ルドルフ・シュタイナー

「魂生活の変容−経験の道」(第二巻)(GA59)

佐々木義之 訳

第5講「病気と治療」

1910年3月3日)


 恐らく、この冬の間、ここで私が開くことを許された講座に、多かれ少なかれ定期的に参加されている皆さんには、今回の連続講義は魂についての一連の遠大な疑問を取り扱ってきたのだ、ということが明らかになっていることでしょう。今日の講義でもそのような問題、つまり、病気と治癒の本質に関する問題を取り上げようと思います。

 それに関して、精神科学の立場から、精神的な存在の単に表現である限りにおいての人生の事実について述べることができるようなことは、以前ここで開催された連続講義、例えば「病気と死の理解」、「偽りの病気」、あるいは「熱に浮かされたような健康の追求」の中で説明しています。今日は、病気と治癒について理解する上で、きわめて奥深い問題を取り上げたいと思います。

 病気、治癒、そして、ときとして死に至る何らかの病は人生に深い影響を及ぼします。私たちは、これらを考察するための基礎となる精神的な前提、基盤について繰り返し探求してきましたので、これらの遠大な事実の原因であり、人間が人間として存在することの結果であるところのものについても探求することが許されるでしょう。つまり、これらの経験に関して、精神科学が言うべきこととは何なのでしょうか?

 人間の通常の発達過程との関連で、病気、健康、死、そして治癒がどのように位置づけられるかを明確にするためには、発展していく人生の意味について、もう一度、深く探求しなければなりません。何故なら、これらのできごとは通常の発達過程に影響を及ぼすものである、と考えられているからです。それらは私たちの発達に何か貢献するのでしょうか?それらは私たちを前進させるのでしょうか?あるいは、遅らせるのでしょうか? これらのできごとについての明確な概念に至ることができるのは、ここでもまた、人間全体を考慮するときだけなのです。

 しばしばお話ししてきたことですが、人間は四つの構成体から成り立っています。第一は、人間が彼の周りの鉱物存在すべてと共有している肉体ですが、その形態はそれが内に有する物理的、化学的な力に依存しています。人間の第二の構成体は、私たちがこれまでエーテル体あるいは生命体と呼んできたものですが、人間はこれをすべての生命あるもの、つまり、彼の周りの植物や動物と共有しています。そして、私たちは人間存在の第三の構成体としてアストラル体についてお話ししてきましたが、これは、楽しみや苦しみ、喜びや悲しみ、つまり、一日を通して溢れるすべての感動、イメージ、思考等を担うものです。人間はこのアストラル体を彼の周りの動物世界とだけ共有しています。そして、人間を被造物の頂点に立たせるところの最高の構成体、すなわち自我、自意識の担い手があります。私たちがこれら四つの構成体について考えるとき、まず第一に言えることは、それらの間には表面的に見ても一定の違いがある、ということです。私たちが、人間を、つまり、私たち自身を外側から見るとき、そこには人間の肉体があります。肉体は外的、物理的な感覚器官によって観察することができるのです。これらの器官に結びついた思考、すなわち脳という器官に結びついた思考によって、私たちはこの人間の肉体を理解することができます。それは私たちの外的な観察に対して明らかにされます。

 人間のアストラル体に対する関係は全く違っています。既に以前の記述の中で見てきたことですが、真に超感覚的な意識にとって、アストラル体とは、単に外的な事実です。つまり、アストラル体は、しばしばお話ししてきたような仕方で意識を訓練しさえすれば、肉体と同じように見ることができるものなのです。通常の生活においては、人間のアストラル体を外側から観察することはできません。目で見ることができるのは、その中で波打つ本能、熱情、思考、そして感情の外的な表現だけです。しかし、これとは対照的に、人間はこれらのアストラル体の経験を自分の中で観察します。彼は、私たちが本能、欲望、熱情、楽しみや悲しみ、喜びや痛みと呼ぶところのものを観察するのです。このように、アストラル体と肉体の関係は、通常の生活においては、前者は内的に観察される一方、肉体は外的に観察される、というようなものなのです。

 さて、ある意味で、その他の二つの構成体、人間のエーテル体、そして自我の担い手は、肉体とアストラル体というふたつの対極の中間に位置しています。肉体は純粋に外側から、アストラル体は純粋に内側から観察することができます。肉体とアストラル体の間にある中間的な構成体がエーテル体です。それは外側から観察することはできませんが、外部に影響を及ぼします。アストラル体の力、内的な経験はまずエーテル

体に移行しなければなりません。それは、そうすることによってのみ、物理的な道具、肉体に働きかけることができるのです。エーテル体はアストラル体と肉体の間の仲介役として働き、外側と内側の結びつきを形成するのです。私たちはもはやそれを物理的な目で見ることはできませんが、エーテル体が外に向かって肉体と関連づけられていることによってはじめて、アストラル体の道具を目で見ることができるようになっているのです。

 さて、ある意味で、自我が内側から外側に向かって働くのに対して、エーテル体は外側から内側へ、アストラル体に向かって働きかけます。と申しますのも、人間は自我によって、そして、自我がアストラル体に影響を及ぼすその仕方によって、外の世界の、つまり、肉体自体がそこに起源を有するところの物理的な環境についての知識を獲得するからです。動物存在が個々の、個人的な認識を持つことなく生じるのは、動物が個的な自我を有していないからです。動物はアストラル体に関するあらゆる経験を内的に生き抜くのですが、その楽しみや苦しみ、共感や反感を、外なる世界の認識を獲得するためには使いません。私たちが楽しみや苦しみ、喜びや悲しみ、共感や反感と呼ぶところのものは、動物においてはすべてアストラル体の経験なのですが、動物は、その楽しみを世界の美に対する賞賛へと変換するかわりに、その楽しみを生じさせる要素の中に留まります。動物はその苦痛のただ中で生きるのに対して、人間は苦痛に導かれて自分を越え、世界を発見するのです。何故なら、自我が彼をそこから再び連れ出し、外なる世界に結びつけるからです。こうして、私たちは、一方では、いかにエーテル体が人間の内面、アストラル体の方向に向けられるかを、他方では、いかに自我が外なる世界、私たちを取り巻く物理的な世界に導くかを理解します。

