ルドルフ・シュタイナー

「魂生活の変容−経験の道」(第二巻)(GA59)

佐々木義之 訳

第6講「ポジティブな人とネガティブな人」

1910年3月10日)


 もし、人間の魂を、ある人を別の人と比較するという方法で検証するならば、そこには考えられる限り最高度の多様性が見出されます。この連続講義では、いくつかの典型的な差異とその理由を、性格や気質、能力や力などに関連づけながらお話ししました。今日は、ひとつの重要な差異、つまり、ポジティブな人とネガティブな人の違いについて考えてみましょう。

 始めるにあたり、この主題の取り扱いが(そして、これは私の他の講義とも完全に調和することになるでしょう)、ポジティブあるいはネガティブなものとして人々を描写するところの表面的ではあるけれども一般的な方法とは何も共通したものを有していない、ということを明確にしておきたいと思います。私たちの記述は完全にそれ自体の基盤の上に立っているのです。

 まず、ポジティブな、あるいはネガティブな人というとき、それが何を意味しているかについての明確な定義づけといえるようなものをくまなく探してみるのもいいでしょう。すると、私たちは次のように言うかも知れません。人間の魂に関する真正で洞察力のある教えという意味では、ポジティブな人とは外的世界から彼の上に注ぎ込まれるあらゆる印象に直面したとき、彼の内的存在の堅固さと確かさを少なくともある程度まで保持できる人として定義づけできるだろう。したがって、彼は一定の嗜好とともに、外的な印象がそれを妨害することができないようなはっきりとした考えと概念を有しているだろう。また、彼の行動は彼が日常生活の中で出会うところのいかなる一時的な印象によっても影響されないような衝動によって駆り立てられる、と。

 一方、ネガティブな人は移り変わる印象に左右されやすく、あれこれの人やグループから彼にもたらされる考えに強く影響されるような人であるということができます。したがって、彼は、彼が考えていたことや感じていたことを容易に変更させられ、何か異なったものを彼の魂の中に取り込むようにさせられます。彼は、その行動において、他の人々からやって来るあらゆる種類の影響によって彼自身の衝動から引き離されるのです。

 これが私たちの大まかな定義であり得るのですが、もし、人間本性に深く根ざしたこれらの特徴が実生活においてどのような働きをしているかを調べてみるならば、私たちは、私たちの定義から得るものはほとんどない、そのような便利なレッテルをいくら探してみてもほとんど役に立たない、ということをすぐに確信するでしょう。と申しますのも、もし、それらの定義を実際の生活に適用してみるならば、私たちは次のように言わざるを得ないからです。子供時代からずっと持続してきたある一定の特徴を示す強い熱情と衝動を有する人間はあらゆる種類の善き凡例や悪しき凡例を、それらが彼の習慣に影響を及ぼすことを許さないままに、やり過ごしているであろう。彼は、あれこれのことについて、何らかの考えや概念を形成しており、他のいかなる事実が彼の前にもたらされようともそれにしがみついているだろう。彼が何か他のことを確信できるとしても、その前に無数の障害が山のように積み重なっているだろう、と。そのような人間は確かにポジティブかも知れませんが、それは彼に退屈な人生以外のものはもたらさないでしょう。彼は、彼の経験を豊かに広げるかも知れないものを見もせず、聞きもしないことにより、新しい印象から閉ざされるのです。

 別のタイプの人間、いつでも新しい印象を歓迎し、事実が彼の考えに反するならば、いつでもそれを訂正する容易ができている人間は、(多分、比較的短い間に)全く異なった存在になるでしょう。彼は、彼の人生の経過の中で、ひとつの興味から別の興味へと急ぎ、そのため、彼の人生の特徴は時間の経過とともに全く変化するように見えるかも知れません。「ポジティブ」なタイプの人間と比較して、彼は、確かにより良く人生を理解しているにもかかわらず、私たちの定義づけにしたがって、私たちは彼を「ネガティブ」と呼ばなければならないのです。

 もう一度、頑強な性格を有する人間についていえば、彼の人生は習慣と慣例に支配されており、芸術の宝庫のような国を旅するときにも、彼は、彼の魂にあまりにも多くの型にはまった反応を背負わせているために、芸術作品の前を次々に通り過ぎるか、せいぜい、ベデカー旅行案内書を開いて、どれが一番重要かを調べる程度で、結局、美術館から美術館、景色から景色へとずっと見て歩いた後で、少しも豊かになっていない魂をもって家に帰ることになるのです。それでも、私たちは彼を非常にポジティブな人間と呼ばねばならないでしょう。

 反対に、誰か別の人がちょうど同じコースを旅するとしても、彼の性格は、どの絵にも没頭するというようなもので、ある絵に熱中して自分を見失うかと思えば、次の絵についても、そしてその次の絵についてもという具合です。こうして彼は、あらゆる些細なことに捕らわれる魂とともに歩き通し、その結果、どの印象も次の印象によってぬぐい去られ、そして、彼の魂の中に一種のカオスをもって家に帰るのです。彼は非常にネガティブな人間であり、もうひとりの人間のちょうど対極にあります。

 この二つのタイプについて、私たちはもっと様々の例を挙げることもできるでしょう。あまりにも多く学んだために、どんなことについても確かな判断ができないほどネガティブな人物についても記述することができるでしょう。彼はもはや何が真実で何が偽りなのかを知らず、人生と認識に関して、厭世主義者になりました。もうひとりの人間も同じ印象をちょうど同じだけ吸収しましたが、彼はそれに働きかけるとともに、彼が獲得している叡知の全体にそれらをどのように適合させればよいかを知っています。彼は、言葉の最良の意味で、ポジティブな人間でありましょう。

