ルドルフ・シュタイナー

人智学的共同体形成 (GA257)

第9講

ドルナハ、1923年3月3日

佐々木義之 訳


 昨日は、シュテュットガルトで起こったできごとについて、一種の報告に取りかかりましたが、引き続き、そこで私が行った講義の内容について、何らかのことがらをお伝えしたいと思います。ですから、今日は、それについてのお話しをして、明日は、昨日の報告を補足するために、さらなるコメントをつけ加えるようにしたいと思います。
 火曜日に行われた最初の講義は、それまでに生じつつあった全く明確な必要性、日曜日、月曜日、そして火曜日の議論を通して明らかに感じ取られるようになってきた必要性に対する答えとして考えられたものでした。つまり、それらの必要性が皆さんのために記述されたのは、少なくともそこで卓越していた雰囲気を代表する立場からだったのです。私が言うところの必要性とは、共同体を形成するために必要不可欠な条件を概観する、ということでした。近年、人智学の枠組みの中で働く人たちによる共同体形成は協会の中で重要な役割を果たしてきました。特に、若い人たちは―とはいえ、他のより年長の人たちもそうですが―今日の社会秩序の中での生活では得られないような型の経験を共有できるような仲間に出会う、という切実なあこがれをもって協会に入ってきています。このようなことを申し上げるのは、私たちの時代の多くの人々によって感じ取られている全く理解可能なあこがれに対して注意を喚起するためです。
 意識魂の時代が始まったことの結果として、古い社会的な絆は、その純粋に人間的な内容や力を失いました。人々はかつて何らかの特定の共同体へと成長していたのです。彼らは隠遁者になることなく、何らかの全く特定の共同体やその他のものへと成長しました。彼らは家族、職業集団、一定の身分というような共同体へと成長したのです。最近では、彼らは私たちが社会的な階級等々と呼ぶような共同体へと成長しています。
 このような様々な共同体は、いつの時代にも、各個人が自分では担うことができないようなある種の責任を彼のために担ってきました。
 近代における人々が感じてきた最も強い結びつきのひとつは階級です。古い社会的な組分け、つまり身分、国籍、あるいは人種といったものでさえ、ある一定の階級に所属しているという感覚に道を譲りました。この傾向は、ある一定の階級―いわゆる上流階級あるいはエリート、市民階級(ブルジョア)、労働者階級―に属する人たちが連携するところにまで来ています。こうして、階級に基づく共同体は国籍や人種でさえ超越するようになりました。そして、現代の国際的な社会生活の中で目撃される要因のかなりの部分はこれらの階級的な共同体へと帰結することができます。
 けれども、15世紀の初頭に始まり、次第に前面に出てきたところの意識魂の時代は人間の魂の中でますます切迫する激しさをもって感じられるようになりました。そのため、人々は、もはや階級的な共同体の中には単なる個人的な存在性を越えていくところの何かへと彼らをもたらすことができるようないかなる要因も見出すことができない、と感じるようになったのです。一方で、現代人は強い個の感覚を有し、彼の個人的な思考や感情へのいかなる介入に対しても我慢することができません。彼は一人の人間として認めてもらいたいのです。そのことはある根本的な原因へと遡ります。昨日の言い方をもう一度用いるならば、カリ・ユガが終わって以来―あるいは、別の言い方をすれば、この世紀が始まって以来―、たとえいかに無意識的なものであろうとも、現代人の魂の中で何かが掻き立てられている、そして、それは「私は個人として区別されたい」という言葉で表現することができる、と言うことができるでしょう。もちろん、誰もがそれをそのように定式化できるわけではありません。そのことは多くの種類の不満や心理的な不安定性として表れます。けれども、その下に横たわっているのは、個人として区別されたい、という欲求なのです。
 けれども、本当のところは、誰も他の人間たちなしに地上でやっていくことはできない、ということなのです。歴史的な絆、例えば、労働者階級をひとつにしているような階級的な結びつきは、一方で、個人として区別されたいという願いを満足させ、他方で、個々の人間をその仲間の人間たちと結びつけるところのいかなるものも提供しません。現代人は、彼の中の純粋に人間的な要素によって、他の人間たちの中のその要素に関連づけられたい、と思っているのです。彼は社会的な結びつきを本当に望んでいるのですが、ただ、それが個人的な友情の中で経験されるような個別的な特徴を持った結びつきであることを願っているのです。
 現代生活において人間たちの間で演じられる無数のことがらは、そのような人間的な共同体への渇望にまで辿ることができます。少し前に、キリスト教の改新を生じさせることを願う若者たちのグループが私のところにやってきたとき、それは全く明白でした。彼らは、そのような改新が達成されるのは、人智学が具体的に示したような意味で、キリスト衝動を本当に生き生きとしたものにするときだけである、と信じていたのです。若い神学者たちの中の何人かはその教程をちょうど終えたばかりで、牧師としての務めを引き受けようとしており、別の何人かはまだ学んでいるところでしたが、彼らによって感じ取られていたそのあこがれこそが、私たちの協会からごく最近になって芽生えてきたもの、つまり宗教改新運動を産み出した要因だったのです。
