれる前に辿る世界での経験、つまり、死から再生に至る道の後半における経験です。それは、死後の生活の真夜中時から再び地上の生活へと降る瞬間に至るまで、彼が宇宙の中で通過する部分です。あらゆる祈りの真の形態の中に忠実に反映される存在たち、光景、あるいはできごとが、こうして辿られる領域の中に見出されます。では、ある人が何らかのカルマによって他の人々とともに集められ、祭祀を経験する、というのはどういうことでしょうか?と申しますのも、カルマとは私たちの仲間の人間たちとの出会いがすべてそれによる仲介に帰されるほど複雑に織りなされているものだからです。その人は、その仲間たちと一緒にいたときの地球以前の存在状態について、宇宙的な記憶を体験しているのです。それらは魂の深い無意識の中で表面へとやって来ます。私たちは地球に降ってくる前に、これらの他の人々とともに宇宙的な生活を送っていたのですが、その生活が祭祀の中で私たちの前に再び現れるのです。それは途方もない結びつきです。それは単にイメージを伝えるだけではなく、超感覚的な力を感覚世界へともたらします。けれども、それが伝える力は人間に密接に関係した力です。それらは人間の魂による最も親密で隠れた経験と結びついています。祭祀がその結びつける力を引き出すのは、それが精神的な力を精神的な世界から地上にもたらし、地上に生きる人間の思索に超地上的な現実を提示する、という事実によってです。合理的な話の中にはその種の人間が思索すべき現実はありません。そのような話は彼に精神的な世界を、魂の無意識の深みにおいてさえ、忘れさせる効果を有しています。祭祀の中では、それは単なるイメージ以上のものとして、生きた、力に浸透された像として正に彼の目の前にあるのです。この像は死んだイメージではありません。それは現実的な力を有しているのです。何故なら、それは彼が地上の体の中に受肉する以前に彼の精神的な環境の一部であったところの場面を彼の前に提示するからです。共同体を創造する祭祀の力はそれが精神的な経験に関する共通の、包括的な記憶であるという事実から来ているのです。
 人智学協会もまた、共同体をその内部に育成する正にそのような力を必要としています。しかし、人智学協会のためにそれが湧き出してくる地盤は「宗教改新運動」のそれと同じである必要はありません。とはいえ、それらの間の関係が正しく感じ取られている限り、一方が他方を排斥するということは決してなく、両方は完全な調和の中で共存することができます。
 けれども、そうなることができるのは、私たちが人間生活の中へと導入し得る共同体形成のさらなる要素に関する何らかの理解を獲得するときだけです。精神的な領域に移された記憶は祭祀が取る形態から私たちのところへと放射します。祭祀は知性の深みよりもはるかに深いところに語りかけるのです。それは人間の内面性に語りかけます。精神が語ることは、今日の地上生においては、完全に意識的に知覚されるわけではありませんが、基本的なところでは本当に魂によって理解されるのです。
 さて、人智学協会の中で対応する役割を果たすべき別の要素を把握するとすれば、共同体との関連における言語と記憶の秘密についてよく考えてみるだけではなく、人間生活の別の面についても考えてみなければなりません。夢を見ている人の状態を研究し、はっきりと目覚めながら昼間の活動を行っている人の状態と比べてみましょう。
 夢の世界は本当に美しく、荘厳かつイメージ豊かで、意義に満ちています。けれども、それはこの地上にいる人々を隔離します。夢見る人はその夢と共にあって孤独なのです。彼はそこに横たわって寝ながら夢をみている間中、他の人たちに取り囲まれているかも知れません。その人たちが寝ていたとしても、起きていたとしても、その内的世界の内容は彼の夢の意識の中で進行していることとは完全に無関係のままです。夢の世界の中で人は孤独であり、眠りの世界の中ではさらに孤独です。けれども、私たちは目覚めるやいなや、共同体生活の中での役割を果たし始めます。私たちと私たちの周囲の人たちが占める空間は共通のものとなります。彼らがそれについて有する感情や印象は私たちのそれと同じです。