 人間は交互に入れ替わる生を生きています。このことは日々の生活の中で観察されます。私たちは、朝起きた瞬間から、魂の中へと流れ込み、流れ出すあらゆるアストラル体の経験−喜びや悲しみ、楽しみや苦しみ、感情、イメージ等々を観察するのです。夜には、アストラル体と自我が無意識の中に、あるいは、多分もっとましな言い方をすれば、意識下の状態に入っていくために、いかにこれらの経験が漠然とした闇のレベルにまで沈み込んでいくかが見られます。朝から夜までの間、起きている人間を見ると、肉体、エーテル体、アストラル体、そして、自我が互いに織りなされ、それらの影響に関して、互いに結びつけられているのが分かります。秘教的な意識には、人間が夜眠りにつくと、肉体とエーテル体はベッドの中に残り、アストラル体と自我は精神的な世界の中の本来の場所に帰る、つまり、肉体とエーテル体から抜け出す、ということが分かります。私たちが今のテーマに適切に対処することができるように、このことをもっと別の方法で記述してみましょう。

 肉体は、その外的な側面だけを私たちに示しているのですが、眠っている人間においては、外的な人間として物理世界の中に留まり、内と外の仲介者であるエーテル体を保持しています。眠っている人間の中に内と外の間を仲介するものがないのは、仲介者としてのエーテル体が外の世界にあるからです。このように、眠っている人間においては、ある意味で、肉体とエーテル体とは単に外的な人間に過ぎない、ということができます。エーテル体は内と外の仲介者ではありますが、肉体とエーテル体を「外なる人間」として記述することもできるでしょう。反対に、眠っている人間のアストラル体は「内なる人間」として記述することができます。これらの言葉は起きている人間にも当てはまります。何故なら、あらゆるアストラル体の経験は、通常の条件下では、内的な経験であり、人間は起きているときに自我が獲得する外の世界についての知識を内的に取り上げ、学びながら自分のものとしているからです。外的なものは自我を通して内的なものにされます。このことは、私たちが「外の」人間と「内の」人間について、つまり、前者は肉体とエーテル体から、後者は自我とアストラル体からなるものとして語ることができるということを示しています。

 さて、人間のいわゆる通常の生活とその本質的な発達について見てみましょう。何故、人間はアストラル体と自我を伴って、毎夜、精神的な世界に帰って行くのでしょうか? 人間が眠りにつく何らかの理由があるのでしょうか? これについては以前にも触れましたが、私たちが今日扱っているテーマに関しても、つまり、病気と治癒において現れるような、一見異常な状態を認識するためにも、正常な発達についての理解が必要です。人間はどうして毎夜、眠りへと赴くのでしょうか?

 これについての理解に至ることができるのは、「外なる人間」に対するアストラル体と自我の関係を十分に考慮するときだけです。私たちはアストラル体を、楽しみと苦しみ、喜びと悲しみ、本能、欲望、熱情、波打つイマジネーション、知覚、思考や感情の担い手として記述しました。けれども、アストラル体がこれらすべての担い手であるとするならば、肉体とエーテル体が存在していないとはいえ、実際の内的な人間がアストラル体と結びついている状態にもかかわらず、何故、人間は夜、これらの経験を持たないのでしょうか? この間、これらの経験が漠とした闇の中に沈んでしまう、ということが何故あるのでしょうか? それは、アストラル体と自我が、喜びや悲しみ、判断、イマジネーション等々の担い手であるにもかかわらず、これらのものを直接には経験できないからです。私たちの通常の生活においては、アストラル体と自我は、それら自身の経験を意識するために肉体とエーテル体を必要としているのです。私たちの魂の生活とは、アストラル体によって直接経験される、というものではないのです。もし、そうだとすれば、私たちがアストラル体と結びついている夜の間にもそれを経験することができるはずです。昼間における私たちの魂の生活は残響あるいは鏡像のようなものです。肉体とエーテル体がアストラル体の経験を反射するのです。私たちが起きてから眠りにつくまでの間に、私たちの魂が私たちのために魔法にように出現させるあらゆるものを出現させることができるのは、それが肉体とエーテル体もしくは生命体という鏡の中にそれ自身の経験を見るからに他なりません。夜、私たちが肉体とエーテル体を後にする瞬間、私たちはまだアストラル体の経験のすべてを私たちの内に有しているのですが、私たちはそれを意識しません。何故なら、それらを意識するためには、肉体とエーテル体の反射する性質が必要だからです。

 こうして、私たちは、朝目覚めてから夜眠りにつくまでの私たちの生活の全過程を通して、内的な人間と外的な人間、すなわち、自我とアストラル体、そして肉体とエーテル体が相互に作用しているのを見ます。働いているのはアストラル体と自我の力です。何故なら、いかなる条件下でも、物理的な特徴の総計としての肉体やエーテル体がそれら自身から私たちの魂の生活を生じさせることはできないからです。私たちが鏡の中に見る像が、鏡に発するものではなく、鏡の中で反射される対象物に由来しているのと同じように、反射される力はアストラル体と自我から生じるのです。このように、私たちの魂の生活を生じさせるすべての力はアストラル体と自我の中に、すなわち人間の内的な本性の中に横たわっているのです。そして、それらは、内的な世界と外的な世界との間の相互作用の中で活発になり、いわば肉体とエーテル体にまで手をのばすのですが、夜には、私たちが「疲れた」と呼ぶ状態に入っていくのが、つまり、それらが夜、消耗しているのが見られます。そして、もし、私たちが毎夜、朝から夜までの間そこで過ごすところの世界とは別の世界に入っていく立場になかったとすれば、私たちは自分の生活を続けることができなかったでしょう。私たちは、起きている間に滞在する世界の中で、私たちの魂の生活を知覚可能なものにすること、つまり、私たちの魂の前にそれを提示することができるのですが、それはアストラル体の力によって可能になるのです。しかし、私たちはこれらの力を使い果たします。目覚めている間の生活からそれを補充することはできません。私たちがそれを補充することができるのは、私たちが毎夜入っていく精神的な世界からだけです。私たちが眠るのはそのためです。夜の世界に入り、そこから昼の間に使う力を持ってくることなしに私たちが生きていくことはできないでしょう。こうして、エーテル体と肉体の中に入るとき、私たちは何を物理的な世界に持ち込むのか?という問いに対する答えが得られました。

