ルドルフ・シュタイナー

人智学的共同体形成 (GA257)

第8講

ドルナハ、1923年3月2日

佐々木義之 訳


 シュツットガルトでの会議は2日前に終了しました。そして、皆さんは多分、そこで起こったことについて何らかの報告がなされるべきであると考えておられるでしょう。私たちは、ある一定の、そして、今の状況下では避けられないと思われる結論に到達しました。
 ものごとがどのように展開したかについて皆さんに簡単なスケッチで示すことが、生じたことがらを理解する上で必要となるでしょう。ここ何週間かに渡って私がコメントしてきたことから、皆さんは、シュツットガルト会議に先立つ長々とした準備があった、ということをご存じですね。これらの準備は関係者すべてにとってきわめて骨の折れるものであることが分かったのですが、その目的は、協会が生きていくための必要条件が満たされるような状況を創り出し、近い将来における人智学協会の存続を確かなものにする、ということにありました。
 いずれにしても、シュツットガルトで起こっていたことはゲーテアヌムの炎を取り巻く悲しいできごとにその起源を有していたのでも、それらに影響されたものでもなかったということを心に留めておかなければなりません。と申しますのも、私は既に、12月初めに、理事会メンバーの1人と話し合いを持ち、協会の基盤を固めるためには何かを行う必要がある、ということについて議論していたからです。そして、理事会全体とその他の様々な人たちがその問題を取り上げるようにする、という仕事が彼に与えられました。ですから、シュツットガルトで起こったことは、協会におけるできごとの現状についての私の観察結果を知ってもらうために12月10日に行われたウーリ氏との話し合いの直接的な結果だったのです。
ゲーテアヌムの炎上は、私たちがこれらの進展のただ中にいる間に生じた最も痛ましい経験でした。けれども、たとえゲーテアヌムが無傷の状態のままそこに立っていたとしても、これらのことがらは、正に起こった通りに、起こったことでしょう。では、私たちが直面していたものとは何だったのでしょうか?私たちが直面していたのは、人智学協会が過去20年間に渡って取っていたある形態が、様々な企てをその関心事の一つとして取り込んだことの結果として、1919年以来、かなりの変容を経てきていた、という事実です。
 私の言葉は、これらの企てを非難するものとして受け取られかねませんが、そのようなことは全く意図していません。私のコメントは何か表面的な判断を表明するためのものではなく、全く異なる目的のためであった、ということを皆さんに納得していただくために、私が言及した企ての一つであるウォルドルフ学校の名前を挙げるだけで十分でしょう。そのコメントはこれらの企てやそれらの指導に責任を持つ人たちの価値や重要性について何らかの疑義を示唆するものでは全くなかったのです。
 シュツットガルトで取られた措置によって意図されていたのは―そして、実際、そのようになったのですが―人智学協会全体の構成と、それがどのように形成されるべきかという側面から、協会の問題だけに関わる、ということでした。
さて、その現実の構成を記述するというのは、それが非常に多くの方向に枝分かれしていることから、それほど簡単なことではありません。けれども、私は、協会が現在に至るまでどのようにして発展してきたかについて、すべての皆さんが何らかの考えを持つとともに、私が過去数週間に渡ってコメントしてきたことを手助けとして、自分でものごとを思い描きながら、その像をより完全なものにすることができる、と信じています。
協会の活動の中で起こった特に重要な展開の一つは、指導的な人たちが―あるいは、少なくともかなりの数のそのような人たちが―その活動から生じてきたところの全く特定の人智学的な使命を協会のために負った、ということです。これらの使命は1919年からずっと達成されることが待たれていたのですが、遂行されることはありませんでした。そのために生じた問題があまりにも明白になったとき、私は、先の12月10日に行ったように、シュツットガルトの中央執行委員会に向けて話をしなければならなくなったのです。
 人智学運動という土壌から成長してきた最近の取り組みの一つは「宗教改新運動」ですが、これは協会における現在の危機に大いに貢献してきました。協会活動の中で展開している事実の一つの側面とはそのようなものです。
もう一つの側面とは、若者たちが運動にアプローチしてきたということです-人智学に対する深く内的な熱情とそれが包含するあらゆるものに満ちた若者たち、そして、全く異なる期待、協会の中に見出されるべきものについての全く特定の像、全く特定の感情を有する学生たちもまたその全体像の中に入ってきました。これらの学生たちについては次のように言うことができるでしょう。彼らは強い心の衝動と、人智学徒たちの彼らに対する反応への特別な感覚をもって協会にアプローチしてきた、そして、あらゆることがらを、理性的な角度からというよりも、鋭敏な感情による判断という精神において取り上げた、と。
では、このすべての背後にあるものとは何でしょうか?