私たちは、私たちの周囲を取り巻く環境のお陰で、他の人と共通の内的生活へと目覚めるのです。夢という孤立状態から覚めるに当たって、私たちは私たちが周囲の世界に関連づけられる正にその仕方によって、少なくともある程度までは、私たちの仲間のいる共同体の中へと目覚めるのです。私たちの夢が美しく、荘厳で、意義深いとしても、夢の世界に吸い込まれている間は、完全に自分の世界にいて遮断され、包み込まれていましたが、今それを止めるのです。では、私たちはどうやって目覚めるのでしょうか?私たちは外的な世界からの刺激によって、つまり、その光や音、あるいは熱を通して目覚めます。私たちは感覚の世界が私たちに及ぼす様々な印象に応じて目覚めるのです。私たちはさらに、通常の日常生活の中では、他の人間の外的な側面、自然の側面と出会うことでも目覚めます。私たちは自然の世界と出会うことによって日常生活へと目覚めるのです。それは私たちを孤立状態から目覚めさせ、その種の共同体へと導きます。私たちはまだ人間として、私たちの仲間の人間によって、つまり、彼らの最奥の内面で生じていることによって、目覚めるのではありません。これが日常生活における秘密です。私たちは光や音に応じて、そして、多分、誰かがその自然な資質を行使する中でしゃべる言葉、内から外に向けて語られる言葉に応じて目覚めます。通常の日常生活の中では、私たちはその人の魂や精神の深みで生じていることに出会って目覚めるのではなく、その自然の側面に出会って目覚めるのです。
 後者は第3の目覚め、あるいは、少なくとも第3の魂状態を構成します。私たちは第1の状態から第2の状態へと自然の刺激によって目覚めます。私たちは私たちの仲間の魂的−精神的な要素からの呼びかけに応じて、第2の状態から第3の状態へと目覚めます。とはいえ、私たちはまず、その呼びかけを聞くことを学ばなければなりません。ちょうど日常生活においては、その人を取り巻く自然の世界を通して正しい仕方で目覚めるように、より高次の段階では、日常生活への目覚めに際して光や音を感じるように、私たちの仲間の魂−精神に出会うことによって正しく目覚めるのです。私たちの孤立した夢の意識の中では、最も美しい像を見たり、最もすばらしい経験をしたりすることができるかも知れません。しかし、きわめて異常な状態が卓越しない限り、例えば、「読む」ということはほとんど不可能でしょう。私たちはそのようなことを可能にする外的な世界に関連づけられていないのです。私たちはまた、人智学からどんなに多くの美しい考えを集めてきたとしても、あるいは、エーテル体やアストラル体のようなことがらについてどんなに理論的に把握したとしても、精神的な世界について理解することはできません。私たちが精神的な世界についての理解を発達させ始めるのは、私たちの仲間の魂的―精神的な要素との出会いによって目覚めるときだけです。そこから人智学についての真の理解が始まるのです。そうなのです、本当に必要なのは、人智学についての私たちの理解を、他の人の魂や精神との出会いの中で目覚めること、とでも呼べるようなものの上に基礎づける、ということなのです。
 この目覚めを達成するために必要な力は人間共同体の中に精神的な理想主義を植え込むことによって創り出すことができます。この頃では、私たちは理想主義について多くを語りますが、今日の文化や文明の中では着古されたものとなっています。と申しますのも、真の理想主義が存在し得るのは、人が祭祀の中で精神的な世界を地上にまで引き下ろしながら、言い換えれば、地上的なレベルで見、学び、理解したことを超感覚的−精神的、理想的なレベルへと引き上げる能力を意識的な仕方で身につけながら、自分の進む方向を逆転させるときだけだからです。私たちが超感覚的なものを力に浸透されたイメージの中へと引き下ろすのは、祭祀の儀式を取り行うときです。そして、私たちが私たち自身や私たちの魂生活を超感覚的なレベルにまで引き上げるのは、私たちの物理世界での経験がまるで超感覚的な世界そのものにおける経験であるかのように感じられるほど、つまり、この感覚的な世界の中で知覚されるものが突然理想的なレベルにまで引き上げられることによって、それが完全に生きたものになるほど精神的かつ理想的なものになるときなのです。