ルドルフ・シュタイナー

「魂生活の変容−経験の道」(第二巻)(GA59)

佐々木義之 訳

第7講「不調と心的な障害」

1910年4月28日)


 この冬に、私がこの場で皆さんの前に提示することを許された連続講義では、本連続講義の第一講で性格付けされたような精神科学の観点から、非常に多様な現れ方をするところの人間の魂的生活、あるいはもっと広い意味での生活に光を当てる、というのがその使命でした。今日は、悲惨や苦悩、そして恐らく希望の喪失をももたらすかも知れないような人間生活の領域を観察することにしましょう。これを補完するために、次回の講義では、「人間的な意識」と題して、人の自我意識の人間的な尊厳、価値、力が最大限に表現されるような高みへと私たちを連れ戻す領域について触れることにします。そして、最後に、今日、暗く、最も戦慄すべき人生の側面から私たちの前に現れるように見えるものの全く健全な面を示そうと努めるところの「芸術の使命」についての考察をもって今年の連続講義の締めくくりにしたいと思います。

 不調と心的な障害について語られるとき、誰の魂の中にも、人間の最も深い苦しみのイメージと同時に最も深い人間的な共感のイメージが生じます。そして、このようにして魂の中に生じるあらゆるものは、人間の魂の中に存在するこの深淵を、この連続講義の中で得られると期待されるところの光をもって照らし出すための挑戦でもあり得るのです。特に、ここで私たちの魂の前に示された考え方によって前進することにますます精通する人は、精神科学的な観察方法をもってすれば、ある意味で、人生におけるこの悲しみの章に光を当てることができるかも知れない、という希望を持つにちがいありません。と申しますのも、なにがしかの文献上の知識を有している人であれば誰でも、ただし、ここでいう文献とは今や急速に広まっている素人によるものではなく、むしろ専門家による文献ですが、そのような知識が、精神科学的な観点から見た場合、ある意味で、非常にはるかな地点にまで達するものであり、それに関連する事実を評価するための豊かな素材を提供するものである、ということに気付くことができる一方、どの文献の中でも、現代における様々な理論や観点、思考様式が収集された経験や科学的な観察に骨組みを与えるという点で、ほとんど役に立たない、ということがあまりにも明らかになってきている、ということがあるからです。特に、この領域においては、いかに精神科学が真正で本物の科学と、つまり、科学的な事実や結果、経験として私たちが出会うところのあらゆるものと調和しているかをはっきりと見て取ることができます。けれども、同時に、各段階において、いかに精神科学が、これらの経験と現代の潮流となっている科学的な観点からそれらの経験が説明されるその仕方との間に矛盾を見出すか、ということもまた理解することができるのです。他の領域においてと同様に、私たちはここでもそのテーマを概略的に扱うことしかできないかも知れませんが、それは、多分、私たちがこれから扱おうとしている悲しむべき状況との関連においても、私たちがますます私たち自身の方向性を見出すことができるように、私たちの実生活の中にも流れ込むことができるような適切な理解を獲得するための刺激を与えることになるでしょう。

 「不調」と「心的な障害」という言葉を使用するにあたっては、それらが基本的に異なっている、ということを私たちは意識しています。にもかかわらず、実際に心的な障害を受けているものとして記述できるような魂的生活を正確に観察する人がそこに見出すのは、人生の中の何らかの点に関して生じるところの、そうでなければ正常と見なされるような不調とは単に程度において異なるところの表現や外観かも知れません。しかし、そのような観察は、ある種の思考の方向性が個別的な区分けをぼやけさせ、実際、健康で正常な魂的生活と「心的障害」という言葉で記述できるようなものとの間にははっきりとした線を引くことはできない、と言わせるような傾向を有していることから、間違った説明をしやすいのです。

 その種の記述には、そのようなことが起こった場合、強調されなければならないようなある種の危険が含まれているのです。そして、その危険は、その記述が間違っているということにではなく、それが正しい記述であるという事実の中にあるのです。これは矛盾であるように聞こえるかも知れませんが、とはいえ、間違った記述というのは、ときとして、説明することができ、一方的なやり方で実践に移すことができるような正しい記述よりも危険が少ない、というのは事実なのです。それは、その記述の正しさの中に本来備わっている危険が気付かれない、ということです。何かが、ある文脈の中で、正しいと証明されるならば、それはそれで十分だと考えられがちなのですが、私たちはあらゆる正しいことがらにはその反対の側面があり、私たちが見出すいかなる真実もある種の事実と経験の観点から見たときにのみ真実であるにすぎない、ということに気付くべきなのです。危険はその真実が他の領域にまで外挿される瞬間に、つまり、それがあまりにも遠くまで拡張され、教条的な信念になるときに生じます。たとえ私たちが、真実は存在する、ということを知っていても、一般に大したことは達成できない、真の認識において重要なのはその知識が有効に働く限界を知ることである、と言われるのはこの理由によります。

