ルドルフ・シュタイナー

「魂生活の変容−経験の道」(第二巻)(GA59)

佐々木義之 訳

第1講「精神科学と言語」

1910年1月20日)


 人間が自分を表現する様々の仕方をここで使用されている意味での精神科学の観点から観察するのは何か興味深いことです。と申しますのも、私たちがこの連続講義の中で行ってきたように、いわば人生に様々の側からアプローチし、その様々の側面を観察することでそれについてのある包括的な見方が獲得され得るからです。今日は言語の中に明瞭に示されるところのあの人間精神の普遍的な表現を取り上げましょう。そして次回は、「笑うことと泣くこと」という題名の下に、言語に関連しているけれども、とはいえそれとは基本的に異なる人間表現のいわばバリエーションを見ることにしましょう。

 私たちが人間の言語についてお話しするとき、私たちはいかに人間のすべての意義、尊厳、そもそもその人間全体が、私たちが言語と呼ぶところのものと関連しているかを十分に感じます。私たちの最奥の存在、私たちのすべての思考、感情そして意志の衝動が私たちの仲間の人間へと流れ出ていくとき、それらは言語を通して私たちを彼らに結びつけるのです。このようにして、私たちは私たちの存在が無限に拡張する可能性、言語を通して私たちの存在を私たちの環境の中へと延ばす能力を感じます。一方、意義深い人物たちの内的な生活の中に入ることができる人であれば誰でも、いかに言語が暴君に、つまり私たちの内的な生活を圧倒する力になり得るかを感じることができるでしょう。私たちは私たちの感情と思考を、すなわち私たちの魂を通過する特別で親密な性格をもったそれらのものを言葉あるいは言語をもってしてはいかに貧弱に、不十分にしか表現することができないかを感じることができます。そして私たちは、私たちがその中に置かれているところの言語でさえいかに思考に関して特定の様式を私たちに押しつけるかを感じることもできます。誰もが、彼の思考に関する限り、いかに言語に依存しているかを意識している必要があります。通常、私たちの概念は言葉に付着しています。そして不完全な発達段階にある人間は言葉あるいは言葉が彼に吹き込むところのものと概念とを混同しがちです。ある人々が、彼らの周りで普通に使われている言葉の中に含まれているものを越えたところに達する概念の骨組みを自分で構築することができない理由はここにあります。そして私たちはいかに共通の言語を話す人々全体の性格が一定の方法でその言語に依存しているかに

気付きます。国民的な性格、言語の文脈上の性格をより詳しく観察する人は、人間が彼の魂の内容を音に変化させることができるその仕方が今度は逆に彼の性格の強さや弱さ、彼の気質が表現されるその仕方、そして全体的な存在に関する彼の概念にさえ影響を及ぼす、ということに気付くに違いありません。言語の構成は国民の性格について多くを告げることができます。そしてひとつの言語がひとつの国民に共通であるがゆえに、個々の人間はいわばその国民の間に卓越する共通の要素、平均的な性質に依存しています。このように人間は一種の圧政、共同体の支配に屈しやすくなっているのです。しかし、もし人が、言語は一方では私たちの個人的な精神生活を、他方では共同体の精神生活を包含している、ということに気付くならば、彼は「言語の秘密」と呼ばれるものを何か特別な重要性を有しているものとして理解するようになるでしょう。もし、人間がいかに言語において自らを表現するものであるかを観察するならば、その魂的生活についてかなり多くのことを学ぶことができるのです。

 言語の秘密、その起源と各時代における発展はいつでもある特定の科学的な専門分野における研究課題であり続けました。しかし私たちの世紀において、これらの専門分野が言語の秘密を暴くことに特に成功したとは言えません。今日私たちが言語とその発達、そしてその人間との関係をこれまで人間とその発達に適用してきた精神科学的な観点からいわば警句的かつ外観的に照らし出そうとしているのはこの理由からです。

 私たちが対象、出来事、過程を記述するために言葉を使うとき、まず第一に非常に不思議に見えるのは次の関連です。つまり、言葉や文章を構成するある特定の音の結びつきと私たちの内にあり、言葉として表現される対象が意味するところのものとの間のつながりとは何なのでしょうか?この関連で外的な科学は幅広い観察結果をあらゆる方法で結びつけようとしてきましたが、そのような方法は不満足な性格のものであるとも感じられてきました。問題は次のように非常に単純なのですが、それでもそれに答えるのはきわめて困難です。人間が外的な世界のある対象や出来事に直面したとき、何故彼はその対象や出来事の残響として彼自身の内部からあれこれの特定の音を発したのでしょうか?

 ある一定の観点から見ることによって、ことは全く単純であると考えられました。例えば、言語は元々言語器官の内的な能力によって形成された、つまりこの能力が外的な音として聞こえるようなもの(例えばある動物の出す音、あるいは何かが別の何かにぶつかる音)を模倣したのだと考えられたのです。もしくは犬が「わんわん」と鳴くのを聞いた子供がその犬を「わんわん」と呼ぶようにです。そのような言葉の形成は擬音、音の模倣と呼ばれます。これは一定の方向性をもった考え方によって音と言葉を形成する本来の基礎であるとされました。当然のことながら、人間はどうやって音を発さない存在に名前を付けるに至ったのかという問題は答えられないまま残ります。そのような理論の不十分な性格に気付いていた偉大な言語学者マックス・ミューラーはそれを「わんわん」理論と呼んでからかいました。彼は別の理論を打ち立てたのですが、彼の反対者達は今度はそれを「神秘的」(この言葉はそのような意味で使われるべきではないのですが)と呼びました。と申しますのも、マックス・ミューラーは、それぞれの対象がいわばそれ自身の内に何か音のようなものを含んでいる、つまり落とされるガラスばかりではなく、鳴らされる鐘ばかりではなく、ある意味であらゆるものが音を持っている、という観点を掲げているからです。そして人間の魂とこの表現要素すなわち対象の本質的な性質のようなものとの間に関係を確立する人間の能力がその魂の中に対象の内的な音存在を表現する能力を呼び起し、そして鐘の本質的要素が「キンコンカン」という音の中で経験される、というようにです。そして、マックス・ミューラーの反対者達は彼のからかいのお返しに彼の理論を「キンコンカン」理論と呼びました。より詳細に検討すれば、人間がものの本性について彼の魂の中で残響のように経験するところのものをこのように外的な方法で性格づけようと試みるときにはいつでも何か不満足なものが残る、ということが分かります。人間の内的な存在の中へとより深く貫き至ることが要求されるのです。