 親愛なる友人の皆さん、今日の若者たちが有しているのは、人間進化という舞台においてその姿を現し始めている魂の経験である、というのが本当のところなのです。この事実はジェネレーションギャップというような抽象的で表面的な言い方で総括されるべきものではありません。ある意味で、そのようなギャップはいつの時代にも存在していました。特にそれが際だっていたのは、学校教育の場で人生に備える、若く、強力な個性たちにおいてでした。そのことを理解するには、ある特徴的な例を思い出すだけで十分でしょう。ゲーテの「真実と科学」に書いてあるのは、彼がライプチヒで学生だった頃、ルードヴィッヒ教授やその他の人たちが講堂で専門的な学説を長々としゃべっている間、その恐ろしく退屈な授業をサボって、筋向かいのプレッツェルベーカリーに行き、友人たちとおしゃべりを楽しんでいた、ということです。
 けれども、これらのいくらか過激な若い世代のメンバーたちでさえ、その普遍的なジェネレーションギャップにもかかわらず、最終的には、先輩たちから伝統を引き継ぎました。彼らの中の天才たちもそのようにしました。ゲーテがその死に至るまで比肩するもののない天才であり続けたことは確かです。けれども、その時代に生きた生活者ということになりますと、彼は単に天才ゲーテであっただけではなく、二重顎の太った枢密院議員でもありました。それもまた認識されるべきことです。
 これらのことがらは完全に偏見のない仕方で眺められなければなりません。19世紀の最後の3分の1に至るまで、今日の人々によって表面的に語られるジェネレーションギャップはいつでも存在していました。しかし、それは善き俗物主義の中に解消されていたのです。そして、若者たちは俗物的な特徴を徐々に吸収するようになり、いつの時代でもそうであったように、その先輩たちから引き継いだものの中へと入っていきました。
 けれども、それは今日ではもはや不可能なのです。東洋の叡智から借りてきた用語を使うならば、それはカリ・ユガが終わったときに不可能になった、何故なら、それ以降の社会生活はもはやそれまでのような権威主義の原則によって支配されてはいないのだから、と言わなければならないでしょう。人類の進化が意識魂の段階にあるということが、ますます顕著な影響を及ぼすようになったのです。それは1890年代から20世紀の最初の数年に生まれた人々の魂の中に、多分、明確に規定された形態においてではなかったとしても、きわめて強力かつ本能的な仕方で生きていました。もし、大人たちが彼らのこの内的な生活を理解したいのであれば、それを本当に愛すべきものとしてよく考えてみなければなりません。それは少々骨の折れる仕事です。と申しますのも、私たちの文化、私たちの文明は、過去にはいつでも可能であった若者と大人の間の問題を、特に学校現場において、解決することがもはや不可能なような形態を取っているからです。若い人々はそのことを彼らの内的な運命であると感じています。彼らの人生のあらゆる側面はそれによって形成されますが、それは、全く特定の渇望や要求をもって人生にアプローチする、ということを意味しています。そのことは今日の若い人たちに求道者になりやすい傾向をもたらしています。とはいえ、それは大人たちとは全く異なるタイプの求道者です。
 それは彼らの人生におけるあらゆる領域、特に精神的な領域について言えます。過去のある時期においては、彼らに対するより古い世代の反応の仕方は非常に不思議なものでした。私は皆さんに特徴的な例について思い出すように注意を促すのを怠っていたわけではありません。皆さんには、グレゴール・メンデルについて私が行った講義を思い出していただきたいと思います。孤独な教師であり、後に大修道院の院長になったモラビア人、グレゴール・メンデルは遺伝の法則を決定する仕事に関して顕著な功績を残した天才であった、ということは、20世紀の科学者たちが、ときに彼らの意見として、かなり熱心に語ることです。グレゴール・メンデルと彼が学んだ学院との関係を検証するとき、見逃すことができないのは、彼が教職に就くための試験を受ける年齢に達したとき、及第点には遙かに届かずに失敗した、という事実です。彼には再試験に向けて準備する時間が与えられたのですが、またしても落第でした。当時―つまり、1850年代ですが―人々は後の時代に比べて遙かに忍耐強かったので、彼の2回の教員試験失敗にも関わらず、メンデルは中等学校の職を割り振られ、近代自然科学の分野で最も偉大な功績の一つと見なされるものを成し遂げた人物になりました。
