ルドルフ・シュタイナー

「魂生活の変容−経験の道」(第二巻)(GA59)

佐々木義之 訳

第3講「神秘主義とは何か」

1910年2月10日)


 本日取り上げますのは、それに関する広範な混乱がみられるようなテーマです。少し前に、私はひとりの教養ある学者が、暗く、不可解で、知識の範囲を超えた要素の存在を容認していたという理由で、ゲーテを神秘家の内に数えるべきだと断言するのを聞きました。そして多くの人がこの意見に同意するでしょう。一体、今日では神秘主義あるいは神秘的と呼ばれないものがあるでしょうか?何かはっきりしないものがあるとき、もし、それに対するその人の態度が「知らない」と「ぼんやりと感じる」の間を漂っているならば、彼はそれを神秘的であるとか不思議だとか言うでしょう。人々が何らかのことについて、ある種の無思慮や心理学的な知識によって、何も信頼に値するようなことは知り得ないと断言したい誘惑に駆られ、そしてそればかりではなく、それが今日の習慣になっているように、他の誰かがそれについての知識を有しているかもしれないということをも否定するならば、彼らはそれを神秘的であるとして退けるのです。

 けれども、もし神秘主義という言葉の歴史的な起源を研究するならば、私たちは偉大な人物たちがそれについて理解していたことや、彼らがそれによって自分たちに提供されていたと信じていたものについて全く異なる考えを持つようになるでしょう。私たちは、不明瞭で不可解であることを神秘主義の内容であるとは全く見なさず、その目標を高次の明晰さ、より明るい魂の光を通してのみ達成可能であるものとして語った人たちがいたということ、そしてその明晰さの程度は神秘主義の明晰さが始まる地点で科学の明晰さが終わるというほどのものであったということを理解するようになるのです。真の神秘主義を経験したと信じる人たちの確信とはそのようなものなのです。

 人間進化の最初期の時代にはいくつかの神秘主義が見出されますが、エジプトやギリシャそしてアジアの人々の秘儀において神秘主義と呼ばれたところのものは私たちの概念的な思考とは非常に隔たっています。そのため、たとえ私たちが神秘的な経験が取ったそれらの古い形態の横を通り過ぎたとしても、神秘主義という考えはほとんど浮かんでこないでしょう。

 神秘主義のかなり最近の形態、すなわちマイスター・エックハルトに始まり、13世紀から14世紀を通して、あの比類なき神秘家、アンジェラス・シレジウスにおいてその絶頂をむかえるドイツ神秘主義の形態から出発するならば、私たちは今日の概念に最も近づくことができます。もし、彼らの神秘主義を検証するならば、それは純粋に内的な魂的経験により、とりわけその魂をすべての外的な印象や知覚から自由することにより、世界の最も深い出発点に関する真の知識に到達することを求め、そしてそのため、その魂は外的な世界から引きこもり、それ自身の内的な生活の深みに沈潜しようとした、ということが見出されます。言い換えれば、このタイプの神秘主義者は、どんなに努力して自然現象を分析しても見出すことができないような、また彼の知性をもってそれらを把握しようとしてもできないような世界の神的な基盤をこの方法によって見出すことができる、と信じていたのです。彼の観点は、外的な感覚印象が世界の神的な基礎の探求において、人間の認識力をもってしては貫くことができないようなヴェールを形成する、というものです。ところが、魂の内的な経験ははるかに薄いヴェールを形成し、そして、外的に現れているものの基礎にも横たわっているところの神的な基盤に向けて、このヴェールを貫くことは可能である、というのがあの世紀におけるマイスター・エックハルト、ヨハネス・タウラーそしてスーソ等からアンジェラス・シレジウスへと至る神秘家の秘儀の方法になっているのです。

 これらの神秘家たちが、彼らの内的な探求の直接的な結果と見なされ得るであろうものだけではなく、それ以上のものを見出すことができるということを信じていたのは明らかです。私たちは、この冬の連続講義の中で、この内的な探求をそれらすべての様々な側面において扱いました。もし、私たちが人間の内的な存在と正当に呼ばれるものの中をのぞき見るならば、私たちはまず第一に魂の最も暗い深みに行き着きます。そこでは魂がまだ恐れや恐怖、不安と希望、そして楽と苦、楽しみと悲しみの全領域にわたる感情に左右されています。私たちはこの魂の部分を感覚魂と呼びました。さらに私たちはこれらの魂的経験の暗い基礎の中から、私たちが悟性魂と呼ぶところのものを区別しました。そしてそれは、自我が外的な印象を取り入れ、感覚魂の中に現れるところのものにその生命を全うさせ、そして平衡を見出させるとき達成されるようなものです。私たちはまた、悟性魂の中に、私たちがそう呼ぶところの内的な真実が生じる、ということをお話ししました。そして自我がその悟性魂への途上において獲得したところのものにさらに働きかけるとき、それはそれ自身を意識魂へと高めます。そしてそこで初めて、自我についての明確な認識が可能となり、人間は内的な生活から真の世界認識へと導き出されるのです。もし私たちがこれら三つの魂的生活の構成体を私たちの前に保持するならば、私たちが私たちの内的な存在の中に私たち自身を沈めるときに私たちが見出すところのものの概要がそこにあり、私たちは自我がその魂の三つの構成体にどのように働きかけるかを見出すのです。

