ルドルフ・シュタイナー

「自由の哲学」を読む

<はじめに>


 シュタイナーの「自由の哲学」をこれからしばらくいっしょに読んでいきます。できれば、イザラ書房からでている翻訳を平行して読んでいただければいいのですが、必ずしもそれを読まなくても、理解できるようにしていきたいと思っていますので、気軽な読物(というにしては少しハードですけど^^;)のつもりで読んでいってくださればと思いますので、よろしくお願いします。

 ちなみに、ホームページに登録してあるデータのなかに、「自由について」という項目で、次のようなテーマの内容がありますので、参照してくださればと思います。以下に「K]とあるのは、「クリシュナムルティ」のことです。

■自由について

■自由のよって立つ土台

■選択の自由とカルマ

■カルマ論について

■自由のために(1)Kに寄せて/見ること

■自由のために(2)Kに寄せて/自由の基盤

■自由のために(3)ホスピス●個性化

■自由のために(4)ホスピス●小さな父

■小さな父

■共苦/「苦」を共に担いあう自由

■「苦」の理由

 では、この「自由の哲学を読む」をはじめるにあたって、上記の「自由について」のなかに引用しているシュタイナーの「自由」に関する重要な観点を少し長くなりますが、ご紹介させていただきます。

私は自由を、宇宙過程を表す概念として論じようとしました。人間の内部には、地上的なものだけでなく、偉大な宇宙過程も働いているのです。このことを感じとれる人だけが自由を理解でき、自由を正しく感じとれる、ということを示そうとしました。この宇宙過程が人間の内部に取り入れられて、その内部で生かされるときにのみ、そして人間の最も内奥のものを宇宙的なものと感じるときにのみ、自由の哲学へ到ることができるのです。近代自然科学の教えに従って、自分の思考を外からの明確な基準によって計ろうとする人は、自由の哲学に到ることはできません。どんな大学においても、外的な基準に頼って思考するように人びとが教育されていることは、私たちの時代のまさに悲劇です。私たちはそれによって、すべての倫理、社会、政治の問題において、多かれ少なかれ、どうしていいかわからなくなっています。なぜなら外的な明確さを頼りにして思考するのであれば、人間の行動のために思考を働かせようとするとき、思考が『直観』にまで高まる程に、自分を内的に自由にすることはできないからです。ですからこの外的に依存した思考によって、自由の衝動は排除されてしまったのです。自然法則や社会的因襲強制から脱して、自由な精神になることが究極の倫理目標です。

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人間の行為すべてが自由の性格を帯びているのではない。細部にわたるまで自己観察に貫かれた行為のみが、自由な行為なのである。自己観察が個体的な自我を普遍的な自我に高めるので、自由な行為は全我から流れ出る行為である。人間の意志は自由であるのか、あるいは、一般的な法則、変更できない必然性のもとに置かれているのかという古くからの問は、正しい問の立てかたではない。人間が個体としておこなう行為は自由ではない。人間が霊的な再生ののちにおこなう行為は自由である。人間は一般的にいって自由なのか、不自由なのかではない。人間は自由でも、不自由でもある。(中略)不自由な意志を自由の性格をもった意志へと変化させるのが、人間の個体的な上昇、進化である。自分の行為の法則性をみずからの法則性として貫いた者はこの法則性の強制と、不自由を克服したのである。自由は人間存在の事実として最初から存在するのではない。自由は目標なのである。

自由な行為によって、人間は世界と自分との間の矛盾を解く。人間の行為は普遍的な存在の行為となる。人間は自分がその普遍的な存在と完全に調和しているのを感じる。自分と他者との間に不調和があれば、それはまだ完全に目覚めていない自己のせいだと感じる。しかし、全体と離れることによってのみ全体へのつながりを見いだすことができるというのが、自己の運命なのである。自我として他者から分離されていなければ、人間は人間ではないであろう。しかし、また分離された自我として、みずから全我へと拡張していかなければ、最高の意味において人間であるということはできないであろう。本源的に自分の中にある矛盾を克服するのが、人間の本質に属することである。

 さて、シュタイナーの「自由の哲学」でのアプローチは、他の神秘学的な観点とは基本的なところでそのプロセスが異なっています。「いかにして超感覚的世界の認識を得るか」に述べられたような方法ではなく、「多くの人にとって難しい」ものではあるものの、「なによりも正確な道」であるということができるのです。

 それについて「神秘学概論」のなかに次のような記述がありますので、長くなりついでにご紹介させていただくことにします。

精神科学の伝達をとおして感覚性から自由な思考へと導く道は、まったく確かなものである。もうひとつ確かで、なによりも正確な道があるが、その道は多くの人にとって難しいものである。その道は『ゲーテ的世界観の認識論要綱』と『自由の哲学』に述べられているものである。これらの本には、思考が物質的ー感覚的外界の印象に没頭するのではなく、ただ思考そのものであるときに、人間の思考が獲得しうるものが述べられている。感覚的なものの思い出に耽るのではなく、純粋思考が生命的な存在のように活動する。これらの著作には、精神科学の伝達はなにも含まれていない。純粋な、みずからのなかで活動する思考が、世界と人生と人間について解明しうることが示されている。これらの著作は、感覚界の認識と霊的世界の認識の、非常に重要な中間段階にあるものである。思考が感覚的観察を越えていきつつ、まだ霊探求に入っていくことを避けているときに、思考が提供しうるものを提供している。これらの書物を魂全体に作用させる者は、すでに霊的世界のなかに立っている。ただ、霊的世界が思考世界として現われるのである。このような中間段階を自分に作用させる者は、確かな道を歩んでいる。そして、そうすることによって、高次の世界に対する感情を獲得することができる。その感情は、以後ずっと、すばらしい成果をもたらすであろう。

  (シュタイナー「神秘学概論」イザラ書房/P322-323)

 では、次回より、テキストに沿って進めていきたいと思います。


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