ひろしま美術館で開催されている「柳宗悦の民藝と巨匠たち展」をみて とりわけ木喰仏の微笑に魅入られてしまった。 柳宗悦がその木喰研究をその後の「民藝」の価値を発見するための 重要な布石となった木喰仏。 その柳宗悦の「美」についての基本的な姿勢は次のようなもの。 この考えというか「直観」が、 木喰仏を発見することを契機として飛躍的に展開していくことになる。 普通に常識がいう美しさは、美醜が二つに分かれて已後のものである。 だが二つに未だに分かれない已前の美をこそ訪ねねばならない。もっと もこの已前とは已後とかここでいうのは、時間の前後を指してのことで はない。已前とは時間のない世界、過去も未来もない世界のことを語っ ているのである。それ故不生不滅の意味である。 畢竟真に美しいもの、無上に美しいものは、美とか醜とかいう二元から 解放されたものである。それ故自由の美しさとでもいおうか。自由にな ることなくして真の美しさはない。弥陀を無礙光如来と呼ぶが、無礙た ることが如来たることである。醜さを恐れ美しさに囚えられているよう なものは、真に美しくはあり得ない。自由が欠けるからである。否、言 葉を強めていえば、自由たることのみが美しさなのである。ただこの美 しさは前にも述べた通り、自律する美しさで、反律としての美しさでは ない。美醜に分かれることは人間を不自由にする。自由とは二律からの 解放である。 (柳宗悦『美の法門』岩波文庫/P95-96) しかし、ちょうど古書店で見つけることのできた 五来重の『木喰の境涯 微笑仏』(淡交新社/昭和41年)では この柳宗悦的な「美の法門」に対する批判が展開されている。 柳宗悦の木喰観の大きな欠陥は歴史的考察がまったく欠如していたこと である。これはディレッタンティズムの主観主義によるのであって、仏 像や壺をとりあげて、ためつすがめつ「こりゃあいい!こりゃあいい!」 を連発するあの姿勢である。彼の時代の彼の階級に属する人たちは、そ の美の客観性を歴史的に追求するなどという冷酷な、こちらきわざは美 神への冒涜であり、自分たちの美的直観力への不信行為であった。 一人の芸術家や一人の宗教家も、成長発展の時間的過程を無視して、そ の芸術や宗教を理解することはできない。かれらはうまれたときから完 成された芸術家、完全無欠な聖者であったのではない。かれらの不完全 な時代からの成長の過程を、あとづけることによってこそ、その芸術と 宗教の本質が、客観的に理解される。しかし柳宗悦は木喰を偶像として、 その成長と発展をみとめない。 (P25) 梅原猛もこの木喰仏に魅入られた一人らしく 「柳氏による木喰の発見は、大正の文化史における、 すばらしい出あいであったと思う」(『羅漢』講談社現代新書)とのべながらも 「いたずらに、このすぐれた笑いの仏を礼讃することをやめよう」とも述べ、 「仏像の製作年代に関する若干の推理」を行なったりもしている。 そして木喰を「自己の仏化を演出した人間」であるとしているが、 さきの五来重氏のように、「木喰の中にあるあやしげなるものに気づいて、 彼の人格に疑いを投げ」るのではなく、 「彼をペテン師とは思わないのである。 そして彼もやはりもっとも純なる人間の一人であったと思う」と言いながら、 羅漢の一人としての木喰を描いている。 彼はやはり羅漢の一人である。その孤独において、人間の限界への挑戦 において、仏になりたいというはげしい意志において、彼は羅漢の一人 であったのではないかと思う。 羅漢の中には、大いなる笑いとともに、大いなる悲しみが秘められてい るように思われる。 (P228-229) 梅原猛特有の描き方ではあるし、そこに梅原猛の魅力もあったりするのだが、 「この本は、私の書いた多くの本の中で、もっとも奇妙な本である」 としているように、羅漢について書いているうちに 羅漢に限りなく入り込んでしまっている感がある。 それだけに木喰仏というのは、柳宗悦が魅入られたように ちょっと特別ななにかを伝えてくるものらしい。 歴史的考察でとらえるだけではわからないような何かの衝動・・・。 ところで「美」というのはいったいなんなのだろうか。 とあらためて問いを投げかけてみる。 それを黄金律云々というように分析的に扱う方向もあるだろうし 柳宗悦のように「不二」としての「美」を祈願するという方向もあるかもしれないが、 たとえば堀田善衛の『美しきもの見し人は』(新潮文庫/昭和58年)では 次のように述べてしめくくられている。 「美しきもの……」というものは、本来的にいって、またその実物に接 するとき、それは決して“美しいもの”ではない、というのが私の結語 である。「美しきもの」は、むしろ逆に、私に人間存在というものの、 無限な不気味さを、まことに、不気味なまでに告知をしてくれたもので あった。 (P339) これは、主として西洋の古典絵画をめぐってのエッセイなので、 まるで、仏教美学の本質を云う柳宗悦の「美の法門」の 逆説のようになっているのかもしれないが、 ある意味では、最初の引用をつかっていうと 自由になることなくして真の美しさはなく、 醜さを恐れ美しさに囚えられているようなものは、 真に美しくはあり得ず、 自由たることのみが美しさであって、 自由とは二律からの解放であるのだとすれば それこそが、人間存在がみずからの無限な不気味さを見出さざるえをえない ということでもあるのかもしれない。 醜さを恐れ美しさに囚えられているよう なものは、真に美しくはあり得ないのならば、 あらゆる醜さとされているものに対しても とりわけみずからの醜さのすべてをも 見出すことを恐れてはならないということになる。 「美の法門」はその最果てにあるということだろうか・・・。 |
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