 精神科学の観点から見ると基本的に人間は非常に複雑な存在です。彼は彼の肉体を有していますが、それは鉱物界を支配する法則と同じ法則によって支配され、鉱物界と同様に構成されています。同様に、人間は彼の存在における第二の、より高次の構成体であるエーテル体もしくは生命体を有しています。次いで、楽と苦、喜びと悲しみ、本能、願望、熱情の担い手であるアストラル体があります。これは精神科学にとっては人間が目で見、手で触ることができる体よりさらに現実的ではないにしても、それとちょうど同じくらい現実的な人間の構成体のひとつです。そして人間の第四の構成体を私たちは自我の担い手と呼びます。私たちはさらに現段階における人間の発達は自我の働きかけによって他の三つの構成体を変容させることにあるのを見てきました。私たちはまた、未来において自我は、自然あるいは自然の中で活動している精神的な力がこれら三つの人間構成体から作り出したものは何も残っていないというような仕方で、これら三つの構成体を変化させているだろうということも指摘しました。

 と申しますのも、苦と楽、喜びと悲しみ、イマジネーション、感情、そして知覚の波打つ力の担い手であるアストラル体は元来私たちがそれに参加することなく、つまり私たちの自我のいかなる貢献もなしに創造されたからです。しかし今や、自我は活動的となり、アストラル体のすべての性質と活動を純化し、清め、従属させるというような仕方で働いています。もし自我がアストラル体にわずかしか働きかけていなければ、人間は彼の本能や願望に支配されますが、もしそれが本能や願望を徳へと浄化するならば、そして乱れた思考を論理の糸で秩序づけるならば、その時には、アストラル体は自我が参加することなく作られたものではなく自我の産物へと変化しているでしょう。もし自我がこの仕事を意識的に成し遂げるならば、そしてそれは今日では人間進化の中でスタートが切られたところであるに過ぎないのですが、私たちはこの自我によって意識的に変化させられたアストラル体の部分を「霊我」、あるいは東洋の哲学の用語を使えば、「マナス」と呼びます。自我がアストラル体ばかりではなく、異なる方法、より強力な方法でエーテル体にまで働きかけるとき、私たちは自我によって変化させられたエーテル体の部分を「生命霊」、あるいは東洋の哲学の用語で、「ブッディ」と呼びます。そして最後に、自我が非常に強力になり(これははるかな未来において生じるだけなのですが)、肉体を変化させ、その法則を規制し、それに浸透することによって肉体の中に生きるあらゆるものを支配するとき、私たちはこの肉体の部分を「霊人」、あるいはまたこの働きは呼吸過程をコントロールすることから始まるゆえに、東洋の哲学の用語で「アートマン」と呼びます(ドイツ語のatmen、「呼吸する」と比較して下さい)。

 このように、私たちは人間を最初は四つの構成体、つまり、肉体、エーテル体、アストラル体そして自我から構成されていると見ます。そして過去に由来する私たちの存在の三つの構成体と同様に、私たちは私たちの自我の働きによって創造され、未来に向かって発展する人間の三つの構成体について語ることができます。こうして私たちは肉体、エーテル体、アストラル体に霊我、生命霊、霊人を加えることによって七つの構成体から成る人間について語ることができます。しかし、私たちがこれら最後の三つの構成体を何かはるかな存在であると、つまり人類の未来の進化に属するものと考えるとき、人間はある意味で既に現在においてもそのような発展のための準備をしている、ということが付け加えられなければなりません。人間が彼の自我によって意識的に肉体、エーテル体、アストラル体に働きかけるのははるかな未来においてに過ぎませんが、自我は既に無意識の中で、つまり充分な意識のない状態で人間存在のこれら三つの構成体をまだぼんやりとした活動に基づいて変化させつつあります。その結果は既に存在しています。以前の講義において、私たちが人間の内的な構成体として記述したところのものは、ひとえに自我によるこの働きのゆえに生じることができたのです。それによってアストラル体からは感覚魂が感覚体のいわば内的な鏡像として形作られました。感覚体が(感覚体とアストラル体は人間に関する限り同意語です。感覚体なしには私たちは満足というものを有することはないでしょう。)満足を伝える一方、それは願望として魂の中に反映されます(ですからそのとき私たちが魂に帰するのは願望です)。このようにしてふたつのものが、つまり、アストラル体と変化したアストラル体あるいは感覚魂がお互いに属すことになります。満足と願望が

