ルドルフ・シュタイナー

「魂生活の変容−経験の道」(第二巻)(GA59)

佐々木義之 訳

第4講「祈りの本性」

1910年2月17日)


 神秘主義に関する講義の中で、私たちはマイスター・エックハルトからアンジェラス・シレジウスに至る中世の神秘主義において現れたところの内的深化に関する特別な形態についてお話ししました。その特徴は、神秘家が外的世界からやって来る経験のすべてから彼自身を自由にし、独立させることを求める、ということにあります。彼は、通常の生活に関係するあらゆるものが消し去られ、魂がそれ自身の中に引きこもるとき、それでも、それはいわばそれ自身の世界をその中に有している、ということを彼に明らかにするであろう経験へと押し進もうとするのです。この世界はいつでもそこにあるのですが、外的な経験が人間をあまりにも力強く照らし、そのため、大部分の人々が決してそれに気づかないほど弱い光のように見えるのです。このため、神秘家はしばしばこれを小さな閃光と呼びます。けれども彼はそれを存在の源泉とその根底を照らし出す力強い炎へと燃え上がらせることができる、言い換えれば、それは人をして彼自身の魂の道を通り、彼の起源についての認識に導くと確信しているのですが、それは正に「神の認識」と呼ばれ得るものなのです。

 私たちは、同じ講義の中で、いかに中世の神秘家たちがその小さな閃光を、その本性は不変のままで、自然に成長するべきものと考えていたかを観察しました。これとは反対に、現代の精神的な探求においては、これらの内的な魂の力を意識的なコントロールの下で発達させることによって、イマジネーション、インスピレーション、インテュイションと呼ばれるところのより高次の形態を有する認識へと上昇させることが要求される、ということを強調しました。ですから、この内的な献身がそれに向けられる中世の神秘主義は、真の精神的な探求への一種の第一段階として私たちの前に現れるのです。もし、私たちが、私たち自身をマイスター・エックハルトの内的な熱情の中に沈めることができるならば、もし、この神秘主義的な献身がヨハネス・タウラーに与えた精神的な知識の測りがたい力を認めるとすれば、もし、ヴァレンチン・ワイゲルやヤーコブ・ベーメがこの物理的な献身を通して(とはいえ、彼らは明らかにそれ以上に進んでいたのですが)達成されるものすべてによって、いかに深く存在の秘密へと導かれたかを認めるならば、もし、アンジェラス・シレジウスが、いかにこのおなじ献身を通して、精神的な世界秩序に関する一般法則への開明的な洞察を獲得できたばかりではなく、世界の秘密に対し、その著作の中で、心温まるような美しい表現を与えることができたかを理解するならば、もし、このすべてを心に留めるならば、私たちは、この中世の神秘主義の中に潜む力と深み、そしてそれが精神科学的な道を自ら辿ることを望むすべての人に与えることができる無限の手助けを実感することになるでしょう。このように、中世の神秘主義は、特に前回の講義の光に照らされたとき、精神科学的な探求のためのすばらしく偉大な準備のための学校と見なされ得るものなのです。そして、そうではないということがあり得るでしょうか?結局のところ、精神科学者の目的とは、その小さな閃光を彼自身の内的な力を通して発達させるということなのです。異なるのは、神秘家が、魂の安らぎの中で、その小さな閃光に彼ら自身を捧げることができ、そして、それが、それ自身の調和の中で、ますます明るく輝き出るだろうと信じていたのに対し、精神科学者は、その閃光を明るい炎へと点火するするためには、私たちの意志に仕えさせるために世界の叡知によってそこに置かれるところの私たちの能力と力を使用しなければならないと確信している、という点だけなのです。もし、そのとき、その神秘的な心の炎が精神科学のためのよい準備となるであるならば、私たちは、今度は、神秘的な献身のための準備となるところの、真の意味で祈りと呼ばれ得る魂の活動を有することになるのです。ちょうど神秘家が、たとえ無意識的にではあっても、彼の魂をそれに向けて訓練することによって、内的な献身に到達することができるように、もし、私たちが物理的な瞑想に向かう同様の道に沿って歩みを進めたいと望むならば、私たちは、真の祈りの中に、ひとつの準備段階を求めることができるのです。

 ここ何世紀かにわたって、祈りの本性は、あれこれの精神運動によって、実に様々な方法で誤解されてきました。そして、それに関する真の理解を獲得することは簡単ではないかも知れませんが、もし、これらの世紀が、特に利己的な精神的潮流が幅広い人々の集団を捉えたという点で特徴づけられる、ということを思い出すならば、私たちは、祈りが利己的な望みや欲望のレベルにまで引きずり下ろされたのは驚くべきことではない、ということを見出すでしょう。そして、祈りは、それが何らかの形のエゴイズムに浸透されているときほどひどく誤解されることはほとんどない、ということを申し上げなければなりません。今回の講義では、もっぱら、いかなる宗派からも、あるいはその他の影響からも自由な精神科学という光の下に、祈りについて探求してみることにしましょう。

 私たちは、最初のアプローチとして、次のように言うことができるかも知れません。神秘家は、彼の神秘的な献身によってどこまでも明るく輝くようにさせられるであろうある種の閃光が彼の魂の中に見出されるはずである、と考えており、祈りとはその閃光を生じさせるために意図されたものである、と。そして、祈りとは、それがいかなる前提から出てきたものであれ、正に、その魂をかきたて、徐々にその小さな閃光を、つまり、もし、それがそこにあればですが、そのきらめきながらも隠された閃光を見出させることによって、あるいはそれを点火させることによってこそ、その有効性を証明するものなのです。

