ルドルフ・シュタイナー

「自由の哲学」を読む

第13章「人生の価値ーー悲観主義と楽観主義」


2001.9.30

 

 この章は「人生の価値」と名づけられていますが、とっても人生論的な章になっていたりします。ふつう人生論のイメージというと、とってもクサイというか、人生かくあるべし!というものなので、思わず逃げ出してしまいそうにもなるのですけど、そこはシュタイナーですし、テーマが「自由」ですから、そういうクサミは少ないようです。

 とはいうものの、副題に「悲観主義と楽観主義」とあるように、ショーペンハウアーは、ハルトマンはこう主張しているけど、それはこういうことからそれは成り立たない、云々というかなり細かい部分について思考訓練を要求しているので、そこらへんに一度はつきあってみるのもいいのではないかと思うのですけど、ここでは、それをいちいち検討したいとは思っていません。もちろんその個々の論点が挙げられたとき、それがなぜなのかについてことはちゃんと理解していないと、ここで述べられていることがなぜなのかわからなくなりますし、それがわからないとすると、結局「人生の価値」に関して「自由」から見ることができないということにもなりますので、しっかり自分で検討してみる必要があると思います。

 ちなみに、この章では、人生に対する価値に関して二つの対立的な立場である楽観主義と悲観主義があり、その二つの間を仲介しようとするさまざまな試みがあるとし、楽観主義の代表としてシュタイナーが挙げているのは、シャフツベリとライプニッツ。悲観主義は、ショーペンハウアーとエドゥアルト・フォン・ハルトマンだとし、それぞれは次のごとく主張するのだといっています。

 楽観主義は次の通り。

 世界は存在し得る最上のものであり、この世界での生活や行動は計り難い程の価値を持つ。すべては驚嘆に値する程に調和した合目的な共同作業を示している。見たところ悪や不幸のようなものでも、高次の観点からすれば善であると認められる。なぜならそれは善を引き立たせるために反対を表わしているのだから。善を正しく評価できるのは、それが悪を克服したときである。不幸もまた本当に現実的なものではない。私たちは幸福のより少ない状態を不幸であると感じる。不幸は善の不在であり、それ自身で意味を持つものなのではない。(P321-322)

 続いて、悲観主義はこう。

 人生は苦悩と不幸に満ちており、不快がいたるところで快を圧倒し、苦しみが喜びを圧倒している。生きることは重荷を背負うことである。どんな場合でも、存在しないことの方が存在することよりも好ましい。(P322)

 たとえば、仏教では人生は苦である!というのから出発しますが、それはこの世的、快楽主義的に生きている人にとってのアンチテーゼにはなるにしても、まさに悲観主義で、そこから出発して悟りを!ということになると、いかに認識的実践的に「中道」を目指そうとするとしても、人生は不快が多いけれども我慢し禁欲せねば、ということになってしまいます。

 もちろん、密教的な方向性が加わってきたりすると、今度は倒錯的な快楽主義のようにもなってきたりもしますし、ちゃんと生を肯定するような方向性もあったりするんですけど、やはり、出発点が四苦八苦であるだけに、どうしても極端から極端にふれてしまうところがでてきたりするようです。おそらくそれゆえに「中道」のための修行論としての「八正道」というのもでてきたりもするんですけど、それそのものが禁欲主義になっていたりします。で、人生の価値はそれだと修行のための禁欲的価値になってしまうわけです。

 それで、楽観主義と悲観主義のほかにも、快楽主義と禁欲主義というのも検討する必要があって、人生は楽しむだけ楽しまなくちゃ、というのと人間はほうっておくとろくなものにならないから、快楽的な生活を断ってもっと立派な人間にならねば、という一見ご立派な立場もでてきたりするんですけど、それだとやはり、すべてがいわば戒律になってしまって、そこに「自由」の存在する余地がなくなってしまうのがわかります。

 ですので、「自由」に基づいて、「人生の価値」を云々できるためには、快楽主義的な放縦というのではない意味で、自分がそれを欲しているからそれをするということが重要になります。人生はそれそのものが価値があるというような無前提の人生肯定でもなく、その逆ゆえの戒律的な厭世主義のようなものでもなく、自分の創造しえた「道徳理想」をみずからが欲しているがゆえにそれに自由に向かっていくことに価値を見出すということです。

 つまり、本文でいえばこういうこと。

 道徳理想は人間の道徳的想像力から発している。その理想の実現は、人間が苦しみや悩みを克服してまでもその理想を欲求しようとするかどうかにかかっている。理想は人間の直観内容であり、精神が引きしぼる弓である。人間はそれを欲する。なぜならそれの実現は至上の快感なのだからである。人間は倫理学によって快感の追求を禁じられたり、何に向かって努力すべきなのかを命じられたりすることを必要だとは思っていない。道徳的想像力を活発に働かせて、意志に力強さを与えてくれるような直観内容をもつことができれば、人間はますます道徳的理想を追求するようになる。そして人間存在そのものの中に組み込まれているさまざまな障害を、そしてその一部分である不快感をも乗り越えることができるようになる。(P259)

