風のトポスノート21-30

(1997/10.12-1998/1.11)


21●聴くことについて

22●臓器移植ネット

23●鏡の力

24●液体と固体

25●フリー・シンカー

26●罪

27●「個」の可能性

28●他者

29●やさしさ

30●科学者・医者の悪趣味

 

風のトポスノート 21

「聴くことについて」


(1997.10.12)

 

「聴く」文化を、私たちが失って久しい。

明治以降西洋音楽の受容に日本人が励むようになり、少しずつ私たちの音の文化は失われ、音楽が商業主義に利用される商品と成り下がってからというもの、音楽家が誰よりも「聴くこと」を忘れていった。日本中に西洋音楽を安っぽく受容した音楽が響きわたり、そしてそれらはほとんどすべて、十九世紀の西洋音楽のシステムに基づいて作られている。「日本の音」というような名目で、琴や尺八で西洋のハーモニーに支えられた音楽を演奏しても、人々は何の違和感も持たない。西洋音楽の本当の深さを知ることもなく、日本化された西洋音楽が日本人の習慣となり、その習慣の中にどっぷりつかった音楽がもてはやされる。そしてその習慣を越えた新しい音楽、本来の耳のあり方を追求する音楽は、周縁へ追いやられてしまう。

世界の中で日本人ほど、自然への畏敬を失い、自然を無神経に破壊していく民族も少ないだろう。自然を大切にしない民族は、文化を大切にしない。現在の日本の内部にあって、音と自然、そして人間と音との豊かなあり方を追求していくのは難しい。

(細川俊之「魂のランドスケープ」岩波書店/P11-12)

 耳はいったい何のためにあるのだろう。

 寺田寅彦はこんなことを言っている。

眼は、いつでも思った時にすぐ閉じることが出来るように出来て居る。併し、耳の方は、自分では自分を閉じることが出来ないように出来て居る。何故だろう。

 耳は、宇宙に向けて開かれていて、いつも繊細ななにかを聞き取っていなければならないのだ。そこにこそ、耳の、聴くことの豊かさの根源があるのだといえる。

 しかし、傍若無人で、公害のような音にさらされて麻痺してしまった耳にはもはや自然からの、宇宙からの豊かさは届けられない。届けられないのではなく、豊かさを破壊してしまうのだ。

 日本人は聴くことの深い文化をもっていた。けれど、同時に、これほどまでに聴くことに無神経な文化、いやそれは文化ではもはやない、ただの狂乱文明だろうが、そうしたあり方をも極端なあり方としてもってしまっている。この両極端はいったいどこからくるのだろうか。

 観光地にいくと、どこもかしこも騒音公害だ。おせっかいなBGMですべてが彩られている。せっかくの景色をだいなしにする庭でのBGM、浜辺での波のBGM。日本人は、誰かがなにかをはじめてしまうと、すぐに迎合してしまう。自分で深く感じ、考えるということをしないで、「そういうものだ」で、それに合わせてしまう。それを生活の知恵のようにしてやってきたところのある民族なのだろうが、それにしても、最近の騒音公害はものすごい。そして、それが善意や商売気なのだから、よけいに始末に負えない。

 今、日本人の耳は、いったい何を聴いているのだろうか。現代の流行歌などをきけばわかるように、「習慣の中にどっぷりつかった音楽がもてはやされる」だけなのだ。そこには、耳をひらいて聴き取る値するものはない。

 耳は自分で閉じることができない。しかし、だからこそ耳は何かを聴き取らなければならないのではないか。そしてそのために深く深く自らを開いていかなければならない。そうした耳を育てていくためには、耳を殺してしまうようなあり方に注意深くなければならないだろう。無神経な音にアンテナを向けるような耳が聴き取る音がどんな音であり、どんな文化なのかは推して知るべしである。

 

 

風のトポスノート 22

「臓器移植ネット」


(1997.10.18)

脳死の人からの臓器提供に道を開く臓器移植法が施行された十六日、 社団法人日本臓器移植ネットワーク(東京都港区)には、移植を待つ適応患者として心臓五人、肝臓十二人が登録された。また、臓器提供の意思を記入するための意思表示カードが全国の自治体や公共施設の窓口などに置かれた。

(朝日新聞1997.10.17/一面より)

 以前、「銀河鉄道999」という漫画があり、そこに描かれた世界では、機械の身体をもち長く生きることが理想とされていて、その身体を求めて旅しながら、そのなかで、そのことに次第に疑問をいだいていく姿が描かれていた。

 臓器移植は臓器を機械のパーツのようにとらえ、誰かが生きるためには、それは有効活用されるべきだという考えに基づいている。そのことの是非は一概に結論の出せることではないだろうが、問題は、臓器移植に関わるすべての人のなかで、どれだけの人が、生命について、そして死についてをも、深い洞察を得ているのだろうか疑問だ。そしてそういう方が「ネットワーク」しているのは限りなく不気味なことだ。

 人が死ぬと、通常、お通夜をする。それは単なる習慣だろうか。

 チベットではお坊さんが、人の死の前後に渡って長く経を読み、死について、死後の世界についてのガイド役をする。

 臓器を提供する人、臓器を提供される人、そしてそこにかかわる医師たち。そこにおいて、生命はどうとらえられているのだろうか。そして、臓器というのはいったいどうとらえられているのだろうか。そして、死についてはどうとらえられているのだろうか。

 その「ネットワーク」が、そうしたことについて深く洞察し、霊性を向上させるために活動しているとしたら、素晴らしいことである。しかし、いわば死んだら終わりの唯物論者や肉体や魂についての認識をまるでもっていない方だとしたらどうだろう。

 少なくとも、ぼくは臓器を提供されてまで生きたくはないし、死の直後(臓器提供時は死の前だとぼくは思うが)の時期に、臓器を提供できるだけの高い霊性を得ている自信はない。一説によると、臓器提供時は、生前と変わらぬ痛みにさらされるという。生きながら心臓をえぐられるのと同じだ。その痛みを知っていて、あえて提供しようという気概のある方は素晴らしいが、ぼくにはそういう気概は持てそうもない。