 今や、この宗教改新運動のために全く様々なことがなされなければなりませんでした。最初の関心事は、現代に適した方法でキリスト衝動に生をもたらす、ということでした。これを行うことは、私がしばしば強調してきたこと、すなわち、キリストはキリスト教の時代の初めに人間の魂に語りかけただけでなく、「私はいつでもあなた方と共にいる、地球が終わるそのときまで」と彼が言ったときに約束したことを遂行してきたのだ、という事実を本当に真摯に取り上げることを意味しています。これは、魂が望むときにはいつでも彼の言葉を聞くことができる、キリストの顕現は生じ続けているのだ、ということを意味しています。筆記された福音書からキリスト衝動の直接的で生きた顕現への現在進行形の進展がなければなりませんでした。それが、宗教を改新する、という使命の一つの側面だったのです。
 別の側面とは、私が、宗教の改新は共同体を存在へともたらさなければならない、それは宗教的な共同体を構築しなければならないのだ、と言うことによって同時に特徴づけられなければならなかったような側面です。かつて、共同体は個人に知識を身につけさせていました。彼はその知識によって何らかのことを自分で行うことができました。けれども、その精神的な世界についての直接的な経験、そして、それは思考というよりも、感情に基づくものであり、本質的に宗教的なものなのですが、そのような神的なものとしての精神的な世界の経験は、共同体を形成することによってのみ見出され得るものなのです。ですから、お話ししましたように、健全な共同体の構築と健全な宗教生活の発展は手を携えて進むべきものなのです。
 この宗教改新運動の立ち上げに取りかかった人物たちは、当初、すべてプロテスタントの神学者たちでした。私が彼らに注意を促したのは、プロテスタントの諸宗派は近年ますます儀式を軽視し、説教に重きを置くようになってきているという事実に対してです。しかし、説教には共同体をバラバラにする効果があるのです。精神世界の知識を伝えることが目的の説教はそれぞれの魂に自分自身の意見を形成するように促します。この事実は、使徒信条すなわち信仰告白に対する、現代における、つまり、誰もが自分自身の信条だけを認めようとする時代における、特に明白な敵対心の中に反映されています。このことは集会をバラバラにし、粉々に吹き飛ばす、という結果へと導いたのですが、それによって、宗教的な要素が個人に向けて集中される、という結果がもたらされました。
 このことは、もし、真の共同体を構築するという新たな可能性が存在しないとすれば、次第に社会秩序という魂の要素の解消を生じさせることになるでしょう。けれども、真の共同体形成は、精神世界の新たな顕現から導かれる礼拝の産物でしかあり得ません。ですから、今、宗教改新運動の中で用いられるところの礼拝が導入されることになったのです。それは人類の歴史的な進化を十分に考慮したものとなっているのですが、そのことによって、それは、多くの細部の一つ一つだけではなく、その全体としての側面においても、その歴史的な要素を前進させるものであることを示しています。けれども、その各々の側面はまた、精神的な世界が今ようやく人間の高次の意識に向けて新たに顕現し始めた、という印をも担っているのです。
 礼拝はそれを執り行うために集まった人々をひとつに結びつけます。それは共同体を創出するのですが、シュテュットガルトにおける討議の過程でリッテルマイヤー博士が適切に述べたように、礼拝が持つ共同体を形成する力という点で、宗教改新運動は人智学協会にとって大いなる脅威―おそらく、非常に深刻な脅威−となり得るのです。彼は、そのように述べたとき、何を示唆していたのでしょうか?彼は、多くの人が、自由な共同体を経験しつつ、他の人々との結びつきを見出したい、という願いをもって協会にアプローチしているという事実に注意するよう呼びかけていたのです。そのような共同体生活は宗教改新運動の中で達成され、共同体生活へのあこがれを持つ人々はその中でそれを満足させることができます。そして、それは礼拝によって醸し出される宗教的な色合いを持った共同体生活です。ですから、協会が危機に陥れられるべきでないとしたら、共同体を形成する要素を育成することも重視しなければなりません。
 さて、このことによって、協会の発展におけるごく最近のフェーズの中でも最も重要な事実に対する注意を喚起されることになりました。それによって指摘されたのは、人智学徒は共同体形成についての理解を達成しなければならない、ということです。宗教改新運動の中で達成される共同体形成は現に存在している唯一の種類のものなのか、あるいは、人智学協会の中で同様の目的を達成するという別の可能性があるのか、という問いに対する答えが見出されなければなりません。
 この問いに答えることができるのは明らかに共同体形成の本質を研究することによってのみです。
 けれども、共同体を形成しようとするあの衝動、現代人が感じ、礼拝が満足させることができるあの衝動は強力なものではありますが、唯一のものではありません。さらに別の衝動があるのです。人間は誰でも両方の種類のあこがれを感じますが、最も望ましいのは、ひとりひとりの必要性が宗教改新運動の中だけではなく人智学協会の中でもかなえられる、ということです。
