折口信夫は戦後、弟子たちとのやりとりで、ドイツではナチズムの許で民俗 学が進化したことに短く触れており、「偽史」の一つとして民俗学が利用され る局面が日本にもありえたこと、少なくとも占領軍はそう見なすのではないか という危惧を抱いていたことはうかがえる。『木島日記』はオカルティズムや 偽史の政治利用に軍が奇妙な情熱を持ってしまった時代に立ち尽くす折口信夫 を狂言回しにすることで、時代の空気や偽史作家としての民俗学者の不安定な 位置といったものをエンターテイメントの形をとりつつ描いてみたかった作品 だ。 (大塚英志『木島日記』角川文庫/文庫版あとがきP331) 大塚英志は大学の時は民俗学を専攻していて、 先生は千葉徳爾という柳田国男の弟子だったということである。 その背景もあって、『北神伝綺』や『木島日記』という作品があるが、 大学でも、民俗学と植民地主義の関わりや 政治利用される危うさについて論じてもいるらしい。 それを知って、久しぶりに柳田国男と折口信夫について 以前買い込んでいた池田彌三郎・谷川健一『柳田国男と折口信夫』を読んでみたが、 上記の引用にあることに関連して考えてみる必要のある箇所があったので引いてみる。 谷川 柳田国男は「魂のゆくへ」という文章を書いていますが、柳田の場合は どちらかといえば同族の関係、いわば一族・氏神ですね。それに対して折口信 夫は古い共同体のなかで探ろうとしています。しかし、いずれにしても、二人 とも日本人の霊魂、魂というものがどこからきてどこへゆくか、という魂の去 就の問題をやられているのは共通しています。私は柳田民俗学折口民俗学の最 高の課題のひとつは、日本民族の魂の問題だと思います。民俗学は科学でなく てはいけない。そのことはたしかにその通りですが、自然科学や社会科学とは 一線を画した、霊魂をとりあつかう科学なんだと特徴づけたいんです。これは もう独特のもので、文化人類学も分析科学もできやしません。魂のような非科 学的なもの、反科学的なものを科学するといいますか、向こうに目は向けてい ても、同時に自分の目も見ているような、一見無理に見える方法論をやってゆ かねばならない科学だと考えたいんです。 池田 大賛成ですね。折口信夫は、神道論があやまった道に入りこんだのは民 俗学を採用しなかったからだと、昭和二十一年に言っています。皇国史観とか 国家神道は、国民を置き去りにしたんだと言っていることなんです。僕は逆に いま民俗学が衰退しているのは、この神の問題を見失ったからだと思います。 末端だけの学問になってしまっている。 (池田彌三郎・谷川健一『柳田国男と折口信夫』 岩波書店/同時代ライブラリー202 P211-212) これを読んで思ったのは、民俗学はやはりともすれば 「日本民族」という「大きな物語」=偽史への傾斜しかねないところがあり、 その部分に意識的でなければならないだろうということ。 そして、なぜそういう「偽史」への傾斜が起こりがちなのかというと、 その「霊魂をとりあつかう科学」であろうとすることにおける方法論が 「民俗」からとりだそうとするものであることによって 「霊魂」そのものへのアプローチが限定的なものになるからだということである。 やはり、「日本民族の魂の問題」にしても、 一族や氏神、古い共同体のなかで探ろうとしても、 どうしてもある一定の範囲を出ることは困難になる。 そこにはシュタイナーの『民族魂の使命』にある認識ような、 みずからを「故郷喪失者」に置くような在り方が必要とされるだろうし、 それ以前にやはり「霊魂」への基本的認識が求められてくるはずである。 そういう意味でも、柳田国男や折口信夫やその継承者の行なっている 民俗学的アプローチに対して、シュタイナー的なアプローチというのは、 非常に重要になってくるのではないかと思われる。 ぼく自身、いわば神道や日本文化等をはじめとする「日本的霊性」について とても興味をもっているのだけれど、その際に、 シュタイナー的な視点で照らしてみたりすることで 何かが少しずつ見えてくるようなところがある。 ところで、そういえばこれまで柳田国男や折口信夫について まとまったかたちで調べてみる機会がなかったが、 この機会に「ひとりエポック授業」ででも取り組んでみる必要がありそうである。 |
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