それは私たちの意志と感情に正しく浸透されたとき、生きたものとなります。私たちが私たちの内的な存在を通して意志を放射し、それに熱意を吹き込むとき、私たちは祭祀の儀式の中に超感覚的なものを体現するときに取る方向とは正反対の方向へと私たちの理想化された感覚的経験を持ち込むのです。私たちは、私たちが形成する精神的な考えの中に生きた力を注ぎ込むことであの目覚めさせる要素のいくらかを実際に経験する立場に自らを置くとき、つまり、私たちの感覚的な経験を理想化するところで立ち止まったり、それを抽象的な思考の段階に留めたりするのではなく、私たちがその中で生きるようになる高次の生命をその理想に付与し、その理想を物理的な段階から超感覚的な段階へと上昇させることによって、それを祭祀の対極に置くようにするところのものを実際に経験する立場に自らを置くとき、人智学的共同体の大小に関わらず、私が特徴づけているものを達成することができます。私たちは、人智学のために行うあらゆることがらを完全に精神化された感情で満たすように配慮することによって、私たちの感情生活の中で、それを達成することができます。私たちがそのことを行うのは、例えば、私たちが人智学的な集会に参加するためにそれが催される会場へと続く玄関を敬虔な気持ちで入るとき、正にその玄関が、そこで討議される共通の人智学的な目標によって−それがどんなにありふれた設定のものであったとしても−聖化される、と感じられるときです。私たちは、人智学を共に受け入れる中で私たちに加わってくる誰もが同じ姿勢であると感じられなければなりません。このことについて深く抽象的な確信を抱いているだけでは不十分なのです。それを内的に経験することによって、人智学が追求されている部屋の中で、読書会や話し合いを持っている多くの人たち、人智学についての思考を共有する多くの人たちの間にただ座っているだけに留まることがないようにしなければなりません。人智学が行われている部屋の中には、本当に精神的な存在がいなければならないのですが、それは人智学的な考えが吸収されるその仕方の直接的な結果として存在しているのでなければなりません。物理平面上で遂行される祭祀の中には神的な力が感覚的に知覚可能な形態で存在しています。私たちの心、魂、そして態度もまた、本当に精神的な存在を人智学が話されている部屋の中へと同じようにして呼び出すことを学ばなければなりません。私たちは私たちの話し方、私たちの感じ方、私たちの意志衝動を精神的な目的に調和させるとともに、抽象の落とし穴を避けることによって、本当に精神的な存在が私たちの上にあって眺めながら聞いている、と感じられるようにならなければなりません。私たちは人智学を追求することで呼び出される超感覚的な存在を感知すべきなのです。そうすれば、それぞれの人智学な活動が超感覚的なものの認識となり始めることができるでしょう。
 もし、皆さんが原始的な共同体を研究してみるならば、言語に加えて、さらに別の共同体の要素を見出すはずです。言語は人間の上部にその位置を占めていますが、人間全体を考慮するならば、原始的な共同体の構成員を結びつけているのは共通の血である、ということが分かるでしょう。血のつながりが共同体を作り出しているのです。そして、血の中に生きているのは民族魂あるいは民族霊なのですが、それは自由を発達させた人々の間には同様の仕方では存在していません。かつて、共通の精神的要素が同じ血のつながりを持つ集団の中に、下から上へと作用しながら入って来ました。多数の人々の血管の中に共通の血が流れるところでは、必ず集団魂の存在を認めることができたのです。
 私たちが共に人智学を探求するとき、真の共同体精神が、私たちの共通の経験によって、同様にして引き寄せられるのですが、それは明らかに血脈の中で活動する集団魂ではありません。もし、私たちがそのことを感知することができたならば、私たちは真の共同体を形成することができるでしょう。
