風の便り●1-4


風の便り1●空気と水と自由

風の便り2●思索と歴史と今

風の便り3●少年時代を振り返ること

風の便り4●影

 

風の便り1●空気と水と自由


(97/04/07)

 

言うまでもないが、元来、何かを追求するといった根気のいる持続的・分析的な作業は、空気の醸成で推進・持続・完成できず、空気に支配されず、それから独立し得てはじめて可能なはずである。従って、本当に持続的・分析的追求を行なおうとすれば、空気に拘束されたり、空気の決定に左右されたりすることは障害になるだけである。持続的・分析的追求は、その対象が何であれ、それを自己の通常性に組み込み、追求自体を自己の通常性に化することによって、はじめて拘束を脱して自由発想の確保・持続が可能になる。空気で拘束しておいて追求せよと言うこと、いわば「拘束・追求」を一体化できると考えること自体が一つの矛盾である。これを矛盾と感じない間は、何事に対しても自由な発想に基づく追求は不可能である。

(山本七平「『空気』の研究」(文春文庫)「あとがき」より/P222-223)

  日本では、その場の「空気」の支配で物事が決まるというのが常である。そこにある論理というのは、その「空気」を論理記号としているがゆえにその「空気」の拘束から自由であるためにはそれなりの気概が必要である。

 白川静氏の姿勢は、その自由のための格闘であるということもできる。白川氏は、アカデミズムという権威の怪物から自由であったがゆえに、長い間に渡る「持続的・分析的追求」が可能になったのである。

 日本には、その「空気」だけを暴走させないがために、「水」の原理というものもある。「水を差す」というものである。

そのため、われわれは今でも「水を差す自由」を確保しておかないと大変なことになる、という意識をもっており、この意識は組織内でも組織外でも働き、同時にこの自由さえ確保しておけば大丈夫という意識も生んだ。この「水」とはいわば「現実」であり、現実とはわれわれが生きている「通常性」であり、この通常性がまた「空気」醸成の基であることを忘れていたわけである。そして日本の通常性とは、実は、個人の自由という概念を許さない「父と子の隠しあい」の世界であり、従ってそれは集団内の情況倫理による私的信義絶対の世界になって行くわけである。そしてこの情況倫理とは実は「空気」を生み出す温床であることはすでにのべた。そしてその基本にあるものは、自ら「情況を創設しうる」創造者、すなわち現人神としての「無謬人」か「無謬人集団」なのである。

(同上「『水=通常性』の研究」P171-172)

 日本では、「世間が神」ということはよくいわれる。つまり、集団内の情況倫理によって多くが進んでいくということであり、「個」ではなく、「世間」という「場」が「神」になっているということである。それは、その「世間」を出てしまえば、もはや「神」ではないのだが、ある閉じられた「場」では、それは「神」となってしまうということである。

 これは、会社などの組織などをイメージすればよくわかることだ。特に、会社のトップがある種の強い傾向性をもって指導している場合、その会社内においては、それの「私的信義」が半ば絶対化していく。それは、そのトップがそう指向していなくても、「集団内の情況倫理」ではそうなってしまうということである。そして、その構成員にしても、それを指向しているとは思っていず、みずからの自由意志でそれをしていると思いこんでいる場合もある。

 オウム真理教の事件は、多くのことを教えてくれた。教団内では、麻原という教祖の「私的信義」が絶対化していき、その論理や倫理は、外部のそれとは別の世界になってしまったのである。オウム真理教の事件はひとごとではない。村上春樹の「アンダーグラウンド」もそうだが、すべては、われわれの日常性と無関係ではないのだ。

 われわれが属している場から生かされているのは事実であり、その場に寄与することを喜びとするといこともそれ自体は素晴らしいことである。しかし、その場を自覚的に見るということによってこそ、つまり、その場から出たさまざまな視点でそれを見る可能性を開くこと、閉ざされた場だけの情況倫理にみずからがとらわれていないかを問い続けること、によってこそ、はじめてその「場」を真に生かすことができるのだ、ということを忘れてはならないのだと思う。

 「イグザイル(故郷離脱)」、「エクソダス(出エジプト)」、「故郷喪失者」の真の意味を、さまざまな教訓を持つ現代人は決して忘れてはならないのだ。

 

 

風の便り2●思索と歴史と今


(97/04/16)

 

私たちは、世代間コミュニケーションによってはじめて、現在という瞬間をとびだし、他の時代を知り、時間軸に沿って歴史を生き、その上で「いまここ」に再び戻り、この現時点において、文化を生み出すことができるようになる。

この点で、哲学の読書というものは、他のものとは異なる特別な意味をもっているように思える。哲学は、世界、自分、そして時代についての根本的な思索だから、私たちは同時代の哲学者の作品を読みながら、その哲学者とともに、同時代の根本的な問題を考え、そうした思索を通じてみずからの時代を生きている。

