「デザインのデザイン」ノー6

欲望のエデュケーション


2004.9.6

 

	 マーケティングを行う上で市場は「畑」である。この畑が宝物だと僕は思
	う。畑の土壌を調べ、生育しやすい品種を改良して植えるのではなく、素晴
	らしい収穫物を得られる畑になるように「土壌」を肥やしていくことがマー
	ケティングのもうひとつの方法であろう。「欲望のエデュケーション」とは
	そういうことである。「欲望」という言葉の生々しさに抵抗を覚えられる方
	もあるかもしれないが、単なる「意識」よりももう少し能動的なニュアンス
	を探した結果この用語となった。「エデュケーション」という英語を用いて
	いるのは「教育」という言葉にある種の押しつけを感じるので「潜在してい
	るものを引き出す」という意味を含めてのことである。自分としてはもう少
	しエレガントな表現がないかと思案しているが、現状ではこの言葉を用いて
	いる。
	(…)
	 日常は美意識を育てる苗床である。先にクルマや住空間の話を引合に出し
	たが、たとえばコンビニエンスストアで販売されているようなもの一つひと
	つに実はエデュケーショナルな効果があって、僕らは毎日これらのものを通
	して教育されている。一方で、精密な販売データの解析がスーパーやコンビ
	ニを通じて日々行われている。マーケティングは新鮮な感受性もキャッチす
	れば、怠惰の方向に傾斜しがちなユーザーの性向をも正確にキャッチする。
	精密なマーケティングはこの「ゆるみ」とでも呼ぶべき顧客のルーズさをも
	しっかりと分析し、商品という形に仕上げて流通させていく。顧客の本音に
	寄り添った商品はよく売れるが、これは一方でマーケティングを通した生活
	文化の甘やかしであり、この反復によって、文化全体が怠惰な方向に傾いて
	いく危険性をはらんでいる。そこに生み出される商品は、グローバルな視点
	で見た場合に、かならずしも他の市場を啓発するような力を持ち得ない。
	 ヨーロッパ型のブランドがある特定の個性を強い意志で保ち続けるのに対
	して、日本の日用品はマーケティングの反復によってどんどん「怠惰」で
	「ゆるみ」のある商品に変化していく。結果として、日本人はコンビニやス
	ーパーでの買い物と、ブランドショップでの買い物に二極化していくのだ。
	 もしも、デザインという、生活環境におけるものに対する合理的な見方が、
	せめて義務教育の初期に行われていたならば、生活者全体の性向は変わって
	いたかもしれない。「マンホールの蓋がなぜ丸いか。丸くないと蓋が穴の中
	に落ちてしまうから」というのは数学の問題ではなく、デザインの問題であ
	る。だから、さらに根本的に言うと、日本人にはデザインの基礎教育が不足
	しているのである。ただ、ここで僕が書いてきたのは、そういう基礎教育の
	提案ではない。これからの経済は少なくとも「生産技術」の競争に加えて、
	フランチャイズの市場に潜在する「文化レベル」の競争になる。それぞれの
	文化あるいは市場から、いかに他の市場をインスパイアできる製品を生み出
	せるか。そういうことを予見しつつ、市場という畑を肥やしていくという可
	能性について僕は思いをめぐらせている。
	(P142-145)
 
「商品」は、市場の背景となっている「文化」を越えることはむずかしい。
「文化」という畑が成熟していないとその商品はそこに存立できない。
つまりは「売れない」のである。
従って、「売る」ためには、その「畑」に合わせなければならない。
「コンビニやスーパーでの買い物と、ブランドショップでの買い物に二極化」
してしまうのも、そういうことである。
 
「欲しい」と思える人がいなければ、
どんな素晴らしいものであっても市場には広がってゆかない。
だから、今世の中に売られているものは
基本的に「欲しい」と思われているものによって構成されている。
だから今の文化の大勢を見ようと思うならば、
市場に出回っている商品を眺めてみればいい。
 
そしてその人がどういう人であるかを知るためには
その人の「欲しい」と思うものが何かを知れば
その人のある部分がわかってしまうことになる。
 
もちろん、欲しいものが市場にないこともあり、
何が欲しいのかが「そうではない」という形でしか
はっきりとはわからないこともある。
 
けれど、基本的には人は世の中に出回っているものに「教育」され
それにもとづいた「美意識」なりをもつことになる。
コンビニにしか行かなければそのコンビニ的美意識しか得ることはできず、
ブランドものをブランドであるがゆえに追っている人もまた
そういう美意識しか持つことはできないだろう。
 
「文化」を育てるということは、
あたりまえではあるが、至難である。
「歴史」というものもそこに深く関わってくるし、
現代のように急速に街や商品や流行が変化するようになっていると
その変化のなかで目の前に見えた「エサ」だけに食いつくような
そんな「文化」だけが広まっていくようにもなってしまう。
 
そういう意味でも、「欲望のエデュケーション」が必要であるといえる。
「あなたの欲しいものは何ですか」をエデュケーションしなければならない。
そしてその背景には、「私はいったい誰ですか」という問いがあって、
それに答えるために、さまざまな苦悩さえがあったりもする。
 
たとえば、欲しい音楽は何ですか?という問いがあったとする。
ある人は、カラオケで歌が歌いたいと思う。
ある人は、ゆずのCDがほしいと思う。
ある人は、ジョアン・ジルベルトのコンサートに行きたいと思う。
ある人は、バッハのマタイ受難曲を生で聞きたいと思う。
ある人は、シタールが弾いてみたいと思う。
ある人は、・・・。
 
音楽にかぎらず、そうしたことが「その人」になっている。
その人の文化になっている。
そして数多くの人たちがそうしようと思えることが
その世の中の文化になっている。
 
今、世の中に、「精神科学」が希薄なのも、
それを欲しいと思える人が少ないからだろう。
もちろん「それ」がほしいのだけれど
「それ」がよくわからない、という人もいるのだと信じたいが
それはまだ明確な形となっているというほとには到っていない。
 
「欲望のエデュケーション」が必要である。
しかしだれがそれを「エデュケーション」するのか。
その「エデュケーション」の背景にある方向性が
今どの方向を向いているのか。
それを見るために、広告現象というのは、少しだけは面白いところがあって
おそらくぼくは広告の仕事をしているところがあるのかもしれない。
 
 


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