風のトポスノート441 

 

ディズニーの呪文


2002.12.5

 

         著者は古典的なおとぎ話の多くが“アメリカ化”したことを分析し、
        どうもその責任を感じているようなふしがある。結構なことである。
        遅すぎるほどだ。
        (…)
         たとえば『長靴をはいた猫』である。
         1697年に書かれたペローの童話では、抜け目のない猫が命をおびや
        かされ、生き延びるために知恵をしぼって王様と鬼をだますという筋書
        になっているのだが、ディズニーの初期アニメ映画では、主人公は王の
        娘に恋する若者であって、それと平行してメスの黒猫が王様のお抱え運
        転手の白猫に恋をするというふうになっている。
         猫が長靴を入手するところはそのままなのだが、ディズニーの情熱的
        主題はどんな犠牲を払っても成功しようとしている若者に注がれた。
         ディズニーの改変が「ゆゆしいもの」に向かっているなら、事態はそ
        れほど問題ではない。そうではなくて、ディズニー童話のほうが明確な
        目的をもち、大きな勇気を払い、決定的な成就に至るというふうになっ
        ているから問題なのである。つまり「ディズニーの呪文」とは、苦難を
        乗り越えて成功するというアメリカのための神話に結びつきすぎている
        ところにあるわけなのだ。
         もともとおとぎ話というものは、見捨てられた者がふと抱いた想像力
        を、別の者が搾取したり捏造しようとする苛酷に対して、想像力がこれ
        を越えてしまうというところに本来の作用があった。
         中世、魔術や魔法や錬金術は“常識”だった。それが近代になって科
        学や合理や平等の理念が登場すると、こうした魔法的な作用は放置され
        ていくことになる。ペローやグリムが試みたことは、この中世的な魔法
        を近代化された社会のなかでいかに辻褄をあわせて復活させるかという
        ことだったのである。
         ディズニー・アニメがこうしたことをまったく試みていないわけでは
        ない。しかし、筋書の多くがアメリカン・ドリームとあまりにも合致し
        すぎているため、そこからペローやグリムの狙いを読み取ることはほと
        んど不可能になっている。
         これが「ディズニーの呪文」というものなのである。
        (松岡正剛の千夜千冊「ISIS立紙篇」
        第六百七十二夜【0673】2002年12月04日
        『おとぎ話が神話になるとき』ジャック・ザイプス)
        http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya.html
 
2002年2月23日の第一夜の中谷宇吉郎『雪』(1940 岩波文庫)から、
「千夜千冊」は毎日書き続けられている。
ずっと読んでいるわけではないし、いつもなるほどと思うわけでもないのだが、
ときおり重要な切り口について示唆されることがある。
12月4日は、「ディズニーの呪文」について。
 
「アメリカ化」というのはかなり強力な呪術であって、
それは「明確な目的をもち、大きな勇気を払い、決定的な成就に至る」という
「ディズニーの情熱的主題」によく表われている、のは、しかりである。
 
「明確な目的をもち、大きな勇気を払い、決定的な成就に至る」というのは
大変に結構なことではないか、きわめてプラス発想で教育的効果がある、
というふうに思われる向きもあるのだろうが、
そういう思いこみこそが呪文にかかっている状態に他ならないのだということに
気づいておいたほうがいいのかもしれない。
グローバリズムとかいうものも、アメリカがグローバルなんだ、それが正義なんだという
「明確な目的をもち、大きな勇気を払い、決定的な成就に至」ろうとする方向性だったりする。
 
世に流布している自己実現魔術の基本はプラス発想で、
それにとらわれてしまうとそうでないものが、
きわめて情けないものにされてしまうことに気づいたほうがいい。
そこに働く「想像力」というのは思いのほか貧しい。
世の中は、マイナス発想とプラス発想という対極に二元化され、
プラス発想でなければ自己実現はできない、
つまり明るくなければダメだ、結果を出す信念をださなきゃだめだ、ということになる。
そういうので生きていくような単純さというのを否定したいとは思わないし、
それが必要な場合もあったりするのだけれど、
あくまでもそれは「想像力」の一局面にすぎない。
その一局面が全面的に教育されようとするところが「呪文」なのだ。
 
こうした種類の「呪文」というのは
もちろん「アメリカ化」にかぎったことではない。
「日本化」ということもあるだろうし、
日々の「共同体」における「よい子化」といったものもそういう「呪文」だといえる。
そういう「呪文」というのは豊かな想像力を貧しくするのに力を発揮する。
つまり、世には、「想像力」の可能性・多様性を鬱陶しく思い、
それを貧しいまでに一元化しようとする働きがさまざまな局面であって、
その貧しさこそが良いことであるかのように洗脳されていくわけである。
複雑さを厭い単純でわかりやすいものばかりを求めていく在り方もそれを加速する。
 
それはまさに「思考停止」ゆえのもので、
ある種のパターン化した思考レールしか身につけていないために、
画一化した在り方しかできなくなっているわけである。
それはテレビなどのメディアがかぎられた時間とスペースのなかで
すぐに短絡的な結論を導きだしたがるのをコピーして生きているようなもの。
 
それはともかくとしても、
「明確な目的をもち、大きな勇気を払い、決定的な成就に至る」とかいうの、
けっこうシンドイことのようで、
ぼくのような勇気の乏しいヤツだとちょっとついていけなかったりする。
とくに、そういう「成就」をめざして大きな旗が振られたりすると、
そこからできるだけ遠ざかりたい心境になったり…(^^;。
 


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