したがって、自分とは違う時代の哲学を読めば、その時代の根本問題を思索するというかたちでその時代を生きることになり、その時代を実際に生きた世代、自分とは別の世代を理解できるようになる。こうして、哲学の読書経験は、一種独特な仕方で世代間の通路を創り出す。

(桑田禮彰「フーコーの系譜学/フランス哲学<覇権>の変遷」講談社選書メチエ/1997.4.10)

 「時代の根本問題を思索する」ということを哲学者の思索を通じて行うこと。もちろん、哲学者のみでなく、宗教家や詩人、芸術家を通じても、「時代の根本問題」を感じとり、思索することができる。

 かつては、歴史という学問が何のためにあるのかわからなかったが、今では、歴史を縦横無尽にさまざまな切り口で「読む」ことが極めてアクチュアルでスリリングな作業であるということがわかるようになった。少しまえに、松岡正剛の「情報の歴史を読む」が出たが、松岡正剛のそうした試みでも、そのスリリングさは明かだ。

 そのスリリングさゆえに、さまざまな思索のかたちを探す旅は決して飽きることがない。西洋哲学史をざっと眺めるだけでも興奮は抑えれらないし、中国の儒教を見ていくのも、なかなかのものだ。仏教思想の歴史も、その難解さを越えた魅力がある。あまりポピュラーではないイスラム思想も、深い味わいがある。

 そうした思想を歴史とともに読み込んでいく作業をぼくはやっと始めてみたところなのだが、そうした作業を通じて、あらためて今この日本においてぼくがアクチュアルに思索しなければならないのは何かということに立ち返ることができるのに気づいた。上記の引用でいうと、「その上で「いまここ」に再び戻り、この現時点において」ということになるだろうか。

 その往復運動によって、いったい何が見えてくるのか。それが今、とても楽しみになってきている。もちろん、その楽しみは、切実さということでもあるのだが。

 

 

風の便り3●少年時代を振り返ること


(97/04/26)

 

ユングは少年時代からすでに、「自分の存在とは一体どんなものであるのか」という哲学的な考え方に開かれていた。まだ年端もいかない少年が哲学など、と思われる方も多いかもしれないが、筆者の考えでは、人間はだいたい九歳にして、自分の精神が到達しうるところをほとんどすべて、思考的にではなく直観的につかんでしまうと思われる。その意味で九歳という時期は人間の一生におけるひとつのメルクマールなのであるが、ユングの場合もその前後に、後のユングを示唆する出来事を体験しているのである。

(山中康裕「臨床ユング心理学入門」PHP選書/P101/1996.11.5)

 山中康裕は、先日、その著書「絵本と童話の心理学」(ちくま学芸文庫/1997.3.10)のなかで、幼稚園を一日目に登園拒否をしたという話を読んで共感した方です。(それだけに共感したわけではないけれど^^;)また、氏はユング心理学の日本での草分け的な存在である河合隼雄の退官に伴って京都大学の教授になった方なのですけど、先の登園拒否の話のように、上記の引用にもある「九歳にして」という話にもまた深く共感した次第です。

 思春期などを自我の成長の節目というか最初のメルクマールとしているのがふつうの考え方で、それはまさにそういう側面もあるのだけれど、ぼくにしても、六歳の頃大きな病気をして九歳くらいまでにあれこれ感じとっていたことというのは、基本的なところで、今とあまり変わらないのかもしれないという気持ちは以前からしていました。

 その時期の問いかけを「哲学的な考え」だと呼ぶことができるかどうかはわからないにしても、「自分の存在とは一体どんなものであるのか」についてみずからの病気の体験や、近親者のいくつかの死などを通じて、あれこれと考え始めた時期であるということは確かのようです。

 それと同時に、宇宙や動植物、鉱物などについての関心の基礎もその頃にできてきたというのもあって、その頃に感じとったものをなんとか自分で納得できるものにしようとしているのがその後の模索ではないかとさえ思えます。

 基本的な気質は生まれついてのもので、そう変えることが難しいのと同じくその頃に育ってきていたものがその後に根本的に変わってしまうということもないのではないかというのが、ぼくの実感でもあります。

 こういう風に言うと、その後の人生がつけたりのように思われがちですけど、決してそうではなくて、自分が生まれてきた理由の核のようなものがそこにあるという可能性があることを知ることで、今の自分を深く認識するための何かが得られるのではないかということで、その上で、自分がどこに向かおうとしているのかを見定めることができるのではないか、ということでもあります。

 三つ子の魂百までというのもありますけど、自分のなかの核の部分をとらえようとすれば、みずからの来歴を振り返るという作業もまた重要ではないかと思うわけです。

 ぼくも、ここ数年の自分なりの作業として心がけてきたのは、小さい頃、きわめて強固にブロックしてきた感情をいかに解き放ちながら成長させていくかということでした。そういう作業はけっこうキツイんですけど、そういう作業のプロセスで、なぜ自分が感情をブロックせざるをえなかったのかなどへのアプローチで見えてくるものはとてもたくさんありました。もちろん、その作業は今も継続中なんですけど。