 ともあれ、死にあたってのさまざまについて断定は避けねばならない。しかし、そうしたことまで含めた可能性を検討しなければならないのは当然のことではないかと思う。

 生命の尊厳が高らかに唱われる。しかし、それを唱う人が、生命の尊厳を深く洞察しているかどうかはわからないのである。

 

 

風のトポスノート 23

「鏡の力」


(1997.11.9)

 風の本棚で、高野陽太郎の「鏡の中のミステリー」をご紹介しましたが、この「鏡」というテーマは古今東西文学や芸術の格好のテーマでもありますし、その謎に対するファンタジーやアナロジーは数限りないものがあります。

 ミヒャエル・エンデには「鏡の中の鏡」という作品がありますし、「ソフィーの世界」のヨースタイン・ゴルデルの近刊(邦訳)にも鏡をテーマにした作品があるようです、ルイス・キャロルにも「不思議の国のアリス」と並ぶ有名な「鏡の国のアリス」があります。

 鏡の中に映った私の顔が私から独立しはじめ、私に対してにやりと笑い、私を征服し入れ替わろうとする、とか鏡の中の鏡の中の鏡・・・という合わせ鏡の世界の迷宮にさまよう、とか鏡の「向こう側」にある不思議な鏡像世界での冒険、とかさらにはそれらが内面世界のなかで無限の迷路の世界として展開されるとかこうしたテーマがさまざまに変奏されながら繰り出されるファンタジーの数々。もちろん神話で用いられる鏡についての話も欠かすことはできないでしょう。

 また、精神分析学のラカンのいうような「鏡像段階」などのように、人間の意識の発達においても「鏡」というテーマはさまざまに展開されています。猿に鏡を見せる実験や、幼児に鏡をみせないほうがいい云々などの話も、「鏡」のもつ不思議な働きについて私たちに考えさせてくれる格好のテーマです。

 さて、ここでは、そうしたテーマと関連しながらも、少し趣を変えて、日本の古代における鏡の力についての観点をみながら、「私」への探究のガイドにしてみたいと思います。

 古代において、鏡は神聖な祭器であり、巫女神人の使う呪具であって、鏡の聖なる呪能は、人々の広く認めるところだった。(略)

 鏡は人の姿を映すものであり、「人面を照らすもの」である。このあたりまえといえそうな機能には、しかし、見過ごしがたい重要な意味が含まれている。ことは「私」が「私」を知ることの、「私」を対象化することの基本的なあり方にかかわっている。(略)

 われわれは、「私」という存在が、しばしば「私」の顔によって、集約的・中心的・象徴的に示されることを知っている。しかし、にもかかわらず、人間は生涯「私」の顔を見ることはできない。「私」が「私」を知っているというにしても、「私」を対象化することなしにとらえられるものではない。(略)

 われわれが「私」だと思い描いている私像は、確かに実像をそのまま写しとっているのではい。われわれは実像と微妙に、時に大きくかけ離れた私像を思い描いている。

(犬飼公之「影の領界」桜楓社 平成5年5月25日発行 P153-155)

 「私」は直接自分の「顔」を外から全体として見ることはできません。それは必ずなにかに写された鏡像、または鏡像の鏡像であり、また写真や絵やビデオなどを使った間接的な「私」の姿でしかありません。

 「私」はまぎれもない「私」なのだけれど、自分の自己知覚にしても、それは知覚対象が外界ではなく、自分を知覚しているということにすぎません。それは「主観」ということでも表わされるものです。

 ですから、「私」は「私という謎」を探して永遠の旅の途上にいるわけです。「汝自身を知れ」ということが永遠の課題として与えられているように。

 しかし、「汝自身を知れ」に答えようとする営為において、「鏡」という道具は、その「鏡」そのものの謎とともに、格好の反射板になってくれることは事実です。

 人間には、意識を自分に反射させる、つまり自分の意識していることについての意識という意味での「反省」ということが可能になっているのですが(これはシュタイナー的に言えば「意識魂」といえるのですが、なかには、この機能が極めて希薄な方がいるのは事実ですが、可能性としてはあるという意味です)ある意味では、その「反省」というのは「鏡」の機能に比することができます。

 古代と古代文学を考えようとする時、鏡が神聖なものであったことはことさら重要な意味を持つ。鏡は祭器であり、呪具であり、巫具であった。斎鏡とよばれ、宝鏡とよばれ、天鏡とよばれ、明鏡とよばれるそれである。ことは鏡の機能に深くかかわり、しかも道具としての機能を越えるはたらき(呪能)を託されていた。(P158)

 目に見えざる神の姿・形、異界・他界の影を映し出すのが鏡であり、鏡は神かけた力を託されていたのだった。

 古代人にとって、影・面はつねに受動的であったことを想起したい。人々はそれを意志的能動的にとらえたわけではなかった。にもかかわらず人々は人間の目に見ることができがたい影(=真形)をとらえることを欲した。そこに呪能が必要となる。そのためにはその能力を有した特殊な人間が必要であったとともに、その能力を有する呪具が必要であったということだろう。

 鏡の力とはそれであった。。(P173-174)

 心の鏡を磨く、とか、心を湖面のような状態にする、とかいうことがいわれますが、よく磨かれた心の鏡には、「神」が、異界・他界としての「真の世界」を映すことができるのだといわれたりもします。この世は、すべては現世=映し世=影(仮象の世界)であって、通常は決して見ることのできない真の世界も、斎鏡、宝鏡、天鏡、明鏡には映すことができるのであり、それを人間の意識の世界に求めるならば、