 既に述べたような方法で知識を追い求めたあの神秘家たちは、この魂の深みへの沈潜によって、何か別のものを見出すことができると信じていました。と申しますのも、彼らにとっては、魂的生活の内的な経験というのは存在の源泉に至るためには通り過ぎなければならないヴェールに過ぎなかったからです。とりわけ彼らは、もしその源泉に到達するならば、外的な歴史がキリストの生と死として提示するものをさらなる内的な経験として彼ら自身が経験するだろう、と信じていたのです。

 さて、たとえ中世的な意味においてではあっても、魂へのこの神秘的な下降が起こるならば、その過程は次のようなものになります。外的な世界がその光や色の領域、あるいはそれが彼の感覚に与えるその他のあらゆる印象とともに神秘家の前にあります。彼はこのすべてに彼の知性をもって働きかけるのですが、その外的な世界にとらわれたままに留まり、その外観を貫いてそれらの源泉に至ることはできません。彼の魂は外的世界の概念的なイメージ、とりわけそれが受け取る印象から来る経験を、苦であろうと楽であろうと、あるいは共感であろうと反感であろうと保持するのです。人間の自我は彼の興味や内的生活の全体とともにあり、彼を外的世界およびそれが彼に刻印づける印象へと向かわせます。ですから、最初に神秘家が外的世界から目を逸らそうと試みるときには、外的世界が朝から晩まで彼の魂の中に生じさせたところのあらゆるものを計算に入れなければなりません。そして彼には、最初、彼の内的生活が外的生活の繰り返し、あるいはその投影のように見えるのです。

 では、その魂が外的世界からその中に投影されたあらゆるものを忘れようとして、つまり、その世界から引き出されたすべての印象や概念的なイメージを消し去ろうとして奮闘するならば、その魂は空虚なまま取り残されるのでしょうか?真の神秘的な経験は魂が別の可能性を有しているという事実に依存しているのです。そのため、それがその内に有する記憶だけでなく、共感や反感という感情をも消し去るとき、それでもそれは何らかの内容を有しています。神秘家は外的世界の印象がその色鮮やかな像とそれが魂に与える影響により、魂の隠れた深みに存在する何かを抑圧するような効果を持っていると感じます。彼が外的世界に向かうとき、その生活はより繊細な魂の経験をうち消すように輝き出る力強い光のようなものであると感じられます。しかし、外的世界からのすべての印象が消し去られるとき、エックハルトがそう呼んだような内的な閃光が輝き出るのです。そのとき彼は、目もくらむような外的世界を前にしては知覚不可能であったために、何か以前はそこになかったように見えたところのものを魂の中で経験するのです。

 神秘家はそのとき、それをはっきりさせるため、彼の魂の中で経験するところのものは外的世界において彼が出会うようなものと比較され得るのかと問います。いいえ、大変な違いがあります。外的世界における私たちの事物に対する関係は、それらの事物がその外的な側面しか私たちに見せないために、私たちはそれらの内面性へと貫き至ることができない、というようなものなのです。私たちが色や音を知覚するとき、私たちはさしあたり、その背後にそれらの隠された側面と見なさざるを得ないような何かが横たわっている、ということに気づくことができます。けれども、私たちが外的世界の印象や概念的なイメージを消し去るやいなや、魂の中に生じる経験に関しては、事情が異なってきます。つまり、私たちは、それらがそれらの外的な側面だけを私たちに見せている、とは言えなくなるのです。何故なら、私たちはそれらの内にいて、それらの一部であるからです。そして、もし私たちに内的な光へと私たち自身を開く才能があるならば、それらは私たちにその真の存在において自らを示すとともに、私たちはそれらを外的世界において出会うようなものとは全く異なるものとして見るのです。と申しますのも、外的世界は至るところで成長と衰退、開花と萎縮、誕生と死から逃れられないからです。そして、小さな閃光が輝き始めるとき、魂の中に自らを現すところのものを観察するならば、すべての成長と衰退、誕生と死に関する考えがそれには適用できない、ということが分かります。何故なら、ここで私たちは何か独立したものに出会うのであって、内と外というような外的世界に属する概念はそれにはふさわしくないからです。ここで私たちが把握するのはもはや事物の表面もしくは外面ではなく、その真の存在における事物そのものなのです。

 私たちが私たち自身の内にある不滅の要素を確かなものとし、そしてその要素と精神、すなわちすべての物質的なものの主要な基盤として考えなければならないものとの緊密な関係を確かなものとするのは、正にこの内的な知識を通してなのです。この経験はその神秘家に、自分は以前の経験を克服し、抹殺しなければならない、通常の魂的生活は終わり、そして生と死に対する勝利者である真の魂が自分の内に生じる、と感じさせるように導きます。神秘家は通常の魂的生活が死んだ後に生じるこの魂の内的な核の目覚めを内的な再生として、つまりキリストの死と再生という歴史的な経過に似たものとして経験します。こうして、彼はキリスト事件が内的で神秘的な経験として彼の魂と精神の中で生起するのを見るのです。