 何かを議論するときには、当然のことながら、それにアイデアの衣を纏わせなければなりません。しかし、私がそのような形で提示しようとしているのは、実際には、私たちの時代の人々の中では、感情のレベルに生きているのです。アイデアはものごとを明確にするための道具ですが、これから私がお話ししようとしていることがらは現代人が純粋に感情として経験するような何かなのです。
 私たちが地上での生活に乗り出す瞬間に出会う最初の種類の共同体形成は、私たちが全く当然のものとして捉え、感情の中で考えたり、推し量ったりすることが滅多にないようなものです。それは言語によって築かれる共同体です。私たちは小さな子供として母国語を話すことを学びますが、この母国語は特に強力な共同体形成の要因を提供するのです。何故なら、それは子供の経験へと入り込むのですが、それはその子のエーテル体がまだ彼の有機体のその他の部分に完全に統合されており、まだ明確に分化していない時期にその子によって吸収されるからです。このことは、母国語というものはその子の存在全体と完全に一体となって成長する、ということを意味しています。けれども、それはまた人間の集団が共有している要素でもあります。人々は共通の言語によって統合されていると感じるのですが、もし、私がしばしば言及することがら、つまり、精神的な存在は言語の中に体現するという事実、すなわち、言語の天才性というものは、学問のある人が考えるような抽象的なものではなく、現実的な精神的存在である、ということを思い出していただけるならば、共通の言語に基づく共同体の存在はそのメンバーたちが言葉という真の天才の存在を感じ取っているという事実に依存している、ということが分かるでしょう。彼らは精神的な存在の翼の下で庇護されていると感じているのです。共同体が形成されるところではどこであれ、そうなのです。
 すべての共同体形成は、結局のところ、精神の世界から降りてきた、より高次の存在、共通の根拠によって集まってきた人々を結びつけ、それに浸透するところの存在に行き着くのです。
 とはいえ、グループが集まるときに出現し、共同体を際だった形で創出することができる別の個別的な要素も存在しています。共通の言語が人々を結びつけるのは、ある人が話している内容がそれを聞いている人たちの中に生きることができるからです。つまり、それらの人々はそのようにして同じ内容を共有するのです。さて、ここで、次のように想像してみましょう。これは起こり得ることであって、実際、よく起こることなのですが、子供時代や低学年の頃を共に過ごした一定の数の人々が、例えば30年後に再会するとしましょう。40才台か50才台の人たちからなるこの小さなグループはその中の誰もが同じ学校や同じ地域で子供時代を過ごしました。そして、そこで子供としての、あるいは若者としての共通の経験についての話しが始まります。彼らの中で何か特別なものが生きるようになるのですが、それは共通の言語によって形成される共同体とは全く異なる種類の共同体を生み出します。同じ言葉を喋るグループの場合、その中の人たちが会合や話し合いの過程でお互いに理解していると感じるようになるとしても、そのお互いの所属意識は、共通の記憶を分かち合っていることによって魂の奥底が掻き立てられるときに感じるそれに比べて、比較的表面的なものです。後者の場合、あらゆる言葉には特別な色合い、特別な香りがありますが、それは人がそれによって共通の若い時代や子供時代へと連れ戻されるからです。そのような共通の経験をするときの人々を結びつけるものは、彼らの魂生活の深層にまで至るものです。人はこの基盤の上で一緒になる人々とその存在の深いところで関係づけられていると感じるのです。
 この関係性の基盤とは何なのでしょうか?それは記憶−幼い日々を共に過ごした経験についての記憶−から構成されています。人は、こうして再び一緒になった他の人々とかつて共に過ごしたところの失われた世界へと移されたように感じるのです。
 このことは礼拝の本質を的確に記述する地上的な状況を示しています。と申しますのも、礼拝によって何が意図されているのでしょうか?その手段が言葉であろうと所作であろうと、それは、私たちを取り巻く自然が超感覚的、精神的な世界の像を物理的な世界に投影しているのとは全く異なる意味で、それをその中に投影しているのです。外的な世界の中のあらゆる植物、あらゆるプロセスもまた、当然のことながら、何か精神的なものの像なのですが、正しく提示された礼拝の言語的、様式的な側面がそうであるような直接的な意味において、そうであるわけではありません。礼拝における言葉や所作は、超感覚的な世界をその全く直接的な意味で伝えています。礼拝は超感覚的な世界がその中に直接顕現させられるような仕方で言葉を話すことや、超感覚的な世界の力が伝えられるような仕方で所作を行うことに基づいているのです。礼拝の儀式においては、その儀式的な行為を物理的に眺める目が見ているところのものだけに限定されないような何かがそこで生じています。つまり、どちらかというと精神的、超感覚的な本性の力が通常の物理的な力に浸透している、というのが実際のところなのです。超感覚的なできごとがそれを描き出す物理的な行為の中で生じるのです。