 ところが、私たちはまた、夜にも何かを物理的な世界から精神的な世界へと運んでいくのではないのか? これが第二の問いです。この問いも第一の問いと同じように重要です。

 この問いに答えるためには、通常の人間生活に属する数多くのことがらを取り扱わなければなりません。通常の生活には、いわゆる経験と呼ばれるものがあります。これらの経験は私たちの誕生から死までの人生において重要なものです。ここでしばしば触れられてきたひとつの例、つまり、書くということを学ぶことについての例がこのことに光を当てるでしょう。私たちが自分の思考を表現するためにペンを取るとき、私たちは書くという芸術に携わっているのです。私たちは書くことができるのですが、そのために必要な条件とは何なのでしょうか? 私たちが誕生から死までの間に有する一連の経験のすべてが必要なのです。皆さんが子供として通過してきたことのすべて、ペンを持つという最初のぎこちない試みからそれを紙に当てる等々のことがらについて考えてみて下さい。これらすべてのことを思い出さなくてもよい、というのは神に感謝すべきことです。何故なら、もし、書くたびに、私たちが書道と呼ぶところの芸術を発達させようとして線を引き損ねたことや、多分それでしかられたことなどを思い出さなければならないとしたら、ひどい状況に陥るであろうからです。何が起こったのでしょうか? 誕生から死までの間の人生において重要な意味を持つところの発達が起こったのです。私たちは一連の経験の総体を有していますが、これらの経験は長い時間をかけて生じたものです。それらはその後、いわば私たちが書くための「能力」と呼ぶところの本質的なものへと純化しました。他のすべてのものは、忘却の漠とした闇の中へと沈んでいきましたが、それらを思い出す必要はありません。何故なら、私たちの魂は、これらの経験から出発して、より高次の段階に達しているからです。つまり、私たちの記憶は、人生における受容力や能力として現れるところの本質的なものの中へと共に流れ込むのです。誕生から死までの存在状態における私たちの発達とはこのようなものです。経験は最初に魂の能力へと変容し、次にその能力は肉体という外的な道具を通して表現されます。誕生から死までの発達は、すべての個人的な経験が能力や、そしてまた叡智に変化させられる、というような仕方で生じるのです。

 もし、私たちが1770年から1815年までの期間を眺めるとすれば、この変容がどのようにして生じるかの洞察を得ることができます。重要な歴史的事件がこの間に生じました。多くの人がこの事件と同時代に生きていましたが、彼らはそれにどのように反応したのでしょうか?

 彼らの内のある部分は、そのできごとがかたわらを通り過ぎるのに気づきませんでした。彼らはそのできごとが知識に、世界の叡智に変化するのを無感動に見過ごしました。他の人たちはそれらを深い叡智へと変化させました。彼らは本質的なものを抽出したのです。

 どのようにして経験は魂の中で能力や叡智へと変化させられるのでしょうか? それらは毎夜、そのままの形で私たちの眠りの中に、つまり、魂あるいは内的な人間が夜の間滞在するあの領域の中に取り込まれることによって変化させられるのです。ある期間中に起こった経験は、そこで本質的なものに変化するのです。人生を観察する人であれば誰でも、もし、誰かがあるひとつの活動領域における一連の経験を秩序づけ、自分のものにしたいのであれば、これらの経験を眠っている間に変化させる必要がある、ということを知っています。例えば、何かを一番よく学ぶことができるのは、それを学び、それとともに眠り、再びそれを学び、再びそれとともに眠ることによってです。経験は、眠りの中に沈められることがなければ、能力や叡智、あるいは芸術の形で現れてくるように発達させられることはないでしょう。

 これは、私たちが低次のレベルで直面する必然的なものの高次のレベルにおける表現です。もし、今年の植物が暗い地球の覆いの中に帰って行かないとすれば、それは次の年に再び成長する植物にはなれないでしょう。この場合の発達は繰り返しに留まりますが、人間の精神に照らされることによって真の「発達」になります。経験は無意識の夜の覆いの中に降り、そして再び、さしあたりはまだ繰り返しとして取り出されるのですが、最終的には、叡智として、能力として、生きた経験として現れるほどに変化させられていることでしょう。

 今日よりもより深く精神的な世界を観察することができた時代には、人生はそのように理解されていました。古代文化における指導的な人物たちがイメージによって何かを話そうとするとき、人生におけるこれらの重要な基礎が示唆されているのを見ることができるのはそのためです。もし、一連の昼間の経験が魂の中で火をつけられ、何らかの能力に変化するのを妨げたいのならば、何をすべきでしょうか? 例えば、誰かが一定の期間中に、誰か他の人と何らかの関係を持つときには、何が起こるのでしょうか? その人物とのこれらの経験は夜の意識の中に沈み、そこからその人物に対する愛として、つまり、それが健全なものである場合には、いわば連続した経験の本質として再び現れるのです。他者に対する愛の感情は、経験の総体がひとつの織物へと織られるように統合される、というような仕方で生じます。さて、一連の経験が愛に変化するのを妨げるためには何をなすべきなのでしょうか? 私たちの経験を本質的なもの、すなわち愛の感情に変化させるところの夜の自然過程が生じるのを妨げなければならないのです。私たちは、昼の経験から織られた織物を夜に再びほどかなければなりません。もし、そうすることができたならば、魂の中で愛に変化する他者に対する経験は私たちに何の影響も及ぼさなくなるでしょう。

 ホメロスはこの人間の魂の深みについて、ペネロペと彼女の求婚者のイメージの中で暗示しています。彼女はある織物を織り上げたときに結婚に応じることを皆に約束します。昼間に織り上げたものを、単に夜毎にときほどくことによって、約束は回避されます。見ることができる人が芸術家でもある場合には、非常に深遠なものが明かされます。今日、このようなことがらに対する感情はほとんど残っていません。ですから、同時に見ることができる人である詩人がそのようなことを説明するとき、それは気ままな思いつきであると断定されるのです。それによって古代の詩人も、そして真実も害されることはありませんが、私たちの時代はそうはいきません。それはそのようにして人生の深みに入っていくことを妨げられるのです。