 私たちは、確かに、通常の健全な魂的生活がある限界点を越えるとき、病理学的な徴候にもなる、という現象を観察することができます。この記述を充分な重みをもって認識することができるのは、より親密なレベルで人生を観察することに正しい仕方で慣れている人だけです。ある人が何らかの概念を理解し、それを正しい瞬間に別の概念に結びつけることができず、そのため、それを新たな、そして全く不適切な状況下で適用し、以前の状況下では正しかったけれども、後にそうではなくなった考えに基づいて行動するとすれば、誰がそこに「心的な障害」の題字の下に括られる病理学的な側面があることを否定するでしょうか?誰が、これは病理学的なものに近似している、ということを否定するでしょうか?もし、そのことが程度を越えて起こるならば、それは心的な障害への直接的な徴候なのです。けれども、他方では、その気苦労の多さとぎこちなさのために仕事をうまく進められない人々がいる、ということも否定できません。そこに見られるのは、通常の魂的生活におけるひとつの状況(ある考えを展開していくことができないという状況)なのですが、不調について語るのをやめて、病理的な心身の障害について語り始めるべき地点へと接近できるのはそのような状況においてなのです。例えば、誰か(これは本当に起こることなのですが)勘違いしやすい人がいて、周りにいる人の咳払いが普通の咳のようにではなく、彼に対する人々の悪口であるかのように聞こえる、つまり、そのような幻想を彼に与えると仮定してみましょう。もし、彼が、そのとき、その生活と行動をこの幻想に適応させるとするならば、彼は心的な障害を持った人と考えられることになります。そして、それにもかかわらず、このことと通常の生活におけるできごと、すなわち、ある人が、何らかのことが語られるのを漏れ聞き、その内容について、実際に語られたのとは全く違うものを聞いたかのように説明する場合との間にはわずかの違いしかないのです。ある人が、「だれそれが私についてあれこれのことを言った。」と言い、にもかかわらず、そのだれそれがそのことを言ったという形跡がない、というようなことがあります。通常の魂的生活がその健全な道筋からはずれ、魂的な障害へと変わるのはどの地点においてなのかを決めるのはそれほど容易なことではないのです。

 次に述べることは、矛盾しているように見えるかも知れませんが、この分野において、何らかの考えを喚起するのに役立つでしょう。すなわち、並木道に立っている人が、近くを見るときには木と木の間の正しい距離を全く正常に知覚できる一方、遠く離れている木はお互いに少しずつ接近しているように見えるために、それらの間にロープを張ろうと決心した際、遠くに行けば行くほど張り渡すロープの長さがますます短くなると考えたとします。これは完全に健全な観察から間違った結論を引き出す人の例です。しかし、健全な観察が可能なのは、錯覚があるからに他なりません。錯覚もまたひとつの観察なのです。その不健全で害のある側面が現れるのは、ただそれが目の前の机と同じ現実性を有しているものと考えられるときだけです。その観察が病理的なものであると言われ得るのは、単にそれが正しい方法で説明されないときだけです。さて、誰かが幻覚を抱き、それが通常の物理的な意味において現実であると考える場合と、先ほどの並木道で、木と木の間を遠くに行くほどますます短いロープで結びつけようとする人との間の矛盾とを比べてみることができます。論理的には、これらふたつのことがらの間には原則的な違いはありません。それにもかかわらず、幻覚は何と容易に私たちを間違った判断へと導き、そして、私たちは、並木道を観察するとき、何とめったに同じような間違いをしないことでしょうか!何人かの人はこのようなことはすべてばかばかしいと考えるかも知れません。けれども、それはさておき、これらの点を逐一考慮する必要があります。と申しますのも、もし、そうしなければ、すぐに話しが脱線して、通常の魂的生活がいかに容易に混乱させられるものであるか、ということを理解できないからです。

 さて、私たちはさらに、その魂的生活が健全で最高度に明晰なものと考えられている人々についてのもっとずっと衝撃的な例を挙げることができます。私は、その分野で働いている人たちの間で最も卓越した人物のひとりであると考えられているドイツの哲学者について触れたいと思います。その哲学者は彼の経験を次のように述べています。

 彼はかつてある人物と話していたのですが、その中で、彼らの二人ともが知っているある学者に話しが及びました。その学者に話しが及んだ瞬間、その哲学者が思い出したのはパリのイラスト集と、その次に、ローマの写真集でした。その間、その学者についての会話がつづいていました。その哲学者は、何故、会話中に、最初はパリのイラスト集のイメージが、つづいてローマの写真集が現れる、というようなことが起こったのかをよく考えてみました。そして、実際、彼はその正しいつながりを何とか確立したのです。彼らの話題に上った学者は特筆すべきあごひげをはやしていました。このあごひげは、直ちに、同じようなあごひげをはやしていたナポレオン三世のイメージをその哲学者の潜在意識の中に呼び起こしたのです。そして、このナポレオン三世のイメージはフランスを経由してパリについてのイラスト画へと導きながら、彼の意識の中へと押し進んで来ました。そして、今や、同じようなバンダイクひげをはやしていた別の男のイメージが彼の前に現れます。イタリアのヴィクトール・イマニュエルのイメージです。そして、このイメージがイタリアを経由してローマの写真集に導いたのです。ここには、十全に意識的な魂的生活において、全く異なることが起こっている間に、気ままででたらめな一連の考えが展開しているのが見られます。さて、ある人の中にパリのイラスト画が現れ、もはや会話の糸をたぐることができず、そのすぐ後に、次のローマの写真集についての考えがつづくと仮定してみましょう。彼はでたらめな思考生活に左右され、誰とも秩序だった会話を持つことができず、ひとまとまりの考えから次の考えへとリズムも論理もなく彼を導くような病理的な魂的生活の中に織り込まれてしまうことでしょう。

 しかし、私たちの哲学者はさらに先へと進みます。そして、これを別の場合と対比させるのですが、彼は、それによって、これらのことがらがどのように関連しているかを認識できるようにしたいと思っていました。彼は、かつて、税金を払うために税務署に出かけたことがありました。彼は75マルクを払いに行ったのです。そして、その哲学はともかく、彼はきちんとした男でしたから、この75マルクを彼の支出簿に記入し、そして、別の仕事に取りかかりました。彼は、後になって、そのとき払った税金の額を知りたいと思ったのですが、思い出すことができません。彼は考えました。そして、哲学者でしたから、体系立ててその仕事に取りかかりました。彼は連想によってその額を思い出そうとしたのです。彼は税務署に向かう自分の歩みに集中し、そして、財布の中に金色の二十マルク札が四枚入っていたということ、さらには、そのときお釣りとしてもらった五マルクのイメージを思い出しました。彼はこのふたつのイメージを思い出し、そして、後は簡単な引き算によって、今や、彼が払ったのは七十五マルクであった、ということを見出すことができたのです。