 人々が人智学的な使命において集うところでは、彼らは仲間の中の魂的−精神的な要素との出会いによってその最初の目覚めを経験する、ということを知るようになることによって、私たちは、人智学的な共同体生活の中で、人智学を現実的なものにしなければなりません。人間は他の人間たちと出会うことによって目覚めます。それぞれの人間がこれらの出会いの中で新しい経験をし、少しずつ成長するとき、これらの目覚めは、人々が出会い続ける中で、どこまでも新しい仕方で生じます。目覚めは急速な発展を遂げるのです。皆さんが、人間の魂は人間の魂との出会いの中で目覚め、人間の精神は人間の精神との出会いの中で目覚める可能性を有している、ということを発見した後、今初めて目覚めたのだ、今初めて人智学的な理解へと共に成長し始めたのだという生きた認識をもって人智学的な集まりに出かけ、そして、その理解に基づいて、人智学的な考えを、より高次の物事に対して眠ったままの日常的な魂にではなく、目覚めた魂へともたらすとき、真の共同体精神が皆さんの働いている場所に降りてきます。私たちが超感覚的な世界について語りながら、精神的な存在を、つまり、この逆方向の祭祀を認識するところにまで上昇しないとすれば、そこに真実は含まれているでしょうか?精神に関することがらについての理解という堅固な基盤の上に私たちが立つことになるのは、抽象的な精神的概念や、それらを理論的に表現する能力だけで満足するのではなく、精神的な探求に携わるときには、より高次の存在たちが精神共同体の中で私たちと共に存在しているのだ、という確信へと成長するときだけです。いかなる外的な手段も人智学的な共同体形成をもたらすことはできません。皆さんはそれを人間意識の最も奥深いところから呼び出さなければなりません。
 今日はその目標へと導く道の一部についてお話ししましたので、明日はさらにそれを追求していくことにしましょう。この種の話が意図しているのは、人智学協会がさらに発展していく上で最も重要なのは人智学を真に把握することに没頭することである、ということを示すということです。もし、私たちがそれを把握するならば、それは精神的な考えにだけではなく、精神との交流にも導きます。そして、精神的な世界との交流に気づくようになるということは、それ自体が共同体を形成する力となるのです。そのとき、真の人智学的な気づきの結果として、カルマ的に運命づけられた共同体が生じてくるでしょう。そのことを達成しようとするいかなる外的な手段も、あるいはそのようなものを提案する人も「いかさま」である、ということを示すことができます。
 さて、そのようなことがらは人智学が発展してきた20年間に、ある程度理解され、相当数のメンバーたちもまた精神的な意味でそのことを理解してきました。多分、明日は、これらの考察を続けながら、さらなる目標について指摘するところにまで行く中で、このテーマに戻り、さらに十分な議論をしていくつもりです。今のところは、皆さんが人智学的な共同体生活の精神的な基盤についての私の話を聞いた後、皆さんの心を占めてきたであろうことがらに、いくつかの言葉を付け加えるだけにしておきたいと思います。一方では、人智学運動の現状は、本当に私がそのことについて今日のようなお話しをする必要があった、というようなものになっています。人智学協会は、どのフェーズにおいても、何らかの様相を呈するでしょう。けれども、人智学は人智学協会から独立したものであり、それから独立して基礎づけられることができます。ひとりの人間が別の人間との出会いの中で目覚めることを学び、そのような目覚めから共同体の形成が生じるとき、それはひとつの特別な仕方で基礎づけられることができるのです。と申しますのも、人は、その人が交流することになる人たちを通して、どこまでも新たな目覚めを経験することになるのですが、それこそがそのようなグループをひとつに結びつけるものだからです。そこに働いているのは内的、精神的な現実なのです。
 そのようなことがらは人智学協会の中でますます理解されるようにならなければなりません。協会の良好な運営との関連で持ち出されるあらゆる考察は人智学そのものに密接に関連した力に本当に浸透されていなければならないのです。
