ルドルフ・シュタイナー

「キリスト存在について」

佐々木義之 訳

デュッセルドルフ 1909年4月18日夜

*GA110『霊的ヒエラルキーとその物質界における反映』第10講


 私たちの今回のテーマには、前回の講義の最後に出された質問とは別に、つけ加えることが多くありますが、宇宙についての考察を10回の講義で尽くすことは不可能です。ですから、私たちの主たる問題を取り扱う前に、私たちの結論に関係するいくつかのことがらを述べさせていただきたいと思います。

 最初に述べなければならないのは、現代的な意識には理解が難しく、実際、ほとんど理解不可能なようなことなのですが、それに気づいておくならばそれはそれでよいというようなことがらです。つまり、惑星系というのは一度現れたものがどうして再び消え去るのか、という質問に関連したものです。精神的な観点から、その発達過程がいかにして生じるかということが明らかになります。存在というものはより高次の段階へと上昇するものなのですが、彼らが前進する過程においては、以前の活動の場から離れて行かなければならないのです。つまり、他の場所では獲得できなかったであろうようなある種の能力を発達させることを一定の期間にわたって彼らに可能にしたそれまでの居住場所を離れなければならないのです。進化の過程において、私たちが古いレムリア期と呼ぶあの時代が近づいて来ていたとき、人間はその発達において、土星、太陽、月の段階を通して達成することができたところのものすべてを要約して繰り返すところにまで来ていました。その後、人間は地球進化の環境の中に現れたのですが、それは正に私たちのさらなる発達のために用意されていたものなのです。私たちはレムリア期、アトランティス期を通過して、私たち自身の時代へと発達して来ましたが、受肉から受肉へと移行しながら、私たちは未来に向かってさらに発達して行くでしょう。そして、しばらくの後、人間は再び地球を離れなければならなくなるでしょう。地球には人間に与えるべきものが何もなくなっているのですが、それはさらなる発達の可能性を提供することができなくなっているということです。

 人間が去った後の地球は荒涼とした廃墟になっているであろうということは想像できるでしょう。それは住民に見捨てられた後の都市と比べられるかも知れません。皆さんはそのような都市がほんのわずかな時間が経過しただけでどのようになるかを、つまり、いかにそれが徐々に土のかたまりになるかをご存じですね。自然の力に捉えられた古代の都市を見ると、その過程がどのようなものであるかというについての絵画的な図式が得られます。実際には、今日においてもそのようになっているのですが、地球の未来についてはこのことは当てはまらないでしょう。次のような観察が、将来、私たちの地球はどうなっているのだろうか?という疑問に対する答えに向かって皆さんを導いて行くことができるでしょう。レオナルドダビンチやラファエロのような人物、あるいはあれこれの分野におけるその他の偉大な天才たちの地球進化に対する意味とは何なのでしょうか? ラファエロやミケランジェロがすばらしい芸術作品群を制作したということ、そして、それらは正に今日に至るまで何千という人々によって鑑賞されているわけですが、そのことは地球進化にとってどういう意味があるのでしょうか? 皆さんの何人かは、ミラノにあるレオナルドの「最後の晩餐」を見て、ある種の悲しみを覚え、そして、このすばらしい作品はあとどのくらい持つのだろうかと考えたかも知れません。ゲーテは、彼の最初のイタリア旅行において、まだこの作品が十分に輝いているのを眺めることができましたが、私たちにはもはやその状態にあるこの作品を見ることはできない、ということを思い出してみるべきです。ゲーテの時代から今日に至るまで、外的な物質的環境の中に置かれたこの芸術作品の運命というのは、今やそれは私たちの中に悲しみの感情を呼び起こす、というような種類のものなのです。ゲーテの時代から私たちの時代までの時間と同じくらいの時間が経った後に生きる人々にとっては、この作品はもはや存在していないかも知れません。人間が地上の物理的な物質に刻印づけ、創造したあらゆるものについても同じことが言えます。

 地球そのものや、人間の思考の産物についてさえ同じことが言えるのです。人間がより高次の領域へと上昇し、その領域へと精神化されているであろうあの時代について想像してみてください。現在の言葉の意味での思考というもの―私は科学的な思考に言及しているのではありません、と申しますのも、それらは三、四百年もすれば何の意味もなくなっているでしょうから―つまり、脳によって作り出され、地上において意味をなす人間の思考というものは、より高次の世界にとっては何の意味もないものなのです。それらは地上においてのみ意義を有しています。けれども、人間は地球を去らなければなりません。では、そのとき、何百年あるいは何千年にもわたって私たちが地上で作り上げてきたあらゆるものはどうなっているのでしょうか?

 精神的な観点からまず考察しなければならないのは、個人の進化ということです。レオナルドダビンチは、彼が達成したものによって、さらなる高みへと上昇しました。それが彼の上昇を構成しているのです。私たちが自分に問いかけるのは、偉大なる創造者たちが地球の物質の中に刻み込んだ偉大な思想や偉大な衝動は地球の未来にとって何らかの意義があるのか?ということです。未来は地球を灰燼に帰し、男たち女たちが土から作りだしたあらゆるものは、地球という惑星がもはや存在しなくなったとき、消えてしまうのでしょうか? 皆さんはケルンの大聖堂を賛嘆します。それほど遠くない将来、たったひとつの石が別の石の上に残っているということもないでしょう。このことは、人類がケルンの大聖堂というものを石の中に体現したということは地球全体にとって無意味であった、ということを意味しているのでしょうか? 私たちは今、人間が自分と一緒に地球から持ち去るものについてではなく、地球そのものについて考えています。惑星というものは、実際、その進化の過程でますます小さくなっていくものです。それは縮むのです。それは惑星の物質的な部分の宿命なのですが、それで話が終わるわけではありません。それは、いわば肉眼や道具によって観察され得る部分に過ぎません。物質にはそのようにして観察され得るものを越えて行く進化もまたあるのです。

