ポエジー・ノート

1 彷徨う木


2002.4.6

 

吉増剛造とオクタビオ・パスを導き手にしながら、と始めたが、
今回の大事な導き手をもうひとつ。
野村喜和夫の『二十一世紀ポエジー計画』(思潮社/2001.4.1発行)
 
本書には、「起柱」として、最初に
「彷徨う木ーー詩のトポスを求めて」という章が置かれている。
その「彷徨う木」について。
大地の可能性と不可能性において、彷徨う木。
ユダヤ的なものとハイデッガー的なものを同時に表現しようとするポエジー。
 
        「彷徨う木」ーーただの根無し草、故郷喪失者というのではなくて、ま
        た風土や土着やナショナリズムに傾きすぎているのでもない生のあり方。
        でも、そんなあり方が可能なのでしょうか。いや、可能にしなければな
        らないのではないか、旅を続けながらそんな思いを強くしたのですが、
        それは詩を書く者の限界といいましょうか、しかしその限界をそのまま
        可能性の中心に転回したいような気もするんですね。
        (…)
        まず木ですけど、木は、大地に根を張るというそのあり方によって、た
        とえばハイデッガーの言う言葉の原郷性、詩的大地性に結びつきます。
        …そういうものに結びつかない詩というのは、きわめて痩せた、面白み
        のないものとなりがちではないでしょうか。
        ひとまずそういう認識があって、しかし反面、ハイデッガー的な意味で
        の大地性が民族的なもの、もっと言ってしまえばファシズム的なものと
        結びつきやすいのもの周知の通りです。私はよく詩的ガイネーシスとい
        うことを言うんですが、ガイネーシスというのは大地の女神ガイアから
        つくられたタームで、まあ、詩を生み出す力一般としての女性的な大地
        性ですね。ハイデッガーを薄めたい、あるいはずらしたいわけです。
        (…)
        大地の可能性と不可能性。私なりにまとめてみますと、もはや私が詩を
        書く場所に通常イメージされるような大地はないという意味では不可能
        な大地性、しかしこの詩、この言語がなおもそこで草のように生成され
        てやまないという意味ではすぐれて潜在的な大地性。
        (…)
        そこで「彷徨う木」の「彷徨う」という動詞部分の方に力点を移します
        と、これはもうユダヤ的な観念といってもよいかもしれません。…パウ
        ル・ツェランが、ほかならぬユダヤ人でした。もちろんポストモダンの
        言説のなかでは、やはりさきほどのドゥルーズ=ガタリがノマドという
        ことをしきりに言っていました。それから最近では、主として文化研究
        という分野で、ディアスポラということがよく言われているようですが、
        それこそまさに離脱、流亡ということです。
        こうしたわけでして、要するに「彷徨う木」というのは、思いっきり誇
        大妄想してしまいますと、ユダヤ的なものとハイデッガー的なものとを
        同時に表現していこうという大変欲張りな、しかしだからこそ一生かか
        って追求しても惜しくないようなコンセプトであり、詩を書くしか能の
        ない私としましては、まさしくそれをライフワークそのものにしたいな」
        と、ひそかに考える今日この頃であるわけです。
        (P12-15)
 
神秘学は故郷を喪失することによって
その可能性を得るという側面もあるものの、
ただの根無し草であるというのではない。
ディアスポラであるというのではない。
それはある意味で大地をも貫くものでなくてはならず、
大地を貫くことによって自由を創造するあり方でもあるといえる。
 
ちょうど昨日このMLで紹介されたシュタイナーの
「人智学の光に照らした世界史」の最終講義、第9講に次のようにあった。
「ドルナハがその課題を実現するつもりなら、ここは、霊的世界において
歴史的に生じるもの、霊的世界で衝動として起こり次いで自然的存在のな
かに入り込んでいって自然を支配するものによって開かれていなければな
りません、ドルナハにおいては、真の体験について、真の力について、人
間の霊的世界での真の本質について聞くことができなければなりません。」
 
神より生まれ、
キリストにおいて死し、
そして聖霊により甦る。
 
あてもなく彷徨うのではなく、
霊的世界の衝動を地上世界へと流れ込ませるために
地上世界で眠り込んでしまっている魂を目覚めさせるために
大地の不可能性に生きてみること。
しかし、それは大地をスポイルするというのではなく、
大地の底の底において理念を貫かせることである。
それはまさにキリスト衝動。
 
ポエジーはそうした
大地の不可能性ゆえの可能性において
ディアスポラゆえに真に創造されるものとして
生成されるものであるのではないか。
 
野村喜和夫の「彷徨う木」ということから
そうしたことを思い描きながら、
ポエジー・ノートは歩き始める。
大地から身を引き離し、
それゆえに聞くことのできる
大地のさまざまな声に耳をすませながら、
みずからを理念の一樹として屹立させようとしながら…。
 
 


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