 もし私たちがこの神秘主義的な道を最後まで辿るとすれば、すべての経験の統合とでも呼べるようなものに行き着くに違いない、ということが分かります。何故なら、その道は感覚知覚の多様性、すなわち知覚と感情の潮の満ち引きや思考の豊かな多様性が単純化されるという私たちの魂的生活の本質に属しているからです。と申しますのも、私たちの生活の中心点である自我は私たちの魂的生活の全体に統一を創り出そうとして絶えず働いているからです。ですから、これは明らかなことですが、神秘家が魂的経験の道を歩むとき、それらの経験は、あらゆる種々雑多なものが、自我によって処方された統一に向けて努力する、というような方法で彼の前にやって来ます。したがって、私たちはすべての神秘家の中に精神的な一元論とでも呼ばれ得るものを見出すのです。神秘家が、内的な存在であるところの魂は外的世界において見出されるようなものとは極端に異なる性質を有している、という知識へと自分を上昇させるとき、彼は魂の核と世界の神的・精神的な地盤との調和を自分の存在の内部で経験するのですが、そのために彼はそれらをひとつの統一体として表現するのです。

 私が今お話ししていることは単に記述的なものと見なされなければなりません。それは、魂によってその最も親密な関心事として手渡されてきた個々の神秘的な経験という形によるのでなければ、神秘家が明らかにするところのものを現代的な意味で再構成することは不可能だからです。ですから、神秘家が私たちに語るところの奇妙なことがらを私たち自身の経験と比べてみることもできるのですが、もし自分で経験するのではなく、他の人が個人的に経験したことについての記述に頼らなければならないとすれば、外面的な批判をすることはできないのです。けれども、神秘家が歩む道についてのはっきりとした像を今回の連続講義の基本的な立場から構成することはできます。それは本質的に内的な生活へと入っていく道であり、人間の発達の歴史が示すところによると、それは人間の精神がその啓発へと向かう探求の中で取る道のひとつです。どれが正しい道であるかについては様々の意見があるかも知れませんが、もし私たちが「神秘主義とは何か?」という問いにはっきりとした答えを与えるべきであるならば、追求され得る別の道の上になにがしかの光を当てなければなりません。

 神秘家の歩む道は彼を統一へと、すなわちひとつの神的・精神的な存在へと導きます。彼がこれを行うのは自我によって魂的経験の統一がそこで与えられるところの彼の内的な存在へと導く道に従うことによってです。もうひとつの道は人間の精神が外的世界のヴェールを貫いて存在の根底に至ろうとするとき、いつも取られてきた道です。そこでは、とりわけ人間の思考がその他の多くのものと合同して感覚によって知覚することができ、通常の知性によって把握することができるものを貫いて、表面的な事物の背後に横たわるところのもののより深い理解へと到達しようとしてきたのです。そのような道は、神秘主義の目標とは対照的に、必然的にどこに導くのでしょうか?それは、すべての妥当な関連が考慮されるならば、多種多様な外的な現象からみて、精神的な根底にも同様の多様性が存在しなければならない、という結論に導くのです。近代において、このような思考方法に従ったライプニッツやハーバートのような人たちは、豊かな外的現象をその根底に横たわっているであろういかなる種類の統一性によっても説明することはできない、ということを見てきたのです。要するに、彼らはあらゆる神秘主義に対するアンチテーゼ「単子論」を見出したのです。彼らは、世界が単子もしくは精神的な存在たちの多様性のある活動に基礎づけられている、という観点に達したのです。

 こうして、17、8世紀における偉大な思索家であるライプニッツは自らに次のように言いました。私たちが時空の中で出会うところのものを見て、そのすべてがひとつの統一体から湧き出してくると信じるならば、私たちは道に迷う。それは共同して働く多くのユニットに由来しているに違いない。そして、この単子の相互作用、つまり単子もしくは精神的存在の世界が人間の感覚によって知覚される現象を引き起こすのだ、と。

 これについて今日は詳しくお話しすることはできませんが、精神的な発達の深い探求が示すのは、外に向かう道を取りながら統一性を求める人は誰でも幻覚を免れないということです。つまり、彼らは神秘主義において内的に経験された統一性を一種の影のように外に向かって投影し、そしてこの統一性が外的世界の基礎であり、思考によって理解可能なものである、と信じたのです。けれども、健全な思考は、外的世界にはいかなる統一性も見出されることはなく、その多種多様性は様々の存在もしくは単子相互の働きから生じる、ということに気づきます。神秘主義は統一へと導くのですが、それは自我が魂の唯一の中心として私たちの内的な存在の中で働くからです。外的世界を通る道は、必然的に多様性、多元性、単子論に、すなわち世界についての人間の知識が器官や観察の多様性を通して達成される一方、多くの精神的な存在たちが私たちの世界を生じさせるために、ともに働いているに違いないという観点に導くのです。

