風のトポスノート458 

 

外的通過儀礼の希薄な時代


2003.2.27

 

        河合 僕の考えでは、一人の人間は自分の中に老若男女ほぼすべてを持って
        いる。可能性としても、皆持っている。けれども、その中の「あなたはこれ
        れを」「あなたはこれを」というふうにちゃんと決めてもらうと、社会の秩
        序はきれいに成立するでしょう?だから、昔はそっちのほうの観点が強かっ
        たから、だから皆箱に入れていったわけですね。だから「あなたは大人です」
        と。その大人に入れる方策がうまかったわけですよね。実際にイニシエーシ
        ョンの儀式があり、こうこうこうですと。そうすると、昔は子どもからいっ
        たん大人になると、子どもには戻れない。
        鷲田 あっ、逆に……。
        河合 もうなれない。決められているわけだから。女になった人は男にはな
        れない。しかも、その時に「男らしいとは何か。女らしいとは何か」という
        のは全部規定されているわけです。だから、一人ひとりの人間をちゃんちゃ
        んと形をつけて、それを組み合わせて社会の秩序というのを構成していたん
        ですね。それが昔の方法でした。今はそれをやめよう、と。個人というのは、
        すごい可能性を持っているから、できる限り生かそうではないか……高校生
        でも年老いたやつがおるし、七〇歳でも若々しいやつもおるし……。そうい
        う意味では、僕はものすごく面白くなったと思っています。ものすごく面白
        くなったということは、それによる大混乱が生じるということを知っていな
        いとね。
        鷲田 そうなんです。その面白さがわかる手前はかなり悲惨なことというか、
        苦しいですよね。
        (河合隼雄・鷲田清一『臨床とことば』
         TBSブリタニカ 2003.2.17発行 P109-110)
 
かつては社会のなかに通過儀礼があって、
それによって、外からその人を
その社会にとっての何者かにしていたのが、
次第に崩れていこうとしているのが現代であるということもできる。
 
今でも、いわゆる世の中の決まりごとのようなものに従って、
自分を何者かであるという「箱」、
たとえば何の疑いもなく、自分を「男」「女」「子供」「大人」
「母」「父」「社会人」「教師」云々のようなものに押し込めて、
その「箱」のなかで安心して生きようとする人がいないではないが、
そういう「箱」がなかなか成立しがたくなっているように見える。
 
それを否定的に見て、
社会の秩序が乱れている、
父性の復権を、母性の復権を、
男は男らしく、女は女らしく、などなど、
そういうふうに考えたがる人も多いのだけれど、
おそらくそういう外から決められた「箱」は
事実上機能しがたくなってきているようだし、
じっさいそういう混乱を通じてしか、
自分で自分に新たな形での通過儀礼を行なう、
つまり言葉をかえていえば「自由」へ向かう衝動を通じて
みずからをポイエーシスしていく方向には向かいにくいのだと思う。
 
ウーマンリブだとかいうのも、
結局のところ、古い社会秩序に対するアンチを唱え、
新たな性別の絶対化のようなことを行なっているだけで、
そういう自由への衝動ではなく逆の方向に行っているように見えてしまう。
 
面白いのだけれど、
たとえばぼくが自分をあまり男だとは思っていない、
というようなことをいったりすると、
ある人は、ぼくをホモセクシュアルだと勘違いしたりすることもあるらしい。
まあ、どうでもいいことだけれど(^^;)、
社会的に「男らしい」といわれていることを信じ込んでいないだけのことなのに、
そういう人は、「一人の人間は自分の中に老若男女ほぼすべてを持っている」
ということを理解することがどうもむずかしいようなのだ。
おそらくそういう人の多くは、
世の中がつけているさまざまなレッテルの役割にとらわれて
がんじがらめになっているのだろうと思う。
 
ぼくはぼくであって、
男でも女でも子供でも大人でもなくて、
かつ男でも女でも子供でも大人でもあるわけで、
そういうのを世の中の決まりのなかで
とりあえずは仮面をつけて無難にやりすごしてはいるけれど、
実際のところ、そういう思い込みからは
少なくとも、いわば「落ちこぼれ」ている。
つまりは、そういうことで、学校やら世間的な資格やら権威やらを
ほとんど信じ込むことができないまま今に至っているということ。
 
それは、そういうことを多かれ少なかれ信じ込んでいる人に比べれば、
かなりキツイ生き方にはなってしまっているのだけれど、
一度、「箱」の外を見てしまったら、
もう「箱」に入る気にはならないのだ。
でも、「箱」の中しか人のいるところはないと思っている人にとっては
「箱」の外は、まさにとんでもない世界に見えてしまうのかもしれない。
(余談だけれど、安部公房に『箱男』という作品がありました(^^))
 
「ひきこもり」などがふえているのも、
ひきこもっているのは「箱」の中なのじゃなくて、
むしろひきこもらない人のほうが「箱」の中にいる、
ということもできるのかもしれない。
実際、人はあれこれ考えずに「そういうものだ」で動いていたほうが、
ずっと気がらくだし、自分のなかのカオスを見ないでもすむのだから。
 
しかしそのカオスのなかから
みずからの通過儀礼を創造していくことができるとしたら、
そこに新たな時代の種を見ることができるのかもしれない。
 


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