『韓国』ノート

3 到達不可能性からの出発


2002.4.14

 

         この本は、単なる「外国語の初歩」についての本なのに、どうして私は今、
        かくもかずらわしい話をしているのだろう。
         ハングルの文字のかたちにも、韓くにの食べ物の味にも、木にも空気にも
        山猫にも花にも私は実は、到達することはできない。
         かかわることはできるが、到達できない。
         そんなことがなぜ、「外国語はじめの一歩」の本に関係あるのだろうか。
         それは、次の理由からである。
         決して到達できないということ。この感覚なくして、どうして外国語を学
        び、日本語を使うことができよう。自己や他者に接することができよう。…
        …そうだ、私が知りたいのは、この一点だったのだ。
         韓くに言葉とかかわるということは、ねじれるということだ。
         そして<ねじれ>は私の、影踏みである。
         私のすべてをねじって、私の影を踏む、そのようなことなのだ。
         それゆえに、歩きに歩いて、巡り巡って、私は私の影に到達しようともが
        いている。
         もがいているのみで、決して到達できぬ。
         獲物に遭遇できぬまま疎林を彷徨する最後の狼のように、私は孤高にさま
        よい続けるのみ。
         さすれば韓くに言葉をめぐる私の十数年の旅もまた、<はじめの一歩>の
        周辺の、永いぐるぐるまわりにすぎないのである。
        (小倉紀蔵『韓国語はじめの一歩』/ちくま新書/P213-214)
 
外国語を学ぶということはどういうことなのだろうか。
それは自国語を学ぶということにほかならず、
そして自国語にさえも到達しえないということに気づくということだ。
 
とりわけ、こんなに近しいにも関わらず、
近づこうとすればするほどに、
違いのほうが際だってくる国の言葉を学ぶということは。
 
韓国語という鏡に照らされて浮かび上がってくる日本語の姿がある。
もちろん、ドイツ語に照らされて浮かび上がる日本語があり、
英語に垂らされて浮かび上がる日本語もあるが、
不思議な近さのなかでの音や意味の違いのなかで
照らされてくる日本語はまた別の顔をしているように見えてくる。
そして自分の使っている日本語がひどくぎこちないものに思えてくる。
 
それはまるで、自分を直接見ることなく、
合わせ鏡に照らす自分の姿のように、
自分の姿が見えているようで
決して直接には見ることはできない自分である。
 
実用のために外国語を学び
会話の練習に精を出すのが通常の外国語学習なのだろうが、
ぼくには、この『韓国語はじめの一歩』に綴られているような
小倉紀蔵という人物の<ねじれ>感覚が近しい。
 
これは外国語を学ぶことにとどまらず、
たとえばシュタイナーを学ぶときにもそうだ。
常に<はじめの一歩>のままが続いていく。
 
決して到達できないがゆえに歩まれていく、そんな<一歩>の連続。
それは、自分に到達しようとして歩まれる<一歩>に他ならないだろうし、
もし到達しえたと思ったとき、
そこには深い陥穽が待ちかまえているのかもしれない。
 
 


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