 一点の曇りもないまでに磨かれた心の鏡であるということができます。巫女とは、そういう心の鏡を有した存在であり、その存在を通じて、人々は神のお告げを聴いたのではないでしょうか。

 しかし、その「鏡の力」は、個々の人間の心に求められる時代が来ていて、だからこそ、限りなく汚れた心の鏡に映る歪んだ像のように、世界もそれに応じて歪んできたのではないでしょうか。では、そういう歪んだ鏡はすべて排して、特定の役割をもった巫女のような存在を通じて、いつまでも神のお告げを聴き、それに従っていればいいかというと、そうではないというのが神秘学の基本なのではないかと思うのです。

 内なるキリスト、聖杯の秘儀、それらは、個の器づくりを基盤にもっています。その個の器が共同することによって、大きな器、大きな鏡をつくること。それが人間の進化の課題であるというこではないでしょうか。

 しかし、多くの共同は、個の器の完成を待てずに、なにかに従う、つまり認識行為を放棄して、教祖や教義などに従うことによる共同であることが多いようです。つまり、一人でいられないがゆえに、群れるという行動パターンです。都合よく「滅私」「我をなくす」して自己満足に陥るというあり方です。それは蟻塚のようなあり方であって、古代に戻るということを意味します。

 特に日本では、自分で考えずに、だれかに代わりに考えてもらって、その権威にしたがって群れて安心する傾向が強いのではないかと思います。しかしそれは、聖杯を形成するのではなく、逆の方向性にほかなりません。

 自分で考え行動しない「滅私」「我をなくす」ではなく、むしろ怪我やリスクは多いものの自分でとことん認識と行動することを通じて、その結果として共同できる方向をこそ目指さなければならないのではないか。あまりにも、安易な「滅私」「我をなくす」、宗教団体のようなあり方が日本ではあまりに多いのではないかと思うのです。

 

 

風のトポスノート 24

「液体と固体」


(1997.11.16)

「 日本では、一緒に遊ぶとき、混ぜてくれって言いますよね」犀川は突然話しだした。「混ぜるっていう動詞は、英語ではミックスです。これはもともと液体を一緒にするときの言葉です。外国、特に欧米では、人間は、仲間に入れてほしいとき、ジョインするんです。混ざるんじゃなくて、つながるだけ……。つまり、日本は、液体の社会で、外国は固体の社会なんですよ。日本人って、個人がリキッドなんです。流動的で、渾然一体となりたいという欲求を社会本能的に持っている。欧米では、個人はソリッドだから、けっして混ざりません。どんなに集まっても、必ずパーツとして独立している……。ちょうど、土壁の日本建築と、煉瓦の西洋建築のようです」

(森博嗣「すべてがFになる」講談社NOVELS/1996.4.5/ P311)

 この「すべてがFになる」は、「インターネットで選ぶ日本ミステリー大賞'97」で日本のミステリ・ナンバー1になった作品だということなので、読んでみたのですけど、確かに「インターネット」ということでいえば、それなりの作品ではないかとは思いましたが、上記の引用とこの作品とはほとんど関係がありませんので、念のため。

 さて、欧米では仲間に入れて欲しいといき「ジョイン」するといえば、cup.comのメーリングリストでは、参加のときにjoinと書いて送ってもらうことになっているのが面白いですね(^^)。決して、ミックスではない^^;。

 それはともかく、日本と欧米を液体と固体で対比させるというのは、とても面白いのではないかと思います。どちらが良い悪いではなく、その性格の違いというのが、言葉にもあらわれているんですね。この対比は、「個」ということを重視するかどうかということにも大きく関わっているんですけど、日本でそれがなかなか育たないのは、それだと「混ぜて」くれないからだというのは、実感としてよくわかります。

 固体−液体という状態を状況に応じてそのモードを切り替えることができればいいなあとこの引用部分を読みながら思っていました。そういう意味で、日本人はソリッドにもなれなければならないし、欧米人はリキッドにもなれなければならないと。

 「にもなれなければならない」というのは、そのどちらのモードにもなれるしなやかさの必要性です。そのことと自由ということは深い関係にあるのではないかなと考えたりもしました。

 ちなみに、ぼくはKAZE(風)なので、気体なんですけど^^;、やはり、風といえども、液体化したり、固体化したりしなければならないと思う次第です。

 

 

風のトポスノート 25

「フリー・シンカー」


( 1997.11.18)

 

フリー・シンカーとは、なにものにも依存しない、インディペンデント(独立)であった。ところで、独立とは、「一人」で立つということだ。自前の思考を持つということだ。好きな哲学者はいるが、彼を聖者にしないということである。哲学者とは、いつも、独立した一人前の思考者であろうとする個体のことだ。(鷲田小彌太「哲学を知ると何が変わるか」講談社文庫/P144)

 哲学というと難解のための難解というイメージでとらえられることが多い。もっとわかりやすく表現すればいいのに、わざわざ分かりにくい表現をしているというイメージだ。確かに、そういう哲学者もいるのは事実なのだけれど、本来、哲学は難解のためにあるのではない。とにかく自分でとことんまで考え抜く結果として、それが難解さという結果となってしまうのだといえる。

 難解のための難解は避けなければならないが、難解さそのものを避けるということは、思考を依存的にするということにほかならないのだということは理解する必要があるように思う。

 つまり、依存的であるということは、自由を放棄するということなのだ。だから、「独立した一人前の思考者であろうとする個体」は、必然的に自由を希求する存在であるということができる。

 これは、シュタイナーもよく強調することなのだが、ミヒャエル・エンデは次のように言っている。

真実は単純だと、よく耳にする。それは、正しい。しかし、なにか誤ったことを言いたいのではないかと、それだけが気にかかる。単純なことは簡単にわかるはずだと言いたいのではないか。しかしこれほどむずかしいことはない。

(ミヒャエル・エンデ「エンデのメモ箱」岩波書店/P79)