お互いに属しているようにです。同様に、自我は過去において既にエーテル体に働きかけていました。自我が人間の魂の中に悟性魂もしくは心魂を内的に創造したのです。このように記憶の担い手でもある悟性魂は自我によるエーテル体の無意識的な変化と結びつけられています。そして最後に、自我は過去に肉体の変化に向けても働きかけ、人間が今日の形態において存在することができるようにしました。その変化の結果が意識魂であり、それが人間に外的な事物についての知識を獲得することができるようにさせるのです。このように七つの構成体からなる人間は次のように性格づけることができます。自我の無意識的な準備活動を通して三つの魂の構成体、すなわち感覚魂、悟性魂そして意識魂が創造された、と。

 さて、肉体、エーテル体そしてアストラル体は複雑な実在ではなかったのか?という疑問が生じるかも知れません。人間の肉体とは何という奇跡的な構築物なのでしょうか!そして、もし私たちがそれをもっと詳しく調べるならば、肉体はそれが自我によって意識魂へと変化させられた部分すなわち意識魂の物理的な形態と呼ぶことができる部分と比較してもっとはるかに複雑である、ということが分かるでしょう。同様に、エーテル体は悟性魂もしくは心魂の形態とでも呼ばれるところのものよりはるかに複雑であり、また、アストラル体も感覚魂の形態よりはるかに複雑です。これらの部分は人間が自我を持つ以前から存在していたものと比較して貧弱なのです。精神科学において、人間ははるかな過去にその肉体のための最初の素質を精神的な存在から発達させていたと語られるのはこの理由によります。これにエーテル体が、そしてずっと後になってアストラル体が、そして最後に自我が付加されました。人間の肉体はこのように四つの発達段階を通過してきたのです。つまり、最初は精神世界との直接的な対応がありましたが、その後、エーテル体を織り込まれ、注入されることによって発展し、そのためさらに複雑になりました。次にアストラル体が織り込まれるようになりましたが、それによってもまたさらに複雑になったのです。それから自我が加えられました。そしてこの自我の肉体に対する働きかけがそれの一部を変化させ、それを人間の意識すなわち外的世界の知識を獲得するための能力の担い手へと変えたのです。ただこの肉体は感覚と脳によって外的世界の知識を私たちに提供する以上の機能を有しています。私たちの意識の基礎を構成するとはいえ全く脳の領域の外側で生じるところの数多くの活動をそれは遂行しなければなりません。同様のことはエーテル体とアストラル体にも当てはまります。

 さて、もし私たちが何度も強調してきたように、外的世界で私たちの周囲にあるあらゆるものは精神であるという事実、すまわちあらゆる物質的、エーテル的、アストラル的なものには精神的な基礎があるという事実が全く明白であるとすれば、私たちは次のように言わなければなりません。人間が彼の存在の三つの構成体を発達させるに際し、自我は精神的な存在として内側から外に向けて働く。同様に、私たちの自我が現れてその発達を受け継ぐ以前に、私たちの肉体、エーテル体そしてアストラル体に働きかけていたもの(私たちがそれらを精神的な存在と言うにしても精神的な活動と言うにしてもそれは重要なことではありません)があったに違いない、と。私たちは、私たちのアストラル体、エーテル体そして肉体に対し、今日では自我が外向きに働きかけているのと同様の活動が起こっていた時代を振り返っているのです。つまり、自我がそれらの内部で自身を確立する準備が整う以前には、精神的な創造、精神的な活動が私たちの鞘に働きかけ、それらに形態、動き、形状を与えたのです。ここでもし私たちが感覚魂、悟性魂そして意識魂という私たちの存在における三つの構成体の中で自我が変化させたものすべてを除外し、これら人間存在の三つの鞘の構築、それらの内的な動きと活動を眺めるならば、人間の中で自我の活動に先立って生じるところの精神的な活動がそこにあります。

 私たちが精神科学において今日あるような人間を個別の魂として、つまりそれぞれの人間を自己充足した個人にするところの自我を注入された魂として語るのはこの理由によります。人間はそのような自己充足した自我存在になる以前には「集合魂」、つまり私たちが今日でも動物界に関して集合魂として言及するところの性質を持った魂の一部を構成していたのです。それぞれの人間におけるそれぞれの魂として人間の中で生じるものは種や同族全体の根底をなすものとして動物界の中で生じます。ひとつの動物の種全体が共通の集合魂を有しているのです。個々の人間の魂が動物においては種の魂に相当します。このように、人間が個々の魂になる以前には、今日では私たちが精神科学を通してのみその知識を持つことができるところの別の魂、つまり、私たちの個別自我の前駆となる魂が彼の存在の三つの構成体の中で働いていました。この私たちの自我の前駆体すなわち集合魂もまたそれ自身の中から肉体、エーテル体、アストラル体を変化させ、それ自身にしたがってそれらを秩序づけたのです。その後、それは肉体、エーテル体、アストラル体を自我に明け渡し、自我がそれらを変化させ続けるようにしました。そして人間が自我を付与される以前の最後の活動、自我の誕生以前に横たわるものの最後の影響が人間の言葉と私たちが呼ぶところのものの中に今日でも存在しているのです。ですから、私たちが私たちの意識魂、私たちの悟性魂もしくは心魂、そして私たちの感覚魂の活動に先立つものを考察するとき、私たちはまだ自我を注入されていない魂に出会います。そしてその結果は今日でも言語表現の中に存在しています。

 人間の四つの構成体の外的な表現とは何でしょうか?それらは肉体においてどのように純粋に外的に表現されるのでしょうか?植物の体は人間の体とは異なって見えます。何故でしょうか?それは植物の中には物質体とエーテル体のみが存在しているのに対して、人間の肉体の中にはアストラル体と自我もまた存在しているからです。それはこの内的な活動が肉体をそれに応じて形成し再構成するからです。肉体はエーテル体もしくは生命体に浸透されるときどのような影響を受けるのでしょうか?