 ここには、全く異なるふたつのできごとがあります。最初のケースでは、一連の意識的な思考によるコントロールを一切受けない、いわば、自発的な魂の生活がその役割を演じています。これがパリのイラスト画のイメージとローマの写真集のイメージを創り出しました。二番目のケースでは、魂がその踏み出す一歩一歩を選び取りながら、いかに体系的に振る舞うかを見ることができます。これらふたつの魂の過程には、本当にかなりの違いがあるのです。しかし、かの哲学者は精神的な探求者であれば直ちに気がつくであろうようなことに注意を向けることができませんでした。と申しますのも、最初のケースでは、彼の注意は話し相手に向けられているということ、つまり、彼の意識的な魂的生活の全体は相手との会話を維持することに関わっており、でたらめなイメージは、まるで別の意識レベルにあって、勝手に浮かんで来るかのようである、というのが肝心な点なのです。二番目のケースでは、哲学者は彼の注意力のすべてを思考のつながりを決定する方向へと向けています。このことは、最初のケースでは、イメージがでたらめに生じたのに対して、二番目のケースでは、それらが意識的な魂的生活のコントロールの下にあった、というのは何故かを説明します。

 とはいえ、そもそも何故、イメージが生じるのでしょうか?哲学者が見落としているのはその点です。人生を観察する人で、そのようなケースを知っており、問題の哲学者の性格を考慮する立場にある人であれば(私はたまたまそのことを知っているだけではなく、その男をも知っているのですが)、次のような仮説を立てるでしょう。その哲学者は、彼には格別興味のない人物について話し合っていたので、会話に集中しつづけるために、ある程度の努力を必要としていた。そのため、一定量の魂的生活がこの会話に関与しないままに取っておかれ、それが内に向かった、と。しかし、興味のない会話に注意を割かねばならなかった彼には、結果として生じる一連のイメージをコントロールする力がなく、それらはでたらめに生じることになりました。このことは、そのようなイメージがいかに意識的な魂的生活の背後で、影のように生じるかについての示唆を与えます。このような例は無数に挙げることもできるでしょうが、特にこの例を取り上げたのは、それが非常に特徴的であり、それによって多くのことを学ぶことができるからです。

 さて、次のように問うことができるでしょう。そのようなできごとは、人間の魂的生活をもっと深く探求するように私たちを促すのではないのか?また、そのような魂的生活の裂け目は、そもそも、どのようにして生じるのか?と。私たちはここで、今日取り上げているあのあまり愉快でないテーマに関する経験を、この冬、私たちがあれほどしばしば取り扱ってきたところのものに、全く自然に適合させることができるような領域へとやって来ました。その例の中で触れられた哲学者は、彼の経験を記述しようとして謎に直面しますが、事実を一度告知してしまえば、そこからさらにつづけようとはしません。それは、私たちの科学が事物や人間の本質についての認識の手前で、それがどんなに多くのことを語ることができるとしても、立ち止まってしまう、ということから来ています。

 人間の本質的な性質に関する私たちの観察が示したのは、人間は外的な科学によってなされる以上のやり方で眺められなければならない、外的な人間と内的な人間を区別しなければならない、ということでした。私たちは、あらゆる領域において、通常の科学によって理解されているのとは異なる仕方で眠りに注目するべきだ、ということを示してきました。私たちが示したのは、眠っている人間の中で、ベッドに残っている部分は単に外的な人間であり、その外的な人間をベッドに残していくところの不可視の、そしてより高次の内的な人間は通常の意識をもってしては追い求めることができない、ということでした。何かが人間から去って行くのですが、それは正にベッドに残る部分と同じくらい現実的なものであり、そして、その内的な人間は、眠りに落ちてから目覚めるまで、その真の故郷である精神的な世界に引き渡される、ということを通常の意識は単に理解できないのです。それはまた、彼が通常の魂的生活を支えるために起きてから寝るまでの間に必要とするものをそこから抽出する、ということを認めることにも失敗します。眠っている間もその法則とともにそこにある外的な人間と、起きている間だけ外的な人間とともにあり、眠っている間は分離する内的な人間を別々のものと見なし、はっきりと区別しなければならない理由がここにあります。この区別をしない限り、私たちは人生における最も重要なできごとを理解することができません。便宜的に、あらゆるものを統一体と見なし、別の考えを容れず、いたるところに一元論を確立しようとする人たちは、私たちが人間を内的な人間と外的な人間のふたつに分けるということのために、私たちに二元論者の烙印を押します。しかし、そのような人たちは、水を水素と酸素に分ける化学者もまたひどい二元論者であると認めないわけにはいかないでしょう。もし、元素をもっと深いところに横たわっているものとして認識しないとすれば、より高次の意味で一元論者であることは不可能です。ところが、最も身近なものの中にのみ統一を見る人たちは、多様な生の本性を観察するとともに、それだけが命を説明することができるようなことがらを認識することを自ら妨げているのです。

 さて、外的な人間と内的な人間の内にある個々の構成体もまた区別されなければならない、ということも示されました。外的な人間の中で私たちが最初に区別したのは見たりさわったりすることができる肉体です。さらに、その肉体を形成し、作り上げるところの私たちがエーテル体と呼ぶ別の構成体があります。肉体とエーテル体は眠っている間、ベッドの中に残ります。次に、眠っている間、肉体とエーテル体から去り、精神的な世界に入っていく部分は、この連続講義の中で、アストラル体として記述されましたが、それ自身、自我の担い手を包摂しています。けれども、私たちはさらにもっと微妙な区別をしました。つまり、アストラル体の中にある魂の三つの構成体を区別しました。そして、これら三つの構成体を注意深く区別することによって、人生における多くのできごとを説明することができました。