 このように、夜の間に何かが魂の中に取り込まれ、再び戻ってきます。魂の中に取り込まれたものは魂によって発達させられ、それをどこまでも高いレベルの能力へと上昇させます。けれども今、この人間の発達はどこにその限界があるのか、と問わなければなりません。この境界線を認識することができるのは、いかに人間が、朝起きる度に、同じ能力、才能、そして生まれたときから変わらない配置を持つ肉体とエーテル体に帰ってくるかを観察するときです。肉体とエーテル体の配置、その内的な構成と形態を変えることはできません。もし、私たちが肉体を、あるいは、少なくともエーテル体を眠りの状態に連れていくことができるとすれば、私たちはそれらを変えることができたでしょう。しかし、私たちは毎朝、それらが昨夜と変わっていないのを見いだします。

誕生から死までの人生において達成することができる発達に対する明確な限界がここにあります。誕生から死までの間の発達は本質的に魂の経験に限定され、身体的な経験にまでは拡張されないのです。

 こうして、誰かが、その音楽的な鑑賞力を深化させるような、つまり、彼の魂の中に奥深い音楽的な生活を目覚めさせるようなあらゆる経験を通過する機会を持ったとしても、もし、彼が音楽的な耳を持っていなかったとすれば、もし、彼の耳の物理的、エーテル的な形態が、外なる人間と内なる人間の間に調和が打ち立てられるのを許さないようなものであったとすれば、それらが発達させられることはありません。人間がひとつの全体であるためには、彼のすべての構成体がひとつの統一体を形成し、調和していなければなりません。音楽的な耳を持たない人が、自分をより高いレベルの音楽的な鑑賞力へと引き上げるであろうようなあらゆる経験を通過する機会を持ったとしても、それは魂の中に留り、発達させられることはない、というのはこのためです。それらが実

りへともたらされないのは、毎朝、内的な器官の構造と形態によって境界線が引かれるからです。これらのことは単に肉体とエーテル体のより粗雑な構造だけに依存しているのではなく、その中に含まれる非常に微妙な関係にも依存しているのです。現在の通常の生活においては、あらゆる魂の機能は何らかの器官の中にその表現を見いださなければなりません。そして、もし、その器官が適切な仕方で形成されていなければ、それは妨げられるのです。生理学や解剖学によって示されることのないこれらのことがら、器官の中の微妙な刻印こそが、誕生から死までの間には変化させることができないものなのです。

 では、人間は、彼のアストラル体や自我の中に取り込んだできごとや経験を肉体やエーテル体の中にそそぎ込む、という点では全く無力なのでしょうか? と申しますのも、人々を観察すると、限度はありますが、人間が自分の肉体を整えることさえできるのを見ることができるからです。十年間にわたる生活を深い内的な思索の中で過ごしてきた人を見れば、その仕草や顔つきが変化しているのが分かります。とはいえ、このことが起こるのは非常に狭い範囲に限られています。しかし、それはいつでもそうなのでしょうか?

 このことがいつも非常に狭い範囲に限られるわけではないということを理解することができるのは、私たちがここで何度も触れてきたこと、とはいえ、私たちの時代にはあまりにも遠いものになってしまっているために、何度も思い出されなければならないある法則、すなわち、17世紀において、より低いレベルで人類のために確立された法則を頼りにするときだけです。

 17世紀に至るまで、より低次の動物や虫は川の泥から発生すると信じられていました。地虫や昆虫を生じさせるためには、純粋な物質以上のものはいらないと信じられていたのです。このことは素人だけではなく、学者たちにも信じられていました。以前の時代に遡ると、あらゆるものが、例えば、どうすれば環境から生命を創り出すことができるかが教えられる、という仕方で系統立てられていたのが分かります。紀元後7世紀の本には、密蜂を創り出すためには、畜殺された馬の胴体をどのように打ちなめすべきかについての記述が見られます。同様に去勢牛は雀蜂を、ロバはジガバチを創り出しました。偉大な科学者、フランチェスコ・レディが、「生命は生命だけから発生する」という公理を初めて宣言したのは17世紀のことだったのです! 今日、あまりにも自明のことと思われているために、誰も、何かそれ以外のことが信じられていたということさえ理解できないようなこの真理のために、17世紀においてさえ、レディは恐ろしい異端者と考えられ、かろうじてジョルダーノ・ブルーノの運命を免れることになったのです。

 そのような真理に関してはいつもそうです。それらを宣言する人たちは、最初、異端者の烙印を押され、審判の餌食にされます。過去には、人々は火あぶりにされたり、その危険にさらされました。今日、この種の審判は放棄され、誰も火あぶりにはされません。しかし、今日、科学を牛耳る人々は、新しい、より高次のレベルの真実を宣言するすべての人を馬鹿者や夢想家と見なします。今日、フランチェスコ・レディが17世紀に宣言したところの生き物に関する公理を、別の方法で奉じる人々は馬鹿者や夢想家と見なされるのです。レディは、生命が死せる物質から直接発生すると信じるのは不正確な観察であり、それは生ける物質、自らの物質と力を環境から引き寄せるところの胎児にまで辿られなければならない、ということを指摘しました。同様に、今日の精神科学は、魂的、精神的な本質として存在することになるものも、魂と精神から発生するに違いない、それは遺伝された特徴の集合ではない、ということを指摘しなければなりません。地虫の胎児的な形態が周りにある物質を引き寄せて発達するように、魂的、精神的な核が発達するためには、同じくその周りにある実質を引き寄せなければなりません。もし、私たちが、人間の魂と精神の本質を逆方向に追っていくならば、誕生以前に存在する魂的、精神的な要素、遺伝とは関係のない要素に辿り着きます。魂的、精神的な要素は魂的、精神的な要素だけから生じるという公理は、結局は、繰り返される地上生という公理に必然的に帰着するのですが、これは綿密な精神科学的探求によって証明することができます。私たちの誕生から死までの人生は、私たちが以前に通過した別の人生にまで辿られます。魂的、精神的な要素は、魂的、精神的な要素にその起源を持ち、私たちが今回の人生の間に持つ経験は以前の魂的、精神的なあり方に起因しているのです。私たちは、死の門を通過していくとき、今回の人生において、原因を能力に変容させることによって吸収したものを携えていきます。私たちが誕生を通して、未来において存在するようになるとき、私たちはこれを携えて帰ってくるのです。

