ルドルフ・シュタイナー

「自由の哲学」を読む

<1918年の新版のためのまえがき>


人間の魂は二つの根本問題を抱えている。これから本書が扱うすべては、この二つの問いとの関連で論じられることになる。問題の一つは、われわれが人間の本性を考察する場合、いくら体験や学問を深めていっても、それだけでは十分に解明できない事柄にどうしても行き着いてしまうが、そういう事柄すべてにも有効な考察方法が一体存在するのか、ということである。懐疑論や批判主義はこの問題を解決不可能な領域に追いやっている。もう一つは次のような問題である。意志する存在である人間は自分を自由だと見なすことができるのか、それともそのような自由があるように思えるのは、自然の現象だけではなく、人間の意志をも支配している必然の糸を、人間が見落としているからなのか、自由とは幻想なのか。この問いは、決して遊び半分に頭で考え出された観念の産物ではない。この問いは魂の特定のあり方の中で、ごく自然に現われてくる。意志には自由があるのか、それをも意志には必然しかないのか、もしわれわれの魂ができる限りの真剣さでこの問いの解決を求めて努力しようとしないなら、その魂は自分の本質のどこかに欠陥があると感じないわけにはいかないであろう。この二つの根本問題の中の第二の問いを通してどのような体験を持つかは、第一の問いにどう対処するかによって定まる。このことが本書の中で示される筈である。人間本性を考える上で、一切の他の認識の支えになってくれるような、ひとつの観点が存在することを証明しようと思う。この観点を持つことができれば、意志の自由を完全に是認することができるのである。しかしそのためには、まずはじめに、意志が自由に生きられる魂の領域が見出されねばならない。(「1918年の新版のためのまえがき」より/シュタイナー「自由の哲学」イザラ書房)

 カントは、物自体は認識できない、と認識の限界を設定しましたが、「自由の哲学」は、その認識そのものにメスを入れるところから始まるのだといえます。近代的な認識のパラダイムは、主客を分離してしまうことと、認識の限界を最初から認めることがその枠組みとしてありますが、シュタイナーが「自由の哲学」で提示している「一元論」は、主客の分離を超えていくものであり、認識の限界を超えるための視点を与えてくれるものだといえます。そこのところで、西田幾多郎の哲学とも接点を持っているのではないかとぼくはとらえているわけです。西田哲学とは「場所」の哲学であり、「絶対矛盾的自己同一」の哲学であり、また「逆対応」の哲学です。

 すべての認識の根本には、この引用にあるような二つの問題があり、それに偏見なく取り組むということがなによりも重要なことだといいます。そうすることで、霊的経験を持つ以前にも、「人間が本当に霊界の中に生きていると悟ることができるようになる」というのです。そこに「いかにして超感覚的世界の認識を得るか」と共通しながらも別の観点からの確実な霊的認識の可能性が開かれているともいえます。

 その可能性はそのまま、自由な存在を自分の中に育てていく可能性でもあります。シュタイナー教育は、「自由への教育」であり、その可能性を育てていくためにも、「自由」というテーマを根底から考えていくことは、重要なことなわけです。

 最後に「自由の哲学」に関連したシュタイナーの重要な発言をご紹介させていただきたいと思います。これは、邦訳の自由の哲学の「訳者あとがき」に紹介されている1920年6月15日の「魂の問いと生活の問い」からのものです。

今日の私の話は、まず次のような問いかけから始めようと思います。ーー現代人はどのようにして魂の道を生活の道と一致させ、調和させることができるのか。

長年かけて、1880年代末から1890年代の初めにかけて構想を錬り、1894年に出版した私の『自由の哲学』の執筆中にも、この問いは私の念頭から去ることはありませんでした。実際、この『自由の哲学』は今日私が問題の出発点として取り上げた人類の運命の問いに答えるために書かれたのです。……換言すれば、現代を生きる人間は現代の大きな社会的要求に直面して、自由への希求という近代社会におけるもっとも重要な社会要求に、どのように応えることができるだろうか。その際考えておく必要があるのは、自由の理念と自由の衝動の正しさを追求するこれまでのやり方はすべて失敗だったということです。『一体人間は生まれつき自由な存在なのか』と人々は問いました。この問いは現在ではもう陳腐になってしまっています。今日ではむしろ次のように問うべきです。『人間は子どもの時から大人になるまでの間に、自由な存在であると実感できるような社会秩序を建設できるのか』。人間が自由な存在に生まれついているかどうかを問うのではなく、自分の存在の奥深くにまどろむものを無意識の底から意識の明るみへ引き出し、それによって自由な存在を自分の中で育て上げることが人間にできるかどうかを問うのです。

 教育は、最初から子供たちを自由な存在として規定したところから始めるのではなく自由な存在へと自らを育てるためにこそあるべきではないでしょうか。子どもがみずからを自由な存在へと育てることのできるようにサポートできるようなありかたを模索していくことこそが、シュタイナー教育の根本になくてはならないものでしょう。「自由からの教育」ではなく「自由への教育」なのです。

 そして我々も問わねばならないのは、ともすればわがままと混同されかねないような「自由から」という発想」ではなく、みずからをどのように自由へと成長させられるかそのためにはどうすればよいのかを模索するということではないでしょうか。


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