 子供は、もし、自分の生来の性質を主張して、それに反するものすべてを拒絶しようとするならば、大人達に対して暴君的にポジティブになり得ます。一方、多くの経験や間違い、絶望を経てきた人間でも、あらゆる新しい印象に捕らえられ、相変わらず、元気づけられたり、打ちひしがれたりするかも知れません。彼はその子に比べるとネガティブなタイプといえるでしょう。要するに、私たちが、ポジティブあるいはネガティブな人とは、というような決定的な問いに正しく接近することができるのは、その人の人生全体を、何らかの理論的な考えにしたがってではなく、その多様性のすべてにおいて私たちに作用させ、人生における事実やできごとを整理するためにのみ概念を用いるときだけです。と申しますのも、人間の魂をその個人的な特色において議論する場合には、私たちは最高度の重要性をもつ何かに触れることになるからです。もし、私たちが、人間を考察するにあたって、私たちがそう呼ぶところの(この場で、しばしば議論されるような)進化を免れることのできないところの生きる実体としての彼を、その完全な存在性のすべてにおいて考察するのでなければ、これらの問いはずっと単純なものになるでしょう。

 私たちは人間の魂をひとつの進化段階から次の進化段階へと移っていくものとして見るのですが、真の精神科学の意味で言うならば、ある人物の誕生から死までの人生をいつも単一の経過を辿るものとして思い描くことはありません。と申しますのも、私たちは、彼の人生が以前の各地上生の続きであり、後の各地上生の出発点であることを知っているからです。人生をその様々な受肉の全体を通して観察するならば、ある地上生においては発達がいくらかゆっくりしているため、その人は同じ様な性格や考えをずっと保持する、というようなことが容易に理解できます。別の地上生において、彼は、それだけよけいに、彼を新しい段階の魂的生活へと導くような発達に追いつかなければならないでしょう。たったひとつの人生を探求するということは、いつでも、最高度に不十分なのです。

 さて、ポジティブあるいはネガティブなタイプに関するこれらの示唆が、これまでの講義の中で敷かれた路線に沿って人間の魂を探求する際に、どのように私たちの役に立ち得るのか、と問うてみましょう。私たちは、魂というものが、何気ない一瞥によってそのように見えるような、概念、感情、そして考えの混沌とした流れでは全くない、ということを示しました。そうではなく、それは明確に区別されるべき三つの構成体を有しているのです。これらの内、最初の、そして、最も低次のものを、私たちは感覚魂と呼びました。その基本的な姿を最もよく見ることができるのは、比較的低い発達段階にあり、完全に熱情や衝動、欲望や願望のままに生き、自分の内に生じるあらゆる欲望や願望をひたすら追求する人間においてです。このタイプの人間の中では、人間の魂の自意識的な核である自我は熱情、欲望、そして共感と反感の波打つ海の中にあり、魂の中を嵐が吹き抜けるたびに彼はその影響を被るのです。そのような人間が彼の性向にしたがうのは、彼がそれらを支配しているからではなく、それらが彼を支配しているからです。そのため、彼はあらゆる内的な要求にそのはけ口を与えます。彼の自我がこの波打つ欲望を超えて自らを上昇させることは滅多にありません。私たちは、魂がさらに発達していくとき、いかに自我が力強い中心点から働くかをますますはっきりと見ることになります。

 進化が進むに連れて、当然の成り行きとして、誰の内にもある魂のより高次の部分が感覚魂に対して一定の支配力を獲得するようになります。私たちはこの高次の部分を悟性魂あるいは心魂と呼びました。人があらゆる性向や衝動にしたがうときにも絶えずそこに存在しているとはいえ、自我が彼の性向や欲望をコントロールし、彼が受け取るところの絶え間なく変化する印象に彼の内的な生活におけるある種の一貫性を賦課し始めるときにのみ効果的になることができるような何かが彼の魂の中に現れます。こうして、この魂の第二の構成体、悟性魂が優位になるとき、私たちの人間についての表象はより深いものになるのです。

 私たちは、次に、魂の最も高次の構成体、意識魂について語りました。そこでは、自我が十全なる力強さをもって前面に出てきます。そのとき、内的な生活は外的世界に向かいます。その概念的な表象や考えは、もはや、単に熱情をコントロールするためにそこにあるのではありません。何故なら、この段階において、魂の内的な生活の全体は、外的世界を映し出し、その認識を獲得するように自我によって導かれるからです。このことは意識魂が魂の生活を支配するようになったことを示してます。これら三つの魂の構成体はどの人間の内にも存在しているのですが、いずれの場合にも、それらの内のひとつが支配的になっているのです。

前回の講義では、魂は発達においてさらに先に進むことができるということ、実際、もし、私たちが言葉の真の意味で人間であるべきであるならば、それは日常生活においてさえ先に進まなければならない、ということが示されたのでした。彼の行動への動機が完全に外的な要求に由来するような人間、ただ共感と反感のみによって行動へと駆り立てられるような人間は、彼の内にある人間本性の真の性質に気づこうと努力したりはしません。精神的な世界から導き出される道徳的な考えや理想へと自分自身を上昇させるような人だけがこれを達成するのです。何故なら、私たちが新しい要素によって魂の生活を豊かにするのはこのようにしてだからです。人間は、彼の内的な存在によって知られざる深みから引き出し、外的世界に刻印するところの何かを人生に持ち込むことができるからこそ、「歴史」を有しているのです。同様に、もし、私たちが外的な経験をある考えに結びつけることができなかったとすれば、決して世界の秘密についての真の認識に到達することはないでしょう。私たちはそれらの考えを私たち自身の中にある精神から取り出し、それらを外的世界に対置します。そして、私たちは、そうすることによってのみ、外的世界をその真の姿において把握し、説明することができるのです。このように、私たちは私たちの内的な存在に精神的な要素を注ぎ込み、外的世界だけからは決して得られないような経験で魂を豊かにするのです。