 私たちは魂の最も低次の構成体を感覚魂と呼び、二番目の構成体を悟性魂あるいは心魂、三番目を意識魂として記述しました。ですから、私たちが内的な人間に言及するときは、あらゆる種類の意志衝動、感情、概念そして考えが区別されないままに入り交じったものについて語るかわりに、魂の中にあるこれら三つの構成体を注意深く区別することができるのです。さて、通常の生活においては、外的な人間と内的な人間の間にはある一定の関係があります。その相互関係は次のようなものです。魂のより高次の構成体がほとんど発達していない場合、私たちを奴隷のように従わせるであろう欲望や熱情を担う魂の最も低次の構成体は感覚体と関連しています。感覚体は感覚魂に似ていますが、それは人間の場合には外的な人間に属していると考えられます。アストラル体はここでいう感覚体とは別に記述されなければなりません。と申しますのも、魂を構成する三つの個々の部分はアストラル体が部分的に改造されたものにすぎないのですが、単にそれから作り出されたのではなくて、分離されたものだからです。起きている間、感覚魂は絶えず感覚体と相互作用しています。同様に、悟性魂もしくは心魂はエーテル体との絶えざる相互作用の中にあり、ある意味で、意識魂は肉体と密接に結びついています。私たちが意識魂の中に入ってくるものに関しては、目覚めた意識に依存している、というはこの理由によります。肉体、感覚、脳の活動により伝達されるものは、まず意識魂の中に入ってくるのです。

 このように、人間には三つの構成体から成る二つの部門があり、お互いに対応しています。つまり、感覚魂と感覚体、悟性魂もしくは心魂とエーテル体、そして、意識魂と肉体です。この対応は、私たちが内的な人間から外的な人間へと導く糸を解明するための手助けになるとともに、もし、それらが通常の仕方で機能できないとすれば、いかに通常の魂的生活に支障を来すかを私たちに示すことができるでしょう。では何故、このようなことが起こるのでしょうか?

 感覚魂は感覚体の影響下にあり、これらが正しく対応していないときには、感覚魂の健全な生活は中断されるのです。同様のことは、悟性魂が、エーテル体を正しいやり方で制御し、それを自分のための適切な道具にすることができないときにも起こります。そして、意識魂もまた、肉体がその正常な表現のための障害や妨害になるとき、通常でないものとして現れるでしょう。このように、私たちが人間を体系的に分割するとき、健全な魂的生活に必要な秩序だった対応が見られます。そして、あらゆる種類の障害が、感覚魂と感覚体、悟性魂とエーテル体、意識魂と肉体の間の相互作用の中に生じ得る、ということもまた理解することができます。この複雑な有機体を貫いて走る糸と、生じ得る不規則性を認識できる人だけが魂の中で起こり得る障害を認識することができるでしょう。障害が起こるのは内的な人間と外的な人間の間に不調和があるときだけです。

 意識による完全なコントロールの下で生じる魂的生活は、一方では意識魂の中に、他方では悟性魂の中に存在するものを示しています。しかし、感覚魂の中には、ほとんどそれとは気付かれないようなイメージ、パリのイラスト画やローマの写真集が、ひとつまたひとつと流れているのです。このようなことが生じるのは、哲学者が彼の前に立っている人物との関係を保ちつつも彼の注意を逸らすことによって、感覚魂と感覚体との間に裂け目を生じさせるためなのです。パリのイラスト画やローマの写真集のイメージは感覚魂の中に求められなければなりません。そこでは今述べたようなコントロールされていないプロセスが生じているのです。二人の人物の間での会話は意識魂の中で起こっています。この場合、注意が会話から逸れて彷徨するのを防ぐように強いられる、という必要性が感覚魂と感覚体との間の亀裂を生じさせた原因となっています。

 これらは単に一時的な状態です。と申しますのも、独立するのが感覚体だけである場合、最もわずかの妨害が魂的生活に生じるだけだからです。私たちはそのようなときにも、理性と、そして認識を保持する意識の内的な糸とを保つことができます。つまり、今や独立した感覚体のゆえに現れる強制的なイメージとは別に、私たちもまだそこに存在しているのです。

 そのような亀裂が悟性魂とエーテル体に関して生じるとき、事態ははるかに困難なものになります。そのとき、私たちはあの病理的な状態との境界を接するところの状態の中へとはるかに深く入り込むのです。とはいえ、どこで健全な状態が終わり、どこから病理的な状態が始まるのかを決めるのは困難です。エーテル体がストライキに入るとき、つまり、それが私たちの思考の単なる道具であることを拒否するとき、悟性魂が完全に孤立して経験するところのものを保持することがいかに難しいかをひとつの込み入った例が明らかにするでしょう。エーテル体が独立し、悟性魂に抵抗するとき、思考を十分に表現することが妨げられます。そのため、それは途中で打撃を受け、完遂されることがありません。このことは最も賢いと言われている人たちにも起こる可能性があります。ある奇妙な例を取り上げてみましょう。