 人間あるいは動物におけるエーテル体もしくは生命体の外的、物理的な表現は腺組織です。つまり、エーテル体は腺組織の建築家なのです。アストラル体は神経組織を形成しました。神経組織について正当に語ることができるのはアストラル体を有している存在に関してだけであるというのはこの理由によります。では、人間の内における彼の自我の表現とは何なのでしょうか?それは循環組織であり、特に内的な生命の熱の特別な影響の下にある血とでも呼べるところのものです。自我が肉体を変化させるときの人間に対する働きのすべては血を通して伝達されます。これが、血が特別な性質を有している理由です。自我が感覚魂、悟性魂そして意識魂を変化させるとき、それが達成するところのすべての働きはただそれが血を通して肉体に影響を及ぼす能力を有しているがゆえに肉体にまで貫き至ることができるのです。私たちの血はアストラル体と自我、そしてそれらすべての活動のための仲介者なのです。

 私たちが人生を見るとすれば、それが単に表面的なレベルではあっても、人間が彼の意識魂、悟性魂そして感覚魂を変化させるのと同様に、彼の肉体をも変容させるということに疑問の余地はありません。容貌は中で生きて働いているものを表現している、ということを誰が否定するでしょうか。そして内的な思考が、もしそれが魂を完璧に捉えるならば、ひとつの人生の経過の中でさえ脳を変化させる、ということを誰が否定するでしょうか。私たちの脳は私たちの思考の要求に適合する道具なのです。しかし、もし人間が彼の自我を通して彼の外的な存在を変化させ、いわば芸術的に形成することができる度合いを考えるとするならば、それは非常にわずかです。私たちが私たちの内的な熱と呼ぶところのものをもって血に動きをもたらし、それによって私たちが為すことができるのは非常にわずかです。私たちの自我に先立つあの精神的な存在たちはもっと多くのことを成し遂げることができましたが、それは彼らがより効果的な方法を用いることができたからです。このように人間の形姿は彼らの影響の下に形作られましたが、それはそれらの力によって人間から造り出されたものの総体的な表現として形成されたのです。これらの存在たちは空気の実質を用いました。私たちが私たちの血を脈打たせる(これによって血を私たち自身の中で活動的にする)ために内的な熱を用いるのと同様に、私たちの自我に先立って私たちに働きかけていた存在たちは彼らの目的のために空気を利用したのです。彼らの空気を通しての私たちに対する働きかけが私たちに私たちの人間としての形姿を与えるところのものを創造したのです。

 私たちがはるかな過去に空気を通して人間に働きかけていた精神的な力について語るのは奇妙なことに見えるかも知れません。しかし私が、私たちの内的な存在の魂や精神の生活について、それを単にイマジネーションの産物としてだけ考え、それが外的世界全体から取られてきたものであるということに気付かないのは間違っている、と申し上げたのはこれが最初ではありません。概念や考えが外の世界の中に存在するところの考えなしに私たちの中に生じることができると考える人は誰でも、ちょうど何も入っていないコップから水を取り出すことができると言っているようなものなのです。私たちの概念は、もしそれが外部の事物の中に生きているもの、それらの法則としてそれらの事物の中に存在しているもの以外のものであるならば、あぶく以上のものではないでしょう。私たちは私たちの魂の中で発達させるものを私たちの環境から取ってくるのです。私たちが、私たちを取り巻くあらゆる物質的なものには精神的な存在が織り込まれている、と語るのはこの理由によります。

 奇妙に聞こえるかも知れませんが、空気として私たちを取り囲んでいるところのものは単に化学によって示されるような物質なのではなく、精神的な存在、精神的な力がその中で活動しているのです。そして、私たちが私たちの血の中にある自我から流出する熱(これが本質的な要素なのですが)によって私たちの肉体をわずかに変化させることができるのと同様にして、自我に先立つ存在たちは空気を用いて、力強い方法で私たちの物理的な存在の外的な形を造り出したのです。私たちが人間であるのは私たちの喉頭とそれに関連するもののゆえです。すばらしい芸術的な器官として外部から私たちの中に彫り込まれ、その他の発声、会話器官に結びつけられた喉頭は空気の中の精神的な要素から創造されたのです。ゲーテは目に関して非常に適切に「目は光によって光のために作られた。」と言いました。もし今、ショーペンハウアーの意味で、光を感じる目がなければ私たちにとって光の印象はないであろうと強調するならば、それは単に真実の半分でしかありません。別の半分とは、もし光がはるかな過去にまだ定かでない器官から私たちの目をいわば彫り出さなかったとすれば、私たちは目をもっていなかったであろう、というものです。このように、光を単に物理的な光、今日記述されているような抽象的な実体と見なすのではなく、光の中にそれ自身のために目を創造することができるあの隠された存在を探さなければならないのです。