 真理は単純で平易な言葉で表現できる。ほんとうにわかっている人にはそれができるというのだ。

 そうかもしれない。

 ただ、その「単純で平易な」のなんと難しいことか。

 むしろ、超難解にみえる表現のほうが、ずっとわかりやすいのではないか。

 たとえば、「愛」という「単純で平易な言葉」がある。しかし、その「愛」はなんと難しいのだろう。それをわかりやすいなどといえる者がどこにいようか。

 真実は単純だ、そうだ、「愛」なのだ。けれど、それが「簡単にわかるはずだ」などと言いたいのだとしたら、その人はいったいどういう人なのか、察しができるのではないか。

 わざわざ難解な表現をするのは愚かだ。けれど、平易な表現によってなにかがわかりやすくなるとは限らない。むしろ、平易な表現は、そのなかに難解を越えた難解さを含んでいて、それは理解を限りなく拒んでしまうということを知らなければならない。平易な表現でなにかをわかったと思いこんでしまう愚だけは避ける必要がある。

 私はフリー・シンカーでありたいと思う。もちろん、その理想に近づこうとする者でありたいということだ。そのフリー・シンカーであろうとすることによって、単純で平易な表現が可能な場合はそれを選び、難解さでしか表現できない場合は、その労を避けないような自分でありたい。その両者は往々にして逆転してしまうのだが・・・。

 つまり、単純で平易な表現が可能なのに、わざわざ難しく表現しようとし、難解さでしか表現できないのに、「真理はだれにでもわかるのさ」などどいう嘘をついたりする。そして、そのことに無自覚なままそうしている善意の人もいる。その善意こそが、あらゆる依存的思考を生み出している源かもしれない。

 依存的思考は、あらゆるところでマニュアル化、標準化をはかろうとする。依存的思考にとってもっとも恐いのは、自由であることなのだから。依存的思考は、だれにでもわかるようにという善意のもとで、だれも何も考えないでも可能な社会を創造しようとする。そのレールを敷かれた民主主義のもとで、死んだ思考のスターリニズムが敢行される。

 その死んだ思考のスターリニズムから脱出するべく、哲学が必要だ。

 「自由の哲学」が必要だ。

 

 

風のトポスノート 26

「罪」


(1997.11.20)

七つの大罪は、実は社会という建物、文明、そして進歩を支えていた七つの柱だったのです。われわれの習慣、われわれの法律、われわれの労働、われわれの幸福、さらにはわれわれの情緒までもが、何千年ものその巨大な堆積をこれらの柱にゆだねていた。ところが強靭そのものであった。その七つの柱が倒れてしまったので、その上にのっていたすべてが崩れ落ちた。そして今や人類は、廃虚のあいだでのたうちまわっているのです。

(W.フェルナンデス・フローレス「七つの柱」小学館/1997.2.20)

 この「七つの大罪」とは、傲慢、強欲、色欲、嫉妬、憤怒、大食、怠惰。この「七つの柱」という小説は、キリスト教でいう七つの大罪を人間からすべて取り去ったらどうなるかという物語であり、その結果、人々は「魔王!魔王よ!罪を返してくれ、魔王!われわれに罪を!」と叫ぶまでにいたる。

 仏教でも、このキリスト教にあたる罪を煩悩として、それを滅するべく修行する必要があるということが説かれるが、この小説は、「じゃあ、その罪(煩悩)がなければ、人間は幸福であるのか、悟ることができるのか」というふうにアンチテーゼを提示しているのだといえる。

 もちろん、仏教でも、ただただ煩悩を罪悪視して、それをなくせばいいとなどといううすっぺらな説き方をしているものばかりではないのだが、どうしても宗教色が強まってくると、禁欲そのものが修行の根幹にあるようなところがでてくるようだ。もっとも、その逆にセックス教のようなものもでてきたりするから、宗教は極端から極端に走りがちだということができる。

 早い話、重要なのは、欲そのものを滅するのではなく、それを変容させていくことなのだけれど、極端に走ると、欲そのものが悪になり、またひらきなおってそれを無際限に肯定したりすることもありがちだ。欲そのものを滅するというのは、ガソリンなしで車を走らせるようなものだし欲を無限肯定すれば、ブレーキとハンドルなしで、車を走らせるようなもので、どちらもばかばかしいかぎりなのだけど、そのばかばかしさこそが、妙に尊敬を受けたりもする。

 それと同じテーマは、我をなくす、自我を滅するということでもよく見られる。重要なのは、自我をきちんと矯めて、理想のかたち、器をつくることなのだけど、最初から、自我を罪悪視ししてそれをなくすことを賛美したり、ひらきなおって我・我・我・我・我・・・ということもよく見られる。

 もちろん、その両者の「中」を行くことはとてもむずかしいことなのだけど、そういう道以外の道は道であるとはいえないのではないかと思う。ぼくの前に道はない、ぼくの後ろに道はできる。そう思いながら、歩むしかないのではないかと思う。ときには、道を踏み外し(作り損ね)ながらも・・・。

 

 

風のトポスノート 27

「「個」の可能性」


( 1997.12.15)

 

 「個」について語ることは途方もなく困難なことである。それは、「個」について語れば語るほど、「個」を超えていくことにもなるという矛盾をそのうちに併せ持った概念だからである。

 「私」と「あなた」は別の人間で、ともに別個という意味で「個」であるともいえる。しかし、「私」がどこまでも「私」であり、「あなた」がどこまでも「あなた」であるならば、なんと悲しいことだろう。

 その悲しさを超えようとして、「血縁」や「地縁」がそのつながりを持たせようともするし、「神との契約」というかたちで、信仰者間のつながりをもたせようともする。

 前者も後者も、悪くすると、その「血縁」、「地縁」、「神との契約」ゆえにそうでない者との間の間隙を埋めようもなく引き離してしまうことにもなる。つまり、排他による、「自分たちだけ」という悲しさの克服である。