 もし、私たちが祈りの必要性とその本性を探求すべきであるならば、私たちは、以前の講義でも引用した古いギリシャの聖人、ヘラクリトスの「あなたがいかなる道を探求したとしても、魂の境を見出すことは決してできないであろう、魂の存在とはそれほど包括的なものなのだ。」という、普遍的な妥当性をもつ言葉を心に留めながら、その魂についての深い記述へと入っていかなければなりません。そして、私たちは、最初、祈りの中に、魂の内的な秘密を探し求めるだけなのですが、祈りによってかき立てられる親密な感情は、最も素朴な人に対してさえ、魂的生活の無限の広がりについて、何らかの示唆を与えることができるのです。私たちは、魂が生きた進化の過程にたずさわっている、ということに気づかなければなりません。それは、単に過去からやって来るだけではなく、絶えず未来に向けて旅しています。過去からの影響が現在の瞬間瞬間へと展開するように、ある意味で、未来からの影響もそうなのです。

 魂の生活を深く洞察する人は誰でも、これらふたつの流れ、過去からの流れと未来からの流れが絶えずそこで出会っている、ということを理解するでしょう。私たちが過去からの影響を受けているというのは明らかな事実です。昨日の活力あるいは怠惰が今日の私たちに何らかの影響力を持つ、ということを誰が否定できるでしょうか?けれども、私たちは未来の現実性もまた否定すべきではありません。と申しますのも、私たちは、未来の出来事が、それがまだ生起していないにもかかわらず、魂の中に侵入するのを観察することができるからです。結局のところ、明日起こりそうな何かに対する恐れや心配とは、一種の未来に関する感情や知覚ではないでしょうか?魂が恐れや心配を経験するとき、それがその感情という現実によって示しているのは、それが、過去だけではなく、未来からそれに向けて急ぎ来るところの何かをも、非常に生き生きとした方法で計算に入れている、ということなのです。もちろん、これらは単純な例ですが、魂を探求する人は誰であれ、未来はまだ存在していないゆえに現在にその影響があるはずがないという抽象的な論理に矛盾するところの無数の例を見出すであろう、ということを示唆するには十分でしょう。このように、ふたつの流れ、ひとつは未来からの、もうひとつは過去からの流れが、魂の中で出会い(自分を観察する人ならば、誰がこのことを否定するでしょうか?)、そして、ふたつの川の合流点に比べられるような一種の渦巻きを形成するのです。もっと詳しい観察は、過去の経験から私たちに残された印象が、そして、私たちはその印象の中でそれらの経験を処理してきたのですが、現在あるような魂を形作ってきた、ということを示します。私たちは、私たちが過去に行い、感じ、そして考えたことの名残を私たちの内に担っているのです。私たちがこれらの過去の経験を、とりわけ、私たちがその中で活動的な役割を演じた経験を振り返ってみるとき、私たちは、非常にしばしば、私たち自身の評価を強いられることになります。私たちは、過去に生起したある行いに対し、私たちの現在の立場から同意しないというような、私たちの過去における行いのいくつかについて、恥じらいをもって振り返ることさえできるというような段階に到達しているのです。

 もし、このようにして、私たちの過去を私たちの現在と比べてみるならば、私たちは、私たちが私たち自身の力によって、私たち自身から創り出したところのいかなるものよりも、はるかに豊かで、はるかに重要な何かが私たちの内にある、ということを感じるようになるでしょう。もし、私たちの意識的な自我を超えて広がるその何かがなかったとすれば、私たちは、私たち自身を非難したり、あるいは、私たち自身を知ることさえできなかったでしょう。ですから、私たちは、私たちが、過去において、私たち自身を形成するために用いてきたところのいかなるものよりも偉大なものを、私たちの内に有しているに違いないのです。もし、私たちがこの意識を感情にまで変化させるならば、私たちは、私たちの過去の行いにおけるあらゆること、つまり、記憶が私たちの前にはっきりともたらすことができるところの経験を振り返ることができるようになり、そして、これらの経験を何かより偉大なものと、つまり、私たちの魂の中にあるところの私たちをして私たち自身に直面させるように、そして、現在の立場から私たち自身を評価させるように導く何かと比較することができるようになるでしょう。要するに、過去から私たちの中に流れ込むものを観察するとき、私たちは、私たち自身を超えて広がる何かを私たちの内に有していると感じるのです。これに親しむことが、私たちの内の神についての感情、つまり、私たちのすべての意志の力よりも偉大な何かが私たちの中にひそんでいるという感情への最初の目覚めなのです。こうして、私たちは、私たちの限定された自我を超え、神的・精神的な自我に向かうように導かれます。このことが過去を凝視することから生じます。そして、それは知覚的な感情へと変化しているのです。

 では、未来からの流れは、やはり知覚的な感情という意味で、私たちに何を語るのでしょうか?それはより明確で、もっと強い言葉で私たちに語りかけます。それは、私たちが、ここでは、恐れや心配、希望や楽しみといった感情に直接関わっているからです。と申しますのも、それに関する出来事はまだ起こっておらず、ただそれらに結びついた感情だけが魂の中に打ち込んで来ているだけだからです。そして、私たちは、この未来からの流れが、私たちの期待とは異なる影響や責任をもたらすかも知れない、ということを知っています。もし、私たちが、私たち自身を、それがいかなる経験であろうとも、未来の暗い子宮から確実に私たちに向かってやって来るものに正しく関係づけることができるならば、私たちは、いかにそれが絶えず魂を刺激しているか、ということを理解するでしょう。私たちは、魂が、未来においては、いかに現在よりもはるかに豊かに、はるかに広い範囲を見通すようになるかということを、つまり、私たちは、既に、近づきつつある未来に関係づけられており、私たちの魂は、それが何をもたらすにしても、それに調和していなければならない、ということを感じるのです。

