ルドルフ・シュタイナー

「自由の哲学」を読む

第10章「自由の哲学と一元論」


 

 この章では、タイトルにあるように「自由の哲学」と「一元論」の関係について

述べられています。

 結論を先に言っておきますと、次のようなことになるでしょうか。

一元論は、真に道徳的な行為の領域においては、自由の哲学である。(P201)

 「一元論」については、第七章「認識に限界はあるのか」において、シュタイナーは、世界を二元性としてとらえる二元論ではなく、基本原理として一元論哲学、一元論を提示していることを既に述べました。

 世界は二元性として(二元論的に)われわれの前に現われている。しかし認識行為がそれを統一性(一元論)に作り上げる。この基本原理から出発する哲学は一元論哲学又は一元論と呼ばれる。

 二元論は、主−客の対立を前提としていますが、そこからは必然的に「認識の限界」が導き出されてしまい、「自由」の可能性がそこでなくなってしまいます。

 シュタイナーは、認識の基盤そのものを問題にするために「一元論」から出発するのです。

 シュタイナーは次のように述べています。

 いずれにせよ二元論者は、人間の認識能力に越えがたい壁を設けなければならない、と思いこんでいる。一元論的世界観の信奉者は現象世界の解明に必要なすべてが、この現象世界の領域内にあることを理解している。ただそれを手に入れることができずにいるのは、今の自分の在り方がたまたま時間的空間的にまだ制約されているからなのである。しかしそれは人間一般の在り方ではなく、自分の特殊な個的な在り方の問題である。(p135)

 シュタイナーは、その「一元論」を基盤に、「思考」によって、「外界の個別的な知覚内容」も自分自身の知覚内容も、世界に関連づけることができると言います。外的事物を知覚するのも、自分自身を意識するというのも、その対象は違っても、知覚行為に基づいているわけです。

 「現実」は、知覚内容と概念を思考で結びつけることで認識できます。知覚内容は、個々人の主観に規定されていますが、その主観による認識は、「思考」によって常に止揚される可能性を持っているのです。ですから、認識に限界を設ける必要はないということになります。知覚内容と概念を常に高次の在り方に向けて統合させていくという無限の営為がそこにあるということができ、そこに、「自由」の根拠があるのだといえます。

 この点が、第一部「自由の科学」(第一章〜第七章)、第二部「自由の現実」(第八章〜第一四章)、第三部「究極の問いかけ」(第十五章)の三部構成で成っている「自由の哲学」の第一部で述べられていたことでした。

 この第十章は、それをふまえながら、第二部のタイトルに「自由の現実」とあるように認識の基盤としての「自由」の問題が、どのように「現実」のなかでの「自由」として展開の可能性を持ち得るのかということについてその問いかけがなされているということを念頭に置いておく必要があります。

 さて、前章の第九章では、自由な行為、真の道徳的行為は、「倫理的個体主義」の観点から可能になるということが述べられていました。「倫理的個体主義」における自由は、エゴ的な意味での自由ではなく、「自らの由」とでもいえる自分自身の内部の「個体の理念部分」を行動へと導くものであるのだといえるというのです。

 つまり、他から与えられた道徳を実現するというのではなく、「個的な人間の本質に属する道徳理念」があって、それによって行動することによってのみ、真の意味での「道徳的世界秩序」を形成することができるのです。

 この第十章では、まず、素朴実在論も形而上的実在論も自由を否定することになる、ということが述べられています。

いずれの場合にも人間を必然的な外的原則の執行者にすぎないと考えている(P199)

からです。

 素朴実在論は

知覚できるもの、または知覚から類推できるものを本質と見なし、この本質の権威に従属しようとする。あるいは自ら「良心」と解釈する抽象的な内なる声に従おうとする。そしてそうすることにより、自由を殺している。(P199)

 また、人間外的な何かに信をおこうとする形而上的実在論は、

人間を「本質自体」によって機械的または道徳的に規定されていると考えるので、人間に自由を認めることができない。(P199)

 前者の素朴実在論が自由を殺すというのは、他人の言う道徳、集団(国家、社会など)の命じる道徳、あるいは宗教的な権威の命じる道徳は、外から与えられたものですから、そこにはいかなる意味でも自由が存在しえないということです。

 素朴実在論が高次のものとなると、それはやがて、自分の内なる声としての「良心」というかたちをとるようになりますが、そうなるとそれは、みずからの内にある「形而上的な本質存在」となります。それまでいわば「神の声」として聞いていたものを、今度は、「内なる独立した権力の声」として聞くわけです。

 しかし、そうした形而上的実在論は、

人間の思考によって現実を把握しようとはせず、それを仮説として体験領域の中に加えようとする。形而上的実在論の随伴現象として、常に人間の認識能力から遊離した道徳規範が姿を現わす。形而上的実在論は道徳の起源をも仮定された人間外的な現実存在の中に求めざるをえない(P196-197)

 ということになります。

 たとえ、内的な「良心」の声であっても、それが「機械的な必然性」によってであれ、「人間外的な絶対者」であれ、その根拠は、自分の外に求めざるをえないのです。

 素朴実在論も、形而上的実在論も自由を否定するのに対して、「一元論」は、

真に道徳的な行為の領域においては、自由の哲学である。(P201)

 といえます。

 「一元論」にとっての「道徳的世界秩序」とは、「まったく自由な人間の所産」です。

人間は自分の外にある存在の意志をではなく、自分自身の意志をこの世に実現しなければならない(P201)

 のです。

 「一元論」は、知覚世界の中では、自分が自由でないことに気づいています。だから、「自分の内部で自由な精神を生かそうと」します。けれど、「一元論」は「現実哲学」であって、非現実的・形而上的なものに逃げ込むのではありません。人間は実際、さまざまに制約された存在であって、そういうなかで自由なのだといっているのでもなければ、最初から自由な精神を持ち得ているといっているのでもなく、人間を進化する存在、自由な精神を獲得しうる存在なのだしているわけです。

われわれひとりひとりは自由な精神になるという使命を持っている。それはちょうど、どのばらの萌芽もばらの花を咲かせる課題を持っているのと同じなのである。(P201)

 人間は自由であるのか、自由でないのかという問いかけは無意味だといえます。人間は自由を獲得する可能性を有しているのか有していないのか、と問わなければなりません。その答えが「一元論」だというわけです。自由を獲得し得る存在として人間をとらえるとするならば、シュタイナーのいう「一元論」という立場をとらざるをえないということです。

一元論は真に道徳的な世界観全体を素朴な道徳律の地上的な桎梏や思弁的形而上学の非地上的な道徳律から解放する。一元論は前者の桎梏をこの世から排除することができない。そもそも知覚内容を世界から排除することはできない。しかし一元論は後者の命令を排除する。なぜなら世界の現象を解明するために、すべての原理を世界内に求め、世界外には求めようとしないからである。一元論は、世界外的な認識原理については考えることさえ拒否し、道徳規範についてはどのどんな世界外的思考内容をも拒否する。人間の道徳性は認識と同様に、人間本性に基づいている。(P202)

 シュタイナーの神秘学が、その基盤において「神秘主義」とは異なっていることがこのことからわかります。また、シュタイナーの神秘学がなぜあらゆる領域においてその応用範囲を持ち得ているのかということも、この「一元論」の立場から理解することができます。

 シュタイナーは、人間を「自由」を獲得することのできる進化する存在としてとらえています。「自由」の可能性のある存在であるからこそ、それを放棄することもできるということでもあります。自由を放棄しうるほどに、人間は自由の可能性を持ち得ているわけです。

 

(第10章・了)


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