 こうして、人間は、物理的に知覚可能な儀式の言葉や所作によって、精神的な世界に直接結びつけられます。その言葉や所作は、正しく提示されるならば、そこから私たち人間が地上に降りてきたところの前地上的な世界に対応する世界を私たちの物理平面上での経験へともたらすのです。ちょうど、子供時代を共にした40才台、50才台の人たちが再び集まるとき、その時代に連れ戻されたように感じるのと同じ意味で、人は、真正なる礼拝のために他の人たちの列に加わるとき、地上に降りてくる前に彼らと共にした世界に連れ戻されたように感じます。彼はそのことに気づかず、それは意識下の経験に留まりますが、正にそれだけよけいに、それは彼の感情生活にまで貫き至るのです。礼拝はそのような意図を持って構成されます。それは、人間の前地上的な生活についての、つまり、地上に降りて来る前の人間存在としての記憶、あるいはイメージであるところの何かを彼に本当に経験をさせる、という観点から構成されるのです。礼拝に基づく集会のメンバーたちは、私が例示のためにお話ししたようなことがら、すなわち、人生の後半に集まって子供時代の記憶を交換するグループにおいて生じるようなことがらを特に切実に感じ取ります。つまり、彼らは、超感覚的な状態で共に過ごした世界に連れ戻されるように感じるのです。礼拝に基づく共同体によって創り出される結びつきはそのことによって説明できるのですが、それはそのような共同体が結びつきを生じさせ続けてきた理由でもありました。説教に重きを置くことでバラバラにする効果を有するのではなく、礼拝を強調するような宗教生活ということでは、礼拝は真の共同体あるいは集会の形成へと導くものとなるでしょう。いかなる宗教生活も共同体形成の要因なしに維持することはできません。その意味で、超感覚的なものに関する共通の記憶に基づく共同体はサクラメントの共同体でもあるのです。
 とはいえ、サクラメントあるいは礼拝に基づく共同体が今日あるような位置に留まり続けるならば、それがいかなる形態であれ、現代人の要求に応えることはできません。確かに、それは多くの人たちにとって受容できるものであるかも知れません。しかし、もし、礼拝を基礎とする集会が超感覚的な経験を共有することによって結ばれた共同体以上のものでないとすれば、それはその可能性を十分に発揮し―あるいは、これはもっと重要なことですが―その本当の目標に到達することはないでしょう。礼拝に説教を導入する必要性が増大したのはそのためです。現状では、プロテスタントの諸宗派が説教を取り入れていますが、問題は説教が有するバラバラにする傾向が非常に顕著になっていることです。それは、第五後アトランティス期における意識魂の発達からくる本当の必要性が考慮されていないことによります。より古い形態の告白の中での説教の概念は第四後アトランティス期の必要性に基づくものなのです。これらの古い教会の中では、説教は悟性魂の発達期に卓越していた世界観に合致したものとなっています。それらはもはや現代の意識魂には適合していません。プロテスタント教会が人間的な意見、意識的な人間の理解に向けてよりアピールするような提示の形態を取るようになったのはそのためです。
 もちろん、そうなったのには十分な理由があるのですが、他方で、それを行うための本当に正しいやり方はまだ見出されていないのです。礼拝に含まれる説教は不釣り合いなものです。それは礼拝から認識の方向に道を外れさせます。けれども、現在進行形の人間進化の過程において説教が取ってきた形態の中では、この問題は十分に認識されてきませんでした。そのことは、皆さんにある事実を思い起こしていただければ、直ちに明らかになるでしょう。皆さんは、最近の説教の中から聖書の言葉から取られていないものを除くとき、いかに何も残っていないかがお分かりでしょう。ほとんどの場合、日曜日の説教や特別の機会に提供される説教では、その題目としていくつかの聖書からの引用が用いられるのですが、それは現時点でも手に入るような新鮮で生きた顕現が拒絶されているからです。歴史的な伝統だけが、頼ることができる源泉として残されたのです。言い換えれば、より個人的な説教の形態が追求されてはいるけれども、それに対する鍵はまだ見出されていない、ということです。ですから、説教は単なる意見、個人的な意見として終わってしまい、バラバラにする効果を持つことになるのです。
 ところで、最近設立された宗教改新運動は、本質的には人智学的な基礎の上に打ち立てられたものですが、もし、それが新鮮な現在進行形の顕現、すなわち超感覚的な世界についての生き生きとした精神的経験に立ち向かうのであれば、何かさらなるものが必要である、ということをそれに認識させるのは正にその説教の要素なのです。この何かとは、精神的な世界についての新鮮で現在進行形の生きた認識を可能にするもの、つまり、人智学的な精神科学です。このことは、いつの時代でも、現在進行形の生きた人智学協会が提供するものを宗教改新運動が受け取るための窓となるべきものとは説教である、と言うことによって表現することができるかも知れません。けれども、ゲーテアヌムがまだ無傷であったとき、そこで行われた前回の講義の中でもお話ししたように、宗教改新運動が発展していくためには、人智学協会が可能な限り生き生きとした仕方でその傍らに立ち、人智学の生き生きとした生命のすべてが、多くの人間を通して、そこに流れ込んでいなければなりません。もし、人智学的な認識が真に生きた要素となっている少なくとも何人かの人たちが宗教改新運動の傍らに立っていなかったとすれば、それはすぐに涸れ果ててしまうでしょう。