 死から誕生まで間、私たちの状況は、夜毎の眠りを通して精神的な世界に入り、朝再びそこから目覚めるときとは異なります。朝目覚めると、私たちは前の晩に残していった通りの肉体とエーテル体を見いだします。誕生から死までの間は、私たちは生活上の経験によってそれらを変化させることができないのです。つまり、完成されたエーテル体と肉体という限界があるのです。ところが、私たちが死の門を通っていくとき、私たちは肉体とエーテル体から去り、ただエーテル体の本質だけを保持して行きます。精神的な世界においては、肉体とエーテル体の存在について考慮する必要がありません。人間は、死から新生までの期間を通して、純粋に精神的な力に働きかけることができ、純粋に精神的な実質を取り扱っているのです。彼は、次の誕生に至るまで、新しい肉体とエーテル体の元型を創造する中で、以前の人生において肉体とエーテル体の中にいたときには使うことができなかったすべての経験を織り込みながらそれらを形成するために必要とするものを精神的な世界から取り出します。次に、この純粋に精神的な元型のイメージが完成し、彼が元型の中に織り込んだものを肉体とエーテル体の中に刻み込むことができる時がやってきます。それらの元型は人間が通過するこの特別な眠りの状態の中でこのようにして活動しているのです。

 もし、人間が毎朝目覚めに際して、肉体とエーテル体を同様の方法で生じさせることができるとすれば、彼はそれらを精神的な世界から形成することになるでしょう。しかし、同時に、それらは変化させられなければなりません。誕生とは、誕生以前の存在状態にある肉体とエーテル体を包含する眠りの状態からの目覚めを意味しています。この時点で、アストラル体と自我は、物理的な世界に、つまり以前の人生における完成された体の中には形成することができなかったあらゆるものを今や刻み込むことができる肉体とエーテル体の中に降ります。それらは今や、新しい人生の中で、以前、より高次の発達段階に上昇させていたとはいえ、完成された肉体とエーテル体がそれを不可能にさせていたために、実行に移すことができなかったあらゆるものを肉体とエーテル体の中に表現します。

 もし、私たちが肉体とエーテル体を破壊することができなかったとすれば、もし、肉体が死の門を通過することができなかったとすれば、私たちは自分の経験を私たちの発達の中に集積することができなかったでしょう。私たちがどんなに死を恐ろしく、衝撃的なものであると見なすとしても、私たちにふりかかるであろう死に対してどんなに苦痛と悲しみを感じるとしても、世界を客観的に見るならば、それが私たちに教えるのは、私たちは死を望まなければならない!ということです。と申しますのも、死だけが、次の人生における新しい体を構築することを通して、地上に存在していた間のあらゆる果実を生へともたらすことを私たちに可能にさせるために、この体を破壊する機会を与えてくれるからです。

 このように、人生における通常の過程においては、二つの流れ、内的な流れと外的な流れが共に活動しています。これら二つの流れは、一方では、肉体とエーテル体の中に、他方では、アストラル体と自我の中に平行して流れている、ということが分かります。人間は肉体とエーテル体に関して、誕生から死までの間に何ができるのでしょうか? 魂の生活によって消耗するのはアストラル体だけではなく、肉体とエーテル体の器官もまた消耗します。私たちは今、次のようなことを観察します。アストラル体は、夜、精神的な世界に滞在している間に、肉体とエーテル体を通常の状態へと回復させるためにそれらにも働きかけているのです。肉体とエーテル体の中で昼間に破壊されたものは眠りの中でだけ回復させることができます。ですから、精神的な世界は実際に肉体とエーテル体に働きかけるのですが、限界があります。誕生に際して与えられた肉体とエーテル体の能力と構造は、非常に狭い範囲を除いて、変わることができないのです。宇宙的な発達においては、いわば二つの流れが

活動しており、抽象的な方法によってそれらに調和をもたらすことはできません。もし、誰かがこれら二つの流れを抽象的な思索によって統一しようとするならば、つまり、「そうです、人間は調和していなければなりません。ですから、これら二つの流れは人間の中で調和していなければなりません」と言うような哲学を軽々しく発達させようとするならば、彼は大変な間違いをすることになります。生命は抽象的なものにしたがって働いているわけではありません。生命は、これらの抽象的な観点がただ長い発達の期間を経て達成されるような、平衡と調和の状態が何段階もの不調和を通過することによってのみ創り出されるような仕方で働きます。これが人間における生きた関連であり、それは実際、思索によって調和させられるようにはなっていないのです。生命は不調和を通過することによって、バランス状態に向けて発達するという状況にあるのですが、抽象的で乾燥した思考はいつもそこに調和を想像するのです。ある一定の人間の発達段階を単に想像するだけでは到達し得ないような調和を持つ、というのが人間の発達における運命なのです。

 さて、精神科学が、生命は内的あるいは外的な人間という観点から眺めるかどうかによって異なる側面を示す、と言うとき、皆さんは今、それをより容易に理解することができるようになっているでしょう。何ら

かの抽象化によってこれら二つの側面を結びつけようとする人は、たったひとつの理想、ひとつの判断があるのではなく、色々な観点があるのと同じくらい多くの判断があり、真実を見いだすことができるのは、これらの異なる観点がともに働くときだけである、ということを考慮していないのです。内的な人間に関する生命の観点は外的な人間に関する観点とは異なっている、と仮定することができます。真実とは、どの観点から眺められるかに依存する相対的なものである、ということを明らかにするひとつの例があります。