 しかし、なぜ人は、「私」は「私」であり、「あなた」が「あなた」であることに耐えられないのだろうか。マザーテレサは、誰一人顧みることもなく死んでゆく人に「あなたは必要とされているのだ」と、その人を絶望から救ったという。なぜ人は、必要とされたいと切に思うのだろう。おそらく、「私」は「あなた」をこそ必要としているからだ。

 「私」は「あなた」によって必要とされることで、そのことだけで生きていけるからだ。だからこそ、人はまたかぎりなく残酷にもなれる。その逆説によって、人は生きている。そこに「愛」をもってイエスが登場する。

 さて、日本では、「世間」が人と人の間に存在する。「私」も「あなた」も「世間」から出てきたといえるのだから、ともに「世間」を自らの出自としてそれをいわば「神」とする考え方だ。「世間様に申し訳ない」という発想はそこからでてくる。そうして、その「世間様」に反することは許されないことになる。その「世間」を「自然」と置き換えても大きくは事情は変わらない。その発想はある意味で共同体を安定させるのに有効だともいえる。そこでは、だれも自分で考えるということが必要とされない。そこではすべて「空気」によって決定されることになる。その「空気」はとても楽なのだともいえるが、ときにその「空気」は「神」の裁きのような重さをも持つものとなる。

 その「世間」は「間」にある。「人間」も人の「間」にあるように。その「間」を西洋的な思想では、やっと「我と汝」というようなかたちで、発見したともいえるが、日本的な「人間」「世間」を発見したのではない。

 そこに「キリスト」という存在がある。それは、全く人でありまったく神である存在であり、そのことによって、そのことを通した展開によって「個」が誕生した。それはそもそも矛盾だった。

 しかしその矛盾そのものが、ダイナミズムを生んだ。弁証法というのがあるが、ある意味では、全き人と全き神ととの弁証法によって生まれたのがキリストであるともいえる。

 なぜキリスト教が「個」を生んだのかについて見てみよう。

 三位一体論をふまえて、キリスト教理論の頂点を形づくったキリスト論は、キリスト教思想の「普遍に対する対決」の主張の最終的表現であり、この思想のもつ緊張と逆説と、それを貫く確固とした宗教的・人間的主張とが集成されたものである。したがってそこでは、矛盾しあう多方面な志向と、多様な現実解釈を、ヒュポスタシス=ペルソナという概念によって一つにまとめあげる、困難な仕事が要求されていた。

 キリスト論は古代に現われた種々な存在論を、ほとんど不可能な仕方で一つに結び合わせる。それは、キリストという存在が、もともと不可能な存在だったからである。全く人・全く神。つまり人としては私と種的に同一なもの。しかし個なる私にとっては他者。神としては私と絶対に異であり他であるもの。しかも創造者として種的にも個としても、私の存在の根源であり、私を包み、あらしめているもの。私にとって絶対に他であり私と非連続であり、しかも私とある意味で絶対に同一なもの。物質的・人間的存在であり非物質的・非人間的な神存在。−−それはこの世界と絶対者が一つに結合する場所であり、絶対者が自らを世界のために失うところであり、逆に世界が自らを失って絶対者に参与するところでもある。しかもまた、両者が自己を失わずに差異と区別を保ち続ける場とも考えなければならない。

( 坂口ふみ「<個>の誕生/キリスト教教理をつくった人々」

岩波書店/P278))

 

 ヒュポスタシス=ペルソナという概念が、多くのものを含み、豊かであると共に単純に割り切れない概念であることは、すでに第二章でも述べた。ヒュポスタシスつまり「沈殿」のラテン語訳としてペルソナつまり「仮面」が可能であったのは、この二つのまったく関係なさそうな概念に、共通項があったからである。

 なぜ沈殿イコール仮面なのか?それはさきに述べたように、「沈殿」は流動する存在の流れのうちのいっときの留まりであり、仮面は舞台と劇のうちの一役割であり、共に交流の一結節点として存在を持つものであり、しかも共に、この時代には「個存在」の意味を持つ語であったからだということはすでに述べたとおりである。これは静と動を併せ、個存在と交流を併せる、矛盾と多様とをうちに含む概念であった。さらにその「静」と「動」「交流」「個」はヒュポスタシスでは存在的・宇宙的なもの、ペルソナでは社会的・人間的なものであった。(同上/P280)

 しかし、いぜれにもせよ、かぎりなく多様な形に発展・変形しうる、特異な存在としてこの原初存在を取り出したのが、両レオンチウスを集成者とする、初期ビザンツの教義形成の努力であったことは明らかであろう。そこで達成されたヒュポスタシス=ペルソナの、つまり個的な純粋存在性の、普遍的本性からの切り離しこそが、ヨーロッパ思想の自由な動きを可能にし、これらさまざまな思想的ヴァリエーションをもたらしたのである。「限定するもの」「形を与えるもの」から切り離されたこの原理は、いわば思考の自由の化身であり源であった。さらに、この強い力を秘めた概念を古代の思想・ 文化に対抗して取り出さざるをえない状況に思想家たちを駆り立てた原動力が、イエスの、あらゆる既存のものをのりこえて、裸の個人としての愛を説いたことばであったこともまた、明らかであろう。(同上/P282-283)

 ヨーロッパでは、そのヒュポスタシス=ペルソナという概念が、一方では普遍的なるものへ、また一方では個なるものへと展開した。それは矛盾であるが、矛盾であるがゆえに弁証法的に展開を見せたといえる。

 キリスト教は、個人の救いということを重視したと同時に、哲学や科学のような普遍へのアプローチを執拗にしたわけだが、それは矛盾しているのだけれど、その矛盾そのものが、西欧の歴史そのものとなってあらわれているのだといえる。