 もう少し身近な例を取り上げてみましょう。レントゲンです。今日、レントゲンが近代における最も偉大な人物の1人であることを疑う人はいません。けれども、彼は、望みがない、という理由で中等学校を退学になっているのです。学校を終えることができなかったという理由で、家彼は庭教師の職を見つけるのに大変な苦労をしました。つまり、彼は追い出されたのですが、後に、やっとのことで大学に入り、最終的にはそこを卒業しています。けれども、そのときでさえ、彼は探していた教職に就くことができませんでした。それにも関わらず、彼は、応用、理論科学の分野で最も画期的な功績の1つを成し遂げたのです。
 このような例はいくらでもあります。古い時代が差し出すものと若者の中に漠とした仕方で生きているものとの間には橋を架けることができないギャップがある、ということを示すものは至るところに見出されるのです。
 少し過激な言い方をすれば、現代の若者はエジプトの王の墓がいくつ発掘されようが、そんなことにはあまり関心がない、ということです。そうではなく、彼らの本当の関心は、古代の王の墓を発掘することによって得られるよりも遙かに人類の発達に役立つようなより根源的な源泉を見出す、ということにあるのです。人類の進化をさらに進めるためにはもっと遙かに基本的で根源的な源泉に近づかなければならない、というような時代に私たちは入っているのだ、と若者は感じています。
確かに言えることは、このようなあこがれを持つ若い人々が20世紀の最初の20年間にかなりの探求を行った、ということでしょう。そして、人智学を知り、それが彼らの求める人間性の最奥の源泉へと導くものであることを直ちに感じ取りました。彼らはその後、人智学協会にアプローチしてきました。そして、これらの若い人たちの代表が先週の月曜日か火曜日にシュツットガルトで述べたのは、人智学協会に来てショックを受けた、人智学協会と人智学の対比に驚いた、ということです。これは非常に深刻な事実ではないでしょうか?それをただ放置しておくことはできません。若い人たち、特に大学から来た人たちが何に苦しまなければならなかったのかをよく考えてみなければなりません。
 例えば、彼らが文学史のようなより自由な学問の専攻分野において博士号を取りたいと思ったとしましょう。19世紀の最後の3分の1においては、ものごとはどのように処理されたでしょうか?彼らの内の大部分はどこで博士論文のための課題を得たでしょうか?簡単のためにどちらかというと過激な言い方をしてみましょう。教授はロマン派に関する本の著作に取りかかっていたので、ある学生にはノヴァーリスを、別の学生にはフリードリッヒ・シュレーゲルを、3人目の学生にはオーガスト・ウィルヘルム・シュレーゲルを、そして、4人目にはテオドール・アマデウス・ホフマンを―もし、彼らの運がよかったらですが―割り当てました。もし、運が悪ければ、ホフマンの句読法か括弧の使い方に関する博士論文を割り振られたでしょう。教授はその後、これらの博士論文を読み、そこから彼の本のための内容を取り出しました。それはすべて全く機械的に行われるようになっていたのです。若い人は機械の一部、つまり、学識ある機械の一部に過ぎませんでした。繰り返しになりますが、カリ・ユガが終わって以降、若い魂の中に原初的な仕方で生きていたあらゆるものがこの種のことがらに反抗するようになったのです。私は無数に起こり得る同様の現象のひとつに触れているに過ぎません。
さて、ここでは次の二つの要素が密接に関係しています。つまり、20年間に渡りその形を作り上げてきた人智学協会―その形態については、誰でも自分自身の立場から自分で思い描くことができますから、私が記述する必要はないでしょう―と若い学生たちです。けれども、協会がこれらの若い人たちの内に見出していたのは、普遍的に存在する要素の最も熱烈で過激な周辺部分でした。シュツットガルトの会議では、この事実があまりにも明白に突出していたのです。
 他方、古い協会の指導者たちは、徐々に固定した形態を取るようになっていたものに関わっていました。ある人は多分、ウォルドルフ学校の教師であり、別の人はDer Kommende Tagの部長でした。私たちは、これらすべての人々がその仕事量に圧倒されていた、という事実にしっかりとした重みづけをしなければなりません。協会の誰もが、少しでも自由な時間があれば、これらの企てに引き込まれなければなりませんでした。良くも悪くも、それによって協会の中に一定の官僚的な精神が湧き出してくることになったのです。
 これらの取り組みの中に「社会有機体の三分節化のための組合」がありました。1919年の設立直後から1人の理事がいましたが、私はしばらくの間、その組合とともに働いた後、もうやっていけない、手を引かざるを得ない、と言うしかありませんでした。この前、シュツットガルトでお話ししたように、私は袂を分かたざるを得ず、もう続けられないと宣言するしかなかったのです。