 神秘主義についての講義で述べられたように、私たちは、しばらくの間、外的世界の印象や刺激から自分自身を切り離すことによって、つまり、魂を空にするとともに、通常は日常生活の絶え間ない経験によってうち消されているけれども、今や炎へと燃え上がらせることができるような(マイスター・エックハルトが言うところの)小さな炎に没頭することによって、魂的生活のより高次の形態へと上昇します。この階級にある神秘家は、日常のレベルを超えた魂的生活へと上昇します。つまり、彼は、世界の神秘が彼の魂の中に置いたもののヴェールを取り除くことによって、彼自身がその世界の神秘の中に沈潜するのです。その次の講義では、私たちは、もし、人がそれを静かに受容する態度で未来を待ち受け、そして、過去を振り返るにあたっては、彼の日常生活において明らかになるようないかなるものよりも偉大な何かが彼の内にはある、ということを感じるならば、彼は、祈りの中で、この彼の上にそびえ立つより偉大なものを見上げざるを得ないようにさせられるであろうということ、つまり、彼は、その中で、彼の通常の生活を超越する何かに向けて、自分自身を超えて内的に上昇するのだ、ということを見てきました。そして、最後に、イマジネーション、インスピレーション、そして、インテュイションという3つの段階を通じて人間を導くところの真の精神的な訓練によって、彼は、光と色の世界が盲目の人には閉ざされているように普通の人々には知られていない世界へと成長することができる、ということを見てきたのでした。こうして、私たちは、いかに魂が通常のレベルを超えて成長することができるかを見ることによって、それが限りなく多様な段階を経て発達していく様子を垣間見ることができたのです。

 もし、私たちが周囲にいる人たちを見回してみるならば、彼らはきわめて異なった発達段階にある、ということが分かります。ある人は、自分の魂をある一定の段階にまで上昇させており、自分が獲得したものを死の門を通って運んで行くことができる可能性を有している、ということをその人生の中で示すでしょう。もし、人々がある段階から別の段階へと移っていく様子を研究するならば、私たちはポジティブな性質とネガティブな性質という概念へと至るのですが、あるひとりの人がポジティブ、あるいはネガティブであると言うことはできません。何故なら、彼は彼の発達段階に応じて両方の特徴を示すであろうからです。

 ある人は、当初、最も強固で最も頑固な衝動を彼の感覚魂の中に有しているかも知れません。そのとき、彼ははっきりとした衝動、熱情、欲望に駆られる一方、彼の自我中心は比較的ぼんやりしたものにとどまり、しかも自分でそのことに気がつかないかも知れません。この時点で、彼は非常にポジティブであり、ポジティブなタイプの人間としてその人生を追求します。しかし、もし彼がその状態にとどまるならば、彼は進歩することができません。彼は、その発達過程において、ポジティブな人間からネガティブな人間に変化しなければならないのです。何故なら、彼は、彼の発達が要求するものが何であれ、その受容に向けて開かれていなければならないからです。もし、彼が彼の感覚魂の中のポジティブな性質を抑制し、それによって新しい印象が流れ込むことができるようにする準備をしていないとすれば、つまり、もし、彼が彼に自然に備わったポジティブな性質から抜け出し、ある種のネガティブな受容性を獲得することができないとすれば、彼はそれ以上先に進むことができないでしょう。

 ここで私たちは魂にとって必要であるとはいえ、危険の源泉ともなり得る何か、つまり、私たちの人生を安全に導くことができるのは魂に関する親密な知識のみである、ということを非常にはっきりと示すような何かに触れることになります。もし、私たちが魂の生活に影響を及ぼすようなある一定の危険から逃れようとすれば、私たちは進歩することができない、というのが実際のところなのです。そして、ネガティブな人間にとって、彼が外的な印象の流れ込みに対し、そして、それらと一体になることに対して開かれているために、この危険は絶えず存在しているのです。このことは、彼がよい印象ばかりではなく、危険で悪い印象もまた取り込むであろう、ということを意味しています。

 非常にネガティブな人間が別の人間に出会うとき、彼は簡単に我を忘れ、判断や理性とは何の関係もないありとあらゆることに聞き入り、その人間が言うことばかりではなく、彼がすることにも影響を受けるでしょう。彼は、その人間に非常によく似てくるほどまでにその行動やお手本を真似するかも知れません。そのような人物は確かによい影響に対して開かれているかも知れませんが、あらゆる種類の悪い刺激にも応答し、それを自分のものにするという危険にさらされることになるでしょう。

 もし、私たちが普通の生活から私たちの周囲で活動する精神的な事実や存在とは何かを見ることができる水準へと上昇するならば、ネガティブな魂的性質を有する人間は、外的な生活においてはほとんどそれとは分からないようなあの曖昧で漠然とした印象からくる影響にとりわけ開かれている、と言わざるを得ません。例えば、実際、人間が独りでいるときには、多人数の集団の中にいるときの彼とはかなり異なっている、その集団が活動的であるときには特にそうである、というようなことがあります。彼が独りでいるときには、彼は彼自身の衝動に従い、たとえ弱い自我といえどもその活動の源泉をそれ自身の中に探求するでしょう。しかし、多人数の集団の中では、一種の集団魂が存在しており、そこにいる人たちに発するあらゆる種類の衝動や欲望、評価がともに流れているのです。ポジティブな人間はこの集合的な実体に容易に自分を明け渡すことはないかも知れませんが、ネガティブな人間は絶えずそれに影響されるでしょう。ですから、私たちは方言で詩を書いたローゼガーが二、三の言葉で表現したところの真実を何度でも経験することができるのです。彼の次のような言葉は乱暴ですが、そこには真実の核心以上のものがあります。

