ルドルフ・シュタイナー

「自由の哲学」を読む

第12章「道徳的想像力ーーダーウィン主義と道徳」


2001.5.20

 

 これまでの章は、かなり説明的で固すぎたようなので、今回は、ちょっと書き方を変えてみることにしたいと思います。

 さて、『自由の哲学』のテーマはおそらくごくごく簡単で単純なことであって、それを理解するためには、こうした一冊の書物が必要であるということでもないですから、なぜシュタイナーがあえてこれを哲学書として記したのかということのほうを考えてみたほうがむしろいいのではないかとさえ思ってしまいます。

 それは逆説的にいえば、『自由』であることが皆目わからない人のために、あえてそれに辿り着くための道標を記す必要があったということであり、またいわずもがなだと思っている人のためにも、なぜ『自由』であることが皆目わからない人がいるのかということについて、ちゃんと考えてみること。見たくないから見ようとしない人にそれを見せようとすることが、いかに困難なことかということについてのプロセスを辿ってみるということ。そしてまた同時に、自分の「思考」をきちんと辿ることを試みてみる必要があるということだと思います。

 『自由の哲学』のテーマが簡単で単純なことだというのは、もちろんぼくが勝手に思い込んでいるだけなのかもしれないのですが、たとえば、池田晶子の『残酷人生論』のなかに、「道徳」と「倫理」について書いていることが、シュタイナーのいう「自由」と「道徳的想像力」ということに非常に近しいのではないかと思っています。

 非常にわかりやすいので、引用しておきます。しかし、このわかりやすさというのは、わかりたくない人には、理解不能のことで、この引用のなかでもあるように。シュタイナー的にいえば、「道徳的想像力」が欠如しているということでもありますので、難しいですね。

 「倫理」と「道徳」の違いを直観的に理解できない、まさにそれが、「倫理」と「道徳」の違いを理解できないというそのことなのである。「直観的」ということは、説明ぬきで了解されるから直観的と言われるのだから、それを説明によって理解させようとすることの無理くらい、わかっている。けれども、説明ぬきで直観的に理解しているごく少数の人のためにのみ、その直観の正しさを確信してもらいたいためにのみ、恥を忍んで私はそれを説明しようと思う。まあ哲学なんてのは、煎じ詰めれば、先に直観的に理解していることを、いかにうまく説明するかという方便にすぎないのだし。

 たったのひとこと、倫理とは、自由である。そして道徳とは、強制である。

 あるいは、倫理とは自律的なものだが、道徳とは他律的なものである。倫理的行為は、内的直観によって欲求されるが、道徳的行為は、外的規範を参照して課せられる。

 「汝、善を為せ」もしくは「汝、悪を為すな」、これは道徳である。なぜから、道徳は必ず、命令や禁止や義務、すなわち外的強制として内感されるものだからである。

(…)

  善を為すことを喜びと感じるよう努めよ

 この心理上の困難は、なんぴとも自身が最も理解するところであろう。道徳の無能は、それは人を強制し得ないからではなく、人がそれを欲求し得ないからなのだ。

(池田晶子『残酷人生論』情報センター出版局/P157-159)

 『自由の哲学』を読んでいていつも思うのですが、そこで重要性が強調されている「思考」ということについてわかりにくいのは、それがきわめて「直観」に近い意味で使われていることにあるのではないかと思います。わかりにくとしたら、それは「思考」そのもののイメージが違っているのかもしれません。これは、上記の引用にあるのと同じ事情ではないかと思われます。

 このことを踏まえながら、この「道徳的想像力」と名づけられた第12章を読んでみるととてもわかりやすいのではないでしょうか。 

 自由な精神は自分の衝動に従って行動する。言い換えれば、自分の理念界の全体の中から思考によって直観内容を取り出してくる。不自由な精神は、理念界から特定の直観を選り分け、それを行動の基礎に置くことの理由を、自分に与えられた知覚世界の中に、つまりこれまでの諸体験の中に求め続ける。不自由な精神の持ち主が決断するときには、まず、これまで同じような場合にどのような決断がなされてきたか、どのような決断がすぐれたものと言われてきたか、神はそのような場合に何をお命じになったか等々を想い起こし、それに従って決断しようとする。自由な精神の持ち主は、そのような先例だけを行動の決め手にはしない。そのような人は誰もやったことのないような決断を下す。別な人ならどうしただろうとか、どんな命令を下しただろうとかいうことを、彼は気にかけない。自分の概念全体の中から特定の概念を選び出して、それを行動に移し換えようとする。(P215-216)

 ここで述べられていることは、要するに、「自由」であり「自律的」であることによって「倫理」は可能になるが、「不自由」であり「他律的」であることによっては、「道徳」的でしかあり得ないということなのだと思われます。説明はこれ以上は不要です。