 私は今、この点を越えていく物質の進化について考察したいと思いますが、それによって私は、現代人には理解が難しく、ほとんど理解不可能であると私が先に述べたところのものへとやって来ました。地球は絶えず縮小しているのです。物質は周囲のあらゆる面から中心に向かって押しつぶされています。さて、当然のことですが、十全なる意識に基づいて、力の保存測がある、と言うことができます。けれども、同じように十全なる意識に基づいて、あらゆる神秘家に知られている別の事実、つまり、物質はますます中心へと圧縮している、そして、何と、中心点へと消え去っているという事実がある、と言うことができるのです。

 ひとかけらの物質がますます中心へと圧縮され、そこで消え去る、と想像してみてください。それは別の側に押し出されているのではりません。中心点で、それは実際に無の中へと消え去っているのです! 言い換えれば、地球は、その物質的な側面が中心点へと押しやられているために、最終的には中心の中へと消えていく、ということになります。けれども、それで話が終わるわけではありません。中心において消えていく分だけ周辺に現れるのです。それは最果てにおいて再び現れます。物質は空間中の一点、つまり中心点で消え去り、別のところ、つまり周辺に再び現れるのです。中心へと消え去るものはすべて周囲において再び立ち現れます。あらゆる働きがこの物質の中へと注ぎ込まれました。惑星上で働いていた存在たちは、あらゆるものを物質の中へと刻印づけました。当然のことながら、物質は現在の形姿においてではなく、この変容の過程によって受け取った形姿において存在しています。ですから、皆さんはケルンの大聖堂が、その物質的な断片は中心点へと消え去ったとしても、別の側から再び現れて来るのを見ることになるでしょう。惑星上で成し遂げられたことがらは何ひとつ、絶対に失われることはありません。それは反対側から戻ってくるのです。

 土星期より前の、地球進化における最初期の時代を通して私たちのところへとやって来たところのものすべては、このようにして外側へと、星座を越えたところへと移されました。太古の叡智では、これは「結晶化した天国」と呼ばれました。以前の進化に属する存在たちの行いはそこに堆積しています。それらは新しい存在たちが創造的になることができるための基盤を構成しているのです。

 既にお話ししましたように、このようなことがらを現代的な理解力で理解するのは難しいのですが、それは私たちが物質的な側面だけを考察することに慣れているからです。物質が三次元空間中の一点から消え去って、別の次元を通過した後、どこか別のところに再び戻ってくる、などということを認めることに私たちは慣れていないのです。皆さんが三次元空間の文脈で考えることに留まっている限り、そのことを把握することはできません。なぜなら、この現象は三次元空間を超越しているからです。ですから、それは別の側から再び三次元空間中に入ってくるまで見ることはできません。その間、それは別の次元の中に存在しています。このことは私たちが理解しておくべきことがらです。と申しますのも、宇宙創造の諸側面はこの上なく複雑な仕方でお互いに関連し合っているからです。ある場所にある何かは、三次元空間中の全く異なる場所に見いだされる別の何かと複雑な仕方で結びつけられているのです。

 私たちの惑星の形成は古い土星から始まりました。本当にそれはそのように始まったのです。そして、その形成は木星に至るまで継続しました。木星上で全体的な創造が始まったとき、周辺にいる存在たちのすべてもまたその過程に参加しました。けれども、ちょうど内部の存在たちが惑星系を開始し、彼ら自身の発達を継続するために働いたように、外側にいる存在たちもまた周辺から内に向かって働きかけました。ある種の存在たちが中心から外側へと退いたように、外なる宇宙空間の中にいたあの存在たちも同じことをしました。周辺にいた一定の存在たちもまた退いたのです。木星自体が縮小するにしたがって、退いていた存在たちは圧縮して天王星を形成したのです。同様に、火星進化の間には、退いていた存在たちは縮小して海王星を形成しました。天王星や海王星といった名前は、このようなことがらに対して古代人たちがふさわしい名前をつけたような仕方ではもはや選ばれてはいませんが、それでも、天王星という名前にはまだ重要な何かが残されています。それは、正しい名前をつけるプロセスに関して、人がまだ何かに気づいていた時代に名づけられました。ですから、私たちの惑星系を越えて存在するあらゆるものは、集合的に「天王星」という名前をもって表現されたのです。

 このように、この二つの惑星は―私たちの近代天文学はその他の惑星と同列に扱いますが―、実際には、全く異なる基盤の上に立っており、私たちの世界の形成には特に関係していないのです。それらは、古い土星期の間には私たちとまだ何らかの関係を持っていた存在たちが退き、宇宙の周辺を越えたところにその住む場所を確立したことによって生じた世界を表現しているのです。このことから、例えば、これらの惑星が退化してゆく月を有している、というような多くの事実を導き出すことができます。