 もし、私たちが、このようにして、いかに過去と未来とが現在へと流れ込んでいるかを観察するならば、いかに魂の生活がそれ自身を超えて成長するかを理解します。魂が過去を振り返るに際して、現在へと働きかける過去からの力、魂自身よりも大きな力を意識するとき、この認識は、それが評価であったとしても、後悔や恥じらいをもって振り返るにしても、神的なものに対する尊敬の念をその中に引き起こすのです。そして、この尊敬の念、つまり、私たちが私たちの上に働きかけているのを感じながらも、私たちが意識的に把握することができる以上の尊敬の念がひとつの祈りの形式(と申しますのも、ふたつの形式があるからですが)を引き起こし、それが魂を神との親密な関係へともたらすのです。と申しますのも、もし、魂が、最も内的な平静の中で、過去によって引き起こされる感情に自らを捧げるならば、それは、今や、それが使ってこなかった力、自我をもって浸透しないままになっていた力を現実のものにすることを欲し始めるであろうからです。そのとき、魂は自らに次のように言うことができます。もし、この力が私の内にあるとすれば、それは今や別のものになっていなければならない。私が希求する神的な要素は私の内的な生活に属してはいなかった。私が私自身を、今日私が肯定できるであろうような何かにすることができなかったのはそのためなのだ、と。このことを認識できるようになった魂は次のように続けるでしょう。私は、どうすれば、私のすべての活動や経験の中に、私がそれに気づくことな生きていたところの見知らぬものを、何故なら、私はそれを私の自我によって把握することができなかったからなのだが、私自身の中に引き込むことができるのだろうか?と。魂が、感情を通して、言葉あるいは考えを通して、この心の炎の中へともたらされるとき、私たちは過去に向けて祈りを捧げるのです。このことは、魂が「ひとつの」献身の道を通して、神的なものに近づこうとしていることを意味しています。

 さて、今度は、見知らぬ未来からの流れとともにやって来る神的なもののきらめきについて見てみましょう。ここでは異なった心の炎が喚起されます。今まで見て来ましたように、私たちが過去を振り返るときには、私たちは、私たちの内的な能力を発達させてこなかったということに気づきます。すなわち、私たちは、いかに私たちの欠点が、私たちの上に輝く神的な光に私たちが応えるのを妨げて来たかを見るのですが、この感情が、過去によって促されるところの献身の祈りへと私たちを導くのです。では、同様にして、私たちが精神的なものへと上昇するのを制限するような欠点に気づかせてくれるところの影響であって、未来からやって来る影響とは何でしょうか?

 それを知るには、私たちが不確かな未来に直面したとき、私たちの魂生活を悩ますところの恐れと不安の感情を思い出しさえすればよいのです。この状況において、魂に安心感を与えるものが何かあるでしょうか?そうですね、それは、未来の暗闇の中から魂へとやって来るところの何らかのものに対する謙遜の感情とでも呼べるものです。けれども、この感情が有効なのは、ただそれが祈りの性格を有しているときだけです。誤解を避けるために申し上げますが、私たちはあれこれの意味で謙遜と呼ばれ得るかも知れないところの何かを賛美しているのではありません。私たちはその一定の形態、すなわち、未来がもたらすであろう何らかのものに対する謙遜について記述しているのです。不安と恐れをもって未来を見つめる人は誰でも、自分の発達を妨げ、彼の魂の力が自由に展開するのを妨害しているのです。不確かな未来に直面したとき、恐れと不安ほどこの発達を妨げるものは、実際、何もないのです。しかし、未来を甘受することの結果は、経験によってのみ評価され得ます。この謙遜とは何を意味しているのでしょうか?

 それは、理想的には、自らに次のように言うことを意味しているでしょう。次の一時間、あるいは次の日が何をもたらそうとも、恐れや心配によってそれを変えることはできない。何故なら、それは、まだ見ぬものなのだから。したがって、私は完全な内的平穏、完全な心の平静をもってそれを待ち受けることにしよう、と。活動的な力とエネルギーを損なうことなく、このように静かでリラックスした仕方で未来に出会う人は誰でも、彼の魂の力を自由に、力強く発達させることができるでしょう。魂がこの迫りくる出来事に対する謙遜の感情に浸透されればされるほど、まるで障害が次から次と崩れ去るかのようです。

 けれども、何らかの命令や、確固とした基礎を持たない気ままな決定によって、この感情が魂の中に呼び出されることはありません。それは、未来とそこで生じる叡知に満ちた経過に向けられる第二の祈りの形式の中から湧き出してくるのです。この神的な叡知に私たちを委ねるということは、私たちが、来るはずのものは来なければならない、それはひとつの方向、あるいは別の方向において良い影響を及ぼすに違いないのだという認識を伴うところの思考、感情そして衝動を何度でも呼び出す、ということを意味しています。この心の炎を呼び出すということ、そして、それに言葉、知覚、そして考えによる表現を与えるということが、祈りの第二の形式、献身的な甘受の祈りなのです。

祈りへの衝動はこれらの感情からやって来なければなりません。と申しますのも、それらの感情は、魂そのものの中に存在しており、基本的には、目前に迫るものから少しでも自らを上昇させる魂の中で、それを祈りに向けて導くものだからです。祈りの前提条件が整うのは、魂がその眼差しを移ろいゆく現在から過去、現在そして未来を包含するところの永遠なるものへと向けるときである、と言ってもよいでしょう。ゲーテがファウストに次のような偉大な言葉をメフィストフェレスに向けて語らせたのは、自らを現在から上昇させるということが、それほどまでに必要なことだったからです。

もし、急ぎ過ぎ去る現在という瞬間に

   「拘泥する」ならば、私は叫ぶ、「お前の勝ちだ!」

これは次のことを意味しています。もし私が現在に生きることに満足するならば、

そのときには、お前は私を足かせにつなぐがよい、

私を消滅させるがよい、それが何ほどのことであろうか!