 さて、思考の歴史において、はるかな重要性を持っているにもかかわらず、あまりにもわずかな注目しか集めていない地点へと私たちはやって来ました。神秘主義は統一へと導きます。けれども、世界の神的な基礎をひとつの統一体として認識するのは自我の本性、つまり魂の内的な構成に由来します。神秘家が神的・精神的なものを見上げるときには、自我がその統一の印を与えるのです。外的世界についての考察は単子の多様性へと導くのですが、それは単に私たちが世界を観察し、それが私たちに出会うその方法が多様性へと導き、そしてライプニッツやハーバートをして世界の基礎としての多様性を仮定させるように促したからに過ぎないのです。より深い探求は、統一性も多様性も世界の神的・精神的な基盤に適用できるような概念ではない、ということを私たちに気づかせてくれます。何故なら、私たちはそれを統一性によっても多様性によっても性格づけることはできないからです。私たちは、神的・精神的なものはこれらの概念を超越しており、これらによって推し量ることはできない、と言わなければなりません。

哲学的な論争の中で、しばしば反対のものとして示される一元論と多元論の間の争いに光を当てる原則のひとつがこれです。もし、言い争う人たちが、彼らの概念は世界の神的な基盤に近づくには不十分である、ということに気づきさえすれば、彼らは彼らが何を論争しているかを正しい光の下に見るようになるかも知れません。

 さて、私たちは真の神秘主義の本質とは何かを学びました。それは神秘家を真の知識に導くような種類の内的な経験です。その経験が統一的に見えるのはそれが彼自身の自我に由来しているからです。ですから、彼はその統一性を客観的な真実と見なすことにおいて正当化されることはないでしょう。しかし、彼は本当に、精神の実体性がその統一の中に生きているところのものとして経験される、と言うことはできるかも知れません。

 もし、私たちがこの神秘主義の一般的な説明から個々の神秘家に移るとすれば、私たちはしばしば神秘主義の反対者たちによってそれに反対する証拠として持ち出されるところの事実に出会います。個々人の内的な経験は様々な形態を取り、そのため、ある神秘家の経験は別の神秘家のそれと完全には一致しないかも知れないのです。けれども、二人の人間が、あることについて異なる経験をしたからといって、彼らの報告が正しくないということには決してなりません。ある人がある木を右から、そして別の人が左から見て、それぞれが彼ら自身の観点からそれを記述するならば、それは同じ木であり、それらの記述は両方とも正しいかも知れないのです。神秘家の魂的な経験が何故異なっているかについて、この簡単な例が示すことでしょう。つまり、結局のところ、神秘家の内的な生活は完全に空虚なものとして彼の前に現れるのではないのです。外的な経験を消し去り、それらから完全に注意を逸らそうとする神秘家の理想がどんなに大きなものであっても、それらはそれでも彼の魂の中に痕跡を残しますが、このことがひとつの差異を形成するのです。神秘家は彼の出身国の性格からも何らかの影響を受けずにはいられないでしょう。たとえ彼が有していたあらゆる経験を彼の魂から投げ出すにしても、彼の内的な経験は彼自身の人生から得られた言葉と概念によって記述されなければなりません。二人の神秘家が正確に同じ事柄を経験することもあるかも知れませんが、彼らは彼らの以前の人生の結果として、それを異なって記述するでしょう。私たちが、神秘的な経験の現実というものは基本的に同じであるということに気づくことができるようになるのは、私たちが私たち自身の個人的な経験を通して、記述と描写におけるこれらの個人的な違いを許容することができるときだけなのです。それはちょうど私たちが色々な角度から一本の木を写真撮影するよなものです。それらの写真は異なっているかも知れませんが、すべて同じ木の写真に違いはないでしょう。

 ある意味で、神秘的な経験に対する異論と考えられるかも知れない別の点がありますが、私はあれこれの偏見なしに、客観的にお話ししなければなりませんから、この異論は正当なものであり、あらゆる形態の神秘主義に当てはまる、と言わざるを得ないのです。神秘的な経験は非常に親密で内的なものであり、神秘家が経てきた以前の年月から導かれた個人的な性格を有しているという正にそのことのために、神秘主義的な生活について彼が語るいかなることも必然的に彼自身の魂と密接に結びついており、別の魂によって正しく理解されたり、同化されたりすることがきわめて困難なのです。神秘主義の最も親密な側面は、語られたことをどんなに熱心に理解し、その中に入っていこうとしても、いつでも親密なままに留まらざるを得ず、伝えられることが非常に困難なのです。問題になるのは次のような点です。つまりそれは、二人の神秘家が、もし両方が十分に進歩しているならばですが、同じ経験を持ちながら(その時、良心的な人なら誰でも、彼らが同じことについて話しているということに気づくでしょう)、彼らが彼らの以前の年月において異なった経験を通過してきたために、そのことが彼らの神秘主義に独自の色合いを与えるであろう、ということです。このことから、ある神秘家によって用いられる表現や彼の口振りは、それらが神秘主義以前の彼の生活に由来するゆえに、私たちが彼の個人的な背景を理解しようと努力し、そうすることによって、彼が何故そのような話し方をするのかを理解するようにならない限り、いつでも、いくらか理解しがたいものに留まるでしょう。そのため、私たちの注意は普遍的に有効であるものから神秘家自身の個性へと逸らされます。この傾向は神秘主義の歴史の中で観察することができます。

