ルドルフ・シュタイナー

「自由の哲学」を読む

第14章「個と類」


2001.10.4

 

 人間は社会的動物であるといわれたりもするように、個人であるといっても、「自然集合体(人種、種族、民族、家族、男性、女性など)や国家、教会などの一分肢」のなかで生まれ育っていき、それによって規定されているといえる。(それをシュタイナーは「類的なもの」といっている)しかし、「人は誰でも完全無欠で自由な個性となりうる」のだとしたら、そこに矛盾があるように思えないだろうか。

 ・・・ということから、本章は始まっている。もちろん、これは『自由の哲学』だから、そこに矛盾などはない、ということがここでは述べられることになる。

 論旨、そして結論は次のように明快である。

人間は類的なものからも自由な存在である。なぜなら人間における類的なものは、人間がそれを正しく体験するときには、その人の自由を決して制限したりはしないからである。人工的な制度がそれを制限することも許されない。人間が発達させるべき特性や能力を規定する根拠は人間そのものの中に求めなければならない。その際類的なものは、各人が固有の本性を顕わすための手段でしかない。人間は自然から授けられた特性という土台の上に立って、自分の本質にふさわしい形式を自分に与える。この本質を顕わす根拠を類の法則に求めても無駄である。大切なのは個体であって、個体だけがそれ自身の内に存在の根拠を担っている。人間は類的なものかたこのような意味で解放されるところまできているのである。それにも拘わらず、類の性格から人間の性質のすべてを説明しようとする人は、個的なものを何も理解していないことになる。(P266)

 類的なものは「手段」であるにもかかわらずそれが目的になってしまったり、類的であるがゆえに自分はこうなのだ、という人、類的なものは自分の一属性にすぎないにもかかわらず、その属性を自分の本質であるとしか考えられない人は、まさに「自由」を自ら放棄しているのに等しい。

 類的なものから自由であるというと、男だから、女だから、日本人だから云々を否定しているようにとらえてしまうことも多いようだが、決してそうではなく、人間はあくまでも個的な存在である可能性を有していて、さまざまな属性を持ってはいるけれども、それが自分の「固有の本性」なのではなく、それらはあくまでも個としての本質を顕わす手段である、ということがいわれているのだということを理解する必要がある。

 本章のなかで、シュタイナーは「女は女性一般という類的なものの奴隷になっている」とも述べているが、これは女性の社会的地位というようなものもそうであるし、そうでない場合でも、女性そのもの意識が「女性一般という類的なものの奴隷」になっているといえる。もちろん、アンチ男性のような在り方を主張するのも、その極端にふれた「奴隷」の姿にほかならない。

 よく「私たち女性は」という表現が見られるが、その表現も「女性一般という類的なものの奴隷」になっている一例である。「私の属性としての性が女性である」ということと「女性一般を代表して私がここにいる」というのとは全く異なっている。自分の女性としての属性を活かすことは自由を損なわないが、女性はこうするのが望ましい、こうすべきだと思い込んで自分をそれに従わせることは自由を放棄することになる。

 自分は日本人であるというのも同じである。日本人一般というものの類的な奴隷になることは個であることを放棄することになる。もちろん、日本人であるがゆえに得ているさまざまなことを最大限に発揮しようというのはすばらしいことであるが、「おまえは日本人だろうが!」という「ヒコクミン」的罵声は個を類に従わせようとする暴挙である。

 シュタイナーは本章の最後にこう述べている。

 以上に述べたような仕方で、類的なものから自分を自由にする程度如何が、共同体の内部にいる人間が自由な精神でいられるかどうかを決定する。どんな人も完全に類でもなければ、完全に個でもない。しかしどんな人も、多かれ少なかれ、動物的生活の類的なものからも、自分の上に君臨する権威の命令からも、自分の本質部分を自由にしていく。

 しかしこのような仕方で自由を獲得することができない人は、自然有機体か精神有機体の一分肢になる。そして他の何かを模倣したり、他の誰かから命令 されたりして生きる。自分の直観に由来する行為だけが、真の意味で倫理的な価値を有している。遺伝的に社会道徳の本能を所持している人は、その本能を自分の直観の中に取り込むことによってそれを倫理的なものに変える。人間の一切の道徳的活動は個的な倫理的直観と、社会におけるその活用とから生じる。このことを次のように言い換えることもできよう。ーー人類の道徳生活は自由な人間個性の道徳的想像力が産み出したものの総計である、と。これが一元論の帰結である。(P270)

 類的なものに依存して、そこに自分のアイデンティティを置こうとする人は、自由を獲得することができない。類的なものは手段であって決して自分の本質でも自分を教え導くものでもない。自由である個人は、自らが自らの直観によって自らを導こうとする。

(第14章・了)


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