 誰でも笑ってすぐに気付くのは論述の論理的な愚かさです。つまり、皆さんがまだ失っていないものはまだ持っている、というのは論理的な結論であり、皆さんは大きな耳をまだ失っていないので、まだ大きな耳を持っているのです。愚かさは思考が事実と一致しないために生じるのであって、これと全く同様の、つまり、「皆さんがまだ失っていないもの」という先行する論述が不当な仮定であり、そのことに気付いていないというパターンにしたがって、そこでは事態がもう少し込み入ったものとなる人生の最も重要な問題に関し、最も信じ難い間違いが犯されることがあるのです。こうして、ある哲学者は人間の自我に関して自分が打ち立てた理論を大いに強調するのですが、私たちがここでしばしば触れてきたのは、いかに自我が、その定義においてさえ、私たちが有することができるいかなる経験とも異なっているか、ということでした。誰でも、テーブルを「テーブル」、ガラスを「ガラス」、時計を「時計」と呼ぶことができます。「私」という言葉だけは、それが私たち自身を指すときには、他の誰もそれを使うことができません。このことは自我の経験とその他すべての経験との根本的な違いを示唆しています。このようなことは観察することができるか、もしくは半分だけ観察することができます。そして、その哲学者が「したがって、自我は決して対象となることはなく、したがって自我は決して観察され得ない。」というような結論を導くとき、それを半分だけしか観察していません。そして、彼が、「もし、それを把握しようと試みるならば、自我は外的に存在していなければならず、同時に、それ自身の中にも存在していなければならない。」と言うとき、それは賢明な観点であるかのように見えます。これは、木の周りを走っている人にとっては、彼が十分速ければ後ろから自分に追いつけるのだが、と言うのと同じです。自我はそれ自身の中では把握され得ない、という教義がそのような例によって裏付けられるとき、誰かそれを信じない人がいるでしょうか!そして、それにもかかわらず、このことすべては、そのような比較は正当なものではない、という事実に、つまり、自我は観察され得ないという仮定に基づいているのです。木との比較でいえば、ただ次のように言うことができるだけでしょう。自我は木の周りを走る人とではなく、せいぜい、蛇のように木の周りに自分を巻き付ける人と比較するべきだ、そうすれば、多分、足を手で掴むことはできるだろう、と。このように、自我は、私たちの経験の中でも、それ以外のあらゆるものとは全く違ったものなのです。それは主体と客体が一致するものとして把握することができる実体なのです。このことは、あらゆる時代の神秘家達によって、自分のしっぽをくわえる蛇という象徴的な言葉によって示唆されてきました。この象徴を用いてきた人たちは、彼らの前にある象徴の中で、いわば彼ら自身を観察しているのだ、ということを理解していたのです。

この例は、いかに私たちがただ感覚体とのみ不調和をきたす可能性があるところの私たちの直接的な知覚についての感情や知覚から、単に純粋な感情や知覚だけではなく、悟性魂もしくは心魂にも影響するところのものへと前進するか、ということを示しています。思考の内的な消化においては、そして、それは思考そのものに比べると既にはるかに恣意的ではないのですが、イメージそのものが原因となって生じる障害ばかりではなく、全く別の種類の抵抗、そしてそれはその過程を厳密に追求することによって結論に到達できないような思考には認識不可能な抵抗なのですが、そのような抵抗となる何かがあるのです。私たちは、いかに人間がそれとは気付かずに、事実に関する論理ではなく、単なる自分の論理である論理に巻き込まれ得るか、という例を見てきました。事実に関する論理は、悟性魂とエーテル体との結びつき、したがって、そのエーテル体に対する支配力が保持されるときにのみ存在します。こうして、私たちの魂的生活が病理的な表現形態を取るのは第一義的には私たちの考えと考えの間の結びつきが損なわれることによるのですが、それはエーテル体がその表現のための健全な道具として私たちの悟性魂に仕えることができないからである、ということが明らかになります。

 けれども、今、私たちの悟性魂の働きを妨げるような障害を作り出すエーテル体が私たちの本性の一部を成しているとすれば、魂が単なる不調から心的な障害へと移行するような影響を及ぼすような原因は何か私たちがコントロールできないようなものの中に横たわっていると言わざるを得ないのか、という問は正当なものです。ある意味で、そのような例は、もしそれが真に理解されるならば、ここで何度も強調されてきたこと、私たちの同時代人の多くが(最も開明的な人たちでさえ)ナンセンスであると考えるような何かを私たちに気付かせてくれます。私たちのエーテル体が悟性魂の行く手に障害を置き、その思考のつながりを全うさせないようにするのが観察されます。そのとき、私たちは、自分が無力でもうここから先に進むことはできないと認めるかわりに、ごちゃごちゃになり、ねじ曲げられた判断を通します。私たちの悟性魂からの判断はエーテル体の侵入によって混乱したものになるのです。ある奇妙な状況、つまり、エーテル体が外的な人間に属しながら、あたかも悟性魂と同レベルにあるかのようにその活動に介入する、と考えられるような状況があるのですが、これはどのように説明すればよいのでしょうか?