 同様に私たちは、別の関連で、空気は複雑な喉頭の器官とそれに関連するあらゆるものをある時期に人間の中に創造することができた存在たちに満ちている、と言うことができます。そして、人間形姿のそれ以外の部分は細部に至るまで、現在の発達段階にある人間とはいわば話す器官がさらに発達したものである、というような仕方で形成され、彫り出されているのです。まず第一に、話すための器官は人間の形姿にとって何か決定的なものになっています。人間が動物を超越しているのは話すことによってである、と言われるのはこのためなのです。と申しますのも、私たちが空気の霊と呼ぶところの精神的な存在は動物をも造り出したのですが、それは人間が備えているような話すための才能を発達させることができるようなレベルにおいてではありません。人間は、彼の現在の思考、彼の感情そして彼の意志、つまり、彼の自我に関連するあらゆるものを発達させる以前に、彼の言語器官を既に内的に発達させていたことが分かります。今や、何故これらの精神的な力が人間の肉体に対して、それを最終的に彼の言語器官の付属物にするような仕方でのみ働きかけることができたのかが分かります。それは彼らがアストラル体、エーテル体そして肉体を空気の影響と配置を通して発達させたからです。自我は、人間が自分の内に空気の精神的な存在と私たちが呼ぶところのものに対応する器官を、つまり光の精神的な存在が目に対応しているのと同様の器官を有することができるようになった後に、それ自身の中で意識、感情、情緒として発達させたところのものをその中に形成することができたのです。このように、そこには無意識における三重の活動、つまり自我に先立って存在していたところの肉体、エーテル体そしてアストラル体への働きかけがあるのです。もし私たちがそれは集合魂であったということを、つまりその集合魂は動物の中では不完全な仕方で働いていたということを知るならば、私たちはこのことに気付くことができます。

 もし私たちが自我に先立って生じた精神的な力をアストラル体の中で働いていたものと見なすならば、次のことが考慮されなければなりません。私たちは自我に関係するあらゆるものを除去し、暗い根底から集合魂によって為された仕事を観察しなければならならないのです。願望と満足がアストラル体の中で不完全なレベルにおいて向き合います。願望は、その先駆けを既に人間のアストラル体の中に有していたがゆえに、魂の性質、内的な能力になり得たのです。

アストラル体の中における願望と満足と同様に、心象、象徴と外的な刺激とがエーテル体の中で向き合います。自我に先立つエーテル体の活動をエーテル体の中における自我の活動と区別する、ということが最も重要なのです。自我が悟性魂もしくは心魂として活動するとき、人間の現在の発達段階においては、それは外的世界の真実にできるだけ近い像であるところの真実を求めます。外的な事物に正確には対応しないものを「真実」と呼ぶことはできません。私たちの自我の夜明け前に横たわるところの精神的な活動はこのような仕方では働きません。それらはむしろイメージの中で象徴的に働き、夢の働きに似ています。夢は例えば次のような仕方で働きます。誰かが夢の中で銃声を聞き、そして起きたとき、ベッドの横の椅子が倒れているのを見るというようにです。外的な出来事(椅子が倒れること)は、夢の中でイメージに、つまり銃声に変化させられます。このように、自我に先立つ精神的な存在たちは象徴的に働きましたが、私たちが秘儀参入によってより高次の精神的な活動を達成するときにも、私たちは再び同じ仕方で働くようになります。ここにおいて私たちは全く抽象的な外的世界から離れ、象徴的なものの見方、イマジネーション的な概念に向けて(ただし、今回は十全なる意識をもって)働くように努めるのです。

 そして人間の肉体の中で働く精神的な存在たちはそれを外的事物の対応物とでも呼べるものに変化させました。外的な事実、そして模倣です。模倣とは、私たちが例えば子供の中に見出すような、つまりその他の魂の構成体がまだほとんど発達していない時期に見出すような何かです。模倣とは人間の無意識的な本性に属するような何かです。これが教育は模倣から出発しなければならないと言われる理由です。何故なら、人間の中で自我が秩序を創造し始める以前は模倣への衝動が自然の衝動として存在しているからです。

 肉体の中にある外的な活動に対置される模倣への衝動、エーテル体の中にある外的な刺激に対置される象徴、そして、アストラル体の中にある願望と満足の対応、これらすべては空気という道具の助けを借りて創造されたと考えられなければなりません。そして、それらは私たちの喉頭及び話すための装置全体の中に、いわば芸術的な印象が彫り出されるようにして創造されたと考えられなければなりません。そして、これらの自我に先立つ存在たちは空気が人間の中でこれら三重の方向性をもって表現されるに至るというような仕方で彼を形成し、秩序づけるように働きかけた、と言うことができます。

 と申しますのも、言語能力をその言葉の真の意味において見るとき、それは私たちが口に出すところの音から成り立っているのか?と問われねばならないからです。いいえ、それは音からではありません。私たちの自我は空気によって創造されたものに動きを与えます。目は光を取り入れるためにそれ自体で存在していますが、私たちが外的な光を取り入れるために目を動かすのと同様に、私たちの中の自我が空気の中の精神的な存在たちによって創造されたあの器官に動きを与えるのです。私たちはその器官を自我によって動きへともたらします。つまり、私たちは空気の霊に対応する器官を活性化し、そしてその器官を作った空気の霊が私たちの空気に対する活動の反響としてその音を私たちに響き返すのを待たねばならないのです。正にパイプのそれぞれの部分が音を出すのではないように、私たちが音を出すのではありません。私たちの自我は空気の霊から創造された器官を使用することによって活動を展開します。その時、私たちはその霊が再び空気に動きをもたらすのを、つまり、言葉がそれらの器官を最初に作り出した活動によって音になるというような仕方で動きをもたらすのを待たなければならないのです。  

 こうして私たちは人間の言語が先に述べた三重の対応に支えられていることを理解します。この対応はどのように働いているのでしょうか?