 私たちはここまで、私たちの太陽系が存在するに至った過程を大まかに概観してきましたが、次のような疑問、つまり、実際には私たちの人間としての祖先であるところのより高次のヒエラルキア存在たちとの関係で、人間はどのような位置にあるのか?という疑問が生じました。私たちは最高位にある存在―セラフィーム、ケルビーム、そしてトローネから始めることができるでしょう。実際、それらの本性を特徴づけることによって、私たちは人間についての正しい考えに至ることができます。しかし、私たちがセラフィームを越えて行くときには、たちまち聖なる三位一体の領域に入っていくことになります。これこそが、セラフィーム、ケルビーム、そしてトローネが有している特別なこと、宇宙における他の存在たちには手のとどかないことです。つまり、彼らには「神を直接見ること」と呼ばれるものが与えられているのです。彼らは人間がその発達の過程を通して徐々に追い求めなければならないものに初めから与っているのです。私たちは、人間として、「思考、意志、その他のますます高い力を達成するために、私たちは今日いる場所から始めなければならない。もし、私たちがこれを行うならば、私たちはますます神の側に近づき、神はますます私たちと共にいるようになる。こうして、私たちは、私たちにはまだ隠されているものに向かって自分を発達させなければならない、つまり、「神性」へと近づかなければならないのだ。」と言います。一方にはセラフィーム、ケルビーム、トローネがいて、片方には人間がいますが、これらの間の違いとはこのようなものなのです。精神的なヒエラルキアにおけるこれらのより高次の存在たちは、彼らの発達の最初から、神であるところの聖なる三位一体と共にありました。彼らは正に最初から「神性」を見る位置にいることができたのです。セラフィーム、ケルビーム、そしてトローネにとっては、人間がそこに向かって進まなければならない条件が初めからそこにありました。これらの存在たちは初めから神を見ていたということ、そして、その命がある限り、彼らはいつも神を見ているだろう、ということに気づくことはとても重要なことです。彼らが成し遂げることはすべて神を見ることを通して行われ、神は彼らを通して働きます。彼らの行いがそれとは別様に為される可能性はありません。彼らにとって、それ以外のことを行うのは不可能なのです。神を見るということは強大な力と影響を彼らに及ぼすので、彼らは神が間違いようのない確かさと直接的な衝動をもって命じることを成し遂げます。熟慮とか判断というようなものに似たものは、これらの存在たちの領域には存在していません。彼らには、見たものを実行するための直接的な衝動を受け取るために神が命じるところのものを見る、ということだけが存在しているのです。彼らは神をその本当の姿において、その通りのものとして見ます。彼らは自分たちを単に神の意志と叡智を実現するものとして考えています。最高次のヒエラルキアが置かれている状況とはこのようなものなのです。

 キュリオテテス、デュナミス、そしてエクスシアイ、あるいは叡智霊、運動霊、形態霊と呼ばれる次のヒエラルキアにまで降りてきますと、彼らはもはや神を直接見ることはない、と言わなければなりません。彼らには、神をその直接的な形態において、つまり、神そのものを見るということはもはやないのですが、彼らは神の顕現を、つまり、こう言ってよければ、その表情を通して、神が自らを現すのを見るのです。その表情が神であることは彼らにとって明らかです。セラフィーム、ケルビーム、そしてトローネと同様、彼らもまた神によって顕現されたものを実行するための直接的な衝動を受け取ります。その衝動は全く強力であるというわけではありませんが、それでも直接的なものです。セラフィーム、ケルビーム、そしてトローネにとって、神の命令と見られるものを実行しないという可能性はありません−それは考えられないことなのですが、それは彼らが神の近くにいるためです。しかし、キュリオテテス、デュナミス、そしてエクスシアイにとっては、神自身によって意志されないことを行う、ということもまた同様に問題外のことなのです。とはいえ、世界がさらに進化していくためには、そこに何か非常に特別なことが介入しなければなりませんでした。

 さてここで、神秘学的な叡智においてある程度の進歩を達成した人たちにさえ理解するのがいつも困難であったようなテーマを紹介しようと思います。古代の秘儀においては、次のような仕方で、それを理解可能なものにしようとしました。古代の秘儀への参入におけるある特定の段階で、弟子は残虐で恐ろしい形相をした敵対的な力が存在するところへと導かれたのです。そして、その力は、弟子の目の前で、考え得る最も恐ろしい所行を遂行しました。これらのことを行ったのは、他ならぬ仮面をかぶった司祭、仮面をかぶった聖人たちでした。必要な試みを生じさせるために、司祭たちは恐ろしい存在として、幽鬼的な姿に仮装し、考え得る最も恐ろしい所行を遂行したのです。

 これは何のためだったのでしょうか? 秘儀参入者、司祭が悪を行うものの姿で、悪の仮面をかぶって弟子の前に現れたのは何故でしょうか? 発達というものが、正しい道からいかに遠く逸れてしまうものか、ということを弟子に示すためです。弟子は、悪に直面して立つ、という幻想を抱くようにさせられました。仮面が取られたとき、弟子は初めて真実を見ました。幻想が取り払われたときに初めて、弟子はその場面が試験あるいは試みを創り出すための手段であったことを知りました。弟子を悪に対して強化し、武装させるために、当然のことながら過ちを犯すはずのない司祭によって、それは最も忌まわしい姿で示されたのです。これは宇宙進化の中で実際に生じたことがらの反映に過ぎません。

 木星進化と火星進化の中間段階に当たる時代を通して、いささか浅薄な表現をしますと、デュナミスあるいは運動霊の領域に属する一団の存在たちに対して「反抗命令」が出されました。彼らは、前進的な影響を及ぼす代わりに、進化の過程に障害を生じさせるように配置されたのです。このことは「天上の戦い」として私たちに知られるようになりました。これらのいわば「反抗する命令」を受けた運動霊たちの行為は進化の道を横断して投げつけられたのですが、それは、ヒエラルキア存在たちを支配する宇宙の力が自らに、もし、道がなだらかであったとすれば、存在することになるように意図されたものは決して生じないだろう、と言ったからです。何かもっと偉大なものが生じなければなりません。