 けれども、お話ししましたように、現在、多くの人たちが、単に抽象的な意味においてではなく、意識の時代におけるあこがれを満足させるような共同体への帰属という意味での人智学を求めて協会に入ってきています。協会もまた礼拝を採用すべきである、と言えるかも知れません。もちろん、それは可能でしょうが、その本来の領域からは外れてしまうでしょう。ですから、ここでは、共同体形成における真に人智学的な方法についての議論を続けたいと思います。
 現代の生活は、確かに、生まれる前の超感覚的な世界における経験についての共通の記憶に基づく共同体形成とは異なる共同体形成の要素を提供するはずです。私が思い描いているのは、意識の時代にとりわけ適合した形態で時代が必要としているところの要素です。
 この関連で指摘しておかなければならないことは、私たちの時代のほとんどの人たちが全く気づかずに通り過ぎているようなことがらです。
 理想主義については、確かに、いつの時代にも語られて来ました。しかし、今日、理想主義について語られるときには、たとえ善意の気持ちからであったとしても、そのような話が空虚な言葉以上のものになることはありません。と申しますのも、私たちの時代とは、文明世界全体を通して、知的な要素や力がとりわけ強く前面に出て来た結果、全人とは何かについての理解に欠けた時代だからです。その理解に対するあこがれは特に現代の若者たちの間に確かに存在しています。けれども、若者たちがそれについて考えるとき、その形態がはっきりしないものであること自体が、今日、人間の魂の中には何かが生きており、それはまだ全く自らを明確にしておらず、まだはっきりとしないものではあるが、だからこそそれはよけいに素朴なものとなるわけではないということを示しています。
 さて、どうか次のことに注意してください。宗教的な流れがまだ上昇しながら人々に向けて押し寄せていた時代に皆さんがいると想像してみてください。人類進化におけるあの過ぎ去った時代には、精神的な世界からのあれこれの伝言が、多くの人々によって、大いなる熱意をもって感知された、ということが分かるでしょう。実際、もし、これらの伝言の時代における魂たちが精神的な世界からの顕現に対して今日感じられるよりもはるかに大きな親和性を感じていなかったとしたら、今日に至るまで現存している信仰告白が人々を支える力を見出すことは全く不可能だったでしょう。今日の人々を見ますと、宗教的な真実についての伝言という性質をもつ何かによって夢中にさせられるという以前に起こっていたようなことを想像することはほとんどできません。もちろん、宗派は形成されますが、その中には、以前の伝言に対する人間の魂の燃えるような応答とは大いに異なる俗物的な特質があります。精神的なことがらに対する魂の内的な温もりと同様のものはもはや見出されません。それは19世紀の最後の三分の一に急速な減退を被りました。確かに、人々はまだ不満によってあれこれのことがらを聞いたり、あちこちの教会に加わったりするように駆り立てられます。けれども、人間の魂の中にかつて生きていた前向きな暖かさ、そして、それだけが各人に全身全霊をもって精神に仕えさせるようにしたものだったのですが、そのような暖かさはある種の冷めた、あるいは冷たいとさえ言えるような態度によって取って代わられました。この冷徹さが人間の魂の中にはっきりと現れるのは、彼らが理想や理想主義について語るときです。と申しますのも、今日の主な関心事とは、その成就のためにまだ長い道のりを行かなければならず、それにはまだ長い時間がかかるけれども、今日の多くの魂の中では既に大いに期待が高まっているような何かだからです。それについては次のように特徴づけることができます。
 誰にも馴染みがあるふたつの意識状態を取り上げてみましょう。夢を見ている人と通常の目覚めの意識にある人がいると想像してください。
 夢を見ている人の状態とはどのようなものでしょうか?それは眠っている人の状態と同じです。と申しますのも、私たちは夢のない眠りについて語るかも知れませんが、実際には、眠っている人はいつでも夢を見ており、その夢があまりにも微かなものであるために気づかれないだけだからです。
 繰り返しますが、夢を見ている人の状態とはどのようなものでしょうか?彼は彼自身の夢の像の世界に生きているのです。彼がその中に生きるとき、彼はそれが日常の目覚めの経験よりもはるかに生き生きとして、強く心を捉えられるものである―確かにそのように言うことができるでしょう―ということを見出します。けれども、彼はそれを完全な孤独の中で経験しています。それは純粋に彼の個人的な経験なのです。二人の人が一つの同じ部屋で眠っているとしても、彼らの夢の意識の中では、二つの全く異なる世界を経験しています。お互いの経験を共有することはできません。それぞれが自分自身の経験を有しており、彼らにできるのはせいぜい後になってそれについて語ることくらいです。