 肉体における模倣は外的な活動すなわち私たちにある印象を与えるところの外的な対象を模倣しますが、それは画家が絵の具やカンバス、光と影など景色を構成する成分とは全く異なる成分から成るものを用いて景色を模倣するのと同様に、それらを音として構成するべき言語器官に支えられています。光と影を用いて模倣する画家に似て、私たちは空気の要素から造られた私たちの器官をもって環境を模倣するのです。これが、私たちが音として造り出すところのものがある対象の本質を真に模倣したものである理由です。そして、私たちの母音や子音は外部から私たちに印象を及ぼすそれらの事物の像や模倣以外のものではありません。

 次はエーテル体における像、私たちが象徴と呼ぶところのものです。私たちの言語の最初の要素は模倣によって創造されました。しかしそれはその後、自らを外的な印象からいわば引き剥がすことによってさらに発展しました。エーテル体はもはや外的な経験には対応しないそれらのものを(夢の中でのように)消化します。これが音の中における発達の要素です。最初、エーテル体は純粋な模倣物を消化します。そしてその模倣物はエーテル体の中で変化し、そのために何か独立したものになります。それは内的な過程を経てきているがゆえに外的な印象には単にイメージとして象徴的に対応するだけのものになります。私たちはもはや単なる模倣者ではありません。

 そして第三に、願望、情緒、あらゆる内的に生きるものがアストラル体において表現されます。これは音の変化を継続するという形で働きます。内的な経験は内側から音の中に流れ込みます。つまり、苦や楽、喜びや悲しみ、願望、望み、これらすべては音の中に流れ込み、その中に主観的な要素を持ち込みます。純粋な模倣として出発したものは個々の音や言葉のイメージの中で言語的な象徴へと変化し、そして今、人間の内的な経験を吹き込まれることによってさらに変化するのです。魂の中に音を引き起こすのはいつでも外的な対応物でなければなりません。魂がその内的な経験、楽と苦、喜びと悲しみそしてその他のあらゆるものを音において表現するとき、それは対応する外的な形態を探さなければならないのです。最初の段階では、外的な印象が模倣されます。次の段階は内的な音のイメージあるいは象徴の創造です。しかし、喜びや嘆きのような内的な経験はその性質上、外的な対応物を有していません。この外的な存在と内的な経験の対応は、子供が話すことを学ぶときに観察できます。子供がいかにある感情をひとつの音に変化させるかを見ることができす。子供が当初「マ」とか「パ」と呼ぶとき、これはある感情の音への内的な変化に過ぎません。それは何か内的なものの表現に過ぎないのです。しかし、子供が自分をそのように表現し、例えば母親がやって来るとすれば、子供は「マ」という音に変化したその内的な喜びの感情がいかに外的な出来事に対応しているかに気付きます。もちろん子供はどうやってそれが、つまりこの場合には母親がやって来るという対応が生じるかについて詮索することはありません。内的な楽と苦の経験が外的な印象と連合し、そのようにして内から流れ出るものが外的な印象とひとつになるのです。これが言語活動の第三の過程です。ですから、言語は外にあるものの内的な模倣と同時に私たちの内的な経験に結びついた外的な存在に起源を有する、と言って間違いないのです。それは無数の場合に起こり、内的な表現である「マ」なり「パ」が「ママ」とか「パパ」という語に形成されて完成し、父親なり母親が応えるとき充足させられる過程です。人間が内的な表現の結果として何かが起こるということに気付くたびに、その内的な出来事の表現は彼にとって何か外的なものと結びついたものになります。

 これらすべては自我が参加することなく起こります。自我がこの活動を引き継ぐのはもっと後の段階になってからにすぎません。このように、自我以前に存在していた力が人間の言語能力の根底に横たわる配置の中で働いていました。人間の言語はその基礎が既に創造されていたところに自我が取って代わったために、その後は自我にしたがって自身を秩序づけるようになりました。こうして感覚体に結びついた表現は感覚魂に浸透され、エーテル体に結びついたイメージや象徴は悟性魂に浸透されます。人間は悟性魂の経験をもって音を満たし、そして同様に、当初は模倣に過ぎない意識魂の経験をもってそれを満たします。この過程によって、魂の内的な経験を表現する私たちの言語のためのあの領域が徐々に存在するようになったのです。

 これが、私たちの中には、言語に関して、何か自我以前に存在していたものが、そしてその後自我によって発達させられたものがある、ということが全くはっきりと理解されなければならない理由です。しかしその時、言語が直接自我を、つまり私たちの中の精神的な側面すなわち私たちの個性に密接に結びついたあらゆるものを表現している、と主張することもできせん。そうではなく、言語の中に自我の直接的な表現を見ることは決してできないということが理解されなければならないのです。言語の霊はエーテル体の中で象徴的に働き、肉体の中で模倣的に働きます。そしてこのことはその感覚魂の中での創造的な活動とリンクしています。そして、その活動によって音が内的な生活の表現になるというような仕方で、そこから内的な経験を押し出すのです。要するに、言語は今日見られるような意識的な自我にしたがって発達したのではありません。そうではなく、そもそも言語の発達を何かと比較するとすれば、それはただ芸術的な創造に比せられるだけです。私たちは、正に、芸術家の模倣が現実に対応していることを要求することができないように、言語がそれによって表現されることが意図されているものをコピーすることを要求することはできません。言語は絵画に似た方法で、つまり、芸術家が彼なりに外的な現実を模倣するのに似た方法で外なる世界を模倣するだけなのです。人間が今日そうであるような仕方で自意識を持った存在になる以前には、一人の芸術家が活動的な言語の霊として彼の内で働いていました。そして私たちの自我は以前に芸術家が働いていた場所に納められています。このことはそれ自体、どちらかというとイメージの形で述べられていますが、この分野において真実を表現しています。私たちは無意識の活動を観察し、ここには芸術作品としての人間を創造した何かがあると感じます。この関連で、各芸術作品はその芸術の手法によって許容されたものとして検証することができるだけだ、ということを忘れないようにしなければなりません。もしこのことが心に留められていたならば、フリッツ・マウスナーの「言語批判」のような学者ぶった作品は初めから排除されていたことでしょう。ここでの言語批判は全く間違った仮定に、つまり、私たちが人間の言語をよく見ると、それは客観的な現実を表現してはいないという仮定に基づいています。しかしそれは第一に、言語の機能なのでしょうか?絵画に関して、それが光と影を使うことによってカンバスの上の色の中に外的な現実を表現する可能性がないのと全く同様に、言語が現実を表現する可能性はありません。人間の活動の根底に横たわる言語の霊は芸術的な感性によって把握されなければなりません。