ひとりで人間

ふたりで皆の衆

もっといりゃあ畜生だ

 人は独りでいるとき、仲間といるときよりも賢い、ということに私たちはしばしば気がつきます。と申しますのも、そのとき、彼らは、ほとんどいつでも、そこで支配的な平均的雰囲気に左右されるからです。こうして、ある人ははっきりとした考えや感情を持たずに集会に出かけ、以前は特に気にも留めなかった何らかの論点を、講演者が熱心に語るのを聴きます。彼は、その講演者からは、その講演に応える聴衆の歓呼からほどには影響されなかったかも知れませんが、その歓呼にはしっかりと心をつかまれ、全くの確信を持って家に帰るのです。

 この種の集団心理は人生において大変大きな役割を演じます。それはネガティブな魂がさらされる危険、特に、党派主義の危険を示しています。と申しますのも、私たちが誰かに何かを確信させようとして失敗するにしても、もし、彼を党派やグループの影響下に置くことができるならば、そこには魂から魂へと広がる集団心理が働いているために、そうすることは比較的容易だからです。ネガティブなタイプの人にとっての大いなる危険がここにあるのです。

 私たちはさらに先に進むことができます。これまでの講義で、いかに魂が、精神生活において、より高次の領域に自ら上昇することができるかを見てきました。そして、私の「神秘学概論」の中で、魂がこの段階を追った上昇を達成するために、どのように自らを訓練しなければならないかが説明されているのを皆さんは見出されるでしょう。魂は、まず最初に、自らの中のポジティブな要素を抑制し、故意にネガティブな雰囲気にすることによって、新しい印象に向けて自らを開放しなければなりません。そうする以外に、それは進歩することができないでしょう。私たちは、精神的な探求者が存在のより高次の段階に到達することを望むならば、彼が何を為すべきかについて、何度も説明してきました。彼は、通常は眠りにおいてもたらされるような、魂が外的な刺激を全く受容しない状態を故意に、そして意識的に生じさせなければなりません。つまり、彼は、彼の魂が全く空になるように、すべての外的な印象を締め出さなければならないのです。そして、彼は、もし、彼が初心者であるとすれば、彼にとって最初は全く新しいものに見える印象に向けて彼の魂を開かなければなりません。これは、彼が自分自身をできるだけネガティブにしておかなければならない、ということを意味しています。そして、神秘主義的な生活におけるあらゆるもの、そして、私たちが内的な観想、内的な瞑想と呼ぶところのより高次の世界の認識が魂の中に生じさせるのは、基本的には、正にネガティブな雰囲気なのです。それは避けられないことです。人が外的世界からの印象をすべて抑制し、そして、完全に自分自身の中に沈潜するとともに、以前は彼のものであったポジティブな性格を消し去るような状況を意識的に達成するとき、彼はネガティブに、そして自分自身に没頭するようにならざるを得ないのです。

 もっと容易で外的な方法を取るときにもこれと同様のことが起こります。この方法自体が私たちをより高次の生活に導くことはありませんが、それは私たちの上昇のための支えを与えてくれます。例えば、一種の動物的なやり方でポジティブな衝動を引き起こすような食べ物から特別な食事、すなわち野菜やそういったものに移行するとき、そのようなことが起こります。確かに、菜食主義やあれこれのものを食べることによって高次の世界に上昇することができるようになるわけではありませんし、それによってあの高みへと上りつめることができるとすれば、それはあまりに安易なことでありましょう。私たち自身の魂への働きかけ以外に、私たちをそこへ連れていくことができるものは何もないのです。けれども、栄養における特別な形態が有する妨害的な影響を避けることによって、その働きかけをもっと容易なものにすることはできます。より高次の、より精神的な生活を送ろうと試みる人は誰でも、ある種の食習慣を採用することによって、彼の力を高めることができる、ということを容易に確信することができます。と申しますのも、もし、彼が頑強でポジティブな要素を彼の中に育てる傾向のある食物を遠ざけるならば、彼はネガティブな状態へともたらされることになるからです。

 真の精神科学の基盤の上に立ち、いかさまとは無縁の人であれば誰でも、真の精神的な生活へと導く努力に実際に結びついた事柄を、たとえそれが外的なものであったとしても、認めないということは決してないでしょう。しかし、これは、私たちが悪しき精神的な影響にさらされるかも知れない、ということを意味しています。私たちが精神科学によって自分を教育し、日常的な印象をぬぐい去るとき、私たちは絶えず私たちの周りにいる精神的な事実や存在たちに私たち自身を開放します。確かに、彼らの中には、適切な器官が私たちの中で展開するとき、私たちが最初に知覚するのを学ぶところの善き精神的な力や勢力がいるかも知れませんが、私たちは悪しき精神的な力や勢力にも曝されることになります。それは、ちょうど、調和のとれた音の調べを聞くためには、不調和な音にもまた開かれていなければならないのと同じです。もし、精神的な世界に貫き至ることを欲するならば、その経験の悪しき側面にも遭遇しやすくなる、ということを明確にしておかなければなりません。私たちがネガティブな性質をもって精神世界に接近すべきであるならば、私たちは危険につぐ危険に脅かされることになるのです。

