ポエジー・ノート

6 イメージ


2002.5.16

 

         詩的体験はことばには還元できないが、それにもかかわらず、それを
        表現しうるのはことばだけである。イメージは対立するものを和解させ
        る。しかしこの和解はことばによってはーーすでに以前のことばではな
        くなったイメージのことばを除いてーー説明しえない。このようにイメ
        ージというのは、われわれをとりまくものやわれわれ自身のしたたかな
        体験を表現せんとするたびに、われわれを襲ってくるあの沈黙に対抗す
        る必死の手段なのである。詩は緊張状態ーー存在の極限にいたる存在ー
        ーにおける言語である。ことばの極限と極限的なことばが、自らの内奥
        に立ち帰り、沈黙と無意味という言行為の裏面を示す。イメージの此岸
        には言語の世界、説明や歴史の世界が横たわり、彼岸には、実在への扉
        が開かれているーー意味と無=意味は同値的名辞となる。これがイメー
        ジの究極的な意味であるーーイメージ自体。
        (…)
         イメージの意味はイメージそのものである。言語は<これ>と<あれ>
        といった、相対的な記号内容の領域を乗り越え、言いえないことを言う
        ーー石は羽毛であり、これはあれである。それは現実を暗示したりはし
        ない。現実を再創造せんとするのであり、時にそれに成功する。従って
        詩とは現実に入り込むことであり、現実の中に在ることである。
        (…)
         イメージは説明しないーーそれは人がイメージを再創造し、文字通り
        イメージをふたたび生きるように誘うのである。詩人の発話は詩的感応
        において具現する。イメージは人間を変性させ、他ならぬイメージに、
        つまり、そこにあっては対立するものが融合してしまう空間に変えてし
        まう。そして、誕生以来ひき裂かれていた人間自身も、自らをイメージ
        とし、<他者とする>時、自己と和解するのである。詩とは変身、変化、
        そして錬金術的作用であり、それゆえそれは魔術、宗教、そして人間を
        変え、<この人>や<あの人>を彼自身であるところの<他者>にしよ
        うとする他の試みと境を接しているのである。宇宙は異質なものの広大
        な貯蔵庫であることをやめる。星、靴、涙、機関車、柳、女性、辞書、
        これらはすべて巨大なひとつの家族を構成し、すべてが相互伝達をして
        絶えず変化する。そして同じ血液があらゆる形態の中を流れ、人間はつ
        いにその願望ーー彼自身ーーとなることができる。詩は人間をその人間
        の外に置くが、同時に彼の根源的存在に回帰させるーー彼を彼自身に戻
        すのである。人間は自らのイメージであるーー彼自身であり、かつ他者
        でもある。リズムであり、イメージである語句を通して、人間ーー存在
        への永続的願望ーーは存在するのである。詩は存在へ入ることである。
        (オクタビオ・パス『弓と竪琴』筑摩書房/P171-175)
 
記号としての言葉によって語り得るものはあまりにも乏しくかつ貧しい。
そして私たちはそれらの記号のつくる「現実」のなかに
閉じこめられてしまうことにもなる。
ゆえに語りえぬものには沈黙がふさわしいのだともいえる。
 
私は生まれ落ちて以来、
宇宙のなかにおいて孤立して存在する一個の存在として、
言葉を覚えそれを道具として世界に対するようになるのだが、
それれはまたさまざまな<他者>をつくりだすことでもある。
そして<他者>にとって私はまた<他者>であり、
その対立のなかで、道具としての言語もまた用いられる。
そして数限りない「言語ゲーム」がそこに存在するようになる。
しかしそうすることで「沈黙」への誘惑にも抗しがたいほどになる。
 
沈黙することで、ようやく私はみずからを道具とすることから解放される。
私は私であることによる宇宙のなかで休らうことができる。
語らせようとすること、それは恐ろしいほどの暴力である。
語ることによって人は自らを一個の道具存在に化してしまう。
ゆえに自我の成長はその煩悶ゆえに、深淵へと向かう沈黙へと人を導き、
ときにその深淵のなかで自らの錬金術的営為に失敗しもする。
 
詩的イメージはそのような沈黙のなかから現われ出る。
それは「現実」を<これ>、<あれ>と指し示し、
それをあれこれと説明しようとするのではなく、
またそうした<これ>、<あれ>の呪縛を私たちに強いるのでもなく、
「現実」を「再創造」しようと試みる。
 
詩的言語に関するさまざまな考察がなされているが、
それはプラグマティックな言語使用の領域ではとらえれらない。
そのいわば「美的機能」は、プラグマティックな言語使用のメタレヴェルにあり、
かつ単なるメタレヴェルにとどまることなく、
そこで何かがメタモルフォーゼし、錬金術的に何かが生成されていく。
 
私は、詩的イメージによって、
<他者>であるもう一人の私となり、
さらに無数の私となり、
そうすることで私を再創造しようとする。
そして、私は私を再創造することにおいて
はじめて私であることができる。
それが私が私自身に戻るということでもあるが、
決してそれは回帰ではなく創造のプロセスであるということを知らねばならない。
ゆえに、詩的イメージへの衝動は自由への衝動と軌を一にする。
 
 


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