 さて、皆さんが荷車を押し、そして、それを前に押すことで、一定の力を発達させると想像してみてください。もし、皆さんが荷車に重い荷物を積むとすれば、皆さんはより強く押さなければなりませんが、そのために皆さんはより大きな力を発達させることにもなります。神が宇宙進化の過程を木星期に至るまで、そしてそれを越えて進めようとしたと想像してみてください。確かに人間はよく進化したかも知れませんが、その進む途上に障害が置かれたとしたら、さらに強くなることもあり得ます。ですから、ある種の運動霊たちが反逆命令を受けなければならなかったのは、人間をよくするためだったのです。当初、彼らは悪の存在ではありませんでした―彼らを悪の力と見なす必要はありません―むしろ、彼らは発達の道筋の上に障害を置くために自らを捧げた、と言ってもいいでしょう。ですから、これらの運動霊は、言葉の最も広い意味で、「妨害の神」あるいは「抵抗の神」と呼ぶことができます。これは発達の道に沿って置かれた障害あるいは抵抗の神たちなのですが、それが置かれた瞬間から、未来に達成されるべきあらゆることがらが成し遂げられる可能性が生じたのです。これらの抵抗命令を受けた運動霊たちはまだ彼ら自身が悪の存在であるというわけではなく、反対に、通常の発達過程に反抗することで、彼らは進化の偉大な促進者となったのです。とはいえ、彼らが創り出した嵐の中から次第に悪が生じたために、彼らは悪の創始者となりました。

 「抵抗命令を受けた」運動霊にとっては、発達の過程は仲間の運動霊のそれとは非常に異なったものになりました。彼らの活動の影響が非常に異なったものになったことで、「月」の発達過程において、これらの運動霊たちは私たちが「天使」と呼ぶ存在たちの誘惑者となりました。「月」の進化段階において、「天使」たちは人間の段階を通過していました。発達過程における障害の影響を目撃した「天使人間」が「月」の上にいたのです。彼らは自らに次のように言いました。「我々は今これらの障害に立ち向かっていくことができる。「月」進化の流れの中に飛び込むことができる。しかし、我々はそれを差し控えたい。その中に飛び込むのではなく、善き神々と共に上方に留まることを選ぶ」と。これらの天使存在たちは、下方で月の段階が進展する間、その発達の中に障害をもたらした運動霊たちから自らを引き離しました。ところが月の上には、「私たちは彼らには追従しない。何故なら、もし、そうしたとすれば、発達の形式は元に戻り、何も新しいことは起こらないだろうから」と自らに言う別の天使人間たちがいました。確かに、月の発達段階以降、何らかの新しいことが導入されたのは、正に障害が存在していたからなのです。次のように言う存在たちがいました、「私たちは下の方で起こっていることに何も関わりたくはない。私たちは劣った者たちとの交流を望まない運動霊たちとともに留まる」と。

 これらの存在たちは、古い月の発達が続いている間、月の塊から離れて、太陽の中で生じていたあらゆることがらに追従する者たちとなりました。彼らは、障害が存在するために放り出されていた月の上で生じていたことがらに関わることを望まなかったのです。しかし、中に飛び込んだその他の者たちは、月の上に発達上の障害が存在していたために、彼らが受け取ることになったあらゆるものを彼らの肉体的な本性の中に取り込まなければなりませんでした。彼らは、もし、そうでなかったとしたら、そうなっていたであろうよりも、もっと自らを硬化させなければならなかったのです。彼らの肉体的な鞘はより濃密なものになり、運動霊による行いの結果をその体の中に担うことになりました。とはいえ、運動霊あるいはデュナミスの行為は神的な宇宙計画の中に確実に基礎づけられたものであった、ということは覚えておかなければなりません。

 これらのことがらすべてはさらに次のような結果をもたらしました。月の進化が地球の進化へと移行したとき、その過程全体がある意味で繰り返されました。月進化の潮流のただ中に自らを投げ入れたあの存在たちは、それと関わりを持とうとしない存在たちに遅れを取ることになりました。また別の存在たちはさらに遅れをとることになったのですが、それは彼らが退行する進化に魅了されたからです。

 ですから、これらのことが起こった結果、地球進化の間、二種類の天使人間が存在することになりました。先行していた天使人間たちと、後に取り残された天使人間たちです。先行する天使人間たちはレムリア期になると人間への働きかけを開始したのですが、それは人類が人間自我の種子を受け取ることができるまでに成熟していたからです。彼らは人類にいわば選択肢を提示したのですが、それは、月の発達段階以来、宇宙進化の過程に紛れ込んでいたものとはもはや関わりを持たず、精神的な世界に直ちに上昇するというものでした。私たちがルシファー的な存在と呼ぶところの、後に取り残されていた存在たちは人間のアストラル体への働きかけ―彼らは自我にまで至ることはできませんでした―を開始するとともに、「天上の戦い」の結果をアストラル体の中に注入しました。運動霊たちが反抗命令を受けて「天上の戦い」に参加し、「障害の神」となったことから、その行為の結果が人間のアストラル体の中に侵入したのですが、そこではそれは別のより重要な意義を持つことになりました。と申しますのも、そこでの結果は、過ちと悪の可能性に相当しているからです。こうして人間は間違いを犯す可能性と悪の可能性を与えられたのですが、同時に、自分の力で間違いと悪を乗り越えて上昇する能力をも受け取ったのです。