 その後、別の理事が、優秀な人間ですが、仕事を引き継ぎました。私は数週間の間、シュツットガルトに赴くことができなかったのですが、ようやくたどり着いたとき、そこで起こっていることを知って不安になりました。そこには処置を待つ多くのことがらがあったので、会議が持たれ、そこで何が行われてきたのかを知らされました。私が告げられたのは、「実は、私たちはカードファイルを作っていました。小さなカードの右下の部分には小さめの新聞記事をクリップするようになっています。これらはキャビネットの中にファイルしています。それから、しっかりした紙で作った大きめのカードがありますが、これには長めの雑誌の記事を着けるようになっています。それから、送られてきた手紙類をファイルするために、もっと別の大きさのカードがあります。」というようなことですが、これがいつまでも続くのです。カードファイルをどうやって作ったのか、そのために人々が何週間にも渡っていかに献身と犠牲の精神をもって働いてきたか、その内容とはどのようなものだったのか、あらゆるものがいかにきちんとそれにしまわれるようになったか、というようなことについての説明に何時間もが費やされたのです。そのとき、私は色々な種類のカードを収納するそのカードファイル、そして、協会の中で起こっていたあらゆることがらや私たちの敵たちがどうであったかということについてのそのすばらしい記録とを心に描いていました。あらゆるものがすばらしく記録されていたのです!これらのカードが何層にも積み上げられた巨大な山があったはずです。けれども、そこに座っている人たちは幽霊のように消えていました。カードファイルだけが現実だったのです。すべてが記録となっていたのです!
 私は、「よろしいですか、親愛なる友人の皆さん、皆さんはカードファイルの他に、頭もお持ちですね?私は皆さんのカードには全く興味がありません。興味があるのは皆さんの頭の中にあることだけです。」と言いました。
 私は批判しているのではなく、ただ報告しているだけだ、ということを皆さんには理解していただけると思います。と申しますのも、ファイルを整理していた人たちはその仕事の途方もない重圧に悲鳴を上げていたからです。けれども、他方、将来のすべてを包み込む理想への熱い思いに燃える心を持った若者たちがそこにやって来て、ひたすらカードファイルの話を聞かされると想像してみてください。私はファイルの必要がないとも価値がないとも言っているわけではありません。それらはすばらしく、決定的に重要だと言っているのです。とはいえ、ものごとはそのように行われるべきではありません。心に届くためには心が必要なのです。
 さて、このことはあらゆる不可能な状況を創り出しました。これらの問題とその他の多くの問題は、とうとう協会の再構築が考慮されるべきところにまで行き着いたのです。協会においては、そこで働き、個々人の特別な能力を最大限に生かし、発展し続けることができる雰囲気を見いだし、それを呼吸する機会を提供するためのチャンスが人類に対して与えられなければなりませんでした。これらは協会が直面していた全く基本的な課題だったのです。その活動を取り巻くあらゆる条件の完全なる見直しが示唆されたのですが、それが持つ途方もない活動の可能性は、今や若者が溢れるような内的な生命に満たされてそれにアプローチしてきた、という事実によって明らかになっています。けれども、相違点はどんどん大きくなりました。
 もちろん、年長のグループの中にも、カードファイルに全然興味がない(カードファイルを問題のアプローチ全体を示すものとして使うとすればですが)人たちがいました。これらの人たちの中の何人かは実際かなりの年輩だったのですが、それでも、それまでに徐々に必要なものとなっていたファイルのようなものには煩わされたくないと思っていたのです。1902年あるいは1903年といった早い時期に協会に入ってきた人たちで、若い人たちとは他の多くの点でも非常に異なっていたかも知れないけれども、協会の歴史とでも言えるようなものには全く興味がない協会員たちが確かにいたのです。
 ですから、準備会では、私たちはきわめて困難な課題に直面しました。不安という計りがたい重荷が魂を苦しめていたのです。
 とはいえ、それらの集まりについて今お話しする必要はないでしょう。それらの準備会の結果として召還された代表者会議が日曜日にシュツットガルトで開かれました。最初にやるべき仕事は、それまでの理事会、いわゆる9人委員会のメンバーたちの様々な理由によって組織された暫定運営委員会が人智学協会の過去と現在と未来について語るべきことを聞く、ということでした。次いで、ドイツとオーストリアの協会員たちが、彼らの代表団という資格で、ヒアリングの機会を与えられることになっていました。