 そして、シュタイナーは重要な、「道徳的想像力」というキーワードを提示しています。 

 人間は具体的な表象を想像力(ファンタジー)を通して、理念全体の中から作り出す。だから自由な精神にとって、自分の理念を具体化するためには、道徳的想像力が必要なのである。道徳的想像力こそ、自由な精神にふさわしい行動の源泉である。したがって道徳的想像力を持った人だけが道徳的に生産的であるといえる。道徳を説教するだけの人、道徳規則をくどくどと述べるばかりで、それを具体的な表象内容にまで濃縮できない人は、道徳的に非生産的である。そのような人は、芸術作品がどのように作られねばならないかを巧みに説明はできても、自分では何も生み出すことのできない批評家に似ている。(P217-218) 

 つまり、他律的、つまり外から示されなければ、自分がどのように「道徳的」に行動してよいかわからないのは、「道徳的想像力」が欠如しているからだというわけです。

 面白い例があります。中野好夫という英文学者・翻訳家がいまっしたが、彼の自称しているように無宗教でほとんど唯物論者でもあるゆえに、そして「悪人礼讃」というような考え方を持っているがゆえに、むしろ「道徳的想像力」の可能性を持ち得ているというのではないかと思われます。 

 その「私の信条」のなかの「良心について」から少し。 

 神を信ぜぬ私にとっては、したがって私自身の良心の外に、客観的に存在する公教的な道徳規準を信じることができぬのは、残念ながらやむをえない。いわば一歩退いて、個人の良心という不確定な基準によるしかないのである。

(…)

それにしても私は、私の良心の無謬性を他人にまで押しつける勇気はとうていない。私が寛容の徳をもって、人間のもつべき最高徳目の一つであるとする考えを捨てきれぬのは、主としてこの理由による。神を信じることのできぬ私、まして常に何からの政治目的をもちながら、ただ美しい仮面下で主張される理想のごときは、とうてい信じえぬ私にとり、いわば私の良心が最後の死守拠点であることはやむをえないのである。そのかわり、私自身の良心への私の服従を尊重してもらいたいごとく、私もまた他人の良心判断を、たとえその結果の見解においては私と判断を異にしようとも、心から謙虚に尊重したいと思う。

 さてさて、この章で面白いのは、この、いわば「道徳」から「倫理」へということが「進化論」的にも説明できるとしているところだろう。これは一種のユーモアとして受け取ってみたほうが、本章を楽しく読むことができるようにも思う。

 まず、ここがおもしろいところです。「道徳的に行動する」ために必要なのは、「倫理学の知識」ではなく、「自然科学の知識」であるということ。これはシュタイナー流のイロニーとさえ思えてしまいます。 

 道徳的に行動するためには、行動範囲の諸事情をよく知っていなければならないが、特によく知っておく必要があるのは、自然の法則である。必要なのは自然科学の知識であって、倫理学の知識ではない。

 道徳的想像力と道徳的理念能力とは、それらが個人によって生み出された後にならなければ、知識の対象にはなり得ない。しかしそうなった後では、もはや生活を規定しない。すでにそれを規定している。それらは他の一切の諸原因と同じような作用をする原因として理解されねばならない。…われわれは道徳的表象の自然学を問題にしているのである。

 その場合規範の学としての倫理学は存在し得ない。(P219)

 さらに、ユーモアは続きます。 

 しかし一体、古いものを基準にして新しいものが計れないのか、道徳的想像力が生み出したものを伝統的な道徳観で計ること、それがすべての人に求められるのではないか、このような疑問は道徳的に生産的であろうとする場合、まったくのナンセンスである。それは新しい生物を古い生物を基準にして計り、爬虫類が原羊膜動物と一致していないから、不正な、つまり病的な生物であるというのに似ている。

 このように、倫理的個体主義は正しく理解された進化論に対立するものではない。(P223)

 つまりは、倫理的であることの根拠を過去に遡っていったところで、結局は、アメーバにまで至ってしまうということでもあります。ですから、たとえば「保守」ということを持ち上げたがる人たちの多くの態度は「倫理」的態度の拒否=「道徳」の称揚でしかないのだけれど、その「道徳」の根拠は常に過去でしかないということになります。「理」的であろうとすれば、そうした古い「道徳」の集積から脱して、自由によって「道徳的想像力」によって新たなものを作り出さなければならない、ということがいえます。

 だから、シュタイナーはこう述べているのだと思います。 

 倫理的個体主義は、どんなに自然科学の主張が自明のように思えても、それに左右されることはない。人間行為の完全な形式の特徴は自由である、と観察が教えているからである。人間意志が純理念的な直観を持つことができる限り、この人間意志は自由と見做されねばならない。なぜならこの直観は、外から必然的な仕方で働きかけてくる結果としてあるのではなく、外からの働きを何も必要としてはいないからである。行為がこのような理念的直観の表現となっていると思えたとき、人間はその行為を自由であると感じる。行為をこのように特徴づけることの中に、自由がある。(P226)

 困難は、この引用にもあるように、「人間意志が純理念的な直観を持つことができる限り」というところにあります。これは早い話が、最初の池田晶子の引用にもあったように、「倫理」と「道徳」の違いを直観的に理解できるということが前提になっている。逆に言えば、これが直観的に理解できないとすれば、「自由」であることが困難であるということでもありますから、やはり難しいところではあります。

(第12講・了)


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