 第二ヒエラルキアに属する運動霊あるいはデュナミスのような存在にとっては自ら悪となる可能性は全くなかった―彼らは反逆するように命令されたのだ、ということを考えてみてください。第三ヒエラルキアに属する存在、つまり、人間に最も近い天使だけが、妨害的な運動霊につき従うことも、あるいはつき従わないこともできたのです。屈服しなかったものたちは天上で戦い取られた勝利を描く絵の中に表現されています。それらは人間がアストラル体への受肉、つまり動物人間の段階にまで進んでいた月の進化段階の間に生じることになったものを表現している、と考えられます。純粋なままに留まった天使存在たちは、いわば月進化の過程から自らを引き離し、下方の月上で起こっていることを免れたのです。

 この図は様々な形で私たちの魂の前に提示されます。それはまずミカエルと龍の間の戦いとして表現されているのが見いだされますが、ミトラ教の雄牛の図の中にも非常に明白に表現されているのが分かります。けれども、それらは、これらの天使存在たちは自らの義務を放棄した、ということを言うために表現されたのではありません。それらによって意図されていたのは、未来のための理想を描く、ということです。そこで言われていたのは次のようなことです。「これらの存在たちはむしろ精神的な世界に上昇することを好んだが、お前たちは「妨害的な力たち」に従った別の存在たちと共に下降した。今、お前たちが取り入れたものに働きかけ、それを精神的な世界へと運び上げるかどうかはお前たちにかかっている。上方に向かう道上で、お前たちはミカエルや雄牛の征服者になるように求められる。」この種の象徴はこのような二重の意味で説明されなければなりません。

 ですから、お分かりのように、人類が自分自身の力でその目的を達成する可能性―それはセラフィームでさえ彼ら自身の努力によっては達成することができない何かです―を与えられたのは運動霊たちが反抗命令を受け取ったからに他なりません。最も重要なのはこの事実です。セラフィーム、ケルビーム、トローネたちには神によって彼らに与えられた直接的な衝動に従う以外のことはできません。主天使たち―実際には、第二ヒエラルキア全体―も同様です。ただ運動霊の位階に属するものの一部が反抗する命令を受けただけです。彼らが発展の道筋を横切るように身を投げ出したときにも、彼らには神の命令に従う以外のことはできなかったのです。「悪の源泉」とでも呼べるようなものを引き起こすときでさえ、彼らはただ神の意志を遂行したにすぎません。自らを悪の僕とすることによって、これらの運動霊たちは、悪という回り道によって、善を強化しようとした神の意志を達成したのです。

 さて、能天使あるいは形態霊と呼ばれる存在たちにまで下ってみましょう。彼らも同様に自ら邪悪になることはできませんでしたが、このことは人格霊(アルカイ)や火の霊(大天使)にも当てはまります。と申しますのも、後者が太陽の上で人間の段階を通過していたときには、運動霊たちはまだ反抗命令を受けておらず、まだ、悪になる、といういかなる可能性も存在していなかったからです。この、悪になる、という可能性を最初に有したのは天使たちですが、それは、この可能性が存在するようになったのはただ月の進化段階以降であった、ということによります。「天上の戦い」は太陽から月への移行期に起こりました。多くの天使たちがこの可能性―障害を導入することを運命づけられた力にいわばそそのかされるということ―を拒否しました。彼らは以前の本性に対して真実でありつづけました。このように、天使に至るまで、そして天使の一部もまたそうなのですが、より高次のヒエラルキア存在たちには神的な意志に従う以外のことはできないのです。これが最も重要なことです。

 ですから、二種類の存在たちがいる、ということが言えます。第一に、運動霊たちが「天上の戦い」の間に生じさせていたものの中に自らを投げ入れたあの天使たちがいます。これらの存在たちは、彼らの後の行いによって、ルシファー的な存在と呼ばれます。彼らは地球進化の間に人間のアストラル体に働きかけるようになり、悪の可能性を導入しましたが、同時に、自分自身の自由な活動を通して、自ら発達する可能性を導入したのです。ですから、ヒエラルキアの位階全体を通して、私たちが自由の可能性を見いだせるのは、天使の一部と人間の中においてだけなのです。自由の可能性は天使の位階において始まりますが、それが十分に発達させられるのはただ人類においてだけです。人類が地球へと降ってきたとき、人間たちは最初、ルシファーの大群による圧倒的な力の餌食にならざるを得ませんでした。これらの大群がその力によって人間のアストラル体に浸透した結果、自我はその力の領域の中に絡め取られました。レムリア期とアトランティス期の間、そして、その後の時代においても、自我がルシファー的な影響によって生じた雲の中に包み込まれているのが分かります。人間がこのような弱体化させるような力によって圧倒されることから守られたのは、以前の存在たち−上方に留まった天使や大天使−が人間に影響を及ぼし、人類を指導するために選ばれた人物たちに受肉したからに他なりません。このことはある重要な出来事が起こった時まで続きました。以前にはいつも太陽存在と結びついていたある存在が、より高次の存在たちがかつてそうであったように人間の肉体、エーテル体、そしてアストラル体に浸透できるだけではなく、その自我に至るまで人間に浸透できるほどに進歩したのです。

 以前の時代においては、いかにより高次の存在たちが下降し、人間の肉体、エーテル体、そして、アストラル体に魂を吹き込んだか、ということを述べたのを覚えておられますね。さて、時の流れにおけるある特別な瞬間に、最も気高い存在―かつては太陽存在に結びついていたけれども、今や、自我に、つまり、自我が有するあらゆる力の中にまでインスピレーション的に働きかける存在−を自らの中に受け入れるために選ばれていたある個人的な存在が立ち現れたのです。