ここでは、次のように言うこともできるでしょう。ファウストが彼の同行者、メフィストフェレスの足かせから逃れるために乞うたのは、祈りの力を求めてである、と。

 したがって、祈りの経験は、一方では、過去から現在までその歩みを進めてきた狭量な自我を観察することへと私たちを導くとともに、私たちの中には、私たちが用いてきたよりもいかに遙かに多くのものがあるかをはっきりと示し、他方では、私たちを未来へと導き、これまで自我が把握することができたものに比べて、いかにもっと多くのものが未来から流れてくることができるかを私たちに示すのです。もし、私たちがこのことを理解するならば、私たちは、あらゆる祈りの中に、私たちに私たち自身を超えさせるところの力を見出すことになります。祈りとは、現在そうであるような私たちの自我を超えることを求めるところの力を私たちの内に点火すること以外のものであり得るでしょうか?そして、もし、自我がこの衝動に捉えられているならば、それはそれ自身を発達させる力を既に有しているのです。私たちが私たちの内に有しているのは、私たちが今まで用いてきたところのもの以上のものなのだ、ということを過去が私たちに教えているならば、祈りとは、神的なものの存在が私たちを満たすことを求める、その神的なものに対する叫びなのです。私たちが、私たちの感情と知覚を通して、この認識へと至ったとき、私たちは祈りを、私たちの自我の発達を助ける力のひとつとして数えることができるようになります。

このことは未来へと向けられる祈りについても同様です。もし、私たちが、近づきつつある未来に関して、恐れと不安の中に生きるならば、私たちは祈りがもたらすことができる謙遜の態度に欠けているのです。私たちは、私たちの運命が世界の叡知によって秩序づけられている、ということに気づき損ないます。しかし、もし、私たちが謙遜と献身をもって未来を迎えるとすれば、私たちは、実り多い希望の中で、それに近づくことになります。私たちを小さくするように見えるかも知れないところの謙遜が、魂を豊かにし、私たちをより高い発達段階に運び上げる強力な力になる、というのはそういうことなのです。

 私たちは、いかなる外的な結果も祈りに期待する必要はありません。何故なら、私たちは、祈りを通して、私たちの魂に、光と熱の源泉を植え付けたのだということを知っているからです。それは、未来との関係では、魂を自由にし、未来の暗い子宮の中から現れ出るであろういかなるものをも受容できるように配置するがゆえに光の源泉なのであり、そして、確かに、過去においては、私たちは、私たちの自我の中で、神的な要素を実りへともたらすことができなかったけれども、今や、それが私たちの内で有効な力となるように、私たちの感情をそれで満たしたのだ、ということを私たちに気づかせてくれるがゆえに熱の源泉なのです。過去を振り返ることからわき上がってくるところの祈りが、祈りをその真の意味において理解するすべての人によって語られるあの熱を生じさせるのです。そして、内的な光がやって来るのは、未来に向けた謙遜の祈りを理解する人たちのところへなのです。

 この観点からすれば、最も偉大な神秘家達が、内的な瞑想を通して達成しようと望んだことに対する最良の準備を、彼らの祈りへの没頭の中に見出した、というのは驚くにはあたらないことのように見えるでしょう。彼らは、彼らの内の小さな閃光が明るく輝くようになる地点にまで彼らの魂を導きました。真の祈りが与えることができるあのすばらしい親密さの感情への道が開けるのは、正に、過去への参入を通してなのです。外的世界に関する気遣いは、ちょうど、過去において、それが私たちの内のより力強い要素、すなわち自分自身を意識した自我の出現を妨げたように、私たちを私たち自身から疎遠にします。私たちは外的な印象や様々な外的生活からの要請に明け暮れました。それらは、私たちをバラバラに引き裂き、静かさの中で私たち自身を回想することができないようにします。これが、私たちの内にある力強い神的な力の展開を妨げたものなのです。しかし、もし今、私たちが、親密な祈りの中で、それを展開させるならば、私たちは、外的世界の破壊的な影響に曝される、ということがなくなるでしょう。私たちは、私たちを内的な祝福で満たし、真に神的なものと呼ばれ得るところのあのすばらしい内的な熱を感じることでしょう。外的なものの中で自己を失いつつある魂は、それらを経験することを通して、自らを奮い立たせることができるようになるのです。祈りの間、私たちは「神」の感情の中で暖められますが、私たちは、単に熱を感じるだけではなく、心の底から、私たち自身の中で生きるのです。