そうですね、ものごとは計画通りに行きました。けれども、私は、最終的な決定へと導いたものについて簡単に描写するだけに留めるために、実質的に動議の嵐となってしまったものについてお話しするのは控えたいと思います。ある動議が取り上げられ、議事が再開するかしない内に、別の動議が2つも3つも議長席まで飛んで行くといった有様だったのです。それは嵐としか言いようがなく、その議論には際限がないように見えました。けれども、そのすべてはさておき、全くすばらしい話があった、透徹し、深く人智学的な話があった、ということを強調しておきたいと思います。アルベルト・シュテッフェン氏が語ったのはすばらしく心に響く深い言葉でした。ヴェルベック氏は、私たちの敵対者たちの分類について、そして、彼らの人智学協会やその他の文明社会との関係について、みごとに記述しました。ビュッヘンバッハー博士は、1917年頃以降に協会に加わった人々がそこで遭遇したものにどのように反応したかについて、生き生きとした説明を行いました。語られたことのすべてが必ずしも第一級のものではなく、それらの間にはいくつかの中間的な貢献があったという事実については、多分、沈黙を守っておくのが礼儀でしょう。けれども、最高の、すばらしい貢献が、私としては「その他の貢献」として言及しておきたいものの間に散見されたのです。それにも関わらず、日曜日が過ぎ、月曜日が過ぎ、火曜日が過ぎていきました。そして、火曜の夕方までには、もし、次の日が、つまり、最終日がそれに先立つ日々と何ら変わりがないものであったとしたら、代表団は来たときのままで帰ることになるだろうということがはっきりと分かるところにまで事態は来ていたのです。と申しますのも、すばらしいスピーチによる人智学的な内容への多くの貢献があったとはいえ、講堂に集まった多くの人たちの中に生きていたもののほとんど何一つとして本当には外に出てきていなかったからです。それは人間の集まりであり、発言はすべて現実を扱うものでしたが、それぞれの会合には生きた現実は存在せず、抽象だけがありました。つまり、それらは抽象性の中に生きる生命の古典的な例だったのです。火曜の夕方までには本当のカオスが支配するようになっていました。誰もが誰かを通り越して話していたのです。
 今や、私のために予定されていた火曜日の講義のすぐ後で、私自身の提案―そこで代表されていた人々の中に生きていたものに基づく提案を行う、ということを決定する以外の選択はありませんでした-そして、ドイツとオーストリアの協会のほとんどすべての会員が出席していました。けれども、そこにおいて現実的であったところのものに到達し、それをとりまとめる必要がありました。私は火曜日に、共同体形成について、つまり、それまで語られてきた多くのことがらによって求められていたテーマについてお話しすることになっていました。こうして、私は提案したのですが、私がお話ししたのは、いかに誰もが誰かを通り越して話し続けているか、そして、いかに語られることの何一つとして現状の下に横たわる現実を表面にもたらさないか、ということです。さし当たりその他の側面を横に置くならば、2種類の感情、2つの異なる観点、2組の意見を区別することができるでしょう。一つは、古い人智学協会やそれを擁護する理事会に代表されるようなもの、もう一つは、できるだけ正確に言えば、協会を代表する理事会が取る立場に本当には興味がない人たちから構成されるものです。この人たちは立派な人智学徒ですが、理事会の言うことには全く興味がありません。シュツットガルト会議での若い人たちによる貢献ほどすばらしいものを想像することはほとんどできません。彼らはエネルギーに満ちたすばらしい精神の反映だったのです。若者の魂が人智学の門前に熱烈に押し寄せたときの印象は高貴なものでした。しかし、ここでもまた、共同体としての協会やそれが代表するものへの関心は見られませんでした。
私たちはこのような現象を現実的なものとして捉え、事実として見ることを学ばなければなりません。盲人のように振る舞ったり、それを見ないようにしたりしても何の役にも立ちません。私たちがこれら二つのタイプに向き合っている以上、合意に至ることについて抽象的な話をしても、それは偽りに過ぎない、と言わざるを得ませんでした。古い協会はそれ以外のものではあり得ず、もうひとつのグループもそうです。ですから、協会が全体として継続する最善の方法は、両派が各々の道を歩むということです。つまり、古い上流階級に属する人たち―と言うよりも、より古い協会のメンバーであって、歴史の重みを背負った人たちと呼びましょうか―によって一方のグループが形成され、嵐のように邁進する老若男女によって別のグループが形成される、ということです。
 人智学協会のための古い憲法草案がありますから、両派の人たちには一度勉強してみることをお勧めします!各派閥の人たちはその各条項を全く文字通りに実行できるかも知れませんが、その結果は双方で全く異なるものになるでしょう。現実の生活においては、ものごととはそのようなものなのです。理論的には、それらがどのように見えるとしてもです。