 純粋に言葉の上だけで説明するとすれば、「遺伝的な特徴」やその他のことを指摘することができるでしょう。このことは、一定の固定された思考パターンが原因となって、魂に関することがらについて論理的に思考することができない人たちによってなされてきたことです。しかし、魂についてじっくり思考することのできる哲学者は次のように言うでしょう。そのような場合に、魂の中に入って来る不調や混沌とした状態は単に物理的な遺伝の結果ではあり得ない、と。ところが、現代の有名な哲学者は、純粋に物理的なものを越えて行くところの私たちの内的な過程を驚くべき言葉で記述しています。ヴントが「これは私たちを永遠に続く進化の闇へと導く!」と言うとき、もし私たちが深刻なテーマを扱っていないとすれば、それはなかなかの言葉であると言えるかも知れません。厳密な思考をすることに慣れた人は世界的に有名な哲学者のそのような言葉を奇妙なものと思うでしょう。この言葉を魂と精神は魂と精神だけにその起源を有していると語る精神科学の真実と比べてみて下さい。それは、17世紀に偉大な自然科学者、フランセスコ・レディが別の分野で口にしたもうひとつの真実、すなわち、生き物は生き物だけから発生することができるという真実に比べられるものとして私たちがしばしば見てきたもののさらに高次の真実です。精神科学は物理的な遺伝について明らかにするだけではなく、精神的な要素があらゆる物理的なものの中で活動している、ということをも示します。そして、エーテル体の悟性魂に対する妨害的な影響があまりにも大きくなる状況では、恐らく何かが悟性魂に似たエーテル体を形成し、準備したに違いない、ただそれはひどい仕方でそうしたのだ、と思われます。ですから、もし私たちが現在の私たちの悟性魂の中にそのような不調を見出すならば、そして、もし私たちが私たちの理性を保持することができるならば、私たちはその不調を、それが私たちの身体性にまで貫き至ることがないようなやり方で是正することができるのであって、あらゆる情動が直ちに病気を引き起こすものであると考えるべきではないのです。誰かが心的な障害に陥るとき、それを深く考えることなく外的な影響に帰すのはナンセンスである、という精神科学の観点に立つほど厳密であることは誰にもできません。しかし、一方で、たとえ私たちに自分のエーテル体を変化させる力がないとしても、それは間違いが起こるときに存在するのと同じ不調の法則によって満たされ、色づけられるのであって、その間違いがエーテル体の中で表現されるようになるときに病気になる、ということが理解されなければなりません。通常、そのような間違いは、私たちの誕生から死までの現在の人生において、直ちに影響を及ぼすというわけではありません。このことが生じるのはそれが繰り返され、習慣になるときです。もし、ある特別な場合のように、私たちが誕生から死までの間、絶えることなく間違いの上に間違いを積み重ねるとすれば、もし、思考、感情、そして意志に関するある種の弱さにいつも流され、誕生から死に至るまでその弱さとともに生きるとすれば話は別ですが、誕生から死までの間の外的な身体性はただ限定的な変化を被るだけなのです。私たちが死の門を通っていくとき、肉体はそのすべての良き性質と悪しき性質とともに破壊され、私たちは、私たちが自分の思考、感情そして意志において創造したあらゆる良きものと悪しきものとを伴って行きます。そして、私たちは、私たちの次の人生のための外的な身体性を構築するに当たり、現在の人生からもたらされるところの思考、感情そして意志における弱さや間違い、混乱をその中に移行させるのです。

 このように、私たちに対して妨害的に働くエーテル体については、私たちの現在の魂的生活における間違いが直ちに私たちのエーテル体の中にその姿を現すのではなく、現時点では、それは単に、私たちの魂が私たちの次の人生を組織するであろう、ということに甘んじているのです。私たちのエーテル体の中に原因として、また、ある種の特徴として現れるものは、私たちの現在の人生を遡るのではなく、以前の受肉へと立ち返るとき、確かに見出すことができます。

 このことは、私たちが心的障害について幅広く理解することができるのは、単に隠された「永遠に続く進化の闇」の中を手探りで進むだけではなく、その人間の以前の存在状態へと赴くときだけである、ということを私たちに示します。とはいえ、私たちはこの真実をあまり極端なものとして受け取るべきではありません。何故なら、私たちは、人間が以前の人生から来る性質の他に、遺伝された性質をも彼の内に有しているということ、そして、私たち人間の外的な性質は遺伝されたものとして考えられるべきである、ということに気付いていなければならないからです。人間がひとつの人生から次の人生へと運んで行くものと、祖先から受け継いできた彼の特徴とを注意深く区別することが必要なのです。

 さて、同様の不調和は私たちの自意識の基礎をなす意識魂と私たちの肉体との間にも生じ得ます。そのとき、以前の受肉に起因するような肉体的な特徴だけでなく、先祖からの系譜の中に見出されるような特徴も現れてきます。しかし、ここでもまた原則は同じです。意識魂の働きが肉体の活動的な法則の中に障害を見出す可能性があるのです。そして、意識魂がこれらの障害に遭遇するとき、心的障害のある種の徴候なかに荒々しく現れるところの様々なことがらが生じます。同様に、ある特定の器官が肉体の中で特に卓越するとき、その器官のあらゆる不幸な側面が現れるのです。私たちの肉体の諸器官が適切に共働し、そして、そのどれもがその他の器官に比べてより発達しているということがなければ、ちょうど健全な目が見ることの妨げにならないように、私たちの肉体は意識魂のための適切な道具となります。この関連で注目されるのは、現代のある重要な科学者によって取り上げられたひとつの症例です。ある人物が片方の目に視覚障害を持っていたために、特に薄暗がりの中では、彼には何か幽霊のようなものが見えるように思われました。この目の障害による彼の視覚への影響のため、彼にはしばしばその行く手に誰かが立っているかのように感じられたのです。目によるそのような影響が障害となる場合、通常の視覚は不可能です。このような部分的な欠陥は全く別の形態を取って現れることもあります。

 意識魂が肉体の中に障害を見出すとき、それは何らかの器官の特別な卓越性に帰せられることができます。肉体の中の諸器官が通常の共同的な働きを行っているとき、肉体は意識魂にとって抵抗とはならず、私たちは自分の意識を通常の方法で表現することができるのですが、ある器官が特別な卓越性を獲得する場合に限り、障害があることに気付きます。つまり、それは抵抗に遭遇するからですが、この外的世界との自由な関わり合いが妨害され、そして、私たちがその妨害に気付かない場合、より深いところに根ざした病気の徴候としての誇大妄想や偏執狂的な考えが現れるのです。

 このように、人間を複雑なものとして観察することにより、人生における不調和と調和について理解することができるのですが、精神科学がいかに今日のふさわしい文献の中に示されているところのすばらしい結果を秩序立て、明らかにすることができるかについては、簡潔に示すことしかできませんでした。