 偉大な理想を追求する人は、そうすることが自分の本性の一部分になっているからこそ、そうするのである。だからそれを実現することは、その人にとって大きな喜びであるだろう。それに較べれば、日常的な衝動を満足させるときの快感などは些細な事柄にすぎない。理想主義者はその理想を現実に移し換えるとき、精神的に耽溺しているのである。

 人間の欲求充足に伴う快感を根滅しようとする人は、したいからするのではなく、せねばならないからする奴隷のような存在に人間をしておかなければならない。なぜなら自分が望んだことを達成するときには、常に快感が伴うのだから。善と呼ばれるものは、真の人間本性にとって、為すべき事柄なのではなく、為そうと欲する事柄なのである。このことを認めない人は、人間が欲する事柄をまずその人間の内から追い払って、別の意志内容を外からその人に押しつけなければならない。

 欲求の実現に価値があるのは、それが人間の本性から生じているからである。そして実現された事柄に価値があるのは、それを人間が欲したからである。人間の意志が望んだ目標が無価値だというのであれば、価値のある目標を人間が欲していない何かから取ってこなければならなくなる。 (P260)

 だれかに人参を目の前にぶらさげられてゴールに向かって走るのでもなく、むち打たれることでいたしかたなく泣きながらゴールと称するものに走らざるをえないのでもなく、これは善なのだからなすべきである、というような外から半ば洗脳された価値観から機械的に行動するのでもまたなく、自分が創造しえた価値と目標ゆえに、それを自らが欲求することができるということにほかなりません。ですから、そのプロセスにおいて、努力が必要だったり、けっこう艱難辛苦などがあったりしても、それを乗り越えることに価値がでてくるわけです。

 これは至極あたりまえのことなのですけど、実際、ほとんどの場合、自分の欲している価値観をじっくり検討することもなく、外から与えられた「そういうものだ」や「そうすべきである」に向かって、ロボットのように動いていることが多いのではないでしょうか。

 もちろん、自分で創造しうるということは、それぞれの「道徳的想像力」にかかっていますから、その向かうところが高邁な理想であるとはかぎらないのですけど、そこにおいても最初から人間は自由であるのではなく、自由を創造する可能性に向かって開かれているということがいええます。

 成熟した人間は自分で自分に価値を付与する。自然もしくは造物主から恩寵を受けようと努めるのでもなければ、快感の追求をやめなければ認識できない、というような抽象的な義務を果たすのでもない。欲するままに行動する。その行為は自分の倫理的直観の基準に従っている。そして自分の欲求の達成を人生の本当の喜びであると感じている。その人は人生の価値を努力したこととその成果との関係に即して定める。意志の代わりに単なる当為(為すべきこと)を、欲求の代わりに単なる義務を措定する倫理観は、人間の価値を義務の要求とその成果との関係に即して定める。この観点は、人間本性の外にある尺度に従って人間を計る。ーー以上に論じてきた著者の観点は、人間に対して、自分自身に立ち帰るように求めている。この観点は、各人が自分の意志を基準にしているときにのみ、そこに人生の本当の価値を認める。個人によって肯定されない人生価値も、個人に由来しない人生目的も、受け容れない。あらゆる側面から吟味だれた個人の本質の中に、その人自身の主人を、その人自身の鑑定人を見出す。 (P262)

 「人生の価値」を教えてもらうことは、その奴隷になるということを意味しかねないところがあります。「人生の価値」を教えてもらうということは、その評価をも他者が下すということでもあるからです。「そうすべきだ」「そうすべきではない」という宗教的規範、外から来る道徳的価値、世間的な目云々だけが重要になってしまう。

 「人生の価値」は、それをみずからが創造し得るだけの自由に向かって開かれているがゆえに、人間は生を肯定できるといえるのではないでしょうか。それを創造するのも欲するのも自分であるがゆえに、それに向かう営為もその結果の価値評価するのも自分にほかならない。ゆえに、「道徳的想像力」を持ち得るだけの自由な思考が直観がなによりも求められるということになるのだと思います。つまり、まずは自分で考えることができないということは、自由に向かって開かれていないということにもなるわけです。

 この第13章は、けっこう長いのですけど、これまでに論じられてきたことの応用のひとつとして、「人生の価値」ということをめぐって検討を加えてみたということでしょうか。

(第13章・了)


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