 人が目覚めて、その夢の意識と日常の意識とを交代させるとき、彼は周りの人が有するのと同じ周囲についての感覚知覚を有することになります。彼らは共通の場面を共有するのです。人が夢の世界を離れ、昼間の目覚めた意識状態に入っていくとき、共通の世界へと目覚めるのです。ある意識状態から別の意識状態へと彼を目覚めさせるものとは何でしょうか?昼間の目覚めた意識状態へと彼を目覚めさせるのは、光や音、そして自然の環境です。そして、彼にとっては、他の人々も同じ範疇に入ります。人は仲間の人間たちの自然の側面によって、つまり、彼らの話し方、彼らが彼らの思考や感情に言葉という衣を着せるその仕方によって夢から目覚めるのです。人は他の人々の自然としての振る舞い方によって目覚めさせられます。周囲の自然環境に存在するあらゆるものが通常の昼間の意識へと人を目覚めさせるのです。過去の時代においては、人々はずっと夢の状態から昼間の意識へと目覚めてきました。そして、それらの同じ周囲のものが、もし、人がそのように配慮されているならば、精神的な領域に入るための門を提供してきたのです。
 そして、意識魂が目覚め、発達するとともに、新しい要素が人間生活の中に現れました。それは二番目の種類の目覚めへと呼びかけるものであり、人類はその目覚めに対して、つまり、他の人間たちの魂や精神の手による目覚めに対して、ますますその必要を感じるようになるでしょう。通常の覚醒生活においては、他の人間たちの自然としての側面に出会うことによってのみ目覚めるのですが、意識の時代の中で独立し、個を確立した人は、仲間の人間の魂や精神に出会うことの中で目覚めることを求めます。彼はその人の魂や精神へと目覚めること、光や音、あるいはそのような周囲の要素が人を刺激して夢から目覚めさせるのと同じ意味で、彼自身の魂を刺激して目覚めさせるような仕方でその人に近づくことを欲するのです。
 その必要性は、二十世紀の初頭以来、絶対的に基本的なものとして感じられてきましたが、それはますます差し迫ったものとなるでしょう。二十世紀という時代の騒々しく混沌とした特質は生活や文明のあらゆる側面に影響を及ぼすでしょう。しかし、そのような特質にもかかわらず、その必要性はその時代全体を通して明らかなものとなるでしょう。人は単に周囲の自然との関係で目覚めることができるだけではなく、他の人との出会いの中でより十全たる目覚めへともたらされる必要を感じるようになるでしょう。夢の生活は自然という環境との出会いの中で昼間の意識へと目覚め、目覚めた昼間の意識は、仲間の人間の魂や精神との出会いの中で、より高次の意識へと目覚めます。人は、仲間の人間にとって、これまでよりもさらに意義あるものとなり、彼を目覚めさせるものとならなければなりません。人々は出会う人すべてを目覚めさせるように、お互いにこれまでよりもさらに接近しなければならないのです。今日の生活へと参入している現代人は、彼らが出会う一人一人の個人との運命的な結びつきを感じないわけにはいかないほど多くのカルマを蓄積してきました。以前の時代には、魂たちは比較的若く、それほど多くのカルマ的な結びつきは形成されていなかったのです。今や、自然によってのみ目覚めさせられるだけでなく、私たちがカルマ的に結びつけられ、探し求めたいと思っている人たちによって目覚めさせられる必要があります。
 ですから、私たちには感覚的な故郷を思い出すという必要、そして、それは儀式が満たしてくれるのですが、に加えて、さらに他の人間たちによって魂的−精神的な要素へと目覚めさせられる必要があるのです。そして、そのことを生じさせることができる感覚衝動とは、より新しい理想主義の衝動なのです。理想が単に抽象的なものであることをやめ、人間の魂や精神と再び結びつけられるようになるとき、それは次のような言葉で表現されるでしょう。「私は私の仲間の人間と出会うことによって目覚めたい。」
 この感覚は漠としたものではありますが、今日の若者たちの中で発展しつつあるものです。「私は私の仲間の人間によって目覚めたい。」というのは、人智学協会の中で育成され得る共同体の特別な形態です。それは全く当然の成り行きです。と申しますのも、人智学が明らかにする超感覚的なことがらを共に経験するために人々が集うとき、その経験は各人が一人で持つことができる経験とは全く異なるものだからです。他の人と共に過ごす間にその人の魂との出会いによって目覚めるという事実は、ある雰囲気を創り出します。その雰囲気は「より高次の世界の認識」の中で記述された方法と全く同じ方法で人を超感覚的な世界へと導くものではないかも知れませんが、人智学的な精神科学が超感覚的な領域から私たちにもたらす考えについての私たちの理解を深めるものなのです。
 人智学的な内容について声に出して読んだり、その他の方法で情報交換したりすることに基づく理想主義的な生活を共有する人たちの間には、ものごとについての異なった理解が存在しています。超感覚的なものを共に経験することを通して、一人の人間の魂は別の人間の魂との出会いの中で最も強く目覚めさせられます。その魂はより高次の洞察へと目覚めさせられるのですが、その心のあり方が、人智学的な考えを互いに伝えたり、経験したりする目的のために集まった人々の中に、真の共同体存在が降りてくるための状況を創り出します。ちょうど言葉の守り神がその言葉の中に生き、それを話す人たちの上にその翼を拡げるように、理想主義的で正しい心のあり方の中で人智学的な考え方を共に経験する人たちは、より高次の存在の翼による保護の中で生きることになります。
 その結果、何が生じるのでしょうか?