 私たちは、最も奥深い神秘主義者に関しては特に、彼らが得た知識が他の人たちに告げられ、同化されることができる、などという考えを持たないようにしなければなりません。神秘主義的な知識を一般的な人間の知識の一部にすることは全く簡単ではないのです。しかし、だからこそ、私たちはその神秘家に対する興味をますますそそられます。そして、彼を研究することは、彼の中に普遍的な人間のイメージが反映されているために、無限に興味深いことなのです。神秘家が記述し、評価するところのものは、そして彼はそれが彼を存在の根底や源泉に導くという理由でそうするのですが、それ自体、世界の客観的な本性という点では、ほとんど私たちの興味を引きません。私たちが興味を引かれるのはその主観的な面であり、個人としての神秘家に対するその関係なのです。したがって私たちは、神秘主義を研究するとき、正にその神秘家が克服しようとしたことの中に、つまり世界に対する彼の個人的で、直接的な態度の中に価値を見出すのです。もし私たちが、いわば神秘家の側面から、人類の歴史を観察するならば、私たちは確かに人間の本性について多くのことを学ぶことができるでしょう。しかし、神秘家が表現するような言葉の中に(これはあまり強く主張することは決してできないのですが)、私たちにとって直接的な価値があるような何らかのものを見出すというのは非常に難しいことなのです。

 神秘主義とは単子論もしくは二元論の反対側にあるものです。後者はすべての人間が共通に有している外的世界を観察し、熟考することから導かれます。その結果得られる体系は、間違いにつぐ間違いを含んでいるかも知れませんが、それを議論したり、どんな段階にせよ各人が到達した地点からそれらを基にしてなにがしかのことをなすことは可能なのです。

ですから、ここで議論してきた神秘主義は大変に魅力的なものではありますが、それについて今まで述べられたことを私たちの魂に吸収させるとすれば、私たちは全く客観的にその限界に気づくことになります。

もし、私たちが精神科学の方法、すなわち存在の主要な基盤へと貫き至るという目的を持って今日の精神生活のより深い水準から導かれるところの方法との関連で神秘主義を評価するならば、その上にさらなる光が投げかけられます。もし、ある主題がその考え方の微妙さゆえに理解し難いものになっているならば、それを理解する最良の方法とは、しばしばそれを何らかの関連する主題と比較することです。

皆さんは、この連続講義の中で、高次の世界へと上昇する道について何回も聞きました。ある意味で、それは三重の道なのです。私たちは外的な道について、それから中世の神秘家によって取られた内的な道について記述し、後者についてはその限界を明確にしたのでした。今、私たちは精神科学もしくは精神的な探求の適正な道と呼ばれ得るものへと向かうことにしましょう。

私たちは既に、この認識の道がそれを学ぶ人に対し、感覚世界の精神的な基礎に、したがって多元論に導く外的な道も、あるいはその人自身の魂のより深い基盤、そして最終的には世界の神秘的な統一へと導く内的な道も、どちらも取ることを要求しない、ということを見てきました。精神科学は、すぐ手の届くところにある知識によって開かれるこれらの道だけに人間が従わざるを得ないというわけではなく、彼には隠されたまま眠っている認識能力があり、それらから出発することにより、今述べられたようなふたつの道以外の道を見出すことができる、と語ります。

これらふたつの道のいずれかに従う人は感覚世界のヴェールを貫き、存在の根底へと至ることを求め、あるいはまた外的な印象を消し去り、内的な閃光が輝き出るようにさせるかも知れません。しかし、その人はその人が既にそうであるところのままに、そしてそのようになっている状態のままに留まります。ところが、精神科学における基本は、人間が、既に存在している認識能力とともに、今日そうであるような状態に留まる必要はないということです。人間はちょうど彼が今日の段階に進化してきたように現在彼が有している認識能力よりも高次の能力を適切な方法により発達させることができるのです。

 もし、この方法を神秘主義的な認識様式と比較するならば、私たちは次のように言わなければなりません。もし、私たちが外的な印象を取り去るならば、私たちは内的な閃光を見出し、それ以外のものすべてが消し去られたとき、それがいかに輝くかを見るであろう。しかし私たちはそれでも既にそこにあるものを引き寄せているに過ぎないのだ、と。精神科学はそれでは満足しません。それは閃光に至るのですが、そこで立ち止まりません。それは小さな閃光をもっと強い光に変える方法を発達させることを求めます。私たちは外的な道も内的な道も取ることができるのですが、新しい認識能力を発達させるべきである限り、どちらの道も直ちに取ることはないのです。精神科学的探求の現代的な形態は内的な認識能力を内的な道と外的な道が統合されるというような仕方で発達させる点で、中世の神秘主義からも、多元論からも、そして古い秘儀の教えからも区別されます。こうして私たちはいずれの目的地にも等しく導くような道に従うのです。

