風のDiary
2011.3.25.Fri.
30光年

この春で「勤続三十年」であるという知らせが会社からあった。
ちょうど、宮本輝の新刊『三十光年の星たち』を読み進めていたところだった。
宮本輝の小説はこれまでほとんど読んでいないが、
なぜか今度の作品には惹かれるものがあった。

三十年といっても、長かったという感じはとくにないが、
もうそんなに経つのだ。

『三十光年の星たち』の「あとがき」にこうある。

  三十年という歳月は、ひとりの人間に、じつにさまざまな誘惑と
  労苦を与えつづけるのだ。

誘惑と労苦・・・。
少なくとも仕事では「じつに」というほどのものはない。
それなりに「労苦」はあるが、「誘惑」には無縁である。
憂鬱質のあるのもあって、
仕事を変わるのが面倒だったからにすぎないようにも思える。

光は1年に1光年進む。
そのように、30年経てば光は10光年進む。
ぼくは1年に1KAZE年進むといえるのか。
そのように、30KAZE年進むことができているのか。
KAZE年とは、ぼくがぼくなりの進み方の理想としている進み方だとして・・・。

同じ1年といっても、ひとそれぞれ速度は違うだろうし、
同じひとでも、立ち止まって進めなくなったりもするだろう。

ぼくにしてもさまざまな速度でそれなりに進んできて、
30年前のぼくがそれ以降進んできた道のりは、
それはそれでそれなりの軌跡をつくり、
それなりの地層を今の自分に重ねてきてはいるのだろう。

最近とくに、ぼくの三十年前くらいの歳の人と話す機会が多く、
この人たちはぼくぐらいの歳になったらどうしているのだろう。
そんなことを考えてみたりもしている。
その人たちがぼくを見て何を考えているのかはわからないが。

最近、今という永遠のことをよく考える。
考えるというよりも、今という永遠とともにいる、
そんな感覚を強く持つことが多い。
永遠といっても、それは同時にプロセスでもある。
つまり、永遠のなかに歴史性を内包しているということである。
その歴史性には過去があり、
また今というかたちに変容している種としての未来もある。

今度の地震、津波、原発で被災した人たちや
そうしたひとたちになんとかエールを送ろうとする人たち、
またこうした際に、買い占めをする人たち、
過去のある種の「日常」にしがみついていたりする人たちなどのことが
いつも念頭から去らない。

そうしたひとたちの「速度」はどうだろう。
速ければいいというものではもちろんない。
ときには後ろ向きに走ってしまうこともあるかもしれない。
それにしても、30年経てば光は30光年進む。
光はひょっとしたらなんらかの意識そのものなのかもしれない。
さまざまな光がそこに錯綜して宇宙が生まれ展開していく・・・。

光あれ。
すると、光があった。
もっと光を。