他方、私たちが外的世界の事物に向かうとき、私たちはいつでも、それらが未来の暗い子宮と呼ばれてきたところのものに包含されているのを見出します。詳細に観察は、私たちが外的世界で出会うところのあらゆるものの中には、いつでも未来のヒントがある、ということを示します。私たちが、私たちに降りかかってくるものに関して、恐れや不安を感じるときにはいつでも、何かが私たちを遠くへ押しやり、外的世界は、貫き難いヴェールのように、私たちの前に立ちはだかります。もし、私たちが、未来から私たちのところへやって来るものが何であれ、それに対する献身的な謙遜の感情を発達させるならば、私たちは、あらゆる外的世界の事物に、この感情が生じさせるところの確信と希望をもって出会うことができる、ということを見出します。そして、そのとき、私たちは、すべての事物の中には、叡知の光が私たちに向けて輝いているのだ、ということを知るのです。これができないとき、私たちは、私たちが行き当たるあらゆるものにおいて、私たちの感情の中に広がる闇に出会います。ですから、献身的な帰依の祈りの中で、私たちのところにやって来るのは、世界全体から光が輝き出ることに対する希望なのです。

もし、私たちが夜の闇に囲まれてどこかに立っていたとしますと、私たちは、打ち捨てられ、私たち自身の中に押し込められているように感じるでしょう。朝が光をもたらすとき、私たちは解放されたと感じるのですが、単に、私たちが自分自身から逃げ出すことを欲するかのようにではなく、私たちが、今や、私たちの最良の望みや熱望を外的な世界にもたらすことができるかのように感じるのです。同様に、私たちは、私たちを私たち自身から遠ざけるところの世界に対する自らの放棄が、私たちを私たち自身に結びつけるところの祈りの熱によって、いかに克服されるかを感じることができます。そして、この祈りの熱を謙遜の感情へと私たちがもたらすとき、それは光になります。そして、今や、私たちが、私たち自身から歩み出て、私たち自身を外的世界に結びつけ、それを眺めるとき、私たちは、もはや私たちがそれによって引き裂かれたり、疎遠にされたりしているのではなく、私たちの魂からその最良のものが流れ出し、それが、私たちを、外的世界から私たちの上に輝くところの光に結びつける、と感じるのです。

 これらふたつの祈りの形式は、概念によってというよりも、イメージの中でよりよく表現されます。私たちは、例えば、旧約聖書にあるヤコブとその魂を震撼させる夜の試練についての物語に思いを馳せることができます。彼は、まるで私たち自身が世界の様々の圧力に曝され、そこでは、最初、魂が失われ、それを取り戻すことができないでいるかのような仕方で、私たちの前に現れます。私たち自身を見出そうとする努力が始まるとき、それは、私たちの高次の自我と低次の自我の間の衝突を引き起こすのです。そのとき、私たちの感情は大きく波打つのですが、祈りは私たちが自分の道を歩み通すのを助け、ついには、ヤコブの物語の中であらかじめ示されているような瞬間、すなわち、昇る太陽が彼を照らすとき、夜中中続いた苦しみが解消され、調和がもたらされた、と告げられる瞬間がやって来るようにするのです。これは、実際、祈りが魂のために為すことができることなのです。

 この光の中で見るとき、祈りはいかなる迷信からも自由です。何故なら、祈りは私たちの中の最良のものを取り出し、魂の中のひとつの力として直接に働くからです。こうして、祈りは、ちょうど神秘的な思索そのものが、精神的な探求として私たちに知られているもののための準備であるように、その神秘的な思索のための準備なのです。祈りについての私たちの議論は、私たちがここで何度もお話ししてきたことを例証するでしょう。つまり、もし、私たちが、神秘的な方法によって、私たち自身の中に、神的なもの、「神」を見出すことができると信じるならば、私たちは、間違いにつぐ間違いを繰り返すことになる、ということをです。この間違いは、中世を通して、神秘家により、あるいは普通のキリスト者によってさえ、何度も繰り返されてきました。そのようなことが起こったのは、祈りの実践がエゴイズムによって浸透されるようになったからです。エゴイズムは、魂に対し、次のように言うように強いるのです。私はますます完全になるのだ、そして、私自身が完全になること以外は考えないようにするのだ、と。私たちは、間違って指導された神智学の形態が、あらゆる外的なものから単に目をそむけさえすれば、私たちは私たちの中に「神」を見出すことができるのだ、と断言するとき、この利己的な願望の残響を聞くことができます。

 私たちは、祈りにはふたつの形式があるのを見てきました。ひとつは内的な熱に導きます。未来に向かっての謙遜の感情に色づけられたもうひとつの祈りは世界へと導き、それによって開明と真の認識に導きます。祈りをこのように見る人であれば誰でも、通常の知的な方法によって獲得された知識は、別の種類のそれに比べると、不毛であることがすぐに分かります。祈りとは何かを知っている人は誰でも、魂を自らの中に取り戻すことに精通するでしょう。そして、そのとき、魂は、その思考を現在の瞬間から引き上げ、それらを過去と未来に捧げることによって、世界の破壊的な多元性から自らを自由にし、内的に集中するのです。もし、私たちがこの状態について知っているとすれば、私たちが有することができる最も繊細な思考と感情だけが魂の中にあるときには、多分、これらさえも消え去り、ただふたつの方向、すなわち、過去から自らを告げる「神」と、未来から自らを告げる「神」とを指し示す基本的な感情だけが残っているときには、もし、そのとき、私たちがこの感情の中に生きるようになっているならば、あの偉大な瞬間がその魂に訪れ、魂が自らに次のように言うのが分かります。私は、私の利口者の思考が私の意識の中に創り出したあらゆるもの、私の感情と知覚がもたらしたあらゆるもの、そして、私の意志の力と私の教育が設定したすべての理想から目をそむけた、これらすべてを一掃したのだ。私は、私の最も高次の思考と感情に没頭し、そしてこれらさえ、私は今や消し去った。そして、既に述べたような基本的な感情だけを保持しているのだ、と。もし、私たちがこの段階に到達しているならば、これまで私たちには知られていなかった新しい感情が、私たちが純粋な目をもってそれを見るとき、自然の驚異が私たちの前に現れるのと同じ仕方で、魂の中に輝き込むのが分かります。私たちの知らない意志衝動と理想が魂の中にわき上がり、その基盤から、最も実り多い瞬間が生じるのです。