 このことが可能なのは精神科学の方法による高次の能力の発達が人間を認識における三つの段階へと導くからです。通常の認識から進み出て、それを越えていくところの最初の段階はイマジネーションと呼ばれます。第二の段階は言葉の真の意味でインスピレーションと呼ばれます。最初の段階はどのようにして達成され、より高次の能力が生じるために、魂の中で何が成し遂げられるのでしょうか?それらがどのように発達させられるかというその方法が皆さんに示すのは、いかにこの道において多元論と神秘主義が超越されるかです。イマジネーションもしくはイマジネーション的な認識を理解するために最も役立つ例については既に一度ならず触れられました。それは精神科学者が自分に適用する方法の中から引用されます。それは多くのそのような方法の内のひとつであり、師と弟子の間で交わされる会話の形で最もよく表現されます。

 弟子をイマジネーションへと導くところの高次の能力に向けて教育しようとする師は次のように言うでしょう。「植物を見よ。それは土から生え出て、葉から葉へと展開し、花に至る。それをお前の前に立っているような人間と比較せよ。人間は植物以上の何かを有している。何故なら、彼の思考と感情と感覚の中に世界が照らし出されるからである。すなわち、彼は人間的な意識を有していることにおいて、植物を超越している。しかし、彼はこの意識を購うため、彼を錯誤と不正と悪徳に導くであろう熱情、衝動そして欲望を自分の内に吸収しなければならなかったのだ。植物はその自然法則にしたがって成長する。それはその存在をこれらの法則にしたがって展開しながら、純粋な存在としてその緑の樹液とともに我々の前に立つ。もし我々が幻想に耽るのでなければ、我々はそれを正しい道から逸らせるであろういかなる欲望や熱情や衝動をもそれに帰すことはできない。もし今、我々が人間を貫いて循環するような血を、すなわち人間意識の、あるいは人間自我の外的な表現であるところの血を観察し、それを植物に浸透するみずみずしい葉緑素に満ちた樹液と比較するならば、我々はこの脈打ちながら流れる血がより高い段階の意識へと人間が上昇したことの表現であるのと同じくらい、彼を堕落させる熱情と衝動の表現であることに気づくであろう。」

 「それから」−と、師は続けるでしょう−「人間がさらに発達し、彼の自我を通して、錯誤、悪徳、醜悪さや彼を悪徳へと引きずり下ろそうとするあらゆるものを克服するとともに、彼の熱情や情愛を純化し、洗練すると想像しなさい。人間が追い求める理想、つまり彼の血が、もはやいかなる熱情の表現でもなく、単に彼が彼を引きずり下ろすかも知れないすべてのものを内的に支配していることの表現にすぎなくなるとき実現されるような理想を思い描きなさい。彼の赤い血はそのとき、赤い薔薇の中で変化した緑の樹液に比較されるであろう。ちょうど薔薇が植物の樹液をその本当の純粋性において私たちに示すように、赤い人間の血は、それが純化され、洗練されたとき、人間を引きずり下ろすかも知れないあらゆるものを彼が支配するならば、彼がどのようになるかを、ただし植物の中で達成されたよりもより高次の段階において示すことができるのだ。」

 これらは師が弟子の心と魂の中に呼び起こすことができる感情やイメージです。もし弟子が乾いた棒きれでないならば、もし彼がこの比較によって象徴的に示される秘密全体に彼の感情をもって参入することができるならば、彼は魂をかき立てられ、その精神的な視野の前に象徴的な像として現れるものを経験するでしょう。それは薔薇十字の像、すなわち低次の人間本性の内で抹殺されたものを象徴する黒い十字架と、純化され、洗練されたことによって彼のより高次の魂的本性を純粋に表現するようになった赤い血を表す薔薇かも知れません。このように、赤い薔薇の花冠を架けられた黒い十字架はこの師と弟子の間の会話において魂が経験するところのものを象徴的に要約しているのです。

 もし弟子が薔薇十字を彼にとっての真の象徴となすような感情とイメージに対して彼の魂を開いているならば、つまり、彼が単に薔薇十字を彼の内的な視野の前に置いたと主張するだけではなく、その本質に関する高い次元での経験に向かって苦悶の内に勝ち進んでいたとするならば、彼はこの像や同様の像が単に小さな閃光ではなく、世界に対する新しい見方を彼に可能にするところの新しい認識の力といったようなものを彼の魂の中に呼び起こす、ということを知るようになります。このように、彼は以前の彼に留まっているのではなく、さらなる発達の段階へと彼の魂を上昇させたのです。そして、もし彼がこのことを何度でも行うならば、彼は、最終的には、目にとまる以上のものが外的な世界の中にはあるということを彼に示すところのイマジネーションに到達するでしょう。