 内なるキリストということを言ったのはパウロである。

 内なるキリストというのは、「個」である人の内にある全く人でありまったく神である存在のことだともいえる。そこにもまったくの矛盾がある。

 その矛盾を統合する可能性を見出さなければならない。

 さて、「私」は「私」であり、「あなた」は「あなた」である。と同時に、「私」は「あなた」を必要としている。「私」は「あなた」に必要とされることを欲している。そこに「愛」という可能性の種が植えられる。愛されたいなら、愛することだ、という。いや、愛されなくても愛しなさい、という。

 人は、だれかに無条件に愛されたいのだと思う。しかし、問題は、愛されたい愛されたいという人ばかりがふえることだ。愛することをしらずに、愛されたいと渇望する人たちの群。イエス・キリストは「愛しなさい」と言った。その革命的な言葉はどうだろう。それだけで世界を変革できる言葉だ。

 興味深いことに、キリスト教によって「個」が誕生したというのだが、その根本には「愛しなさい」という種が植えられていたのだ。「私」は「私」であり、「あなた」は「あなた」である。そして、「私」は「あなた」を愛しなさい、というのである。それは、普遍的なるものへの道でもある。

 そこに、個と普遍との間の矛盾を解く鍵がある。最初から「世間」や「自然」に抱かれているのではなく、矛盾が植えられることで生まれる可能性がある。

 

 

風のトポスノート 28

「他者」


(1997.12.21)

今では当たり前に聞こえる「他者とは何か」「人は他者をどのように認識するのか」といったことを問う「哲学病」(大森荘蔵)は実はそれほど古いものではない。この問いは「私とは何か」が問題となって初めて出てくるいわば二次的な問いだからである。原理的にはむろんデカルトのコギトやライプニッツのモナド、さらにはカントの超越論的主観性ともともに問われえたのだが、デカルトもカントもついに「他者とは何か」と問うことはなかった。

(小林敏明「西田幾多郎・他性の文体」太田出版/P171)

 「わたし」は「あなた」ではない。だから、「あなた」のことはほんとうにはわからない。

 しかし、はたして「わたし」のことがほんとうにわかっているのだろうか。「あなた」という「他者」のことが問題になるのは、「わたし」が問題されることによって必然的にでてくる問題だといえる。

 「わたし」とはいったい誰なのだろうか。ふつう、自分のことは自分がいちばんよくわかっているというが、逆に、自分のことは自分がいちばんわかってないということもいえる。

 そのように、「わたし」が問題にされることで、「わたし」がわからないことから、「あなた」のわからなさが問題になるのである。

絶対に他なるものとは考えることのできないものである、而もそれが私をして私たらしめるものであるという所に、真の死即生の意味があるのである。

ここで言われる「死」はノエマ的接近を放棄することである。だからそこではもはや「考えることができない」。考えて捕らえたものは「他」ではあっても「絶対の他」ではない。それは自らを殺すことによってのみ掴まえられる。そしてそうすることによって逆に私自身も生きるというのである。このディスクルスは単純な自己犠牲の論理に曲解される危うさの上に成立しているが、西田の本意ではあくまで他者を対象化して自分の支配下に置くことなく、他者を他者としてそのまま認めよと言っているのである。私と汝は何よりもまず個と個の関 係として互いに非連続でなければならない。生命には「子は親から生まれないという意味がなければならぬ」とか「私と汝とは絶対の否定によって媒介せられてある」などといった表現も同じことを言おうとしている。つまりこのあたりでは西田は一見禅的に見える表現を使いながらも徹底的に近代的人格観に立とうとしていると言ってよい。

自己が自己の中に絶対の他を認めることによって無媒介的に他に移り行くと考える代わりに、かかる過程は絶対の他の中に私を見、他が他自身を限定することが私が私自身を限定することであると考えることができる。私が内的に他に移り行くということは逆に他が内的に私に入ってくるという意味をもっていなければならない。

(同上/P187-188)

 変な言い方になるけれど、とりあえず、今、この「わたし」は「わたし」であるとしよう。しかし、昨日の「わたし」は、果たして「わたし」であるといえようか。それはすでに「他者」であるとはいえないだろうか。

 「わたし」は過去も現在も未来も「わたし」だというのはいったいどういう根拠からいえるのだろうか。それは「現在」の「わたし」の意識のなかで、「過去」のわたしも「未来」のわたしも、同じ「わたし」であるとしているがゆえに、「わたし」を他者化しないだけの話ではないか。

 ちなみに、時間は、過去−現在−未来と「流れる」と通常言われるが、果たして時間は流れるのだろうか、ということにもそれは関わってくる。実際、過去というのは、過去の現在であり、未来は未来の現在だといえる。

 また、いわゆる「ぼけ」の問題でいうと、「わたし」はすでに「わたし」という一貫した主体が希薄になってしまうことも多い。そこでは、いわば通常の時間性が失われかけているのだ。

 とりあえず、そうした問題は別としても、「あなた」という「他者」をどうすれば理解できるのだろうか。「わたし」は「あなた」の意識作用そのものになることはできない。理解できるとしても、「あなた」の意識作用の生み出した内容が表現されたものを「わたし」の意識作用でとらえることだけなのだ。

 そうした絶対的な「他者性」の前では、いったいなにができるというのだろうか。

 ともあれ、まずはその「他者性」を認めることからはじめなければならない。つまり、「あなたのことはわかっている」というような「他者」の自分勝手な取りこみとしての思いこみだけは避けよう。そこからはじめなければならない。そのことによってこそ、「他者」に近づく道が開かれるといえる。

 ここで少しアプローチの角度を変えてみよう。

 シャーマンということについてなのだけれど、それはいわば自分のなかに「他者」を取り込む方法論だともいえる。そのために、シャーマンは、みずからを滅する。いわゆる巫女というのも、同じである。エドガー・ケイシーのリーディングだとかいうのも、自分の意識を消したところで行なわれたものである。

 しかし、そういう方法論はここでは問題にならない。というよりも、問題にしてはならない。そうではなくて、まったく新しい意味で、「他者」に近づく道を探らなければならないのだと思う。