 祈りが私たちの手近な能力を超えたところにある叡知を最良の意味で私たちに吹き込むことができる、というのはそういうことなのです。つまり、それは私たちがまだ達成していない感情や知覚の可能性を私たちに与えるのです。そして、もし、祈りが私たちの自己教育をさらに進めるならば、それは私たちがそこまではまだ上昇できないでいるところの意志の力を私たちに付与することができるのです。確かに、もし、私たちがこのすべてを成し遂げるべきであるならば、私たちは、まず、最も繊細な感情と衝動を私たちの魂の中に養成し、育む必要があるでしょう。そして、私たちは、ここでもまた、最も初期の時代における最も厳粛な機会に、人類に与えられたところの祈りに対して注意を促さなければなりません。

 皆さんは、私の小冊子、「主の祈り」の中に、その中の七つの祈願が世界のすべての叡知を包含していることを説明する記述を見出されるでしょう。さて、皆さんは次のように言いたい気持ちになるかも知れません。この小冊子の中では、七つの祈願は、宇宙のより深い源泉を知るようになった人によってのみ理解され得る、ということが告げられている。しかし、明らかに、素朴な人は、その祈りを繰り返すときにも、それらの深みを推し量ることはできないだろう、と。しかし、それができる必要はないのです。主の祈りが存在するようになるためには、包括的な世界の叡知が、人間と世界の最も深い秘密と呼ばれ得るものを言葉の中に定着させなければなりませんでした。これが主の祈りの内容であるわけですから、それは、その深みを理解するというにはほど遠い人々のためにさえ、その言い回しについて記述するのです。実際、これが真の祈りの秘密なのです。それは、世界の叡知から引き出されなければならないのですが、だからこそ、それが理解されないときでさえ、効果的であり得るのです。私たちがそれを理解することができるようになるのは、私たちがより高次の段階に上昇するときです。そして、祈りと神秘主義はそのための準備なのです。祈りは、私たちにとって、神秘主義のための準備となり、神秘主義は瞑想と集中のための準備となります。そして、その地点から、私たちは精神科学の真の働きへと向かうのです。

 祈りが真に効果的であるためには、私たちはそれを理解しなければならない、と言うならば、それは本当ではありません。誰が一本の花の叡知を理解するでしょうか?にもかかわらず、私たちは皆、その中に喜びを見出すことができるのです。同様に、祈りの創造の中に、世界の叡知が入り込んでいるならば、その秘密が把握されないとしても、それはその熱と光を魂の中に注ぎ込むことができるのです。しかし、それが叡知から創造されたのではないとすれば、それはこの力を有することはないでしょう。祈りの中の叡知がどれほど奥深いものであるかは、その効果によって示されるのです。

 魂は、この力の影響下に、本当に自らを発達させることができるとはいえ、真の祈りは、私たちがいかなる発達段階に到達していても、私たちに与えるべき何かを持っている、ということもまた申し上げなければなりません。多分、祈りの言葉以上のことは何も知らないような、最も素朴な人であっても、その祈りが彼の魂に及ぼす影響を受け取ることができ、そして、彼を高みへと上昇させる力を呼び出すことができる、というのが祈りなのです。けれども、私たちがどんなに高い段階に達していたとしても、ひとつの祈りで終ることは決してありません。それは私たちをさらに高い段階へと絶えず上昇させるのです。そして、主の祈りは単に話すためのものではありません。それは神秘的な心の炎を呼び出すことができるとともに、より高次の瞑想と集中形式の主題であることができるのです。このことは他の多くの祈りについても言うことができるでしょう。

 けれども、中世以降、何かが前面に出てきました。それは、祈りの純粋さとそれに伴う心の状態を損なうところの一種のエゴイズムです。もし、私たちが祈りを、多くのキリスト者達が中世を通じて行い、そして、多分、今日でも行っているように、私たち自身の中に引きこもり、そして、私たち自身をより完全にするという目的だけをもって利用するならば、そして、もし、それが何であろうと、私たちが受け取っているであろう何らかの光をもって、私たちが私たちの周りの世界に目をやることに失敗するならば、そのとき、祈りは、私たちを世界から切り離し、私たちをその中のさまよい人であるかのように感じさせる、ということにのみ成功するでしょう。これは偽りの厭世主義や隠遁に関連して祈りを用いてきた人たちにしばしば起こったことです。これらの人々は、薔薇の意味で完全になりたいと望んだわけではありません。薔薇は庭に美しさを付与するために自らを飾るのですが、そうではなく、彼ら自身のために、彼ら自身の魂の内に祝福を見出すためにそうしたのです。