 ですから、私は、古い人智学協会はその9人委員会とともに継続する、ということを提案しました。私はものごとを以下のような方法で特徴づけました。私が申し上げたのは、古い協会に属するシュツットガルトの卓越した協会員たちは模範的な仕方で彼らの個別の企てを進めながら、途方もなく多くの働きを行っている、ということです。実際、彼らの顕著な特質の一つは、4日間の会議の中で示されたように、以前の仕事から持ち込んできた「疲労」だったのです。私は、シュツットガルトに来て、何かする必要があるときには、ボタンをひとつ押しさえすればよい、と言いました。ここ何年かの状況はそのようなものだったのです。シュツットガルトにおけるこれらの指導的な人物たちはとても洞察力に富んでいます。彼らは、人が多くを語らなくても、すべてを直ちに把握します。何もかも長々と議論するための十分な時間は決してないでしょう。電光石火の把握力があり、そのことに少し触れるだけで、彼らにはすべてが完全に明らかとなります。しかし、彼らはそれについて、大方のところ、何も行いません。そして、もう一つのグループです。彼らは人智学的な魂に溢れ、心から人智学に浸っています。このグループの指導者たちに対しても何かを言うことができるでしょう。彼らは私の言うことを何一つ理解しませんが、言われた瞬間にそれを行います。これは途方もない違いです。最初のグループは直ちに理解しますが、何もしません。第2の範疇に属するグループは何も理解しません。彼らは、いつかすべてを理解します、と約束するだけです。彼らはエネルギーと感情に満ちていますが、ものごとを直ちに行います。彼らは何でも理解することなく行うのです。
 ですから、協会には、たとえ統合されたままであったとしても、全く性格が異なる2つのグループが存在せざるを得なくなるでしょう。一方のグループが別のグループの働きに介入することは決して許されないでしょう。まず一つのグループがありますが―何か名前をつける必要がありますね、何という名前にしましょうか?もちろん、言葉だけの問題に過ぎませんが、保守的で伝統的な派閥、きっちりとファイルされたメンバーたち(この言葉はファイルされたカードに限ったものではありません)、象牙のイスを占める派閥とでも呼びましょうか。この派閥の人たちは、会長、副会長、等々の肩書きを持ち、協会を運営します。彼らはそこに座り、いつもの手順にしたがって、あらゆることに取り組みます。聴衆の中に私を意味ありげに見ている人がいますが、彼は、私がまだシュツットガルトにいたとき、そのようなルーチンワークがときとしてどのような結果になるかを私に伝える立場にいた人です。例えば、21マルク程度の額面の請求書が発送され、その送料として150マルクかかりました。この頃では外国郵便にはその程度のコストがかかるのです。150マルクです。確かに21マルク入金されました、と誰かに書き送るとしたら、正しく150マルクかかります。秩序正しいABC体制下では、ものごとはそのようになっているのです。ですから、そこにいるのはルーチンワーク派であり、古い人智学協会です。人はそれに属し、立派なメンバーになることができます。次に、そんなことには全く無頓着な個々人からなる自由な組合があります。彼らはただ人間的な要素に基づく緩やかな連合を欲しているだけなのです。今や、これら2つの流れがあることが認識されなければなりません。
 私はこのことについての簡単なスケッチ、単なる示唆から始めました。それは起こり得る最悪の事態である、何故なら、それは協会を2つに分裂させるかも知れないから、というとを主張する話が同じ夜に行われました。しかし、ここでもまた、共同体としての協会とは何か、それは何のためにあるのか、というようなことに対する興味は示されませんでした。けれども、現実はそのような状況だったのです!もし、人々の考え方にではなく、現実に即した行動を取るとすれば―と申しますのも、彼らの考えることが彼らの置かれた現実よりも重要であることは滅多になかったからですが―示唆されたような行動しかあり得ませんでした。何故なら、それがその現実に適合したものであったからです。お話ししましたように、直ちにその話がなされ、何かその種のことが必要であるとか、その他のことが明らかになるとすれば、恐ろしい結果がもたらされるだろうという警告がなされました。
 その結果、外的かつ純粋に空間的な意味でも、大混乱となったのです。場内は人々が寄り集まってできたグループで一杯になり、その間を押しのけて進む余地もないほどでした。そして、彼らは皆、私を呼び止めて、あれはどういう意味だ、これはどういう意味だと聞きます。私が会議場を出ようとしていた火曜日の夜11時までには、状況は内的なカオスから外的なカオスになっていました。