 以上の事柄についてはただ簡単な概観が示されたに過ぎません。しかし、もし言語を作った芸術家が人間の中で活動していたということを知るならば、人間の個々の言語の中においてさえ(様々な言語が異なっていればそれだけ様々に)芸術的な要素があらゆる種類の異なった仕方で働いていた、ということを理解することができます。また、言語の霊が(空気の中で働いていたこの存在を言語の霊と呼ぶことにしましょう)人間の中の比較的低いレベルで自らを表現するときには、それがいかにあらゆるものを個々の部分から組み立てようとして原子論的な方法で働くかを理解することができます。個々の音がひとつの文章全体を構成するために結びつく、ということはこのようにして生じるのです。

 例えば中国語で「シー」と「ピアン」という音を取り上げるとすれば、それらは言語形成のふたつの原子です。「シー」という音節は歌、詩を、「ピアン」は本を意味します。これらの音を組み合わせると、「シーピアン」、つまり「詩本」の組み合わせをつくるのと同じことになります。全体として見たときには詩の本となる何かがふたつの品詞から結果として生じるのです。これは中国語がその概念と思想を形成する仕方のひとつの例に過ぎません。

 もし私たちが今日考察したようなことがらをよく考えてみるならば、セム語のようにすばらしく形成された言語はいかにその本質において考察されなければならないか、ということもまた今や理解することができます。セム族の言語にはその基礎として本当に子音だけから構成された音があるのです。そして人間はこれらの子音と子音の間に母音を挿入します。ですから一例としてq、t、lという子音を取り上げ、間にaともうひとつのaを挿入するとすれば、そのとき、純粋に子音から形成された単語は単に外的な音の模倣であるに過ぎませんが、母音を加えることによって「qatal」、殺すという語が造られるのです。

 このように、音の複合としての「殺す」が当初は単に外的な過程を模倣する言語器官によって生じる、ということには特筆すべき発展過程が見られます。そして魂がその過程を継続し、母音によって内的な経験が付け加えられます。つまり、音の複合体はさらに発展し、それによって「殺す」が主題へと差し戻されます。これが基本的にはセム語の構成であり、そこでは言語の形成における様々な要素の組み合わせが言語の枠組みの内で表現されているのです。象徴化は(つまり言語の霊としてエーテル体の中で働いているのが見出されるところのものは)、そしてそれはセム語においては主要な作動力となっているのですが、個々の模倣的な音を一歩先に進め、母音の挿入によってそれらを象徴へと変化させるところのセム語の特別な側面を示しています。

 これが、セム語においては基本的にはすべての語が外的世界の環境に象徴として関係するような方法で形成される理由です。対照的に、インド−ゲルマン系言語において現れるあらゆるものは私たちがアストラル体の内的な表現、内的な存在と呼んだところのものによってより多くの刺激を受けます。と申しますのも、アストラル体とは何か既に意識に結びついたものだからです。人は外なる世界に向かうとき、自分をそれと対比させます。もし、人がエーテル体の観点から外なる世界に向かうならば、人はそれと溶け合い、それとひとつになります。事物が意識の中で反射されるときにだけ、自身と事物との間に差異が存在するのです。その中にあらゆる内的な経験を有するアストラル体のこの働きは、独立した存在性の反映である「である」という動詞を有している点でセム語と対照的なインド−ゲルマン系言語において見ることができます。このことは、私たちが私たちの意識をもって私たち自身を外的な印象から分離することができるがゆえに可能なのです。ですから、もし私たちがセム語で例えば「神は善である。」と言いたい場合、これは直接的には可能ではありません。と申しますのも、存在することの表現としての「である」という語を作る方法がないからです。と申しますのも、このことはアストラル体と外なる世界との対比に起源を有するものだからです。エーテル体は単に語るだけです。これが、セム語においては「神、善きもの」と言わざるを得ないであろう理由です。主体と客体の対比は特徴的な要素ではありません。外なる世界に対峙している言語としては、そしてそれは本質的な要素として外なる世界の知覚を含んでいるのですが、特にインド−ゲルマン系言語があります。それらの言語は、それらが内面性を支えるというような、つまり、強い個性、強い自我を発達させるための基礎を与えるあらゆるものを支えるというような仕方で、今度は逆に人間に影響を与えるのです。このことは言語の中において既に明らかです。