 今回の代表者会議の準備のために開かれていた大小の秘密会議に出席し、そこで交わされている議会やクラブで行われるような通常の、日常的な思考を思い出させる議論を聞きながら数週間を過ごした後、若者たちの集会、若い研究者たちの集まりに出かけたことは、私にとって大いなる喜びとなりました。彼らもまた何がなされなければならないかを考えていたのです。しばらくの間、それは外的なことがらについての話でしたが、時間が経つにしたがって、まったくそれと気づかれることなく、真に人智学的な議論に変わっていきました。最初、日常的な光の中に現れたことがらは、人智学的な取り扱い以外は不可能な様相を呈してきたのです。
 しばしば行われるように、わざとらしく、感傷的で漠としたやり方で人智学的な理論に引き込むのではなく、現実的な過程が追求されるとしたら、それは理想的なことでしょう。議論においては、人生における通常の関心事を出発点として、人智学に頼らなければ哲学や化学のような科目であってもどのように研究したらよいか誰にも分からない、というような結論が導かれるべきなのです。そのような精神が私たちを導く助けとなります。
 けれども、もし、ものごとが今までどおりに進むならば、明日の夕方までにいかなる解決法も見出されることなく、途方もなく悲劇的な混乱状態へと導かれることになるでしょう。最も重要なのは、何でもかんでも感傷的に引きずり込むのではなく、十全たる明晰性の中で考え出された人智学的な衝動で私たちの心を満たす、ということです。
 今はそういうわけで、この部屋には二つの派閥、二つの別々の人間のグループが居り、どちらも相手方を少しも理解せず、どちらもお互いの理解に向けて最初の小さな一歩を踏み出すこともできないでいる、ということが分かります。何故そうなっているのでしょうか?それは、私が今日の早い時間に簡単に説明したように、一方の側が語ることはこの20年間全体の経験から不可避的に流れ出てくるものであるのに対して、他方はその経験に全く興味がない、ということによります。私がこのようなことを言うのは批判するためではなく、どうしてもお願いしたい、という気持ちからなのです。過去のケースですが、自分なりの方法で本当に人智学に対して熱意を持つ善意の人々が「協会が直面する危機についてよく知らない人たちがそれらについて学びたいと思っているということが重要であるこのようなときに、いつも蒸し返されるこういう報告に一体何の意味があるのだ?」というようなことを言って、私たちの考察をただ妨げるというようなことがありました。ここに見られるのは、一方では、人智学協会のあり方、ある種の家族的な特徴を有するとはいえ、家族的なものの良い側面をも有するところのひとつのあり方に対する素朴で自然な関心であり、他方では、そのようなあり方に対する無関心と、人智学協会という一般的な概念だけなのです。
 今日のような状況下では、どちらの見方も正当なものなのですが、それらはあまりにも正当化される結果、私たちが全く異なる議論の形態を急いで構築しない限り、私たちが行い得る最善の方法とは(私はただ私の意見の述べているに過ぎず、決定は協会によってなされなければなりません)、古い協会はそのままにして、全く異なるものを望む人たちのために自由な人智学的共同体の連合体を設立する、ということになるでしょう。そのとき、各派閥はそれぞれに合ったやり方でものごとを遂行することができるでしょう。私たちは一方には古い協会を、他方には緩やかではあるけれども密接に関連した自由な共同体の連合組織を持つことになります。二つの協会はそれぞれの活動方法を一緒に練り上げることができるでしょう。そのようなやり方で問題を解決する方が、議論が今まで通りに進行すれば明日の夕方までには望みがないということが明らかになるはずの状況の中で、このまま続けるよりはよいかも知れません。ですから、皆さんに予定しておいていただきたいのは、ものごとが今まで通りであるか、あるいは、何らかの変更を加えられるかに関わらず、二つの継ぎ足されたグループをそのままにしておくことで生じるはずの偽りの状況を避けたいと思わないかということについてさらに問う、ということです。もし、状況が変わらず、それぞれの側が他方を理解し損ねたままであるならば、私たちは先に進み、示唆された二つのグループを一つの運動の中に設立することにしましょう。私は不安な、非常に不安な気持ちでこのことを述べています。と申しますのも、私が私たちの人智学的な企てに対して不安を感じるということがどういうことなのかを理解しているということ、そして、それを愛するということが何を意味しているかを知っているということは、確かに誰も否定しないはずだからです。けれども、それぞれが自分の道を進み、共通の理想によってのみ結ばれた二人の運命的な姉妹を持つことの方が、すぐに再び混乱状態へと導くかも知れないような手を打つよりもよいかも知れません。