 私は宿舎に着いたとき、かなり疲れていました。誰かが私を連れ戻しに来たのは午前0時でした。私はとても眠りにつくどころではなかったのです。誰かが来て、ラントハウス通りで会合が持たれていると言いました。その会合が行われている階に行く途中で再び呼び止められ、平行して行われていた会合に引っ張り込まれたために、目的地に着いたときには、ほとんど翌朝の1時になっていました。けれども、そこで直ちに明らかになったのは、結局、私の提案は正しく理解されている、全く正しく理解されている、ということでした。今や、その詳細について、有益な議論をすることができるようになっていました。提案に基づいて何かを行うことが本当に可能になった、ということが明らかになっていたのです。
 ある疑問が表明されましたが、それは全く当然の疑問でした。例えば、若い人たちに共感して、その目的に沿って進みたいと思いながらも、歴史的には古い協会に属し、そこで働き続けるために、そこでの地位を保持したいと思っている協会員たちがいる、というようなことが話されました。
 私は、それは容易に解決できるだろう、と言いました。両方の派閥に加わる人たちの場合、唯一の問題は、どちらかの会費だけを払うように配慮する、ということです。そうするための何らかの技術的な方法を考えることは確かにできるでしょう。一方の派閥のメンバーであるからといって、もう一方の派閥から排除されるというようなことがあってはなりません。その種のことがらすべてに関して、私たちはただ現実の状況が認識される機会が与えられるように配慮すべきなのです。
 私は続けて、様々な企業体もまた両方の方向性を受け入れることができる、と言いました。あるウォルドルフ学校教師が緩やかな連合体に惹かれ、それに参加する一方で、別の教師はより緊密に組織されたグループに共感し、それに加わる、というような可能性については、容易に思い描くことができます。もちろん、彼らはそれでも完全に調和した精神の下で、ウォルドルフ学校において共に働くことになるでしょう。
 昨日、あちこちの協会の支部活動はどのような影響を受けるだろうか、という疑問が何人かの人たちから示されました。私は、両方のグループの支持者たちが各支部集会に同席することができないなどということがあるだろうか、と問いました。けれども、内的な現実に対してはいつでもその生命を全うする機会が与えられなければなりません。何かが現実的な精神において思い描かれるとき、それを仕上げる方法はいつでも存在しており、それによって統一が生み出されます。
若者たちにとって、何が本質的であるかが明確になるのに2時15分までしかかかりませんでしたが、その中には、ほぼ数十年に渡る期間を振り返ることができる何人かの頭が白くなった若者たちが含まれていました。その提案はうまく機能するだろう、ということが明らかになったのは火曜日の夜が水曜日の朝になる頃でした。
 水曜日はこれらの計画を議論するのに費やされ、それらの採択を見たのは水曜日の夜でした。皆さんにはその概要だけをお話しした後、その報告についての補足的なコメントをいくつか付け加えたいと思います。
 ですから、今や、私たちには、お話ししたような9人委員会を擁する古い人智学協会と、もう一つのより緩やかでより自由な人智学協会が存在しています。後者のために奮闘中の会長は、人智学を世に出し、人間の内的な生活を深めるために働くことになります。
 明日と明後日は、私がシュツットガルトで行った2つの講義の最も重要な側面についてふり返る予定です。それらは人智学協会における活動に密接に結びついたものでした。と申しますのも、最初の講義は共同体形成に関するものであり、次が友愛に基づく協会が何故いさかいに陥りやすいかに関するものであったからです。
 緩やかな連合体のための準備委員会が組織されました。その委員会は、ラインハス氏、レーア氏、レーシュル博士、マイコウスキー氏、ビュッヘンバッハー博士、ラース氏、フォン・グロウン氏、ブレスローのバルチュ司祭、それに、シュレーダー氏から構成されています。皆さんお気づきのように、全員が非常に若いというわけではありません。権威ある総主教も中に含まれています。ですから、若者の急進性だけが代表的な立場ではないのですが、それは確実に感じ取られることになるでしょう。
 以上のようなわけですから、今は、正しくそれらをやり遂げることだけです。緩やかな連合体は、特に、より小さく、より親密な共同体の形成に取りかかりました。それは、大きなスケールでは顕教的に人智学のために働く一方、外的な組織体系という設定によってではなく、内的でカルマ的な結びつきによる共同体を形成しながら、小さなスケールで秘教的に働くためです。