 精神的な世界から目を移し、通常の生活について考えてみましょう。例えば、菜食主義は、何故、私たちをネガティブにするのでしょうか?もし、そのようなことが推奨されているからとか、あるいは確かな判断もなく、私たちの生活様式や行動様式を変えることもせずに、単に原則の問題として菜食主義者になるとすれば、ある種の条件下で、それは私たちの上に、おそらくある種の身体的な特徴の上に、その他の影響との関連で、深刻な弱体化をきたすような影響を及ぼすかも知れません。けれども、もし、私たちが、外的な生活に発する使命ではなく、豊かに発達する魂の生活に発する新しい使命を含む自主的な生活に入っているとすれば、食習慣における新しい路線を取るということも、そして、以前の私たちの食習慣から生じているであろう何らかの障害を取り除くということも、非常に有益であり得るのです。

 物事は、異なる人々に対して、非常に異なった効果を及ぼします。ですから、精神科学の探求者はここで何度も強調されてきたところの次のようなことがらに固執します。つまり、人は新しい印象を受け取るために必要とされるネガティブな魂的性質をただ単に育成したり、内的な観照や内的な集中を発達させることに満足したりすべきではない、何故なら、新しい段階へと上昇すべき生活は、それを満たし、支えることができるほど十分に力強い内容を有していなければならないからである、ということを明らかにすることなく、高次の世界へと上昇する方法を誰かに伝えることはありません。もし、私たちが、精神的な世界をのぞき見ることを可能にするであろうような力を獲得する方法を単に誰かに示すとすれば、私たちはその人を、その種の努力にはつきもののネガティブな性質を通して、あらゆる種類の悪しき精神的な力に曝すことになります。けれども、もし、彼が精神的な探求者によって伝えられるところの高次の世界について喜んで学ぶのであれば、彼は決して単にネガティブなままにとどまることはないでしょう。何故なら、彼は、より高次の段階にあるポジティブな内容を彼の魂に浸透させることができるような何かを有することになるからです。私たちが、探求者は単により高次の段階に向けて努力するだけではなく、同時に、精神科学が伝えるところのものを注意深く研究しなければならない、ということをこれほど何度も強調するのはこのような理由によります。新しい領域を経験すべき人はそれらに対して受容的であり、したがってネガティブでなければならない、という事実を精神的な探求者が考慮するのはこのようにしてなのです。

 私たちは、私たちが意識的に魂の開発に乗り出すときに呼び出すべきものを、通常の生活の中で出会うような様々な人々の中に見ることができます。それは、魂が、ただ現在の生活の中でのみ発達を遂げているのではなく、以前の生活の中での発達を経験した後、地上的な存在状態に入るという決定的な段階にあるからなのです。私たちが現在の生活の中で段階的に先に進むとき、ちょうどポジティブな段階に進むためにネガティブな性格を獲得しなければならないように、多分、私たちが最後に死の門を通り、ポジティブあるいはネガティブな性格をもって新しい生活に入ったときにも同様のことが起こったかも知れません。私たちをポジティブな性格とともに人生へと送り出したデザインは、私たちを今いる場所に取り残し、さらなる発展にとってのブレーキとして働くでしょう。何故なら、ポジティブな傾向とは明確に規定された性格を形成するものだからです。一方、死と新たな誕生の間に、多くのものを魂の中に受け入れるのを私たちに可能にするのは、正に、ネガティブな傾向なのです。しかし、それは私たちを地上の生活における多くの偶然のできごと、特に他の人々が私たちに投げかける印象にも曝します。ですから、ネガティブなタイプの人間が他の人々に出会うとき、その人々の性格が彼の上に刻印づけられるのがよく見られます。彼が友人や好意的な関係にある誰かと親交を結ぶとき、いかに自分がますます相手に似てくるかを自分自身で感じることさえできるでしょう。結婚や親密な友人関係の場合、筆跡さえ似てくるかも知れません。それを観察すれば、ネガティブな人の筆跡が本当にその結婚相手の筆跡にますます似てくるのが分かるでしょう。

 このように、ネガティブなタイプの人というのは他の人、特に親しい関係にある人の影響を受けやすいのです。ですから、彼らはある一定の危険、つまり、自らを失い、自分たちの魂的生活や自我感覚が消されてしまうかも知れない、という危険に曝されているのです。

 ポジティブなタイプの人にとっての危険とは、彼が他の人々からの印象を簡単には受け入れられず、彼らの特徴的な性質を評価するのにしばしば失敗するかも知れないということ、そのため、彼はすべての他の人のそばを通り過ぎ、誰とも友人関係や親しい交わりを築くことができないだろうということです。ですから、彼には、彼の魂が硬化し、荒廃する危険があるのです。

 人々をそのポジティブあるいはネガティブな側面において考察するとき、人生に対する深い洞察が得らます。そして、これは人々が彼らの周りの自然に対するときの様々な方法にも当てはまります。では、ある人が他の人々からの影響や、外的世界からの印象を受け取るとき、その人に働きかけているものとは何なのでしょうか?