 自我は血を通して自らを表現します。ちょうど血が物理的な実質における自我の表現であるように、血の暖かさ、あるいは火は、そして、それは土星の火の名残なのですが、元素における自我の表現なのです。この存在は二重の仕方で自らを物理的に表現しなければなりませんでした。火の元素の中で、その存在は燃える林とシナイ山上の稲妻において自らをモーゼに告げ知らせました。その存在は人間の自我の中に浸透し、燃える林とシナイ山上の稲妻や雷鳴からモーゼに語りかけることができたのです。この存在はその暁を準備した後、血に浸透された体―ナザレのイエスの体の中に現れました。この太陽存在は地上的な個人の中に入り込んだのです。人間の自我は、そのときにそれに浸透した力によってますます満たされ、飽和されるようになるでしょう。それによって、この自我は、それ自身の力を通して、それを引きずり下ろす力を持ったあらゆる影響をますます克服できるようになるでしょう。と申しますのも、人間の自我に浸透したこの存在は、以前に地上に下降し、肉体、エーテル体、そしてアストラル体に魂を吹き込んだ他の存在たちとはその性質において異なっているからです。

 古代の聖なるリシたちについて考えてみましょう。既に見てきたように、高次存在の精神は彼らのエーテル体の中に住んでいましたが、それは、あの崇高な存在がその中に住んでいた偉大なアトランティスの祖先たちから聖なるリシたちが引き継いでいたのはそのエーテル体だった、ということによります。それは彼らに伝えられましたが、リシたちは彼らのエーテル体のインスピレーションを通して流れてくるものをその自我とアストラル体をもってしては理解することができませんでした。時代から時代へと続く流れとはそのようなものだったのです。人間はインスピレーションを受け取ってきましたが、彼らがインスピレーションを受け取るときにはいつも彼らの中に何か力のようなものを経験したのです。インスピレーションとは、いわば力をもって捕まえるような何かだったのです。そのような場合には、自分で何とかするという通常の人間的な力はいくらか退いていました。その人間が前進し、改善するためにはより完全な存在からのインスピレーションを受ける必要があったのです。宗教の創始者たちはすべてこのような状況にありました。天上の戦いから超越していた存在たちが宗教的な創始者たちの中に吹き込まれていたのですが、そのことによって、人間たちが自分自身の能力だけに頼る、というようにはなっていなかったのです。

 けれども、キリストにおいては非常に異なった本性の存在が現れました。それは、絶対的に何も行わない、つまり、人々を彼のところにもたらすためにほんのわずかな強制力さえも行使しない、という存在だったのです。これが主要な点なのです! もし、皆さんがキリスト教の伝播について考えてみるならば、皆さんは、キリストがキリスト教の布教において生じたところのものをその生涯においては何も為さなかった、ということについての生きた証拠を見いだされるでしょう。古代の宗教創始者たちについて考えてみてください。彼らは偉大な人類の教師たちです。彼らは彼らの発達におけるある特定の瞬間から教えを伝え始め、そして、彼らの教えは圧倒的な力をもって人類に働きかけます。今、キリストについて考えてみてください。実際、キリストはその教えを伝え続けるでしょうか? キリストの主要な貢献がその教えにあると考えるならば、その人はキリストを本当には理解していません。少なくとも第一義的には、キリストはその教えではなく、その行いを通して働きかけました。そして、キリストの最も偉大な行いとは、彼の死によって終わった行いのことです。それは実際、彼の死だったのです。これが最も重要な点です!キリストは行いを通して働きかけました。そして、この行為についての知識が世間に広まり始めたとき、彼はもはや物理的には存在していなかったのです。これがキリストの効果と他の偉大な宗教創始者たちの効果との根本的な違いです。この違いは理解するのが全く困難なものですが、最も重要な違いなのです。

 皆さんは、キリスト教の教えのすべて―キリスト教の中で教えられることのすべて、キリスト教の教えのすべてを記述することができ、他の宗教体系の中に見いだすことができます。このことを否定することはできません。確かに、キリスト教の教えの本質はそれ以外の体系の中にも含まれている、と言うことができるのです。けれども、キリスト教が有効であったのは、その教えの内容を通してだったでしょうか? キリスト教を広めるために最も多くのことを為した人物は、その教えに頼ったのでしょうか? 使徒パウロについて考えてみてください! 彼がサウロからパウロへの変容を彼自身に作用させたのは聖書の中に書かれていることことがらによってだったでしょうか? 彼は、十字架上で死を遂げた人物が雲の中から彼の前に現れるまで、つまり、パウロが、キリストは「生きている」、という事実についての彼自身の個人的な神秘体験を持つまで、キリストイエスの追従者たちを迫害していたのです。その死の影響、その行為の効果がパウロにとっての促進的な衝動となったのですが、それが問題なのです。他の宗教体系はその教えを通して働き、その教えはキリスト教の中に見いだされるものと同じです。しかし、キリスト教においては、教えが重要なのではありません。問題は、生じた「行い」なのです。

