『韓国』ノート

1 声から


2002.4.10

 

         韓くにの人びとのぬくもりは深いが、何よりもまず私は、その人たちの
        声の深さを想い起こす。ある外国語の惚れるということは、その外国語を
        話す人びとの声に惚れることでもあると、思うのだ。
        「声」を「ソリ」という。この言葉は、「声」にも「音」にも使われるの
        で、特に「人の声」を指していう場合には、「モクソリ」という言葉を使う。
         私は韓くにに暮らし始めた頃、下宿から丘を降りた交差点に、銀行があ
        った。窓口に女性がいて、「オソ オシプシオ(いらっしゃいませ)」
        「ソンニム、イツチョグロ オシプシオ(お客様、こちらにいらしてくださ
        い)」などという宇宙的な音を発するのだが、その声のあまりの狷雅さ、
        あたかも幽宮の天女がその羽衣で雲を擦過して音を立てるかのような聖ら
        かさに、うっとりとしてしまった。極めて事務的な内容の言葉であるにも
        かかわらず、その音の麗しさは信じがたいものなのだった。私はその窓口
        の女の声を聴くだけのために、何時間も銀行で過ごしたこともあったのだ
        った。
         もうひとつ私をうっとりとさせたのは、FM放送の濡れたような女の声
        だった。
         その頃、ソウル江南はまだ、今のようにビルの櫛比する地ではなかった。
        がらんとしていて、乾いた砂の舞う空虚な丘を、ぜいぜい走るバスで越え
        るという感じだった。
         その眠くなるようなバスを降りて、暗い洞窟のようんば約束の地にはい
        ると、FMが流れていた。手紙を紹介するその女のしっとりとした声は、
        黄砂で乾き切った私の脳髄を、霧のように水色に濡らした。
         また、テレビの紀行番組でナレーションをする初老の男の声も、痺れさ
        せるものだった。韓くにの大地そのもののような、ごつごつとしているが
        朴拙と香ばしい声様なのだった。
         雪融けの泥濘の道を歩いていると、道の脇のコンクリートに置かれたラ
        ジオから、無機質な重い声の定時ニュースが流れている。アナウンサーの
        声は、何十年も前の国家社会主義国の戦時放送のように重い。デモの夜、
        その持ち主のない孤独なラジオからは、デモのニュースが朗読されている
        のだった。
         そのほか、真夏の街路で検問をする兵士の声。戦闘警察に捕らわれて叫
        ぶ女闘士の声。デモに出陣する学生たちの声、声、声。
         声が、社会にガリガリとひっかかっていた。声が、国家をつくっていた。
        声が、人間を主張していたのだった。
        (小倉紀蔵『韓国語はじめの一歩』/ちくま新書/P99-101)
 
「韓国ノート」を書きはじめようとしたとき、
たとえば反日感情をめぐることなどを書くこともできただろうが、
そういうことで最初の一歩を踏み出すことはどうしてもためらわれた。
おそらく、韓国語を学びながら書かれていくであろうこのノート。
その最初の歩にふさわしいなにかがあるはずだ。
そう思ったときに浮かんだのが、声のことだった。
 
ぼくにはまだ韓国語の声の音の響きは未知のものでしかなく、
ラジオ講座で聞くその音にいまだに違和感を持っている状態なのだけれど、
それと並行して読んでいるこの『韓国語はじめの一歩』には
小倉紀蔵の感じた韓国のどきりとするようなシーンが熱く鮮明に描かれている。
これはそのひとつ。
 
深い声。
ぼくはそれを求めていたのではなかったか。
脱色されたような声の氾濫しているなかで、
声そのものに出会いたいのではなかったか。
確かにそこにあるという声を。
 
声とはいったい何か。
なぜ人は声を出すのか。
それを獣の鳴く声の延長線でとらえたくはない。
獣の進化の先に人間があるというような発想では。
 
もしすべての人にテレパシーがあって、
声を使う必要がなかったとしたら、
声はもう必要ないものなのだろうか。
そのとき、歌はいったい…。
 
声は必ずしも意志疎通のためのものではないのだろう。
むしろ意志疎通しようとするときに
そこに必ず生じてしまう障害ゆえに
人は声で話そうとするのかもしれない。
伝わらないものを伝えようとする声、
伝わらないがゆえに伝えようとする声。
その響き、その色彩、その重み、その軽やかさ、
その陰影、その香り、その音色、そのあたたかさ、冷たさ…。
 
いつまでも聞いていたい声、
声そのものが世界になっている声、
歴史がそこに立ち上がってくる声、
魔法のようにしのびよってくる声、
大地から立ち上がってくる声、
そんな声たちの魔力……。
 
これから韓国語を学んでいきながら、
小倉紀蔵が出会ったような声に出会うことができるだろうか。
そういう声がぼくのなかの深みにある何かに届き
そこで何かの化学作用が起こることを期待しながら…。
 
 


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