 魂に絶えずポジティブな性格を与えているものがひとつあります。それは、現代人にとって、その発達段階に関わらず、人生の中で生じるであろうあらゆる状況あるいは関係を明かにしてくれるところの健全な判断であり、合理的な検証です。この反対が、健全な判断の喪失であり、ポジティブな性質による防御が破られるような仕方で印象が受け取られる場合です。私たちは、ある種の人間活動が無意識の中に落ち込むとき、それはしばしば通常の判断が意識的に行使されているときよりも強力な影響力を人々に及ぼす、ということさえ観察することができます。

 不幸なことに、特に、精神科学運動にとって不幸なことなのですが、精神世界に関する事実が厳密に論理的な形態において、つまり、それ以外の生活領域においてはよく認知された形態で示されるとき、人々はそれから逃げ腰になる傾向があるのです。彼らは、そのような事実が原因と結果の合理的な関係において示されるのを、しっくりこないと思うのです。一方、彼らは、これらの情報が彼らの判断を喚起しないような方法で伝えられるときには、はるかに容易に反応するのです。合理的な言葉で伝えられる精神世界についての情報にはきわめて疑り深い反面、漠然とした力によって吹き込まれたように見える霊媒から聞いたことは何でも信じ込む人たちさえいます。自分が何を言っているのか知らず、自分が知っている以上のことをしゃべるこれらの霊媒たちは、自分が何を言っているのかを正確に知っている人たち以上に多くの信者たちを引きつけます。少なくとも半意識状態にあり、明らかに何か別の力に捉えられている人でなければ(このように言われるのを私たちはよく耳にするのですが)、どうして精神世界のことを私たちに告げられるだろうか?これは、精神世界から引き出された事実を「意識的に」伝えることに反対する理由としてよく言われることです。健全な判断に基づき、合理的な言葉で伝えられる情報に注意を払うよりは、霊媒のところに走る方がはるかに一般的である理由がこれなのです。

 精神世界に由来するものは、それが何であれ、意識を排除された領域へと突き落とされるとき、魂のネガティブな性格に働きかける恐れがあります。何故なら、このような性格は、意識下の暗い深みからの影響が私たちに迫るとき、いつでも前面に出てくるものだからです。綿密な観察が示すように、比較的愚かな人物が、そのポジティブな性質のおかげで、より知的な人物に対し、もし、後者が意識下の暗闇から現れるあらゆるものに印象づけられやすい性格であるとすれば、強い影響力を持つ、ということがよくあります。こうして、私たちは、何故、人生においては、繊細な心をもった人たちが頑強な性格の人たち、その主張が彼ら自身の衝動と傾向だけから導き出されるような人たちの餌食になる、というようなことが起こるのかを理解します。

 このことにさらに一歩踏み込むならば、ある顕著な事実に至ります。単に、ときとして理性のあるところを見せないだけなのではなくて、心の病に罹っており、彼の混乱した状態から湧き出すようなことを口にする人について考えて下さい。彼は、彼が病気だと気づかれない限り、繊細な性質を持った人に対し、普通ではない強さの影響を及ぼすかも知れません。

 このようなことすべては人生の叡知に属しています。ポジティブな性質を持った人間は道理に対して開かれていないだろう、一方、ネガティブなタイプの人間は、しばしば、彼には締め出すことのできないような非合理な影響に左右されやすいだろう、というようなことに気づかない限り、それを正しく理解することはできません。より緻密な心理学はこれらの事柄を考慮しなければならないでしょう。

さて、個々人がお互いに及ぼしあう印象についてはこれくらいにして、人々が彼らの周囲の環境から受け取る印象に移りましょう。ここでもまた、私たちは、ポジティブ、ネガティブという文脈の中で、重要な結果を得ることができます。

 例えば、ある特定のテーマについて、非常に実り多い働きをし、それに関連する多数の事実を集積した探求者について考えてみましょう。これによって、彼は人類にとって何か有益なことを成し遂げました。今、彼がこれらの事実を彼が受けてきた教育やそれまでの人生から得られた考え、あるいは、それらの事実についての非常に一面的な見方を提示するかも知れないようなある特定の理論や哲学的な観点から得られた考えに結びつける、と想像してみて下さい。彼がその事実から推量した概念や考えは彼自身の内省的な思考の結果であることから、魂に対して健全な影響を及ぼすのです。何故なら、彼は、彼自身の哲学を苦心して作り上げることによって、彼の魂にポジティブな感情を吹き込んでいるからです。けれども今、彼が何人かの追従者を見出すと想像して下さい。彼らはその事実について自分でよく調べたのではなく、単にそれについて聞いたり読んだりした人たちです。彼らは、その探求者が彼の研究室での仕事や勉強によって自分自身の中に引き起こしたところの感情に欠けているでしょう。そして彼らの気分は完全にネガティブであるかも知れません。こうして、全く同じ教義が、たとえそれが一面的なものであるにしても、その一団の指導者を彼の魂においてポジティブにする一方、単にその教義を繰り返すためにそこに群れ集まった追従者達に対しては、不健全でネガティブな影響を及ぼし、彼らをますます弱めるかも知れないのです。

 これは何か人類の文化史全体を通して流れているところのものです。今日でも、完全に唯物的な世界観をもった人たちが、そして、彼らは彼ら自身の発見に基づいてその世界観を発展させようと精力的に働いているのですが、いかに生き生きとしてポジティブな性格であるか、会うのが楽しみであるような人たちであるかが分かります。しかし、彼らの追従者達の場合、同じ基本的な考えを頭に入れて持ち運んでいるとはいえ、彼ら自身の努力によってそれらを獲得したわけではないために、それらの考えには不健康で、ネガティブで、弱体化させるような効果があるのです。こうして、人が自分自身で哲学上の観点を達成するか、あるいは単に他の人からそれを取り入れるかでは大きな違いがある、と言うことができます。前者はポジティブな性質を、後者はネガティブな性質を獲得するのです。