このことを理解するならば、私たちはさらなる洞察を得ることができるでしょう。つまり、内的な人間の現実や、それぞれの受肉における内的な人間と外的な人間との関わりについての洞察、すなわち、いかに以前の存在状態に由来する弱さや過ちの結果が、外的な人間における何らかの欠陥、例えばエーテル体の欠陥として現れるか、についての洞察をです。しかし、このことはまた、障害があまりにも大きい場合には、強く内的に規則的な魂的生活によってもそれらをいつも克服できるとはかぎらない、ということを私たちに示します。とはいえ、多くの点でそれが可能なのは、普通ではない魂的生活の中に外的な人間と内的な人間の間の衝突だけがあるとすれば、内的な人間をできるだけ強化することが重要である、ということを私たちが理解することもまた可能だからです。この考え方を最後まで厳密に追求しようとしない弱い人間、自分の考えを明確に規定することを欲しない弱い人間、感情が自分の経験と一致するような方法でそれを発達させようとしない弱い人間、そのような人間は、外的な人間の抵抗に対し、ただ弱々しく反対することができるだけでしょう。つまり、彼が自分の内に病気の種を抱えているとき、いつかそのときが来れば、彼は心的な障害に陥るでしょう。しかし、もし私たちが強い内的な存在によって外的な人間による病気に対抗することができるならば、状況は違ってきます。何故なら、ふたつの内、強い方が勝つからです!このことから、私たちが私たちの外的な本性に対し、いつも勝利を収めるとは限らないにしても、規則的で強力な魂的生活を発達させることにより、それに対する主導権を維持するべく多くのことを為すことができる、ということが分かります。そして、私たちがあらゆる些細な不都合によって影響されていると感じないで済むように私たちの感情や情動、そして私たちの意志を発達させるように努め、より大きな文脈を包括するために私たちの思考を拡大することに努め、私たちの思考によって、単にその最も明らかな道筋を辿るだけではなく、その最も些細な成り行きをも追求するように努め、不可能なことを欲するのではなく、状況に即して私たちの望みを発達させることに腐心するのは何故かを理解することができるのです。私たちが強力な魂的生活を発達させたとしても、それでも限界に行き当たるかも知れません。しかし、私たちは、私たちの内的な存在があらゆる外的な抵抗に対して優勢になるように、できるだけのことをしたのです。

 こうして、私たちは、人間がその魂的生活をそれ相応に発達させることの重要性を理解することができます。今日、魂的生活を発達させるということが何を意味しているかについてはほとんど理解されていません。以前、同じような機会に触れたのは、今日では、体育、例えば、散歩に行くことや肉体を鍛えることに重きが置かれている、ということでした。そこに含まれている原則について、何も言うことはありません。これらは健康的であり得ます。しかし、生理的な強化だけを目指して運動がなされるとき、まるで機械であるかのように外的な人間だけが考慮されるならば、それらがよい結果をもたらさないことは確かです。体育においては、あれこれの筋肉が特に強化されるべきだという観点によって特徴づけられるような運動にとりかかるべきでは全くないのです。そうではなく、私たちはあらゆる運動ごとに内的な喜びを体験できるように、あらゆる運動への衝動を内的な健康の感情から取り出してくるように注意しなければなりません。運動への衝動は魂からやって来るべきなのです。体育の教師は、例えば、あれこれの運動にとりかかるとき、いかに魂があれこれの種類の健康を感じることができるかを感情をもって経験することができる立場に自分を置くことができなければなりません。そのとき、私たちは魂を強化するのです。つまり、もしそうでなければ、私たちは肉体だけを強化して、魂はずっと弱いままに留まる可能性があるからです。人生を洞察する人は、この観点から取り組まれる運動が健康によい影響を与えるものであり、人間を単なる解剖学的な機械であるかのように考えて取り組まれる運動とは全く異なる寄与がある、ということを見出すでしょう。魂の活動と

肉体の活動の間の関係が明らかになるのは精神科学の厳密な探求によってのみです。精神的な努力とのバランスを物理的なものによって取ることができると信じている人は本質的なことが分かっていないのです。精神科学の探求者は、例えば、彼が何らかの真実を伝えるように頼まれ、その後、そのテーマについてまだ正しく自分の考えを述べることができず、その思考において正しいイメージを形成することができないような相手の話を聞かなければならないような場合、それが非常に疲れることであるということ、一方、例えば、彼が精神世界を探求する場合、どんなに探求したとしても疲れることはない、ということを知っています。それは、誰か他の人の話を聞くときには肉体的な脳を使う物理的な意志疎通にたずさわっているのに対して、精神的な探求においては、それが低次のレベルにある場合にはまだある程度、物理的な器官が必要であるにしても、より高次の段階に達すれば達するほどその程度は低くなり、したがって、それに応じてますます疲れなくなる、という理由によります。外的な人間が参加しなくても済むようになったとき、消耗と疲労はもはや生じないのです。精神的な活動においては、その衝動が魂自体から与えられるか、あるいは、それが外部から促されるかでは違いがあり、それは区別されなければならない、ということが分かります。人間の様々の発達段階においては、いつでも内的な衝動に対応した事柄が生じていることから、そのことはいつも考慮されるべきなのです。

 以前に強調された例を取り上げてみましょう。それは、私の小冊子、「人智学の光に照らされた子供の教育」という本の中に見出される例です。そこで述べられているのは、7才までの子供は、まず第一にその行動の全てにおいて模倣への衝動を感じている、ということです。そして、歯牙交替期から思春期までの発達は、「権威にしたがって自らを方向づける」、あるいは、別の人物によって私たちに刻印づけられた印象にしたがって行動する、とでも言えるようなものによって特徴づけられます。模倣と権威への敬意というこれらふたつの段階が無視されたと仮定してみましょう。もし、それらが全く考慮されないならば、外的な体は魂のための道具になるかわりに、不規則に発達することでしょう。そして、さらなる発達過程において、その外的な人間の不規則な性質に対し、魂が正しい方法で影響を及ぼし、それと相互作用する機会を持つことはないでしょう。もし、これらの法則が観察されないならば、人が、その人生における重要な時期にあって、新しい発達段階へと入っていくとき、彼の存在におけるある構成体が停滞するのが分かります。精神分裂病、早発性痴呆の根底にあるのはこの法則を無視するということなのです。早期における正しいプロセスを無視することによって、内的な人間と外的な人間との間の不調和の結果として現れるのは早発性痴呆すなわち時期を逸した模倣の症状です。精神科学によって明確に区分されるこれらのことがらの間にみられる不調和が多くの場合、魂における異常の原因になっている、ということはよくあることなのです。同様に、人生の終わりに向かって現れる老人性痴呆の中に見られるのは、思春期とアストラル体が完成する時期との間に内的な人間と外的な人間の間に調和が存在し得るような方法でその人が生きなかったために生じるところの内的な人間と外的な人間の間の不調和です。