 自分の魂の中に「神」を求め、自分の得たものを世界にもたらすことを拒否する人は誰でも、彼の拒絶が報復として自分に返ってくるのを見出すでしょう。そして、皆さんが、内的な熱を与える祈りだけを知っている聖人や神秘家の多くの著作の中で(スペインの神秘家、ミゲール・デ・モリノスの著作の中でさえ)出会うのは、魂が内的な祈りを通して完成を求め、自分が「神」であると考えるところのものに対する完全な帰依を求めるとき、それが経験するところのあらゆる種類の熱情や衝動、戦い、誘惑や荒々しい願望についての注目すべき記述です。もし、誰かが一方的な方法で「神」を見出し、精神世界に近づこうとするならば、もし、彼が彼の祈りに内的な熱に導く種類の献身だけをもたらし、光へと導くもうひとつの種類の献身をもたらさないならば、そのもうひとつの側が復讐するのです。もし、私が後悔と羞恥の感情をもって過去を振り返り、私の中には何か偉大なものがある、しかし、私はそれに十分な見通しを与えなかった、しかし今、私はそれを私に浸透させ、私を完全にするのだ、と自分に言うとするならば、ある意味で、正に完成の感情が生じます。しかし、魂の中に残る不完全さが抗力に変化し、その分よけいに激しく、誘惑や熱情の形で荒れ狂うのです。しかし、内的な熱と親密な献身の中で自らに集中した魂が、彼が露わにされるところのあらゆる働き、彼が光を求めて努力するあらゆる働きの中で、「神」を求めるやいなや、魂はそれ自身から踏み出し、狭く、利己的な自我から目を逸らします。そして、熱情の嵐は静まります。神秘的な献身と瞑想にエゴイズムが入り込む余地を与えることがそれほどに悪いことであるというのは、この理由によるのです。もし、私たちが「神」を見出すことを欲するとき、彼を単に私たち自身の内に留めておくためにだけそうするならば、それは、私たちの最も気高い努力の中に、不健康なエゴイズムが忍び込んだことを示しているのです。そのとき、そのエゴイズムは私たちに復讐するでしょう。私たちは、私たちの内に「神」を見出した後、私たちが内的に獲得したところのものを、私たちの思考と感情、私たちの意志と行いを通して、世界の中へと注ぎ出すときにのみ、癒されることになります。

 今日、私たちは、しばしば、特に、間違って理解された神智学の基盤から(そして、これに対する警告があまりにしばしば与えられるということは決してないのですが)、次のように告げられます。あなた方は外的世界の中に神的なものを見出すことはできない、何故なら、「神」はあなた方の内にあるのだから。あなた方は、ただ、あなた方の内的な生活への正しい道を取ればよいのだ。そうすれば、あなた方はそこに「神」を見出すだろう、と。私はある人物までもがそれを言うのを聞いたことがあります。彼は彼の聴衆に次のように言ってご機嫌を取るのを好んでいました。あなた方は、宇宙の偉大な秘密について何も学んだり経験したりする必要はありません。あなた方はあなた方自身の中を見るだけでよいのです。あなた方はそこに「神」を見すのですから、と!

 私たちが真実に近づくことができるようになるためには、これと反対の観点が明確にされなければなりません。ある中世の思索家が内的な献身について言うべき正しいことがらを見出しましたが、それは、実際、その適用範囲内にある限り、正当なものです。私たちが決して忘れてはならないのは、不真実が最も害を及ぼすというわけではないということです。何故なら、魂はすぐにそれを検知するであろうからです。もっとずっと悪いのは、一定の条件下では真実であるけれども、間違って適用された場合には、完全に偽りになるような陳述です。私たちは私たち自身の内に「神」を求めなければならない、というのは、ある意味で真実なのです。けれども、正にそれが真実であるがゆえに、もしもそれがその範囲内に留められないとすれば、それだけよけいに害があるのです。ある中世の思索家は次のように言いました。「それが自分の家の中に確かにあると分かっているのに、誰がその必要な道具をどこか家の外に探すだろうか?そんなことをするのは愚か者であろう。同様に、「神」についての認識を獲得するための装置が彼自身の魂の中にあると分かっているとき、それを外的世界の中に探すのも愚か者である。」彼が使っている言葉、道具あるいは装置に注意して下さい。自分の魂の中に探すべきは「神」自身ではないのです。「神」はある装置を使って探します。そして、少なくともそれは外的世界の中に見出されることはありません。それは魂の中に、真の祈りを通して、様々の段階がある神秘的な献身、瞑想そして集中を通して見出されなければならないのです。私たちはこの装置の助けを借りて世界の領域に近づかなければなりません。そのとき、私たちは至るところに「神」を見出すでしょう。何故なら、「神」は世界のすべての領域と存在のすべての段階に顕現するからです。このように、私たちはその装置を私たち自身の中に求め、そして、その助けを借りて、至るところに「神」を見出すことになるのです。

 今日では、祈りの本性について、このような観察を行うことは一般的ではありません。一体全体(と人々は言います)、私たちが何をお願いするにしても、祈りが何かを変えられるだろうか?世界の経過は必然の法則にしたがっており、私たちはそれを変えることはできませんが、もし、私たちが力を認めたいのであれば、私たちはそれを、それがある場所で、探さなければなりません。今日、私たちは、祈りの力を人間の魂の中に求めました、そして、それがその魂の前進を助けるような何かである、ということを見出しました。そして、世界の中で働いているのは精神(想像上の、抽象的な精神ではなく、実際の活動的な精神)であり、人間の魂はその精神の領域に属している、ということを知っている人は誰でも、世界の中で働いているのは、変えることのできない法則に従う物質的な力だけではなく、精神的な存在たちもまたそこで働いている、ただ、彼らの活動は通常では見ることができないのだ、ということを知るでしょう。もし、私たちが私たちの精神生活を祈りを通して強化するならば、後は、その効果を待つだけです。つまり、それらは確かにやって来るでしょう。とはいえ、祈りの効果を外的世界において追求できるのは、まず、祈りの力を現実のものとして認めた人だけです。