 このように、私たちの世界に対する態度は私たちをポジティブにもネガティブにもすることができるものである、ということが分かります。例えば、自然に対する純粋に理論的なアプローチは、特に私たちが実際に自分の目で見ることができるあらゆるものを見落とすとすれば、私たちをネガティブにするのです。自然に関する理論的な認識は存在しなければならないのですが、この認識(動物、植物そして鉱物の系統的な研究から得られ、自然法則として概念や考え方の中に体現したところの認識)は、私たちのネガティブな性質に働きかけ、私たちをこれらの考えの中に閉じこめるだろう、という事実に対して盲目であってはなりません。一方、自然がその雄大さの中で私たちに差し出すものすべてに対し、生き生きとした鑑賞力を持って応えるならば、つまり、例えば、花をバラバラに引き裂くのではなく、その美に反応しながら、その中に喜びを見出すとすれば、あるいは、太陽が昇るとき、朝の光をいっぱいに受けながら、それを天文学的に検証するのではなく、その栄光に見入るとすれば、私たちの魂の中にはポジティブな性質が呼び覚まされます。私たちの魂は、私たちが世界に関する理論的な概念を通して受け入れるところのいかなるものにも巻き込まれることはありません。そのとき、私たちは、他の人たちがそれを私たちに口述させるがままにするのです。しかし、私たちが自然の現象に快や不快を感じるとき、私たちの魂全体はそれに生き生きと関わっています。自然の真実が自我に左右されることはありませんが、私たちを喜こばせたり、不愉快にしたりするものは違います。何故なら、私たちが自然に対し、どのように反応するかは、私たちの自我の性格にかかっているからです。

こうして、私たちは次のように言うことができます。自然への生き生きとした参加はポジティブな性質を、自然の理論化はネガティブな性質を発達させる、と。ただ、このことは、繰り返しになりますが、一連の自然現象を最初に分析する研究者が、彼の発見を単に受け入れたり、それらから学んだりする人よりもはるかにポジティブである、という事実によって修正されなければなりません。この違いは教育の幅広い分野において注意を払われるべきものです。これに関連して、今日お話ししてきたような事柄についての意識が存在していた場所では、人間の魂のネガティブな性格がそれ自身のために養成されることは決してなかった、という事実があります。プラトンは、彼の哲学のための学院への入り口に、何故、「幾何の知識を有するものだけが入ることを許される。」という言葉を刻んでいたのでしょうか?それは幾何と数学が他人の権威によっては受け入れることのできないものだからです。私たちは、私たち自身の内的な努力によって幾何をやり通さなければならず、ただ、私たちの魂のポジティブな活動によってのみそれを修得できるのです。今日、このことに注意が払われていたならば、あたりをうるさく飛び回る哲学大系の多くは存在していなかったでしょう。と申しますのも、幾何学のような思考体系が打ち立てられるために、いかに多くのポジティブな働きがつぎ込まれたかに気づく人は誰でも、人間精神の創造的な活動に対して敬意を払う、ということを学ぶであろうからです。ところが、例えば、ヘッケルの「世界の謎」を、それがどれほど苦心してつくりだされたものであるかに思いをはせることことなく読む人は、全く容易に新しい世界観へと至るかも知れませんが、彼は魂の純粋にネガティブな状態からそうすることになるのです。

 さて、精神科学、もしくは人智学には、何か無条件にポジティブな反応を要求するものがあります。もし、誰かが、よく知られた近代的な装置、写真やスライドを使えば、動物だの自然現象だのが彼の目の前でスクリーンに映し出されるのですよ、と言われるならば、彼はそれをネガティブな気持ちで、全く受動的に見ることになるでしょう。ポジティブな性質は必要とされず、考えることすら必要とされないかも知れません。あるいは、彼は氷河が山を下っていくときの様々な局面を映し出すところの一連の写真を見せられるかも知れません。それも全く同じことです。これらの例は、このようにネガティブな態度に訴えかけるものが、今日、いかに幅広く存在しているかを示しています。人智学はそれほど単純ではありません。写真は、せいぜい人智学的な考え方のいくつかを象徴的に示唆することができるだけでしょう。人はその魂の生活を通してのみ精神の世界に近づくことができるのです。実り多いやり方で、精神科学に精通したいと望む人は誰でも、その最も重要な要素が見せ物の題材になったりすることはない、ということに気づかなければなりません。ですから、彼への助言は、活動し続けるということ、それも彼の魂とともに、そして、そのことによって、その魂のもっともポジティブな性質を引き出すということです。実際、精神科学はこれらの性質を人間の魂の中に育成するのに、最高の意味で、ふさわしいものです。それは魂の中で眠っている力をかき立てる以外のことは要求しないのですが、ここにもまたその世界観の健全さが存在しているのです。人智学は、あらゆる魂に本来備わっている活動に訴えることによってその隠された力を呼び覚まし、それらが身体のすべての活力と精力に浸透するようにします。ですから、それは、人間の体全体に対し、十全なる意味において、健康を与える効果を有しているのです。そして、人智学は、集団心理によってではなく、ただ個々人の理解力を通してだけ呼び出される健全な理性にのみ訴えかけ、集団心理が引き起こすあらゆるものを放棄しているがゆえに、人間の魂の最もポジティブな性質を考慮するものなのです。

 このように、私たちは、作り話ではなく、いかに人間がふたつの流れ、ポジティブな流れとネガティブな流れのただ中に置かれているかを示す多くの事例を集めて来ました。彼は、より低次のポジティブな段階を離れ、彼の魂が新しい内容を得ることができるようなネガティブで受容的な状態へと赴くことなしに、さらに高次の段階に上昇することはできません。 つまり、彼はこのネガティブな状態をずっと伴っていくことによって、より高次の段階において、もう一度ポジティブになるのです。もし、私たちが自然を正しく観察することを学ぶならば、私たちは、いかに人間が、世界の叡知による配剤にしたがって、ポジティブな位相からネガティブな位相へと、そして再びポジティブな位相へと導かれるかを見ることができます。