 そこで、西田幾多郎は「愛」を持ち出す。

真の愛というのは何等かの為の人を愛するのではなく、人の為に人を愛すると云うことでなければならぬ。如何に貴き目的であっても、その為に人を愛すると考えるならば、それは真の愛ではない。真の愛とは絶対の他に於いて私を見るということでなければならぬ。そこには私が私自身に死することによって汝に於いて生きるという意味がなければならぬ。

西田がこの他愛のモデルとしているのは理想化されたキリスト教の「アガペ」であり「隣人愛」である。しかしそのモデルも含めてこうした愛の当為は西田が考えるほど容易にその「昇華」形態を得ることはできない。この他者の絶対承認のディスクルスはつねに自己放棄ないし「捨身」のディスクルスと隣り合わせになっているからである。ここではあのヘーゲルが見た相互承認を巡っての闘争のリアリティが苦もなく一跨ぎにされ、ノエシスとノエマの弁証法の裏に隠れている「背信と忠誠の弁証法」(ハインリッヒ)がネグレクトされる。だからこのディスクルスは「死」とはあくまで対象化の放棄であると言いながら現実にはいつもその規定を踏み出して私そのものの放棄を要求してしまうことがありうるのだ。西田の「リベラリズム」はこの点において決定的に盲目である。西田はエロスとアガペを容易に分離してしまうが、フロイト的に言えばアガペは破壊攻撃欲動としてのタナトスと一体となったエロスをベースにしているのである。だからこの基盤を忘れたアガペは現実の闘争を前にすると何の抗する術をも知らなくなるのである。(同上/P197-198)

 ここに書かれた問題は非常に切実なテーマだと思う。日本人は、「人のために」「家族のために」・・・と容易に、自我を滅してしまう。これは「個」である前に、自分を「類」化して、そこに自分を投げ入れることに酔ってしまうからである。宗教団体やそれに類するものにおける現象も同じである。

 しかし、真に「他者」に近づくためには、「愛」へと向かうためには、まず「自分」がしっかりとなければならない。「自分」がないままに「他者」に近づき「愛」へと向かうことに酔うことは実の所、排他であり、愛の反対のものなのだから。宗教が容易に排他となるのも、そのためである。

 やはり、ここでもシュタイナーの「自由の哲学」に盛り込まれた問題性をきちんととらえることが重要になってくるのではないだろうか。

 

 

風のトポスノート 29

「やさしさ」


(1998.1.9)

 

やさしさが大変貌をとげたのは、一九七〇年前後のことだとぼくは考えています。学園闘争の閉塞状況のもとで、当時の若者たちは、自分も他人もともに弱い傷ついた者である、と認識しました。その時「互いの傷を舐めあうようなやさしさ」が求められ始めたのです。(略)

傷つくのを恐れること。それはモノやカラダにとどまらずココロにも及びました。「傷ついた!」「傷つく!」という言葉に、わざわざ「心が」とつけるまでもないほどに、人々はココロが傷つくことに敏感になっていったのです。こういう風潮の中で、やさしさもさらに変化してゆきます。それは、治療としての「やさしさ」から予防としてのTやさしさUへという変化でした。お互いのココロの傷を舐めあう「やさしさ」よりも、お互いに傷つけないTやさしさUの方が、滑らかな人間関係を維持するのにはよい。そういうことになったのです(略)

以前は、人の心の痛みがわが事のように思えることは、「良い」ことでした。お互いの気持ちがひとつとなり、一体感が得られたのです。(略)

しかし、時代は変わりました。TやさしいU人ほど、人の悲しみや悔しさに動揺してしまう。そんなふうに認識されるようになりました。Tやさしい人Uは、感受性の鋭い人です。弱い、と言ってもよいかもしれません。他人の痛みが容易に伝染してしまうのです。(略)

人づき合いの技能としてのTやさしさUは、人が(自分も相手も)皆、傷つきやすい、ということを前提にしています。不用意に「親切そーなこと」をして相手を傷つけるのは、TやさしさUにもとります。お互いに相手を傷つけないように「気づかい」をすること。それがTやさしい人UどうしのTやさしい関係Uなのです。

(大平健「やさしさの精神病理」岩波新書409/1995.9.20/P165-178)

 「やさしさ」というのは、やさしい(わかりやすい)ようでいて、その実、かぎりなくつかみがたい言葉ですし、なにかにつけ「やさしさ」を前提にして生きている人は、おなじくかぎりなくつかみがたい人だともいえます。

 傷つくのが恐い!とかいえば、昔の歌謡曲の陳腐な歌詞のような感じになりますが、互いに踏み込まない「やさしさ」で生きている人は、自分も傷つきたくないし、人も傷つけたくないというのが本音のようです。それだけ自分という存在のあやうさにおびえながら生きているともいえるのかもしれません。

 互いの傷をなめあうようなやさしさからさらに進んで、傷を見せ合うことさえしないことでかろうじて人間関係を保っているという感じでしょうか。

 そのなかで、この本の著者のような精神科医という職業が成立しています。ですから、ほとんどのばあい本来必要のないはずの役割が、精神科医によって担われている実際に眼を向けてみる必要がありそうです。

 しかし、人はどうしてそうまでやたすく傷つくようになってしまったのでしょうか。

 それはおそらくかつては大前提としてあった共同体幻想の終焉へ向かっいながらも、それに代わるだけのものを自らがつくりだしえていないということなのかもしれません。じぶんの内を見てみたら、自分という仮面のなかにある顔を見てみたら、そこには暗い穴があいていた・・・・という以前に、それを見るのがあまりにも恐いので、見ないようにして、「やさしさ」というぬるま湯的な夢をいつまでも見たいと願っているということ。しかしその願いは、ある意味ではあまりの傷つきやすさの前でかよわくふるえているだけのようなあり方が前提になっています。