 私がお話ししましたことすべてについて、何人かの人は、もしこの分野であらゆることを詳細に記述しようとするならば2週間はかかるであろうというだけの理由で、単に不十分な示唆に過ぎないと考えられるかも知れません。そうであるにしても、この連続講義に規則的に参加し、ことの本質へと貫き至った人たちはそのような示唆が不正なものではないということを理解するでしょう。これらの示唆は、言語が芸術的な感覚(それは発達させられなければならないのですが)以外の方法によっては理解され得ないということを基本的に示すところの言語についての精神科学的な観点がいかに引き起こされるかを示すために意図されたものに過ぎません。すべての学問は、もしそれらが私たちの中で自我が活動するようになる以前に人間の中で言語を創造した力によって実行されたところの創造的な活動に参加しようとしないならば、失敗に終わるに違いないというのはこの理由によります。創造的な能力だけが言語の秘密を把握できるのですが、それは創造的な能力だけが自分なりに再創造することができるからです。どんなに博識な抽象も芸術作品の包括的理解を生じさせることはできません。芸術家が絵の具や音などの思想以外の方法で表現するものを、思想として実りある方法で再創造することができる思想のみが芸術作品に光を当てることができます。創造的な感情のみが芸術家を理解でき、そして言語に対する創造的な感情のみが言語の起源における創造的な精神を理解できるのです。これが言語に関して果たすことが期待される精神科学の役割のひとつです。

 別の役割とは何か実際的なレベルで重要性を持つようなものです。もし私たちが、言語とはいかに内的、前人間的な芸術家に発するものであるかということを理解するならば、私たちはまた、私たちが言語の中で何か価値あることを表現しようとする場面で、この創造的な感情を活動的にするために私たち自身を上昇させることもできるのです。しかし、私たちの時代にはそれに対する感情がほとんど存在していません。言語に対する生きた感情を涵養することにおいて、大した発展が為されていないのです。今日では、人は誰でも口を開けさえすればあらゆることを表現できると感じているのです。けれども、全くはっきりと理解されていなければならないのは、私たちが何を表現しようとしているのかということと、それをいかにして表現しようとしているのかということとの間の直接的な関係を私たちの魂の中で再び創造しなければならないということです。私たちはあらゆる領域において再び語学の芸術家を目覚めさせなければならないのです。今日の人間は、もし彼らが言おうとすることがどんな形ででも出て来さえすれば、それがどんな形を取っていても満足します。何かを表現しようとするときには言語に対する芸術的な感情が必要である、ということに(そしてこれは精神科学の分野においては絶対に必要なことなのですが)何人の人が気がついているでしょうか?例えば、発表された真に精神科学的な文献を検証してみるならば、これらの文献を書いた精神科学者はそれぞれの文章を創造的に形成するため、動詞の位置を気ままに決定したりしないように真剣にそれらに取り組んだ、ということが分かるでしょう。各文章は、それぞれが単なる思考としてではなく直接的な形態として魂の中で内的に経験されなければならないことから、誕生として理解されることでしょう。そして各文章は単に順番に並べられているのではなく、三番目の文章は一番目のものと本質的に同時に作成されなければなりません。何故なら、それらはその効果において相互に関連しているからです。精神科学においては、言語に対する創造的で活動的な感覚なしに働くことは不可能です。他のものはすべて不十分です。自分を奴隷のように言葉に縛り付けられている状態から自由にすることが重要なのです。しかし、もし私たちがある一定の考えを表現するための単語としてどの単語でも適していると考えるならば、それは不可能です。それは私たちの語学上の創造性において既に間違いなのです。超感覚的な事実についての表現を感覚世界の観点からのみ造り出された言葉から得ることはできません。もし、「エーテル体やアストラル体を言葉を使って実際に具体的な方法で表現するにはどうすればよいか?」という問いが発せられるとすれば、このことが少しも理解されていないということです。次のように言う人だけがこのことについて何らかのことを理解しているのです。もし私がまずある特定の面を最初に探求し、つまり、そのとき私が芸術的に形成され反映されたイメージを扱っているというのは全く明白なことなのだが、それからさらにもう三つの面を探求するならば、私はエーテル体とは何かを理解するであろう、と。その時、その問題は四つの異なる側から示されました。その後でそれを言葉で、つまり、いわばその話題の周りを歩き回るような方法で表現するとき、私たちはその問題の芸術的なイメージを提示しているのです。もしこのことが気付かれないならば、抽象化と、そして以前から知られているものの動脈硬化的な再生産以外のものは何も達成されないでしょう。これが、精神科学における発達はいつでも「内的な感覚の発達と言語の内的、創造的な力の発達」とでも呼べるものに結びつけられているであろう、と言われる理由です。この意味で、精神科学は言語の形式に実りある影響を及ぼし、言語の創造性について何も知らない今日のひどい語学的形式を変化させることでしょう。そして、ほとんど話すことも書くこともできない人たちが文筆活動に乗り出すということも少なくなるでしょう。今日では例えば散文を書くということは韻を踏んで書くよりも何かはるかに高尚なことであるというようなことに関する意識は失われてしまいました。今日書かれる散文ははるかに低いレベルのものにすぎません。人間の最も深い秘密に関わるこれらの分野においてひとつの刺激として働く、というのが精神科学の目的なのです。と申しますのも、精神科学はこれらの領域において、最も偉大な人物達のビジョンを実現する、というような仕方で活動的であるはずだからです。精神科学は超感覚的な世界を思考を通して征服するでしょう。それは、私たちの言語が再び魂の超感覚的な世界における経験を伝える手段になる、というような仕方で思考を音の構成の中に移すことができるようになるでしょう。そして精神科学は内的な人間の重要な領域に関して次のような言葉で表現されたところのものを実現するための実行者となっているでしょう。

    測り難く、奥深いものは思考である、

    そして、その翼をもった実行者とは言葉である(シラー)。

 


 ■シュタイナー魂生活の変容」メニューに戻る

 ■シュタイナー研究室に戻る

 ■神秘学遊戯団ホームページに戻る