ルドルフ・シュタイナー

「自由の哲学」を読む

第一章「人間の意識的行為」


 この第一章では、自由な行為のための意識的なあり方には、「思考」が重要な役割を果たしているということについて述べられています。

どんな行為も、その行為者がなぜそうするのかを自覚していなければ、自由な行為にはなり得ない。それはまったく自明のことである。それでは一体、理由がよく分かっている行為と分かっていない行為との間にはどんな違いがあるのか。このことを知ろうと思うなら、思考の根源と意味について、あらためて問わねばならない。なぜならわれわれの魂の働きである思考活動を認識することなしには、何かについて知るということ、それ故行為を自覚するということの意味を理解するのは不可能だからである。思考が一般に何を意味するのかを認識するとき、人間の行為にとってどんな役割を演じるのかも明らかになるであろう。「動物にも備わっている魂を精神に作り変えるのは思考の働きである」とヘーゲルも述べているが、この言葉は正しい。その意味で、思考こそが人間の行為に人間らしさの特徴を与えているのである。(P36-37)

 自分でもわけのわからないまま行なってしまう行為を「自由な行為」だとはだれも思いません。少なくとも、ある行為を自由なものだといえるためには、その行為を意識的に、自覚的に行なうものではくてはならないのは当然です。

 では、その意識的でないことと意識的であるということの違いはいったいどこにあるのかを考えてみると、そこには「思考」ということが重要になってくることがわかります。「なぜ自分はこの行為をしているのか」という理由を自分で把握するためには、そこに、その理由について考えるという「思考活動」が不可欠だからです。

 最近は、人間を猿の延長上の動物存在としてとらえるのが流行ですが、みずからの行為に対してそれを意識化できるということは、人間特有のものであるということができます。

我々の行動のすべてが冷たい知性の判断から生じるべきだ、などと主 張するつもりはまったくない。抽象的な判断に基づいた行為だけが最高の意味で人間的な行為になると考えるのは、私とはまったく無縁の立場である。とはいえ、われわれの行動が動物的な欲望充足から一歩でも先へ進めば、直ちにその動機は思考内容と結びつく。愛、同情、愛国心などは、冷たい理解力の範囲内には収まりきれないような行動の動機である。心情こそがそのような行動を惹き起こすのだ、と言われている。確かにそう言える。しかし心情が行動の動機を直接作り出すのではない。それは行動の動機をふまえ、行動の動機を自分の領域内に取り込んでい る。私の意識の中に同情に値する人物の表象が表われたときに、私の心の中には同情が現われる。心情へ到る道は頭を通っているのである。愛もまた例外ではない。愛が単なる性欲の表われでないとすれば、われわれの愛は愛する存在についての表象に基づいている。そして、その表象が理想主義的であればある程、愛はわれわれの心情を充たしてくれる。ここでもまた、思考内容こそが感情の父なのである。愛は愛の対象の弱点を見えなくする、と人は言うかもしれない。しかしこの命題は逆転させることもでいる。すなわち愛は愛の対象の長所に対して目を開かせる、と。無数の人たちが何も感じることなく、そのような長所の傍らを素通りしていく。その中のひとりがその長所に眼をとめる。そしてまさにそれ故にこそ、愛が魂の中で目覚める。一体そのような場合、その人は何を行なったのだろうか。多くの人たちが持たなかった表象を、その人だけが持ったのである。他の人たちには表象が欠けていたので、彼らは愛を持たないのである。(P37-38)

 いわゆる生理的欲求などのような、動物と同じレベルでの欲求に関しては、そこに思考活動が関わっているということはできませんが、たとえば、愛、同情、愛国心といったことに関して言えば、そこには思考活動が関わってきます。

 それらには、心情が深く関わるものであるのは確かだとしても、その行動を引き起こした動機には、思考が関わっています。ある事柄に対して、ある特定の心情を持つためには、ある事柄について思考しているということが必要だからこそ、何らかの事が動機になりうるわけです。

 そして、愛、同情、愛国心といった動機によってなんらかの行為を行なう際にそれを意識的に行なっているかどうかによって、それが「自由」な行為であるかどうかが決まるといえます。

 そうした「自由」というのは幻想であり、自分が意識的に行なっているのだと思ってはいても、その実、無意識のところに原因が隠されている。そういうふうに言うことも可能だという人も多くいるでしょうが、そう言ってしまうことは、自分の行なった行為に対する原因を自分以外のところに抽象化して帰してしまっていることになります。「自分のやっていることは所詮深いところでは自分にわからないんだ」そう言ってしまっているだけなわけです。実際、そう言うことで、その人は、「人間には自由はないんだ」、ということを言っているに等しいことになります。

 実際、自分の行為の原因を自分自身に求めるのではなく、「あの人がこう言ったから」とか「そうするものだから」とかいうふうに言いたがる傾向は強いですが、それもみずからの自由への道を閉ざしてしまっていることになるのだ、ということは明らかです。

 さて、この「自由の哲学」は「自由」の可能性についての高らかな凱歌であり、人間が人間であるための大いなる可能性についての人間賛歌であり、「自由」の獲得こそが「人間学」の根本になければならないのだということを詳細に検討している書物であるということができます。その意味で、「教育の基礎としての一般人間学」の大前提であるということもいえるのではないかと思います。


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