 もし、この線が(シュタイナー博士は黒板に線を引きます)超感覚的な世界と感覚的な世界の境界を表すものとすれば、その上側のこの場所には、礼拝の中で経験されるより高次の世界の過程や存在たちがいます。そして、それらは、礼拝における言葉や儀式的な所作によって、線の下側にあるこの物理世界の中へと投影されるのです。人智学的なグループの場合、物理平面上での経験は、本物の精神化された理想主義によって、精神的な世界へと引き上げられます。礼拝はその言葉と所作によって超感覚的なものを物理世界へと引き下ろしますが、人智学的なグループは集まった人々の思考や感情を超感覚的な世界へと上昇させるのです。そして、そこに集う人々の魂が互いに出会うことによって目覚め、人智学的な内容がその人たちの正しい心の持ち方によって経験されるとき、魂は本当に精神の共同体へと引き上げられるのです。このことについての気づきが本当に存在しているかどうかだけが問題なのです。それが存在し、この種のグループが人智学協会の中に現れるところでは、この逆転した礼拝、とでも呼びたいのですが、この礼拝の対極の中に最も力強い共同体形成の要素が存在しているのです。絵画的に記述するとすれば、次のように言うことができるでしょう。礼拝に基づく共同体は天国にいる天使を礼拝が行われている場所へと引き寄せ、集団の中に彼らが居るようにすることを目指すのに対して、人智学的な共同体は人間の魂を超感覚的な領域へと引き上げ、天使たちとの交わりの中に入っていくことを目指すと。いずれの場合にも、それによって共同体が形成されるのです。
 けれども、もし、人智学が精神的な世界に参入するための本当の手段として人の役に立つのであれば、それは単なる理論や抽象ではないはずです。私たちは単に精神的な存在たちについて語るだけではなく、それ以上のことをしなければなりません。つまり、彼らとの交わりを持つための最も手近な機会を見つけるべきなのです。人智学的なグループの仕事は、単にたくさんの人が集まって人智学的な考えについて議論する、ということではありません。そのメンバーたちがお互いの結びつきを強く感じ取ることによって、人間の魂が人間の魂との出会いの中で目覚め、すべての魂が精神的な世界へと、つまり、精神的な存在たちとの交わりへと高められるべきなのです。とはいえ、彼らを見るということが問題なのではありません。その経験を持つために彼らを見る必要はないのです。以上が共同体形成を正しく実践することを通して協会内に存在するようになったグループから生じ得るところの力を与える要素です。協会の内部に実際に存在しているいくつかのすばらしいことがらは、より一般的なものにならなければなりません。それは新しくメンバーになった人たちが求め続けてきたものです。彼らはそれを探し続けて来たのですが、見つけることができないでいるものです。彼らがその代わりに出会ったものとは、「もし、本当の人智学徒になりたいのであれば、輪廻転生やエーテル体といったようなものを信じなければならない」というような言葉だったのです。
 私の「神智学」のような本の読み方には二通りある、ということは何度も指摘してきました。ひとつは、「人は肉体、エーテル体、アストラル体等から成り、いくつもの地上生を送り、カルマを有する、等々」について読むやり方です。この種の読者は概念を取り込んでいるのです。もちろん、それらの概念は他の場所で見出されるのとはかなり異なったものですが、そのときの心的な経過は多くの点で料理の本を読むときに生じるものと同じです。私が言いたいのは、考えを吸収することが重要なのではなく、経過こそが重要である、ということです。皆さんが、「フライパンにバターを入れて、小麦粉と泡立てた卵を加え、等々」というようなことを読むのも、「物質、エーテル的な力、そして、アストラル的な力があり、それらは互いに貫通し合っている」というようなことを読むのも、何ら変わりはありません。そのときの魂的な経過という立場からは、バターと小麦粉と卵がストーブの上でかき混ぜられるのも、人間の実体を肉体とエーテル体とアストラル体が混合されたものと考えるのも全く同じことなのです。とはいえ、「神智学」における概念の通常の物理的な概念に対する関係は、通常の物理的な概念の世界の夢の世界に対する関係と同じであることに気づく、というような仕方でそれを読むこともできます。それらの概念は、ちょうど人が夢の世界から物理的な世界へと目覚めるように、通常の物理的な領域からそこへと目覚めるべき世界に属しているのです。それはものごとに正しい色合いを与える読み方の中で人が有する態度です。もちろん、その態度が現代人の中に生じ得る方法は様々です。それらの方法はすべて「より高次の世界の認識」の中に記されており、そこから選び取られるようになっています。けれども、現代人はまた、ちょうど夢の世界から光や音といった刺激を通して物理的な世界へと目覚めるように、仲間の人間の魂的−霊的な側面と出会うことによって精神的な世界に生きるようになるという中間的な段階―それは実際により高次の世界を眺めることとは異なります―を通過する必要があるのです。