 このような観点から、特別なテーマ、例えば、アリストテレスの有名な悲劇の定義について学ぶのは有意義なことです。彼によると、悲劇とは、観客の中に恐れと哀れみを引き起こすことができるような完全に劇的な演技を、これらの感情が浄化され、その罪障が消滅するような仕方で私たちの前に提示するものです。人間は、最初、彼の通常のエゴイズムとともにその存在状態に入るに際し、非常にポジティブであるということ、つまり、彼は彼自身を硬化させるとともに、他の人間から自分を切り離す、ということに注意しましょう。けれども、その後、もし、彼が、他の人たちの悲しみに同情したり、彼らの喜びを自分の喜びとすることを学ぶならば、彼は非常にネガティブになるのです。それは、彼が自分の自我から離れ、他の人々の感情に参入するからです。

 私たちがネガティブになるのは、誰か別の人に降りかかるように見える何か漠然とした運命、つまり、私たちが親密な共感をいだいている誰かに、明日、降りかかるかも知れないできごとに深く心を動かされるときです。誰かが自分を破局へと導くであろう行いに向けて急ぐとき、つまり、私たちにはそれを予見することができるけれども、自分の衝動に突き動かされているために、彼にはそれを避ける力がないような破局に急ぐとき、誰が震撼せずにいられるでしょうか?私たちはそれがもたらすはずのものを恐れるのですが、そのことが私たちの中に魂のネガティブな状態を醸し出すのです。何故なら、恐れはネガティブなものだからです。もし、私たちが、危険に満ちた未来に近づきつつある誰かのために恐れをいだくことができないとすれば、私たちはもはや人生の中で真の役割に与ることはないでしょう。私たちをネガティブにするのはそのような恐れと共感なのです。悲劇が私たちの前にヒーローを登場させるのは、私たちを再びポジティブにするためです。私たちが彼の行為に共感を覚え、そして、彼の運命を非常に身近に感じることで、私たちの運命が目覚めさせられるのです。同時に、そのヒーローの姿は、演劇の進行とともに、私たちの恐れや哀れみが純化されるような仕方で私たちの前に現れます。つまり、それらはネガティブな感情から、芸術の働きによって私たちに付与されるところの調和的な満足へと変化させられ、それによって、私たちは再びポジティブなあり方へと上昇させられるのです。

 こうして、古代ギリシャの哲学者による悲劇についての定義が私たちに示すのは、いかに芸術が必然的にネガティブな状態の感情をポジティブな状態に変容させるところの人生における要素であり得るか、ということです。私たちは、当初、より低次の発展段階からさらに発達していくために、ネガティブでなければならないのですが、芸術はそのあらゆる領域において私たちをより高次の水準へと導くのです。

 美は、さしあたり、私たちが私たちの現在の段階を超えて上昇するのを助けるために私たちの前に置かれるように意図されたものである、と見なければなりません。そのとき、通常の人生は、もし、私たちが既に芸術を通してより高次の水準に上昇させられていたとすれば、魂のより高次の状態から放射するもので浸透されるのです。

 こうして、私たちは、いかにポジティブとネガティブな性質が、個々人の間だけではなく、人間の一生を通じて交替するものであるか、そして、それが、いかに個人とそして人類全体をある受肉から次の受肉へと上昇させることに寄与するものであるかを理解します。もし、時間があれば、いかにポジティブあるいはネガティブな時代と歴史的な年代があったかを容易に示すこともできたでしょう。ポジティブとネガティブの考え方はあらゆる魂の生活領域と広く人類全体の生活領域に光を当てるのです。

 ある人がいつもネガティブで、別の人がいつもポジティブであるというようなことは決して起こりません。私たちひとりひとりが存在の様々な段階で、ポジティブとネガティブな状態を通過しなければならないのです。その考え方をこの光の下に見るときにのみ、私たちはそれを真実として、したがって、人生を実際に生きるための基本として受け入れることができるのです。こうして、私たちは、この連続講義の始めと終わりに置いてきた言葉、つまり、人生をあまりにも深くのぞき見ることができたために「変人」と呼ばれた古代ギリシャの哲学者、ヘラクリトスの「いかなる道を探求しようとも、魂の境を見出すことは決してできないだろう。魂の存在とはそれほど包括的なものなのだ。」という言葉を今日の議論でも確認しました。

 さて、誰かが次のように言うかも知れません。「では、魂についてのあらゆる探求は無駄に違いない。何故なら、もし、その境界を見つけることが決してできないとすれば、いかなる探求もそれを確定できず、そもそもそれについて何かを知るということは絶望的なことなのだから。」、と。ただネガティブな人だけがこの路線を取ります。ポジティブな人は次のように付け加えるでしょう。「魂の生活があまりにも深遠で、知識が決してそれを取り巻くことができないことを神に感謝する。何故なら、それは、今日、理解したことを明日は越えていくことができ、それによって、より高次の水準へと急ぐことができるということなのだから。」、と。あらゆる瞬間に、魂の生活が私たちの知識をあざ笑うことに感謝しましょう。私たちは際限のない魂的生活を必要としています。何故なら、この無限の展望こそ、私たちが絶えずポジティブな性格を越え、段階を追って上昇することに対する希望を与えるものだからです。私たちが希望と確信をもって前を見ることができるのは、正に、私たちの魂的生活が際限のないものであり、不可知のものである、その程度においてなのです。決して魂の境を発見することができないがゆえに、魂はそれを越え、より高く、どこまでも高く上昇することができるのです 


 ■「シュタイナー魂生活の変容」メニューに戻る

 ■シュタイナー研究室に戻る

 ■神秘学遊戯団ホームページに戻る