 さて、このような認識方法がどのようにして存在するようになったのかを見ることにしましょう。私たちは自分に次のように言ったのではなかったでしょうか?私たちは外的な道を取ろう、そして事物の根底を求めよう、と。私たちは外なる世界へと乗り出すのですが、事物の基礎あるいは分子や原子を求めたりはしません。つまり、私たちは外的な世界が直接に私たちの前に置くところのものに関わることをせず、それから何かを留保するのです。世界に木がなかったとすれば、魂の中に黒い十字架が生じることはできなかったでしょう。そして、その魂が周囲の世界から赤い薔薇の印象を受け取っていなかったとすれば、それを思い浮かべることはできなかったでしょう。ですから、私たちは、神秘家が言うように、あらゆる外的なものを忘れ去り、完全に自分の注意を外的な世界から逸らした、と言うことはできません。私たちは外的な世界に従い、それだけが与えることができるものを取り入れます。しかし、私たちはそれを、ただそれがやって来るままに取り入れるのではありません。何故なら、薔薇十字が自然の中に見出されるということはないからです。では、どのようにして外的世界から取り出された薔薇と木が結びつけられて象徴的な像になったのでしょうか?それは私たち自身の魂の働きだったのです。私たちは、私たちが私たち自身を外的世界に、しかも単にそれを眺めながらではなく、それに心を奪われながら捧げるときに私たちのところにやって来るところの経験や、植物と発展していく人間とを比較することによって私たちが学ぶことができるところのものすべてを内的で神秘的な経験にしたのです。けれども、神秘家がするように、私たちの経験を直ちに自分のものにするということはありませんでした。私たちはそれを外的世界に捧げ、そして、世界が外的に、魂が内的に与えることができるものの助けを借りて、外的な神秘的生活と内的なそれがその中で溶け合うような象徴的な像を作りあげるのです。その像は直接的には外的な世界にも内的な世界にも導くことはなく、力として働くというような仕方で、私たちの前に立ちます。もし私たちが瞑想の中で私たちの魂の前にそれを置くならば、それは新しい精神的な目を開きます。そしてそのとき、私たちは以前には外的な世界にも内的な世界にも見出すことができなかった精神的な世界を見ることができます。そのとき、外的世界の根底に横たわり、今やイマジネーション的な認識を通して経験することができるものが、私たち自身の内的な存在の中に見出すことができるものと同じである、ということを私たちは見定めることができるのです。

 さて、もし私たちがインスピレーションの段階へと上昇するならば、私たちは私たちの象徴的な像の内容を脱ぎ捨てなければなりません。このことは内的な道を取る神秘家が辿る経過にきわめて似たところのものと関連があります。私たちは薔薇と十字架を忘れ去り、その像全体を私たちの魂の目の前から消し去らなければなりません。これはいかに困難なことであってもなされなければならないのです。私たちの魂は植物と人間との象徴的な比較を私たちの前に内的に呼び出すために自らを奮い立たせなければなりませんでした。今や、私たちは私たちの注意をこの活動に、つまり人間の内の克服されるべきものの象徴としての黒い十字架のイメージを呼び出すために魂が行わなければならなかったことに集中しなければなりません。私たちが、この活動を通しての魂的経験の中で、私たち自身を深めるとき、私たちはインスピレーションあるいはインスピレーション的な認識へと至るのです。

 この新しい能力の目覚めは私たちの内的な存在の中に小さな閃光の出現をもたらすばかりではありません。私たちはそれが認識の強力な力として輝き出すのを見るのです。そして私たちは、それを通して私たちの内的な存在に密接に関係しているにもかかわらず、それからは完全に独立しているものとして自らを現すところの何かを経験します。と申しますのも、私たちは私たちの魂的生活が内的な過程であるというだけでなく、何か外的なものに対してもいかに自らを働かせるかを見てきたからです。ですから、ここには神秘主義の残滓としての私たちの内的な存在についての知識があるのですが、それは外なる世界についての知識でもあるのです。

 さて、私たちは神秘家の仕事とは反対の仕事へとやって来ました。私たちがなすべきことは通常の自然科学が行うところのものに似た何かです。つまり、私たちは外的な世界の中に出ていかなければなりません。これは困難なことですが、インテュイションあるいはインテュイション的な認識の段階に上昇するためには不可欠なのです。

 私たちの仕事は今や私たちの注意を私たち自身の活動から逸らすということ、つまり、私たちの内的な視野の前に薔薇十字をもたらすために私たちが行ったことを忘れるということです。もし、私たちが忍耐強く、そしてその訓練を十分長く、しかも正しいやり方で遂行するならば、私たち自身の内的な経験とは全く関係がなく、いかなる主観的な色合いも持たないにもかかわらず、その客観的なあり方によって、人間存在の中心点、すなわち自我と同族であることを示しているのが確認されるような何かが私たちに残る、ということが分かるでしょう。こうして、インテュイション的な認識に至るために、私たちは私たち自身から出ていくのですが、それでも私たちの内的な存在と非常に密接に関係するところの何かへとやって来るのです。こうして、私たちは私たち自身の内的な経験から精神的な経験へと上昇するのですが、これは私たち自身の内部ではなく、外的世界の中で経験されます。このように、私たちはイマジネーション、インスピレーションそしてインテュイションを通過していくところの精神科学的な道の途上で、多元論が有する影の部分と通常の神秘主義が有する影の部分の両方を克服します。

