風のトポスノート480

 

座標軸とTPO


2003.5.22

 

         文学のうえでも、たとえば『万葉』の世界は人麻呂から家持までまったく
        等質の世界とされて、歌における意識の形態について、なんの展開も考えら
        れていません。しかし歴史的文化的なもので、なんの展開もないようなもの
        は存在しないのです、人麻呂時代の歌は、呪歌であった。歌として歌うこと
        によって、その歌は機能するのです。人に対して、家に対して、自然に対し
        て、地霊に対して、呪的に機能する。歌はそのようなものとしてあった。し
        かし旅人以降は違う。したがってすべてを同じ尺度で見て価値判断をするこ
        とは誤りです。
         ものを構造的、体系的なものとして見ること、歴史的に展開するものとし
        て見ること、そのうえで解釈学的に問題を考えるというのが、その頃の私の
        模索の結果です。
        (白川静『回思九十年』平凡社/P117)
 
なにかをみるときに、そのTPOを外してしまうと、
そのものが見えなくなってしまうということはよくある。
 
歴史的な事象をみるときにも
そのTPOを度外視しあるいはとらえそこなって、
今の自分の「常識」を固定したままそれを見てしまったりすると、
その歴史的事象の意味そのものをとらえそこなってしまう。
 
それはたとえばある物語を読んでいるときには
その物語世界のルールにそって理解しなければならないことと同じで、
そのとき読んでいる自分の世界をそこに持ち込んでしまうことはできない。
エンデの「果てしない物語」のように物語世界との往還が
ストーリーに盛り込まれていることはあるが
それもまた物語世界の「構造的、体系的な」ルールに他ならない。
 
悪は時期はずれの善であるというのも同じで、
戦争や平和、殺人等においても、
それらのTPOによってそれそのものが意味を変えてしまうことになる。
しかし社会的価値観、規範から判断される外的な道徳だけで
物事を判断してしまうとするならば
それもまた一面的な見方であるということができるだろう。
今はかくかくしかじかが「常識」なのだから
今現在においてはそれに合致することこそが善であるということでは必ずしもない。
 
過去のあるTOPの軸を現在から判断する困難もあれば
また現在のTPOの軸を今ここにおいて判断することもまた
かぎりなく困難なことでもある。
その意味でも、自分が今かくかくしかじかのことを判断しようとするならば、
そのときに自分が立脚している座標を明確にしておく必要があるように思う。
その座標が変わればおのずとその判断そのものが変化してくる。
 
できうれば、自分のなかでできるだけ総合的な観点から
これだけは自分の立脚点であり座標であるというところを
少しなりとも持つことができるようにしたいものである。
そういう意味で、ぼくのなかでは、
シュタイナーの精神科学的な視点がその座標軸として機能していることが多く、
それを理解することでむしろ相対的なTPOへの見方が
少しは楽になってくるところもある。
それに絶対的な意味で縛られる度合いが少なくなってくるからでもある。
 


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