このことは、人間についての知識が不調と心的障害の本性を照らし出す、ということを私たちに示します。そして、たとえ私たちが表面的な結びつきしか見出さないとしても、つまり、もし、人が、不調は通常の魂的生活の一部であるから、それは私たちの外的な本性には影響を及ぼし得ない、と言うにしても、それとは反対に、力強い論理の発達すなわち感情や意志において調和的で規則的な魂的生活が外的な人間から生じる障害に対抗して私たちを強化するときにしたがうところの法則は大いに勇気を与えるものである、ということが述べられなければなりません。こうして、精神科学は、多分いつもそうであるとは限りませんが、それでもほとんどの場合、外的な人間の超越あるいは卓越に対抗する可能性を私たちに与えるのです。私たちが内的な人間を強化し、育成するときには、外的な人間の卓越に対抗するためにそうする、というところが重要なのです。精神科学は私たちがこれを行うための癒しの力を与えます。したがって、それがいつも強調するのは、途中で停止することのない、首尾一貫した思考を最後まで追求するため、不適切なものを避けるところの秩序づけられた思考を発達させる、ということの重要性です。内的な規律と調和の中に魂的生活が現れるような仕方でそれを秩序づけることを厳密に要求する精神科学自体が私たちの体的本性における病理的症状の卓越に対抗する医療である、というのはこの理由によるのです。そして、人間が健全な意志、健全な感情、そして自律的な思考の光によって、体的な弱さ、体的な不具合を包み込むことができるとき、彼は病理的な傾向に対して勝利を収めることができるのです。このことは今日では一般的ではありませんが、それでも現在を理解する上でそれは重要です。こうして、精神科学はある慰め、つまり、精神の中には、もし、私たちがそれを真に強化するならば、人生において私たちに影響を与え得るあらゆるものに対する最良の救済があり続けるのだ、という慰めさえ私たちに与えてくれるのです。私たちは精神科学によって精神の単なる理論化を学ぶのではなく、俗物が中途半端な思考で立ち止まろうとするところで努力し続けることによって、それを私たちの中で治癒的な力に変えることを学ぶのです。と申しますのも、「あなたの言う輪廻転生やその他のことを証明してみなさい。」というのは中途半端な思考以外の何者でもないからです。思考をその結論にまで導くことを拒否する人に対してそれを証明することはできません。真実全体を半端な思考をもって証明することはできないのです。それらはただ思考を全うする人にとってのみ証明され得るのであり、そして、全体的な思考は彼の内なる人間によって発展させられなければならないのです。

 もし、ここで示唆されたことがさらに発展させられるならば、このこと、つまり精神に対する不信が私たちの時代における不徳の中心に位置している、ということが分かるでしょう。しかし、一方で、不信を信へと、つまり、真の精神性へと変容させるための方法がある、ということがそこで示唆されたのだ、ということも分かるでしょう。今日の人類には、論理への信頼が大きく欠けているのです。ですから、精神科学の真実を理解するために必要な論理的な客観性がいつも存在しているわけではありません。ファウストの中で、ある種の人々について語られている言葉を私たちの時代に適用するにしても、それはばかにしたり皮肉を込めてではなく、ある種の悲しみをもってそうするのです。

  「たとえ賢者の石を持っていたとしても、

   哲学者にはちと荷が重すぎるというものだ。」

 論理は精神科学を理解することができるのです。そして、精神科学の論理的な理解は最奥の広がりを持つ体的本性を癒すことができます。ところで、このことは、今日、精神科学の探求者ばかりではなく、その他の人々によっても主張されています。この主張は現代的な精神科学以外の道によって精神に近づこうとした人々によってもなされているのですが、そのような人々もまた現代ではほとんど理解されていません。ヘーゲルがいたるところに論理の存在と働きと必要性を強調したという正にその理由のゆえに、彼を嘲笑しない人がいるでしょうか?彼は今日の人間の中での論理の働きを次のように考えることによってそのことを強調しました。「私は人生を十字架として想像する。」、と。そして、彼にとって、十字架上のバラは人間の中の論理に相当するものでした。これが、彼の著作のひとつにおいて、彼が次のようなモットーを前書きに書いた理由です。「論理とは、現代の十字架上のバラである。」、と。そして、論理への信頼はその十字架を勝利へともたらします。論理への信頼、律せられた思考、調和的な感情や意志への信頼が十字架上にバラを置くことになるでしょう。発達させることができ、そして、発達させなければならない調和的な感情、調和的な意志、そして、自立的な理性に対する信頼を私たちが有するとき、私たちは、私たちの中に、私たちが心的障害と呼ぶところのものに立ち向かうための力を少なくともある程度は有しています。もし、私たちがこれら三つのものを発達させるならば、私たちは、人生におけいかなる状況の下でも、より力強く、意気揚々としていることでしょう。そして、ヘーゲルは、調和的な感情、意志、そして、規律的な思考すなわち理性的な知性を論理の中へと収めるゆえに、私たちが魂的生活を発達させるに際して私たちのモットーとして役立つ言葉、すなわち、論理は人間にとって現代の十字架上のバラであるべきだ、ということを述べているのです。


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