風のトポスノート513

 

難しいことから先に教える


2004.06.27

 

         その後のホワイトヘッドは、たとえばアメリカの参戦に断固反対したり、
        子供の教育に大きな関心をもち、教育の基本方針を計画したりするようになる。
         この教育論がまたすばらしい。ここではその計画を伝えることを省いておく
        が、その中心に何が据えられているかというと、「本当に教育をしたいのなら、
        難しいことから先に教えるべきなのです」という卓見だった。
         その理由をホワイトヘッドは知り抜いていた。人間というものは、たいてい
        「空想化」「精緻化」「普遍化」の3段階で何かを知ろうとし、何かを学ぼう
        とするのだから、その最初の「空想化」の段階こそ最も難解でいいということ
        なのだ。すなわち、子供が一番の “prehension” (抱握)の持ち主だという
        ことなのだ。
         最後に、おまけをひとつ加えたい。
         ホワイトヘッドが渾身をこめて提起した「抱握」という方法は、いったい何
        に近いものかというと、われわれがふだんからおなじみの、あの “feeling”
         だというのだ。フィーリングとは抱握のことだったのだ。
         つねにネクサスとパッセージを走るオーガニックなフィーリングであろうと
        すること――。アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの哲学とは、このこと
        だったのである。
        ・・・
         ネクサス(nexus)というのは結合体や系列体のことをいう。ヘンリー・ミ
        ラーが英語で同名の小説を書いた。パッセージ(passage)とは推移や通過の
        ことである。ウォルター・ベンヤミンはフランス語で同名(=パッサージュ)
        の記録を書いた。・・・ホワイトヘッドの有機体哲学には、このネクサスとパ
        ッセージが交差しながら脈動している。
         ネクサスとパッセージは見えたり見えなかったりしながら多様にくみあわさ
        って、ホワイトヘッドの宇宙論と世界観の縫い目になったのだ。
 
        (松岡正剛『千夜千冊』第九百九十五夜04年6月25日
        アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド『過程と実在』より)
 
松岡正剛『千夜千冊』の995夜は、ホワイトヘッド。
ぼくは、ホワイトヘッドを理解しているとは言い難いものの、
とにもかくにもミーハーなぼくの大好きな人の一人である。
ほぼ100年近く前に生まれた人ではあるけれど、
誕生日もぼくと一日違いの2月15日である。
松岡正剛も水瓶座だが、ホワイトヘッドも水瓶座。
そこになんらかの共通する “feeling”があるのかもしれない。
それが『千夜千冊』にとりあげられ、
しかもとても面白いことがそこに書かれてあったので
とりあえずメモしておくことにする。
 
「本当に教育をしたいのなら、難しいことから先に教えるべきなのです」
というのは、ある種の人には
とんでもない暴言のようにも聞こえるのかもしれないけれど、
たしかにそうだと思う。
 
難しいことを先に教えられても
それがすぐにわかるというのではないのだけれど、
おそらくその最初の一撃が
その後のその人の想像力の大きさを決してしまうのだ。
大風呂敷ということでもあるのかもしれないが、
最初に小さな入れ物を与えられて安心させられてしまうと
そういう入れ物を自分だと思い込んでしまう。
それはある意味、取り返しが付かないことなのだ。
最初から答えが用意されていることを問題として与えられ
それに対する応答マシーンとなることを要求されるような教育は
その問いと答えのスタティックな枠組みを超えることを難しくする。
 
もちろんその最初の一撃が
ただただ自分を無力に思わせるようなものであれば
話は別のことになるのだけれど、
「難しいこと」というのは
難解だけれど答えがちゃんと用意されているような
試験勉強のための難易度の高さではない。
ほんとうに「難しいこと」というのは、
その問いの切実さでもあり、
また大いなる興味、関心を喚起させるものでもある。
 
なぜ私はここにいるのか。
なぜ宇宙があるのか。
そうした問いもきわめて難しいが、
それを真剣に問おうとするならば
人はそれを途中で放り出してしまうことはできない。
明確な答えを持つことはずっと困難であるとしても
その問い続けるプロセスそのものが
自分を宇宙において切実に存在せしめるからだ。
 
そういう意味でも、シュタイナーの神秘学が「難しい」のは
きわめてあたりまえのことなのだ。
だから、わかりやすいシュタイナーということから
ごまかしながら入ってしまうと、
最初にシュタイナーにおいて理解するその入れ物を
限定してしまうことにもなりかねない。
自分がわかると思い込んでいる範囲のシュタイナー(という思い込み)を
ずっと抱え込んでしまうことになる。
つまり、問いの大きさを最初からスポイルしてしまい、
ともすれば単なるハウツーに近いものに堕してしまうことになる。
最初にわかった気にさせてしまうような類の
「易しいことから」出発するハウツー的なものが危険なのは
そこで自分の問いが生きて成長するプロセスを奪ってしまいかねない。
 
ぼくもそういう意味でいえば、
かぎりなく難しい「一撃」をいつも待っている。
そうすることで、ぼくは問いを持つことができるからだ。
限りなく持続可能でぼく自身を育ててくれる問いを。
 


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