ルドルフ・シュタイナー

「自由の哲学」を読む

第11章「世界目的と生活目的ー人間の使命」


2001.3.19

 

 この章では、これまで論じられてきた、一元論としての『自由の哲学』の見地からすれば、人間は自分のつくりだした目的と使命しか持ちえないと、いうことが述べられています。

 したがって、私が、社会において、世界において、外から与えられた目的や使命のもとに行動するということはありえません。それは、二元論的な立場からしか言うことができないわけです。

 一元論はどんな分野でも目的概念を退けるが、人間の行動だけは例外である。一元論は自然の法則を探究し、自然の目的は問わない。自然の目的は知覚できない力と同じように、恣意的な仮定である。しかしまたその生活目的も人間が自分で定めるのでなければ、是認できない。目的が問題になるのは、人間が何かのために自分で作り上げたものだけである。なぜなら理念の実現のためにのみ、合目的的に何かが作られるのであり、しかも実在論的な意味においては、理念は人間の内部においてしか働くことができないのだから。それ故人間の生活においては、人間自身が与えた目的と使命だけがある。人生にはどのような使命があるのかという問いに対して、一元論は、人間が自分で定めた使命だけがある、と答える。社会における私の使命はあらかじめ定められたものではない。その都度私自身がそれを自分のために選択する。私は人に命ぜられた人生行路を歩いていくのではない。(P209-210)

二元論は世界と自然をも目的論的に語ることができる。われわれの知覚内容が原因と結果の合法則的な結びつきにおいて現われるとき、それを二元論者は、宇宙の絶対者がその目的を実現したときの絶対者と事物との関係の焼き直しである、と思っている。一元論者にとっては宇宙の体験できない仮定上の絶対者だけでなく、世界目的や自然目的を仮定する根拠もまた存在しないのである。 (P202-213)

 私が「自由」であるということは、私が自分で自分の目的や使命を与えることができるということでもあります。人から「あなたは○○○○○を目的としなさい」と命ぜられたり、自分では目的が見出せないがゆえに、ある種の権威からの指示を待っているというあり方は、まったく「自由」ではありえないということになります。

 従って、ある意味では、「自由」を自らが獲得していくためには、目的に向かうための理念を自分でつくりだす能力が必要であるということがいえるのではないかと思います。それができないとき、人は容易に二元論に陥ってしまうことになり、自分の外に仮定された目的といわれるものに容易に従ってしまうことにもなりがちです。

 ですから、歴史に目的を見出すというような論じられ方も、一元論的にはまったく根拠を持ち得ないことになります。

 理念は人間によってのみ、合目的的に実現される。したがって歴史が理念を実現する、と語ることは許されない。「歴史は人間の自由に向けての発展過程である」とか道徳的世界秩序の実現であるとかいう言い方はすべて、一元論の観点から言えば根拠がない。(P209-210)

 「国民の道徳」とかいう書物も最近刊行されたりしていますが、一元論的にいえば、「国民の道徳」ということは根拠を持ち得ません。歴史的にこういう道徳が形成され、それが有効であるがゆえに、その道徳に従うことが正しいということはできないわけです。もちろん、その理念をみずから検討することによって、それをみずからがその目的に従うということはできるのですが、その場合でも、それはすでに「国民の道徳」ではなく、その人の道徳以外の何ものでもないといえます。

 天命を待つ!という言い方にしても、その天命というのは、みずから選び取り、みずからがつくりだした目的と使命に従うのであり、決してそれが外から来るものではないということはもちろんです。「天は自ら助くるものを助く」とはよくいったもので、自らを助けるという目的のもとにある行動をするのは、自分以外の者ではないわけです。

 ちなみに、「1918年の新版のための補遺」には、次のようにあります。

人間的な合目的性にモデルに従って考えられた人類の使命の合目的性についても、それが間違った考え方であると述べる理由は、個々の人間が立てた目的の総計から人類全体の働きが生じるのだ、ということを言おうとしている。そのような働きとは、結果として、個々の人間の目的よりも高次のものとなるのである。(P213)

 この意味でも、人間ひとりひとりが問題であるのは言うまでもありません。誰かが導いてくれる・・・というのではなく、まず自分が自分を導かねばならないといことがいえます。少なくとも、自分が自分を導くことができるということは、数十億人(今の人類の総計)のうちのひとりだけは、自由であり得るということでもあり、シュタイナーもいうように、自分以外の人がすべて絶望しようと、自分一人だけは絶望しないということは、数十億分の一の可能性は少なくとも自分において開かれている、ということでもあることになります。

(第11章・了)


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