 小さな子供ほどの大きさの手を持つ巨人が彼の小さな指について語るのは、確かに、全く適切なことです。小さな子供ほどの大きさのこびとが巨人の小さな指について語ることができるかどうかは別の問題です。必然的なことがらは相補的な真実です。外的な事物に関する絶対的な真実はありません。事物はすべての異なる観点から眺められなければなりません。そして、真実は互いを照らし出す個々の真実を通して見いだされなければなりません。人生の中で見られるように、外的な人間、肉体及びエーテル体と、内的な人間、アストラル体及び自我とが、ある一定の長さの人生においては、完全に調和した状態にある必要はない、というのはこの理由にもよります。もし、完全な調和があったとすれば、人間が夜、昼間のできごとを伴って精神的な世界に入っていくとき、それらを本質的な能力や叡智、あるいはその他のものへと変化させる一方で、彼が朝、精神的な世界から物理的な世界へともたらす力はただ魂との関連でのみ使われる、ということになるでしょう。けれども、私たちが記述したような肉体によって引かれる境界線は決して越えられることがないでしょう。そのときには人間的な発達もあり得ません。人間は自分でこの限界に気づくことを学ばなければならないのです。それらを自分の判断の一部にしなければなりません。彼には、これらの限界を最大限に突破するという可能性が与えられなければならないのです。

そして彼は絶えずそれらを突破します! 現実の生活においては、これらの境界線は絶えず越えられ、そのため、例えば、アストラル体と自我が肉体に影響を及ぼすとき、それらは限界の範囲内には留まりません。けれども、そうすることによって、それらは肉体の法則を破棄するのです。そのとき、精神すなわちアストラル体と自我によって引き起こされる肉体の不調や混乱、つまり病気として現れるような法則の破棄が観察されます。その限界は別の方法でも破られます。つまり、内的な存在としての人間が外的な世界との関係づけに失敗し、折り合いをつけられないというような場合です。このことは非常に劇的な例で示すことができます。

 中央アメリカのペレー山が噴火したとき、非常に注目すべき、また教えに富んだ書類が廃墟から後になって見つかりました。その内のひとつには、「もう恐れることはない、危険は去った、もう噴火しないだろう。このことは私たちが自然法則として認識するに至った法則によって示される」と記されていました。自然に関する知識の現在の状況によれば、さらなる火山の噴火はあり得ない、と記されたこれらの書類は、その通常の学問的な知識に基づいてそれらを書いた学者たちとともに土に埋もれたのです。悲劇的なできごとがここで起こりました。けれども、正にこのことが、人間と物理的な世界との不調和を全くはっきりと示しています。これらの自然法則を探求した学者たちの知性が、もし、彼らが十分に訓練されていたとすれば、真実を見いだすのに十分なもので

あったことは確かです。彼らは知性に欠けていたわけではありません。知性は必要なのですが、それだけでは不十分なのです。例えば、もし、事態が差し迫ったものであるならば、動物たちはその地域を離れます。それはよく知られた事実です。ただ家畜だけが人間とともに消えるのです。ですから、いわゆる動物的な本能は、これらの未来のできごとに関する限り、今日の人間の叡智に比べて、はるかに偉大な叡智を発達させるのに十分なものであると言えます。「知性」は決定的な要因ではありません。私たちの現在の知性は最高に馬鹿げたことをする人たちの中にも存在しています。ですから、知性が欠如しているのではないのです。欠けているのは、できごとに関する十分に成熟した経験です。知性がその狭く限定された経験にとって可能と思われる何かを主張するやいなや、それは現実の外的なできごととの間で不調和に陥り、そして、外的なできごとがその周りで勃発することになります。と申しますのも、肉体と世界との間には、人間が徐々に認識するようになる、彼が今日既に有している力によって把握するようになる関係があるからです。けれども、彼がそれをできるようになるのは、一度、外的な世界についての経験を増加させ、自分のものとした後でだけなのです。そのときには、正に私たちが今日有しているような知性がこの経験の結果として発達する調和を創り出していることでしょう。と申しますのも、私たちの知性がある一定の段階にまで発達するのは、正に現時点においてだからです。欠けている唯一のものとは経験を成熟させることです。もし、経験の成熟が外部の状況と一致していなければ、人間は外の世界との不調和に陥り、外的な世界におけるできごとによって破滅させられることになるでしょう。

 私たちは、極端な例ですが、いかに学者たちの肉体と、彼らがその魂の発達において内的に到達していた段階との間に不調和が生じたかを見てきました。そのような不調和は、私たちに重大なできごとがふりかかるときだけに生じるのではありません。つまり、そのような不調和は、原則として、また本質的に、何らかの外的な損害が私たちの肉体やエーテル体にふりかかるときには、つまり、外的な損害が、外的な人間に対して、彼の内的な力をもってしてはそれに太刀打ちできない、それを彼の人生から追放できない、というような仕方で影響するときにはいつでも生じるものなのです。このことは目に見える外的なものにも、内的な病気にも、とはいえそれは実際には外的なものなのですが、あてはまります。と申しますのも、もし、私たちの胃の具合が悪いとすれば、それは本質的には私たちの頭の上に煉瓦が落ちてきた場合と同じことだからです。これは内的な人間が外的な人間と一致しないときに、つまり、内的な人間と外的な世界との間に対立が生じる−対立を生じさせてしまう−ときに陥る状況です。

 すべての病気は、本質的には、そのような不調和、内的な人間と外的な人間の間の仕切りの破壊なのです。はるかな未来においては調和的なものになるとはいえ、私たちの思考がそれを私たちの人生に課そうとしても抽象的なものに留まるところのこれらの仕切の絶えざる破壊によって、何かが創り出されることになります。人間は、現段階ではまだ外的な生活に合わせることができない、ということに気づき始めることによってのみ、その内的な生活を発達させるのです。これは自我に関してだけではなく、アストラル体に関しても言えることです。人間は、起きてから眠りにつくまでの間、自我に浸透されるところのそれらのことがらを意識的に経験します。アストラル体の働きは、つまり、いかにそれがその限界を破るか、内的な人間と外的な人間との間に適切な調和を打ち立てるために、いかにそれが重要であるか、というようなことは、通常の人間の意識の外に横たわっているのです。にもかかわらず、それらは存在しています。病気のより深い内的な性質はこれらすべてのことによって明らかにされるのです。