 ですから、これら2つの集団というのが私たちの結論でした。明日と明後日には、それらについてさらに何らかのことをお話ししたいと思います。そのような展開が本当に必要だったのです!生きているものは何であれ、古い形態、予想通りの形態に収まろうとはしないものです。段取りは生きているものに適応しながら、変化しなければなりません。
 皆さんは、私がシュツットガルトを離れるとき、協会の問題は全体として、本当は仕立ての問題である、と言ったのを覚えておられるでしょう。人智学は成長し、その洋服である人智学協会は―と申しますのも、協会は徐々にそのようになってきたからですが―小さくなってきたのです。袖は肘まで届かず、ズボンは膝まで届きません。私は類比に精を出すつもりはありませんが、その洋服は不格好になったのです。最近協会に加わった人で健全な心を持った人にとって、誰の目にもそれは明らかでした。
さて、私たちは、古い洋服をバラバラにするよりも―と申しますのも、それは確実に裂けるはずだからですが―新しく、もっとフィットした衣服を作る、というこの努力がうまく行くかどうかを見なければならなりません。それはそれを行う内的な能力を確実に有しています。私たちは人々がこのような働き方をする上でどうしても必要な力を発達させるかどうかを見なければならないでしょう。現実の生活は理論上の可能性とは非常に異なる可能性を提供しますが、それはこの場合にも当てはまります。私たちは生命の試験に本当に耐えられるものを創造しなければなりません。
 さて、フォン・グロウン氏ですが、彼は両方の委員会、自由な委員会とより緊密に組織された委員会のメンバーであり、両方に奉仕することになります。誰もが自分のやり方で、あるいは長老として、あるいは若い情熱家として、その機能を果たすことが許されるようになれば、ものごとは最高にうまく行くはずです。そして、もし、誰かが一度に両方であることを欲するとしても、双頭の生き物である必要はないのではないでしょうか?人々のエネルギーが自由に発展することができるということが決定的に重要なことなのです。
 もちろん、うまく行かないこともあるでしょう。そのような状況の一つとして私が聞いたのは、かつてある集会の議長が誰かに発言の機会を与え、その人が燃えるような演説を開始したところで、別の人が同時に話し始める、という驚くべき経験をしたというようなことです。議長が、「皆さん、こんなことがあってよいでしょうか!」と言ったところ、返ってきた答えは、「どうしてですか?私たちはここで自由の哲学を生きようとしているのです。たった一人だけに喋らせることで、他の人の自由が制限されてもいいのですか?どうして何人かが同時に喋ることができないのですか?」というものでした。うまく行かないこともある、ということに皆さんは同意されるでしょう。けれども、幸いなことに、そのようなことはいつも取り立てて要求されるわけではありません。
 私としては、ものごとは再びしばらくの間はうまく行くようになる、と信じています。けれども、いつまでもというわけではありません。何ごとも永久にうまく行くように設定することはできません。私たちは、時間の経過とともに、人智学的有機体のために新しい衣服を設える必要に直面することになるでしょう。とはいえ、人間であれば誰でもその運命を共有しています。誰も古い衣服を着続けることはできません。組織というものは、実際には、何らかの生きた要素にとっての衣服以上のものではあり得ません。何故、社会有機体だけを特別扱いして、それらを永遠に向けて仕立てようとするのでしょうか?生きているものは何であれ、変化を被らなければなりません。そして、変化するものだけが生きているのです。ですから、人智学運動のように特に生命に溢れているものの場合、私たちが形成しなければならないのは生命に適った組織なのです。もちろん、毎日のように組織を見直すことはできませんが、2年に1度くらいはそうする必要が確かにあるでしょう。そうでなければ、指導者たちのイスは本当に象牙のイスになってしまうでしょう。そして、象牙のイスに座る専門の人たちが出てくれば、そこに座れない人たちがむずむずし始めます。私たちは象牙のイスに座る人たちにもむずむずしてもらう方法を見つけなければなりません。言い換えれば、これらのイスを少し動揺させ始めるのです。けれども、もし、私たちがものごとを正しくアレンジする方法を見つけ出すならば、何ごともすばらしくうまく行くことでしょう。
 親愛なる友人の皆さん、私の意図は皆さんに報告するということでした。私は確かにそれを冗談めかして言うようなことであると感じていたわけではありませんが、現実の生活におけるものごとの中には、ときとして正にユーモアとしての取り扱いに最も適しているものがあるのです。