風のトポスノート437 

 

無所属の時間


2002.11.16

 

山本七平に『無所属の時間』(旺史社/1981.2.20発行)という、
西日本新聞の『随想』欄に連載されたものを集めた著書がある。
山本七平は司馬遼太郎ほど注目されていないようだけれど、
戦後の思想家としては筆頭に挙げられる人ではないかと思っていて、
ときおりその言葉にふれたくなるときがある。
この著書は、先日偶然古書店で、
『現人神の創作者たち』(文藝春秋)といっしょに見つけたもの。
 
        おそらく明治以降の大きな特色の一つは『時への所属意識』である。組織
        とか団体への所属は、それから離れたときに、それへの所属の時から解放
        されるが、『時への所属意識』は、人が、自らの意志で自らを解放しない
        限り、解放されない。そしてこの『時への所属意識』は、時代の流れ、御
        時勢、歴史の流れ、といった表現に如実に現われ、多くの人は、それに所
        属することは一つの宿命であり、従って前述の『個』の面が出た場合も時
        への所属からは解放されず、その意味では、人に『無所属の時間』は存在
        しないと信じられているのである。そしてその『時間』は進歩と呼ばれ、
        人はその時間に所属していれば、この時間は『流れ』のように流れて、人
        を必然的に進歩さす。従ってそれへの所属は善であり、それへ所属しない
        ものは悪である、と信じ切ってきたーーどこにも、そのような保障はない
        のに。(P3)
 
        他人の思想や行き方への、口まねやサルまねならともかく、人間の新しい
        発想とは、実は、無所属の時間にしか生まれないものなのである。(P4)
 
現在においても、多く人は『時への所属意識』どころか、
「組織とか団体への所属」への指向を多分にもっているように見える。
 
つまり、自分でなにかを考えてみよう、行動してみようとする前に、
「場」に所属しようとし、そうしなければなにも始まらないという感覚。
 
「場」には中心があってその中心があることで自らの位置確認ができる。
自分で自分の位置を決める作業というのがそこでは希薄になる。
実際、人は「無所属」でいることに耐えられないのだろう。
 
社会はなんらかの組織的なシステムを必要とするし、
何にも属さないで生きるということは事実上不可能なのだが、
「無所属の時間にしか生まれないもの」があることは確かで、
それがない場合、つきつめていくとすれば、昨今よく声高に語られるように、
伝統を見直せ、とか、日本人としての自覚を持て、とかいうことになってしまう。
それは虐げられてきた民族だとか文化だとかも同様のことである。
 
もちろん、過去にも現在にもそれなりの場において
継承されてきた文化伝統や消えかけている文化伝統などは確かにあるが、
それにしても、かつてのような部族的な継承とは意味を異にしているはずではないだろうか。
そうしたことに関するすり替えが行なわれがちであることには
くれぐれも注意してみる必要があるように思える。
 
人は何かに属しているという感覚を持ちたいがゆえに、
たとえば流行にも遅れないようにとし、
また自分の位置確認を所有物でかりそめに埋めようとして、
ブランド品や高級車などにすりよっていく。
これは少し考えればあまりにも悲しい傾向ではあるのだけれど、
そうでもしないことには、自分がどこにいるのかわからないし、
そのなかで自分の少しばかりの優越意識を確保しようともするのである。
少なくとも、劣ってはいない、遅れてはいないという意識。
 
ところで、「所属」のための場所はネットにおいてもあまりにあふれているようだが、
このトポスというまさに場所は、
ここを開いているぼくとしては、「遊戯-団」とはしているものの、
ここに参加していることを「所属」だというふうにはとらえていない。
できれば積極的な意味でここでの時間が、「無所属の時間」であればいいと願っている。
そこからしか生まれないものは確かにあるのだから。
 


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