 病気が辿る二つの可能な道とは何なのでしょうか? 治癒と死のいずれかが生じるのです。生命の通常の発達においては、死はひとつの側面、治癒は別の側面として見られるに違いありません。 

 治癒が人間の発達にとって何を意味しているかを知るためには、まず第一に、人間の発達全体にとって病気が何を意味しているかを明らかにしなければなりません。

 病気の中には、内的な人間と外的な人間の間の不調和があります。ある場合には、内的な人間は外的な人間から退かなければなりません。簡単な例に、私たちが指を切ったときがあります。私たちが切ることができるのは肉体だけで、アストラル体を切ることはできません。けれども、アストラル体は絶えず肉体に浸透するものですから、それが肉体の隅々にまで浸透するときに見いだすはずのものを切られた指の中には見いだすことができない、ということが起こります。それは指の物理的な部分から切り離されたと感じます。あらゆる病気の本質は、内的な人間が外的な人間から切り離されたと感じること、傷が仕切りを生じさせるために、内的な人間が外的な人間に浸透できないということにあります。さて、外的な方法によって健康が取り戻され、あるいは、内的な人

間が外的な人間を治癒させることができるほどまでに強化されるということが起こり得ます。治癒の後では、多かれ少なかれ外的な人間と内的な人間との間の結びつきが回復され、内的な人間が再び外的な人間の中に生きることができるようになります。

 これは目覚めに比較され得る過程です。内的な人間が故意に引き上げられた後、物理的な世界においてのみ持つことができる経験へと帰って行くのです。治癒とは、人間が、そうでなければ持ち帰ることができないであろうそれらのことがらを持ち帰ることを可能にするものなのです。治癒過程は内的な人間の中に同化され、この内的な人間の枢要な部分になります。健康への帰還、治癒とは、何か私たちが満足感をもって振り返ることができるようなものです。何故なら、眠りが内的な人間を前進させるのと同様の方法で、内的な人間を前進させる何かが治癒によって与えられるからです。たとえ直ちに見ることはできないとしても、健康への帰還によって、私たちは魂の経験において引き上げられ、私たちの内的な人間において高められるのです。私たちは、眠りの中で、治癒を通して獲得したものを精神的な世界に持ち込みます。ですから、私たちが眠りの中で発達させる力に関する限り、それは私たちを強化するような何かなのです。もし、時間があれば、治癒と眠りの間の不思議な関係についてのこれらの考察のすべてを十分に展開することもできるのですが、それでも、いかに私たちが夜、精神的な世界に持ち込むもの、私たちの発達過程の中に前進をもたらすもの、つまり、誕生から死までの間、とにかくその過程を前進させることが可能な限りにおいてそれに前進をもたらすものと治癒とを等価なものであるとするのが可能であるかを理解することはできるでしょう。通常の生活においては、私たちが外的な経験からそれに近づくところのこれらのことがらは、私たちの誕生と死の間における魂の生活の中で、より高次の発達として表現

されるに至ります。けれども、治癒を通して同化されるものがすべて再び現れるわけではありません。私たちはそれを死の門を通るときに伴っていくこともできます。それは次の人生で私たちの役に立つかも知れません。けれども、精神科学が私たちに示すのは、私たちは治癒する度に感謝しなければならない、何故なら、それぞれの治癒は、私たちが内的に同化した力をもってしてのみ達成することができるような内的な人間の向上を意味しているのだから、ということです。

 死をもって終わる病気は人間にとってどのような意味があるのか?というもうひとつの質問があります。

 ある意味で、それは正反対のこと、つまり、内的な人間と外的な人間の間の妨げられたバランスを回復できない、つまり、この人生においては、内的な人間と外的な人間の間にある境界を正しい方法で越えられない、ということを意味しています。私たちが朝目覚めたとき、変化していない健康な体を受け入れなければならないように、病気が死をもって終わり、それを変化させることができないときには、私たちは変化していない損傷を受けた体を受け入れなければなりません。健康な体は健康なままに留まり、朝私たちを受け入れますが、損傷を受けた体はもはや私たちを受け入れません。ですから、結局私たちは死ぬことになります。私たちは体から去らなければなりませんが、それはもはや再びその調和を確立することができないからです。私たちは私たちの経験を外的な体にとっては利益がないままに精神的な世界に持ち込むのですが、もはや私たちを受け入れることのない体が受けた損傷の結果として獲得されたこの果実は、死と新生の間の生活を豊かにするものになります。ですから、私たちは死で終わる病気にもまた感謝しなければならないのです。何故なら、それは私たちの死と新生の間の生活を豊かにし、その間にだけ成熟することができる力と経験を集める機会を私たちに与えるからです。

 ですからここにあるのは、死に終わる病気と治癒する病気に関する魂にとっての結論です。それは私たちに二つの側面を示します。私たちは、内的な自己がそれによって強化されるために、治癒に終わる病気に感謝しますが、死に終わる病気にも感謝することができます。何故なら、私たちは、私たちが死と新生の間の生活の中で入っていくところのより高次の段階においては、死は私たちにとって大いなる重要性をもっているということを、あるいは、私たちが未来のために自分の体を構築するときには、その体は異なったものでなければならないということを、それから学んでいるであろうからです。私たちはそのとき、以前には私たちを失敗させる原因になった有害な側面を回避することができるようになっているでしょう。治癒過程は私たちの内的な生活を前進させ、死は外的な世界における発達に影響するのです。

 したがって、私たちは必然的に二つの異なった観点を持つことになります。精神科学の観点から次のように言うことは正しいだろう、と考えるべきではありません。つまり、もし、病気によって生じる死が私たちにとって何か感謝すべきものであるとすれば、もし、病気の経過が次の人生において私たちを上昇させるような何かであるとすれば、私たちは本当にすべての病気を死で終わらせなければならない、いかなる治療の試みもすべきではない!と。このように言うことは、精神科学の精神に反しています。何故なら、それは、抽象的なものにではなく、様々な観点から到達され得るような真実に関係しているからです。私たちには、入手できるあらゆる方法で治療を試みるという義務があります。最善をつくして治療するという使命は人間の意識の中に根ざしているものですから、死は、それが生じるときには、感謝すべき何かであるという観点は、通常の人間の意識の中には存在していません。それは私たちがそれを超越することができるときに初めて勝ち取られるような観点なのです。「神の観点」からは病気を死で終わらせることが正当化されるのですが、人間の観点からは治癒を生じさせるためにあらゆることを行うことだけが正当化されるのです。死で終わるすべての病気を同じレベルで評価することはできません。当面、これら二つの観点に折り合いをつけることはできず、両方が平行して発達していかなければなりません。いかなる抽象的な調和もここでは役に立ちません。精神科学はある特別な人生の側面からやってくる真実や別の側面を代表する別の真実の認識に向けて前進していかなければならないのです。