 私たちは今や、神秘主義とは何か?という問いに答えることができます。それは、人間の魂がそれ自身の内的な存在の中に自らを沈潜させることを通して、存在の神的・精神的な源泉を見出そうするその試みなのです。基本的には、精神科学的な認識もまたこの神秘主義的な道を取らなければならないのですが、それは最初にまず準備が必要であり、未成熟なまま乗り出すべきではない、ということをよく知っています。ですから、神秘主義とは人間の魂の中にある正当な衝動に発し、原則的には完全に正当化されるとはいえ、もしその魂がまず最初にイマジネーション的な認識において進歩することを求めなかったならば、あまりに早く取りかかられた企てなのです。もし、私たちが神秘主義によって私たちの通常の生活を深化させようとするならば、私たちは私たち自身を私たち自身から十分に自由にし、独立させることができないことから、私たちの個人的な色合いに染められていない世界像を形成することができない、という危険があるのです。私たちは、インスピレーションの段階へと上昇するとき、私たちの内的な存在を何らかの外的世界から取られてきたものに注ぎ出します。そしてそのとき、私たちは神秘家となる権利を獲得します。ですから、すべての神秘主義は人間の発達における適切な段階で取りかかるべきものなのです。もし私たちがそのための準備ができる前に神秘主義的な知識を達成しようとするならば、それは害があるのです。

 したがって、精神科学は正当な神秘主義の中に、精神科学的な探求の真の目的と意図を私たちに理解できるようにさせるところの段階を認めることができます。この点で、献身的な神秘家の研究から私たちが学ぶことができるほど多くのことをそれから学ぶことができるようなものはほとんどないのです。精神科学者が神秘主義の中に何らかの正当化されるべきものを認めるからといって、彼がさらなる進歩の必要性を否定していると考えるべきではありません。神秘主義が正当化されるのは、それが一定の発達段階にまで引き上げられ、そのためその方法が単に主観的な結果を産み出すのではなく、精神世界に関する真実に対して有効な表現を与えるときだけなのです。

神秘主義的な方法に未熟なまま没頭することによって引き起こされる危険については多くを語る必要はないでしょう。それには、神秘家がその内的な存在を外的世界の中へと成長させるというような仕方で、彼自身の準備ができる前に人間の魂の深みへと降りていくことが含まれます。そのとき、彼は外的世界に対してしばしば自分自身を閉ざしがちになるのですが、これは基本的には単に洗練され、隠された形のエゴイズムなのです。このことがよく当てはまるのは、外的世界に背を向け、そしてこの黄金の気分がその内的な生活に浸透するとき、その魂の中に溢れるあの有頂天、意気軒昂、解放の感情に耽る神秘家です。このエゴイズムが克服され得るのは、自我が自らを外部に手渡し、その活動を象徴の形成によって外的世界の中に流れ込まさざるを得ないときです。こうして、イマジネーション的な象徴主義がエゴイズムとは無縁の真実の表現へと導くのです。神秘家がその発達の過程で、あまりに早く知識を追い求めることによって引き起こされる危険とは、常軌を逸した人、あるいは洗練されたエゴイストになるということなのです。

神秘主義は正当化されます。そして、アンジェラス・シレジウスが次のように言うのは正しいのです。

あなたが神の優越の中で、あなた自身を超越するなら、

     その時、あなたの中で上昇が支配するだろう!

人間が、その魂を発達させることによって、自分自身の内的な存在に至り、そればかりではなく、外的世界の下に横たわる精神の王国にも到達する、というのは本当です。しかし、彼は十分な熱心さをもって、彼自身を超越するという仕事にかからなければなりません。そしてこのことを、正に今あるような自分自身の中で単にくよくよ考えることと混同するべきではありません。彼はアンジェラス・シレジウスの言葉を最初の行、二番目の行ともに深刻に受け取らなければなりません。もし、私たちが神の顕現の何らかの側面にしり込みするならば、私たちはこのことに失敗するでしょう。すなわち、私たちは私たちが外的世界からの顕現として私たちの中に流れ込むものすべてに私たちの内的な存在を捧げることができるときにだけ、神の統治を許すのです。もし、この考え方が私たちの精神科学的な認識と関係づけられるならば、私たちは正しい意味で第二の路線を取っていることになります。私たちは、私たちの中で、内的世界と外的世界の神的・精神的な基盤による統治を許すのです。そして私たちは、そのときにだけ、「天国への道」にあることを望むことができます。これは、私たちが私たち自身の内的世界や外的世界の色合いに染められていない精神の領域、つまり、私たちの上に輝く無限の星の世界、地球を包む大気、生い茂る緑の植物、海に流れ込む川と同じ基盤を有する領域にやって来るということを意味しています。そしてその一方で、その同じ神的・精神的な要素は私たちの思考、感情、そして意志の中にも生きており、私たちの内的及び外的な世界に浸透しているのです。

 これらの例は、アンジェラス・シレジウスが語ったような格言はそれを読むだけでは不十分である、ということを示すでしょう。つまり、私たちは、そこで初めてそれが真に理解できるようになるところの正しい段階においてそれを取り上げなければならないのです。私たちはそのとき、神秘主義が、その有している正しい核のゆえに、私たちを、私たちが徐々に精神的な領域をのぞき見ることを学ぶことができるほどに成熟しているであろう地点へと本当に導くことができ、そして、アンジェラス・シレジウスの美しい言葉の中に見出され得るものを私たちにとって最高の意味で現実のものにすることができる、ということを理解するでしょう。

あなたがあなた自身をあなた自身の上に引き上げ、世界の神的・精神的な基盤があなたの中で統治するのを許すとき、あなたは存在の神的・精神的な源泉へと続く天国の道を歩んでいます。


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