 私たちはこのことを理解するところまで上昇しなければなりません。人智学協会の中で、人智学とはどのようなものであるべきかを理解するところまでいかなければならないのです。それは精神へと続く道でなければなりません。もし、そうなったなら、共同体形成がその結果として生じるでしょう。
 けれども、人智学は本当に生きたものに適用されなければなりません。親愛なる友人の皆さん、それが本質的なことなのです。手近な例によってそれがいかに本質的なことであるかを説明することができます。私たちはシュテュットガルトで大小の数の人たちと多くの比較的小規模な集会を開き、協会を強固なものにするためには何を為すべきかを議論したのですが、その後で、私は若者たちと一緒に集いました。私は昨日報告した集会に言及しているのではありません。その集会は後で開かれたものです。私がお話ししているのは事前の集会で、やはり夜開かれたものでした。そこにいた若い人たちはすべて学生でした。そうですね、最初に話し合われたのは、協会が正しく機能するためには何をどうすべきか、というようなことでした。けれども、しばらくして話し合いは人智学そのものへと移っていきました。私たちは直ちに正にその本質へと入っていったのです。何故なら、それらの若い男性や女性が、将来における学問の形態はどうあるべきか、あるいは博士論文の問題はどのように取り扱われるべきか、といった疑問を突き詰める必要を感じていたからです。それらの疑問に対して表面的な答えを出すことは不可能でした。私たちは正に人智学の中へと飛び込まなければならなかったのです。言い換えれば、私たちはありきたりな考察から出発して、直ちに人智学とその応用の問題、例えば、「人は人智学徒として博士論文の執筆にどう対処すべきか?化学のようなテーマをどのように追求すべきか?」というようなことがらへと入っていきました。人智学は生きたものを指向する、ということが自ずと証明されたのですが、それは、そのような考察が全くそれ自体でそれに導いていくからです。
 重要なのは、人智学は決して抽象的な学問に留まるべきではない、ということです。もちろん、どのようにして協会を設立するかを決定するために人々を招集し、人智学についての話し合いを追加項目として予定に入れる、というような仕方でものごとがアレンジされることもあり得ますが、それは皮相的なやり方です。そうではなく、私はむしろもっとはるかに内的なやり方、つまり、日常的な問題を考察することから、それらを解決するのを助けるためには人智学に頼らなければならない、というような洞察へと全く自然に導くようなやり方を示唆しているのです。生きたものに対するその活性化の影響を見ることができるのは、先に言及した例のように、協会の再構築についての議論が、全く有機的な必然性から、いかに人智学徒や科学的な俗物がそれぞれの立場から胎児の発達について考察しなければならないか、といった議論に移行する場合です。私たちは、「人智学協会」、「自由な精神生活のための協会」、等々を俗物的に1ページに登録することを定めた複式記入の簿記方式を実践するよりも、むしろそのようなことを実践すべきなのです。現実の生活は、たくさんの理論や抽象、そして、「人間は人間へと向かう道を人智学の中に見出す」というような一見人智学的な話をくどくどと続けることなしに進んでいくべきなのです。この種の抽象が役割を担うのを許してはいけません。そうではなく、具体的な人智学的アプローチによって、あらゆる関心事の中心へと真っ直ぐに導かれなければなりません。そのときには、「それは人智学的だ、非人智学的だ」といった言葉は滅多に聞かれません。実際、そのような場合には、「人智学」という言葉はほとんど使われないのです。私たちは熱狂的な話に対して防御を固める必要があります。
 親愛なる友人の皆さん、お分かりのように、これは皮相的なことがらではありません。前回のウィーン会議で、私は全く様々なテーマで12回の講義を行わなければなりませんでしたが、「人智学」という言葉を一度も使わない、という課題を自分に設定しました。そして、それはうまく行ったのです!この6月にウィーンで行われた12回の講義の中のどれひとつにも、「人智学」あるいは「人智学的な」という言葉は見出されないでしょう。実験は成功でした。確かに、誰でも、相手がミューラーさんという名前であるとか、その肩書きは何であるとかということに興味を持つことなしに、その人と知り合いになることができます。人は彼を正に彼として捉えるだけです。もし、私たちが人智学を生き生きと、それをそれとして、それがどういう名称であるかに特に注意を払うことなく捉えるとすれば、それは私たちが取るべき良い道筋でしょう。
 明日はこれらのことがらについてさらにお話しするとともに、報告の形で、さらなることがらを皆さんに提供したいと思います。