 キリストの行為がある人に働きかけることができるのは、その人がそれを有効にしようと決意したとき、つまり、個々の自我の絶対的に自由な本性とその行為とがひとつに結びつけられるときだけなのです。人間のアストラル体の中にキリストが存在する、というだけでは不十分なのです。キリストは、真に理解されるためには、自我の中に存在しなければなりません。そして、自我はキリストを受け入れることを自由に決断しなければならないのです。これが重要な点です。けれども、自我が自らをキリストに結びつけることの結果として、この人間の自我は、自らの内に、現実を、つまり、単なる教えではなく、神的な力を、獲得するのです。ですから、キリスト教の教えは既にあちこちで見いだすことができる、しかし、それが問題なのではないのだ、ということを何百回でも示すことができるでしょう。キリスト教の本質的な側面はより高次の世界への自発的な上昇を通してのみ自分のものとすることができるところの行為なのです。人間がキリストの力を自分の中に受け入れるのは、それを喜んで受け取るからであり、それを自発的に受け取らない人は、誰もそれを受け入れることができません。このことが人間にとって可能になったのはキリストが地上で人間となってから、つまり、彼が地上で人間になるように召還されてからです。

 ルシファー的な存在として地上に住むようになった墜ちた天使たちの立場は違います。実際、彼らは「月」の上で人間になるべきだったのです。しかし、彼らはその進化の途上で取り残されました。その結果、彼らはアストラル体に浸透することができるのですが、自我に接近することはできません。彼らは異常な状況にあるのですが、それは、多少学者ぶったものに見えるかもしれませんが、ただ図式的に表現できるだけです。レムリア進化期における人間のアストラル体を−エーテル体と肉体は無視して−この円で表現してみましょう。自我は徐々にアストラル体の中に入っていき、このアストラル体の内部に包み込まれることになります。

 次に何が起こるでしょうか?レムリア期を通して、ルシファー的な力がアストラル体のあらゆる側から忍び込んで来たのですが、それはその活動を通して人間に浸透することになりました。それらは人間において、低級な熱情として表現されます。人間が間違いや悪を犯す可能性はアストラル体の中に組み込まれました。つまり、ルシファー的な精神がその可能性を私たちに導入したのです。もし、そうでなかったとすれば、私たちは決して間違いを犯すことも、悪を行うこともなかったでしょう。そのかわり、私たちは、妨害的な影響を受けていない自我を受け取ったであろう領域へと引き上げられていたことでしょう。そのような状況において、人類の偉大な指導者たちは、私たちがあまりに深く沈み込んでしまわないように、人間を守りました。

 そして、キリスト事件が起こりました。キリストを自発的に受け入れた人を取り上げてみましょう―もちろん、キリスト教はまだ初期の段階にありますが、理想的な状況を取り上げます―つまり、人間の自我が完全な自由意志によってキリストの力を自分の中に流れ込ませた、と考えてみましょう。自我が進歩してキリストに浸透されるまでになったとき、キリストの力はアストラル体を照らし出し、そこに注入されていたルシファー的な力による行いの中に流れ込みます。そのとき、未来においては何が起こるのでしょうか? キリストの助けによって−そして、彼の助けによってのみ−私たちはルシファーから進み出る私たちの中のあの性質をうち消すことができるようになり、同時に、そのルシファー的な力を徐々に解放することができるようになるのです。ルシファー的な力は、人間の自由のために、進化のより低次の段階へと沈んでいかなければなりませんでしたが、そのため、地上ではキリストの力を経験することができませんでした。そのルシファー的な力が、人間を通して、キリストの力を経験し、それによって救済されるときが来ます。人間は、もし、適切な仕方でキリストの力を受け入れるならば、ルシファーを救済することになるのです。その結果、人間は、そうしなかった場合に比べて、より強くなっていることでしょう。もし、人間がルシファー的な力を受け取っていなかったとしたらどうでしょうか? キリストの力は流れ込んでいたでしょうが、ルシファー的な妨害には出会わなかったことでしょう。私たちは、私たちがこれらの相殺的な力を一度は克服しなければならなかったことで、今、可能となった程度にまでは、善、真理、そして叡智において発達することはできなかったでしょう。人間はヒエラルキア存在のひとつですが、他の存在とは異なっています。セラフィーム、ケルビーム、トローネ、主天使、運動霊、形態霊、人格霊、火の霊、そして、天使の一部とも異なっているのです。未来をのぞき見て、人間は次のように言うでしょう。「私は私の行為に向けた衝動を、私自身の内的な存在の最奥の部分において追求するように求められている。例えばセラフィームがそうであるように、神についての思索からではなく、私自身の内的な存在からそうするのだ」と。キリストは、その衝動には従わなければならない、というような仕方で働く神ではありません。人がキリストに従うのは、ただ理解と自由からそうするだけです。キリストとはあれこれの方向に発達しようとする自由で個別的な自我を妨げることを決してしない神のことです。キリストは言葉の最も深い意味で次のように言うことでしょう。「お前は真実を知るであろう。そして、真実はお前を自由にするであろう」と。そして、次のヒエラルキアに属する存在たち、悪を行う可能性のあるルシファー的な存在たちは、人間の力によって、再び救済され、自由にされることでしょう。

 こうして、宇宙の発達は単なる繰り返しではない、ということが分かります。新しい要素が入ってくるのです。人類が経験しているような人間の段階は、以前の天使、大天使、あるいは権天使の間で見られたようなものではありません。人類は世界の中で成就すべき全く新しい使命―私たちがちょうど今記述したような使命を有しています。人類が地球世界に降って来たのはこの使命を達成するためです。キリストは人類の自由な助け手としてやって来ました。上から働きかける神としてではなく、多くの中の最初に生まれたものとしてやって来たのです。

