風のトポスノート524

 

想起と知


2004.11.1

 

風のトポス・ノート 524 ●想起と知
 
	 知が知であることの何よりの証しは、それが他人にも正確に伝達
	しうるような明確なかたちで把握されていることであるが、しかし
	他方、われわれにとってほんとうに知るべき肝心な事柄について、
	教え導くことのできる者は皆無だと言わなければならない。ソクラ
	テス(あるいはプラトン)は、知るということに、たえず独自の厳
	しさと特有の深い充実感とでも言うべきものを要求する。
	(…)
	 プラトンにとって「哲学」とは、新たに切り拓かれた主体的な知
	のパースペクティブの中を、どこまでも深く、自由にものごとを考
	え抜いていくプロセスそのものであった。知を閉ざしてはならない。
	知の可能性を限ることは、生の可能性をも閉ざすことにほかなるま
	い。
	(内山勝利『対話という思想/プラトンの方法序説』
	 岩波書店 双書現代の哲学 2004.9.28.発行 P4-10)
 
プラトンには、想起説として知られている知の構造がある。
学ぶということは想起することだというのである。
 
目が光をとらえることができるためには
太陽を内にもっていなければならないように、
学び知ることができるためには、
それをあらかじめ内にもっていなければならない。
そしてそれを私たちは想起するというわけである。
 
ドイツ語で、教育することをerziehenというが
これは「引き出す」ということでもある。
つまり、引き出すものをあらかじめもっているということになる。
 
プラトンは国家論のなか、で
教育とは魂の目の「向け変え」であると述べている。
それはこういうことである。
 
	それは、その器官の中に視力を外から植え付ける技術ではなくて、
	視力ははじめから持っているけれども、ただその向きが正しくなく
	て、見なければならなぬ方向を見ていないから、その点を直すよう
	に工夫する技術なのだ。
 
ということは、私たちが何かを知り、理解できるためには、
それをあらかじめもっていなければならず、
もしもっていないとしたら、それができないことになる。
 
プラトンの示唆していることは、
極論をいえばそういうことにもなるのかもしれないが、
実際問題として、人の個々の魂にはさまざまなありようがあって、
ある程度顕在化可能な状態になっている部分と
そうでない部分というのがあるように思える。
 
つまり、ぼくに知の光が投げかけられているとしても、
それを受け取る可能性のある部分というのは限られているということである。
それに比較的容易に受け取ることのできるところもあるだろうし、
まずは種のような形で受け取って、長い時間をかけて
ようやく芽を出し葉をつけ…という段階を経る必要のあるものもある。
そしてなかには、というかぼくにとってはほとんどの部分が
今の生のなかでは顕在化できない部分であるようにも思う。
顕在化させるためには、まずこの生において、
種を植えるための土壌をつくるところからはじめなければならないように。
 
故に、ぼくにはその土壌をつくるためのたくさんの作業が必要になる。
そういう意味でも、知ることがたとえすぐにはできないとしても、
その可能性を信じなければならない。
つまり、「知ろう」とすることが不可欠である。
「知への愛」、つまり「フィロソフィー=哲学」である。
そしてさらにその先に、神秘学がある。
 


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