 このことを本当に認める人は、次のような実験を試みてみるのもよいでしょう。祈りを退けていた十年間をずっと振り返り、そして、祈りの力を認めていた次の十年間を振り返るのです。それから、これらふたつの期間を比べてみるならば、祈りが魂の中に注ぎ込んだ力の影響によって、人生の経過がいかに変化したかがすぐに分かるでしょう。力はその効果によって明らかにされます。力を呼び出すために何もなされないならば、その存在を否定するのは容易です。自分の中で、祈りの力を有効なものにしようと全くしてこなかった人が、どうして、それを否定することができるでしょうか?もし、私たちが光を点火したり、求めたりすることを全くしてこなかったとすれば、私たちは光について知っているのだ、と考えることができるでしょうか?私たちが、魂の中で、そして、魂を通して働く力について、その認識を学ぶことができるのは、それを利用することによってのみです。

 私は、どんなに公平な議論をするにしても、祈りがより広い範囲で有効になるには、まだ期が熟していない、ということ認めないわけにはいきません。参加者すべての力が合流するような集団的な祈りの中には、高められた力と、そのため、高められた現実の強さがある、というような考えは、今日の思考の把握するところではないのです。ですから、祈りの内的本性に関しては、私たちは私たちの魂の前にもたらしたもので満足しなければなりません。そして、それで十分なのです。と申しますのも、そのことを理解する人は誰でもそのことを確かに見通すことができるのですが、今日では、祈りに対して、それほど容易に多くの異議が持ち出されるのです。

 これらの様々な異議とはどのようなものでしょうか?例えば、仲間を助けるために力を行使する人間と、自らの中に静かに引きこもり、祈りを通して彼の魂の力に働きかける人間とを比べるとします。私たちは、確かに、最初の人物に比べて、二番目の人物はより怠け者であると見なすに違いありません。私が、別の観点が存在する、ということを、精神科学の認識に対する一定の感情から申し上げるとしても、皆さんはお許し下さるでしょう。私はいくらか誇張して言うかも知れませんが、それはそれなりの理由があるからです。今日、人生の奥に潜む原因に通じている人であれば誰でも、こじつけのように聞こえるかも知れませんが、影響力のある新聞記事を書く記者達が、彼らの魂を改善するために祈り、働くならば、彼らは人々のためにより良い仕事をすることになる、と感じるでしょう。もっと多くの人に、祈ることは記事を書くことよりも道理にかなっている、ということを分かってもらいたいものです。他の多くの知的な仕事についても同じことが言えるでしょう。

 さらに言えば、人生全体を理解するためには、祈りを通して働く力についての理解が必要なのですが、この理解は、私たちが文化生活のある特別な側面を見るとき、特別な明晰さをもって生じるのです。一方的で、利己的な意味においてではなく、今日、私たちが取ったような、より広い観点から祈りを見たとき、それが芸術の構成要素になっている、ということを見誤る人がいるでしょうか?確かに、芸術の中には、お笑いの中で表現されるような全く異なった側面、それが表現するものの上にそれ自身を上昇させるところのユーモラスな取り組みの中で表現されるような側面も見出されます。しかし、賦(ふ)や賛美歌は、祈りからそれほど遠く隔たっているとはいえません。そして、描写的な芸術でさえ、「絵画の中の祈り」とでも呼べるような例を示します。そして、荘厳な大聖堂においは、天までとどくような祈りに似た何かが石の中に表現されている、ということを誰が否定するでしょうか?

 もし、私たちが、人生の文脈の中で、このすべてを把握することができるならば、私たちは、祈りが、その真の本性の通りに見られたとき、人間を限定的で、一時的なものから、永遠なるものへと導くもののひとつである、ということに気づくでしょう。このことは、今日の、そして以前の講義の中で触れたアンジェラス・シレジウスのように、祈りから神秘主義への道を見出した人たちによって、特に強く感じられたのです。彼は、例えば、「ケルビニアン・トラベラー」に示されているような、彼の神秘思想の内的な真実と輝かしい美、暖かい親密さと輝く明晰さを、あれほど力強く彼の魂に働きかけていたところの祈りの自己訓練に負っている、と感じていました。そして、彼のような神秘主義者すべてを浸し、照らし出していたのは、そもそも、何なのでしょうか?祈りが彼らをしてそれに向けて準備させたところの永遠の感情ではないとすれば、それは何なのでしょうか?祈る人は誰でも、もし、彼が真に内的な落ち着きと内面性を祈りを通して達成し、次に、自分自身からの解放を達成するならば、この感情についてのいくらかの示唆を得ることができます。過ぎ去る瞬間を超え、永遠へと私たちの目を向けさせ、そして、過去と現在と未来を私たちの魂の中で結びつけるのがこの示唆なのです。私たちは、祈りの中で、そこにおいて「神」を(私たちがそれに気づいていようといまいと)求めるところのあの人生の側面に向かうとき、私たちの祈りの中に入ってくる感情と思考と言葉は、アンジェラス・シレジウスの次のような言葉によって表現されるような永遠への感情によって浸透されるでしょう。その言葉をもって、今日の締めくくりにしたいと思います。それは、たとえ無意識的にではあっても、すべての真に祈る人たちに、何か「神」の芳香と甘美のようなものをもたらすことができるのです。

  時間を捨てて、私は、私自身、永遠となる

  そのとき、私は「神」と、「神」は私とひとつなのだ


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