 「治療は善である、治療は義務である」と言うのは正しいのですが、同様に、「死は、病気の結果として生じるときには、善である、死は人間の全体的な発達にとって有益である」と言うのもまた正しいのです。これらの言葉はお互いに矛盾しているとはいえ、両方とも生きた知識によって認識することができる生きた真実を包含しているのです。未来においてのみ調和させることができる二つの流れが正に人間の生活の中に入っていくとき、型にはまった考えの間違いと、人生をより広い観点から眺めることの必要性を理解することが可能になります。いわゆる矛盾は、経験と事物に関するより深い知識にのみ関係するときには、私たちの知識を制限するものではなく、生命そのものが調和に向けて前進するものであるからには、私たちを徐々に生きた知識へと導くものである、ということをはっきりと理解していなければなりません。

 通常の生活は、経験から能力が創造さるというような仕方で、誕生から死までの間に私たちが同化できないものは、私たちが死と新生の間で使用する織物へと織り込まれるというような仕方で進行します。治癒や死に至る病気は人生のこの通常の過程に織り込まれています。つまり、すべての治癒に終わる病気は人間がより高いレベルに上昇するのに貢献し、あらゆる死に至る病気もまた人間をより高いレベルに導く、というような仕方で織り込まれているのです。前者は内的な人間に関する限り、後者は外的な人間に関する限りそうなのです。ですから、世界における進歩はひとつの流れに乗って行くのではなく、ふたつの対抗する流れの中にあるのです。人生の複雑さは、正に病気と治癒の中で目に見えるものになります。もし、病気と健康がなかったとすれば、人間は、その存在の糸にぶら下がりながら、決してその限度を超えることなく人生をつむぎ出す、というような仕方でのみその通常の人生を送ったことでしょう。そして、彼の体を新しく構築する力は、死と新生の間に、精神的な世界から与えられたことでしょう。そのような状況下では、人間は決して彼自身の働きによる果実を世界の発達の中で展開させることができません。人間がこれらの果実を展開できるのは、ただその中でのみ間違いが犯される可能性があるところの人生というしっかりと区切られた境界線の内側においてだけなのです。と申しますのも、真実に到達することができるのは、ただ間違いを知ることによってのみだからです。魂の一部となるような真実、発達に影響するような真実を自分のものとすることができるのは、それが間違いの肥沃な土壌から抽出されるときだけです。もし、人間が限界を破棄することからくる間違いや不完全さをもって人生に介入しなかったとすれば、彼は完全に健康であったでことでしょう。しかし、内的に認識された真実と同じ起源をもつ健康、人間がひとつの人生から別の人生へと彼自身の生命をもって追い求めるべき健康、そのような健康が生じることができるは、ただ間違いや病気という現実を通してだけなのです。人間は、一方では、癒されることで彼の間違いや失敗を克服することを学び、他方では、死と新生の状態にある間に、生きている間には打ち勝つことができなかった間違いに出会うことによって、次の人生でそれらを乗り越えることができるようになるのです。

 さて、あの劇的な例に戻りますと、その時、あのように間違った判断を下した学者たちの知性について言えることは、単に、簡単に結論にとびつかないようにより注意深くなるだろう、ということだけではなく、人生との調和を少しずつ創り出せるように経験を成熟させるようになるだろう、ということです。

 このように、病気と治療は、人間が、それらなしに、自分の努力だけでその目標を達成することは決してできない、というような仕方で人生に影響を及ぼす、ということを観察することができます。もし、私たちの目標が真実を認識することであるならば、過ちがそうであるように、私たちの発達に対するこれらの一見普通でない介入も、私たちの存在そのものに属しているのだ、ということが分かります。私たちは、偉大な詩人が重要な時代に人間の過ちについて語ったのと同じことを、病気と治療についても語ることができるでしょう。「努力する人間は間違いを犯す!」 私たちは、その詩人が次のように言いたかったのではないかという印象を受けます。「人間はいつも間違いを犯す!」しかし、この言い方は逆転させることができます。そうすると次のようになるかも知れません。「人間がまだ間違う間は、努力させておこう!」 間違いが新たな努力を産み出すのです。ですから、「努力する人間は間違いを犯す!」という言葉は、必ずしも私たちを絶望で満たすわけではありません。何故なら、あらゆる間違いは新たな努力を呼び起こし、人間はその間違いを克服するまで努力し続けるであろうからです。これは、間違いがそれ自体の中でそれを超えた地点を指し示し、人間的な真実に導く、と言うのと同じです。そして、同様に、人間の中では病気が生じるかも知れないけれども、彼は発達していかなければならない、と言うことができます。彼は病気を通して健康へと発達していくのです。こうして、病気は治癒において、そして、死においてさえ、それ自体を超えた地点を指し示し、健康な状態を作り出します。そして、その状態は人間にとって疎遠なものなのではなく、人間との調和の中で、人間を超えて成長していくものなのです。

このような文脈の中で立ち現れてくるあらゆるものは、いかにその存在の叡知の中に置かれた世界が、あらゆる発達段階にある人間に、アンジェラス・シレジウスの言葉の意味で、彼自身を超えて成長していく機会を提供するか、を示すのに適しています。私たちは、その言葉で「神秘主義とは何か?」の講義を終えたのでした。そのとき、私たちは、より親密な発達領域に言及していたのですが、今や、その意味するところは病気と治療の全領域に広げられ、次のように言うことができます。

あなたが神の優越の中で、あなた自身を超越するなら、

     その時、あなたの中で上昇が支配するだろう!


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