親愛なる友人の皆さん、皆さんは、私たちのトラブルの原因が様々な個々の企てであるという事実を単に見落としたままにしておかないで下さい。それらは本当の詳細に至るまで練り上げられるべきだったのです。確かに私は、現在の中央理事会は物質的には前の理事会よりもずっと多くのことを成し遂げたと、つまり、私が理事長として同様に中心的な役割を果たしていたとき以上のことは成し遂げていないというようなことを言っているのではありません。けれども、そのことが問題ではないのです。本当の問題は、様々な企てのすべてがここステュットガルトで開始された後、何が生じるべきだったのかということです。それには答えられなければなりません。存在へともたらされたものを現時点で解消することはできません。これらの企てが存在している以上、私たちはどうすればそれらを繁栄させ続けられるかを見出さなければなりません。けれども、もし、私たちが過去4年間そうしてきたように、人智学的な精神において、それにどう対処したらよいかを知り損ねるとしたら、もし、私たちが、これまでのように、異質な実体としての企てを人智学運動の中に取り込むとしたら、1919年以降存在するようになったこれらの組織体は人智学運動全体をだめにするでしょう。それらは、名前はどうあれ、中央理事会といったようなものをだめにするでしょう。
 ですから、私たちは私たちの議論を客観的で非個人的なものとしながら、あのすばらしいウォルドルフ学校をはじめとするこれらの組織すべてを包含することになった協会がどのような形態をとるべきかについて、何らかの明晰性に到達するようにしなければなりません。この課題についてはまだ一言も発言がありませんが、それはステュットガルトで起こっていることに最も通じている人たちがこれまで沈黙を守っているからです。私はこの件について特に中央理事会の二人のメンバーに聞いてみたいと思います。(3番目のメンバーであるラインハス氏は含まれません。それは彼が、問題が山積した状況の中でも、私を助け、そして、助け続けてくれている唯一人の人だからです。実際、彼は理想的にはそれに適任だと思いますが、彼のためには、彼が中央委員会のために奉仕し続けるのを見たくはないと思っているのです。)この二人の紳士が自分たちの立場を擁護するかどうかではなく、1919年以来存在し続けている企てを融合させることができる人智学協会の将来的な構築についての彼らの考えを単に述べる、ということが問題なのです。そうでなければ、それらを立ち上げたのは無責任な行為であったということになるでしょう。それらは存在している以上、そのままにしておくことはできないのです。
 これは非常に、非常に深刻な問題です。私たちはそれらに対処し、客観的かつ非個人的に議論しなければなりません。私の発言は客観的な立場からのものであり、中央理事会のメンバーやその他のいかなるメンバーをも攻撃しているつもりはありません。誰もけなされているのではありませんが、私の考えでは、これらの問題は、私の方から、こうして再びはっきりと表明され、取り上げられなければなりませんでした。もし、提案された二つの協会が設立されるとしたら、協会が取り組んできたプロジェクトに責任を負うのは古い人智学協会の継続であるところのグループであり、それらにいかなる関心も寄せていない別のグループは、より狭い意味での人智学的な道を追求することになるでしょう。
 以上が、簡単なスケッチによって、皆さんの前に提示したいと思ったことです。明日12時に、業務上のことがらについて詳細にお話しする予定です。