 

 

風の便り4●影


(97/04/28)

 

筆者は前章で、不登校の子どもたちは、実は時代の尖兵であるという言い方をした。既存の価値観や考え方に準拠して、彼らをネガティブな存在すなわち社会の落伍者であると見なして、それを治そうとしても、前に進むことはできない。また、そこからは何も生まれてこない。筆者には彼らは、現代という時代の影を生きて、そして新しくやってくる時代を予感して苦しんでいるように見える。彼らの悩みや苦しみに真摯に心を開くことで、彼らは我々に今どんな物語を伝えようとしているのか、彼らの病はなぜこの世にもたらされたのか、ということが見えてくる。そしてその答えの中には、我々が新しい未来という時代を生きていくための大きな宝物が隠されているのではないかと思うのである。

多くの人は臨床家ではない。我々の生きる日常の世界では、小さなことから大きなことまで、毎日毎日絶えず新しい出来事が生起している。それが、心が暗澹とするような暗い出来事ではあっても、その背景には何があったのか、それはなぜ生じてきたのかといった過去志向的な考え方をするだけではなく、未来は我々に何を伝えようとしてこのような出来事が起こってきているのかという考え方をすることで、我々がこれから生きていくべき新しい道が見えてくるのではないか、と筆者には思われる。

(山中康裕「臨床ユング心理学入門」PHP選書/P205-206/1996.11.5)

 シュタイナーの「いかにして超感覚的世界の認識を得るか」のなかに次のような考え方が提示されています。

たとえば一人の犯罪者に対しても、自分の判断をさし控えて、「私もこの人と同じ人間に過ぎない。ただ環境が与えてくれた教育だけがおそらく彼のような運命を辿ることから私を守ってくれたのだろう」、と考えるようになる。(中略)その時、自分が全人類の単なる一部分ではあるが、そのような部分として、生起する一切の出来事に対する責任をも分有しているのだ、という考え方がもはやそれほど無縁とは思われなくなるだろう。(P109-110)

 「郵便ポストが赤いのもみんな私が悪いのよ」とかいうようなフレーズがあたまのすみっこのどこかに記憶として残っていますが^^;、人は自分からどれだけ責任を負えるかによって、人格の成熟度が計られるのだともいえるかもしれません。

 もちろん、ちゃんとした判断力がないままに物事をあいまいにしたり、倫理的なことにたいして無自覚であるというのは論外ですけど、学校などでも、ただただ生徒を叱ったり教育的指導をしたりするだけで、生徒を理解しようとする態度やともに生きようとする姿勢や生徒からこそ学ぶ必要があるのだという姿勢の希薄な方が経験的にもいます。

 やはり、そういう方は、常に自分を教えたり叱ったりする側に置き、一方通行路のような認識しかもてない方なんだろうなと思います。とくに、林竹二さんの教育や、灰谷健次郎さんのような方の話を読んだり、もちろんシュタイナーの教育についてのあれこれを理解したりするにつけ、生徒からこそ学ぶ必要があるということはなによりも重要なことだと思います。

 影をいちはやく生きてしまう存在がいます。その影を否定するのは簡単ですし、影を見ず、なかったことにすることも、影を不要なものとして切り捨てることも簡単なことです。けれど、その影から学ぼうとすることを忘れることは、みずからの可能性を抹殺するに等しくなることでもあるように思います。影にこそ未来の鍵が隠されているともいえるのですから。

 ユングは、シャドー、影、ということを重要視しました。河合隼雄さんにも「影の現象学」(講談社学術文庫)という名著がありますが、みずからの影をどう見つめるかということはなによりも大切なことだと思います。ともすれば、人は、他人の影をみつけて、小学生のホームルームの時間のように「〜くんはいけないと思います」というように、他を攻撃することで、自分の影を見ないようにしてしまうことの多いものですが、そうではなくて、自分の影との対話こそなによりも必要なことではないでしょうか。

 影という問題とは直接関係はしないかもしれませんが、なんにつけ、脚下照顧、自分の足下からまずはじめること。たとえば、医療制度について批判的であるならば、みずからが薬や医療などについてひとつひとつ意識的になること。原発に批判的であるならば、まず身近なところで無駄な電力消費を控えること。食料問題に批判的であるならば、まず自分から食べるということに意識的になること。これらは典型的な問題ですけど、自分の関わっていることに、大上段にではなく、生活実践としてひとつひとつをチェックしていくことが大事なのではないかと思うのです。自分の見えてないこと、見ると都合のわるいことはたくさんあります。一日にひとつからでもそうしたことをちゃんと見ていくことから始めたいものですね。


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