 それを堕落と見る見方もあります。たしかに、人間関係のくずれやすさ、その苦しさ、こわさ・・・といったものに耐えられないような魂の傾向性を多くの方が共有しはじめているのだともいえます。しかし、それは逆に、それまであまりに無自覚に家族や血縁や地縁や共同体の幻想に浸っていたような世界にはもはや住んではいないという意味をも持っています。つまり、集合魂的な自我のあり方から一歩前に進んでいるということでもあるわけです。

 集合魂的な自我は、蟻塚のようなあり方ですから、自分が確かなものに帰属しているという安心感があるのですが、そこから出るということは、そういう安心感を捨てるということでもあります。

 ですから、その安心感に代わるものとして、とりあえず、互いに傷つけ合わないように気づかう「やさしさ」を互いにもとうとしている側面も見ていかなければならないでしょう。

 堕落しなければ開かれない可能性というのもあります。悪を自分のなかに見るまではいかないとしても、その萌芽の萌芽くらいの意味を見ていくこともまた必要なのではないかと思うのです。

 本書には、<きずな>と<ほだし>という興味深い話もあります。

絆とは本来、犬や馬を繋ぐ鎖や紐のことです。転じて、人と人の強い結びつきを意味するようになりました。<きずな>と読んで、普通は情愛のこもった関係を示しますが、<ほだし>と読むと、互いの自由を束縛する関係という意味になります。「情にほだされる」という具合に使われる<ほだし>です。このように、 絆には相反する二つの面がありますが、これこそが葛藤の本質なのです。(略)<絆なしのほだしはありえない>、これが葛藤の本質だといってもよいでしょう。

ただ<ほだし>という言葉はあまり耳になじんだものではないので、<束縛なしの絆はありえない>と言いかえておいた方がよいかもしれません。(P84-85)

 このことを考えていくと、「やさしさ」という言葉のかかえている問題はひじょうに深く難しいものだということがわかりますし、「自由の哲学」のテーマに深く関わってくるものだといえます。いかなる外的な基準にもとらわれないということは、「絆」をも無条件には受け入れないという意志でもあります。

 その意志をもつためには、かぎりない勇気が必要です。しかし、その勇気をもつことができるまでに至らないとすればどうでしょうか。「やさしさ」という武器でむなしい闘いを繰り返しながら傷つくことを恐れることで、深いところで絶望する状況をつくりだしていきます。

 これほど苦しい、苦しさを避けようとしながらも、これほど苦しいことがあるでしょうか。彼らは、ある意味で「他者」ということを意識しすぎるがゆえに、それを避けようとするわけです。

 一見強い人、誰にでも何でも確信を持って言い切れるような人は、そこまでに至るだけの意識を持ち得ていない人か、かぎりない偏見に満たされているか、それともシュタイナーのような深い認識に裏打ちされているかのどれかです。

 さて、わたしたちはいったいどうすればいいのでしょうか。その答えへの道をぼくもこの場所で探しているのだといえます。

 

 

風のトポスノート 30

「科学者・医者の悪趣味」


(1998.1.11)

 

 1998年1月11日朝日新聞の日曜版に「100人の20世紀」という特集のシリーズで、今回は「アインシュタイン」がとりあげられていた。

 とりあげられていたのはいいのだけれど、その仕方がきわめて現代ならではの問題性を如実にあらわしているといえる。

 アインシュタインはナチス政権にドイツを追われ、一九三三年、米国に渡り、晩年をプリンストンで過ごした。死んだのもプリンストン病院。ハーベイ医師は、当時その病院の病理担当で、アインシュタインの遺体を解剖した。そのとき、遺族に無断で脳を取り出していたのだ。

 アインシュタインの脳は今も保管されている。

 アインシュタインは、死に際して次のような態度をもったにもかかわらず。

 五五年四月十三日、ずっと前から分かっていた腹部動脈瘤が破裂し、出血が始まった。アインシュタインは手術を拒んだ。「手術だなんて、そんな、趣味の悪い。私は自分が望んだときに死にたい。優雅にね。」

痛み止めの注射さえ、しばしば断った。人間の力ではどうしようもないと思われることは、そのまま受け入れる−−それが彼の性格だった。

五五年四月十八日、プリンストン病院で死んだ。七十六歳。遺書の中に、こうあった。

「私の家を博物館にしないこと。墓もつくらないで。火葬にし、遺灰は人に知られぬ所にまくこと」

 ハーベイ医師のこの態度を、科学者として責められない。

 そういう考えがあるとしよう

 しかし、それははたして「科学者」の名に値するのだろうかと思う。それ以前に、彼は犯罪者なのだ。

 この記事では、そういう視点などは示唆されず、ただ、こういうことがアインシュタインの脳をめぐってあった。そういうことだけが紹介されている。

 しかも紙面には、アルコール処理がほどこされ断片化されたその脳のピースをプレートに載せて見せている博士の写真が掲載されてもいる。

 それが客観的な紹介の仕方であるとでもいいたいのかもしれないし、こういうあり方が紹介されることで、読者が喜びさえすればそれでいい。そういう考えなのかもしれない。

 アインシュタインはこれを見て何というだろうか。

 ひとこと「悪趣味だね」と舌をべろんと出して、そんなことに関わる時間は私にはないのだよ、とでもいいながら、統一場理論の夢を追い求めているのかもしれない。

 統一場理論と言えば、最近また「超弦理論」が浮上しているらしい。ぼくは、この「超弦理論」がとても気に入っている。(理解しているとはとうていいえないけれど、なんだかとってもイケルのだ)

 それはともかく、こうした類の自称科学者・医者の悪趣味はどうにかならないものだろうかと思う。そして、「写真報道は事実を伝える」という錯誤と同じように、それを面白くさも客観的に紹介しているかのような記者にしても、その「悪趣味」はどうにかならないものかと思う。

 


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