 ヒエラルキアを構成するメンバーとしての人類の尊厳と重要性を十分に把握できるのはこのような方法によってのみです。私たちはより高次のヒエラルキア存在たちの高貴な本性と栄光を見上げて、自らに次のように言うことができます。「これらのヒエラルキア存在たちがいかに力強く、賢明で、善なるもの―したがって、真の道から逸れることができない―としても、世界に自由をもたらすということ、そして、自由とともに、私たちが言葉の真の意味において愛と呼ぶところのものをもたらす、ということこそが人類の偉大な使命なのだ」、と。と申しますのも、自由なしには愛は不可能だからです。特定の衝動にどうしても従うしかない存在たちは単にそうするだけですが、それ以外の方法が可能な存在にとって、それを可能にする唯一の力があります。そして、それが愛なのです。自由と愛は相互に属するふたつの極です。もし、愛が私たちの世界に入ってくるとすれば、それが可能になるのは自由によって、つまり、ルシファーとルシファーに打ち勝つ者―それはまた人間を救済する者でもあります―キリストによってだけです。地球が愛と自由の宇宙であるというのはこの理由によりますが、重要なのは、私たちが、人類を謙遜から遠ざけようとすることなく、西洋の秘教においては絶えず知られてきたような一連のヒエラルキア存在たちに精通するようになる、ということです。

 セラフィーム、ケルビーム、そしてトローネは神の眼差しの下で伝達される直接的な衝動に従います。叡智霊、運動霊、そして、形態霊は、より高次の力にまだ非常に密接に結ばれているため、人間の前進的な発達を可能にするための反抗命令を受け取らなければなりません。大天使や人格霊でさえ、間違いを犯したり、自らの自由な決意によって悪に陥ったりということができません。人間の直上に位置するヒエラルキア存在たちは伝達者たちあるいは大伝達者たちと呼ばれますが、それは、彼らが彼ら自身の仕事を成し遂げるのではなく、上方から受け取った命令を単に遂行するものであることを示しています。一方、人間は自分自身の仕事を遂行するように徐々に成熟していくヒエラルキア存在なのです。木星期、金星期、そしてヴルカン星期の発展を通して、人類は自分自身の衝動の成就に向けて徐々に成熟していくでしょう。今日、この目標はまだ遙かなものであるとはいえ、いつか人類はそれを達成するでしょう。

 ヒエラルキア存在とは何でしょうか? 私たちはセラフィーム、ケルビーム、そしてトローネから始めます。彼らは神から受け取った衝動を遂行することによってその権威を行使します。次に来る運動霊は、その力を上方から受け取ったものに負っています。そして、そのことは形態霊にも当てはまります。もし、彼らが悪の存在になるとすれば、神的な世界の決定の結果としてそうすることができるようになるに過ぎません。そして今、人間のすぐ側まで降りてくる人格霊、大いなる御使い、そして御使いに至ります。人間はどのようにしてヒエラルキアの位階に組み込まれるべきなのでしょうか? 大天使と天使(大いなる御使いと御使い)の後に続いてヒエラルキア的な位階の中に置かれるべきであるのは、「自由の霊」あるいは「愛の霊」とでも呼べるようなものです。上から下に数えるとすれば、これは「10番目のヒエラルキア」です。この「10番目のヒエラルキア」はまだ発達の途上にありますが、それにもかかわらず、霊的なヒエラルキアに属しています。宇宙においては、単なる繰り返しが問題なのではありません。ひとつの周期が完結するたびに、新しい要素が宇宙進化の中に導入されます。そして、その新しい要素を組み込むのは、いつも人間の発達段階にあるヒエラルキア存在の仕事なのです。

 今回の講義では、人間の意味と重要性を、私たちの宇宙の意義を考察することによって、推し量ろうとしてきました。今日、私たちは、少なくともある程度は、人間存在の意義についての精神的な質問を投げかけました。そして、私たちは、秘儀の教えにしたがって、宇宙の真ん中にある点としての人間存在の重要性を確立しようと努めてきました。それを行う中で、私たちは中心の謎、つまり人間の謎を周辺から解明しようとしました―円周の観点から点の謎を解こうとしたのです! 私たちはそうすることで、私たちの知識を現実の領域に置くことになります。これが、つまり、真の精神科学的な知識は現実的で具体的な知識でもある、ということが本質的な点なのです。言い換えれば、精神科学的な知識自体が宇宙と精神的なヒエラルキアの像を直接創り出すのです。

 私たちは宇宙の中心にいます。私たちの周囲にあるすべてのものは意義を失いますが、それは私たちが感覚で知覚可能な外的世界は私たちが直面する謎を解くことができない、ということを認めざるを得ないからです。それはまるであらゆるものがひとつの点に濃縮されるかのようです。しかし、すべてが全体として圧縮するとき、宇宙の謎についての答えが、物質そのものと同様、力強く現実的なものとして、そして、それは精神的なものの反映であり、イメージなのですが、周辺部から再び戻ってくるのです。物質はそれ自体がお互いに寄せ集まり、中心で消え去るとともに、周辺において再び現れるのです。これが現実です。私たちの知識が現実的であるのは、それが宇宙全体の構造として、あるいはその過程として、私たちの目の前でその歩みを進めるときなのです。そのような知識はもはや思いつきが形になったもの―空想的な理論の織物―ではありません。と申しますのも、そのような知識は宇宙から生まれてくるからです。私たちが発達させるべき感情とはこのようなものです。叡智は私たちの理想にならなければなりません。それは宇宙の周辺から生まれて、大いなる力で、つまり、私たちが私たち自身の運命を成就し、私たち自身の宇宙的な理想を達成することを私たちに可能にするような力で、私たちを満たすことができる叡智です。この力があれば、未来に私たちを待ち受ける人類の理想を現実のものにする、ということもまた私たちには可能となるでしょう。


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