ルドルフ・シュタイナー

「自由の哲学」を読む

第15章「一元論の帰結」


2002.5.19

 

 気になってはいたのだけれど、最後の第15章だけを残したままになっていた。今さらながら、という感もあるし、すでに基本的なところに関しては、これまでに繰り返してふれてきたのだけれど、先ほど、ふと、『自由の哲学』を手にとってみて、「未完」という誘惑の手、「未完ゆえに可能な美学」に逆らって、最後の「。」を記してみることにしようと思った。(永遠の未完、はある意味ですべてのαでありΩでもあるし、未完故にこそ円が動的な螺旋運動になるということもいえるのだろうけど、ときには気まぐれに、完結を装うというのも、またひとつの遊戯であるということで…)

 さて、あらためて『自由の哲学』をめくりながら思ったのは、なぜこれが理解されにくいのだろうかということだった。

 もちろん、いろんな哲学者の言葉の引用なども頻繁に現われているし、そこで何が論じられているのかを読みとりにくいというのもあるだろうし、少しばかり原文と訳文を対照してみて、訳文が難しいということもあるようにも思ったのだけれど、それ以前の問題としてあるのは、おそらく次のようなことではないだろうか。

 まず、ここでは現実を二元的に分裂して把握しないための「一元論」が論じられ、しかもそこに人間が自由でありえるための根拠として、「思考」の重要性がなによりも強調されているのだけれど、「思考」を「頭で考える」というふうに表現されるような否定的なイメージでとらえている、つまり、「思考」を主役に置くことを最初から拒んでいる、ということがあるのだろうということをあらてめて思った。

 それから、自由であることを恐れているがゆえに、この内容を理解することを自分から遠ざけようとしているのではないか、ということもあるのだろうということもあるように思える。

 自由であることを恐れているというのは、この15章からの引用でいえば、

一元論はわれわれの外からわれわれの行動に目標を与えたり、方向を指示したりする支配者を認めない。人間は自分自身に立ち返ることを求められている。人間自身が自分の行動に内容を与えねばならない。(P281)

 まさに、この、「自分自身に立ち返ることを求められている」が故なのではないか。科学者は、外界に客観的世界があって、自分の役目はそこから現実をとりだしてくるだけだと思いたいだろうし(すでに、観察行為そのものが現実に組み込まれているとされているにもかかわらず)、宗教者は、「彼岸に座す根源存在の目的を自分の個人的な目的に」したいだろうし、外的な神を信仰しないとしても、今この自分ではない「高次の自分」というあたりで、それをすり替えることで、今この自分から眼を逸らそうとするだろう。また、宗教者としてみずからをとらえていない場合にも、「世間様は許さない」、「そういうものだ」というように、自分に外から「目標を与えたり、方向を指示したりする支配者」をつくることで、自分を自由な存在でないようにしようとしているのだろう。

 実際のところ、そうした外的なものに身を委ねていたところで、人間はそうした外的なものを意識的無意識的をとわずそれを選択しているわけで、結局のところ、「人間自身が自分の行動に内容を与え」ているということになる。ということは、人間は自由である可能性に向かって開かれているにもかかわらず、自分をそうした存在であり得るということを認めることを怖がっているのだ、ということがいえるのではないだろうか。

 そういう意味で、『自由の哲学』の困難さというのは、自分を自由な存在としたいかどうか、ということに関わっているということがいえる。自由な存在となるための道を歩もうとするならば、上記に書いたことは、困難であったとしても、絶対的な障害とはならない。

 さて、そういうことをふまえながら、これまでに記されてきたことのまとめにもなっているこの第15章から重要な箇所から。

 まず、ここでいわれている一元論というのは、たとえば、主観ー客観図式のようなかたちで、現実を分裂的に把握しないためのもので、しかもその「一元」を感情神秘主義や意志形而上学としないということである。それらは、人間を自由であることにむかって開くものではないのだから。(それらの議論は第一部に詳細になされている)「(直観的)思考」こそが、ともに現実世界の一側面である知覚内容と概念とを結びつけることができるのであり、それによって「現実」を把握することが可能になる。

知覚内容は客観的に与えられている現実世界の一側面であり、概念は主観的に(直観によって)与えられている現実世界のもう一方の側面である。われわれの精神構造は現実世界をこの二つの要因に分けてしまった。一方の要因は知覚のために現われ、もう一方の要因は直観のために現われる。この両者が結びつき、合法則的に宇宙に組み込まれている知覚内容こそが、完全な現実なのである。単なる知覚内容は、それだけを単独に考察すれば、現実ではなく、無関連な混沌でしかない。知覚内容の合法則性だけを単独に考察すれば、それはもっぱら抽象的な概念としか結びつかない。抽象的な概念は現実を包含していない。一面的に概念だけを取り上げるのでも、知覚内容だけをとありあげるのでもなく、この両者の関連を取り上げる思考こそが現実を把握する。 (P276)

 科学は(とくに、シュタイナーがこの『自由の哲学』を書いた時点では)、「知覚内容を記述するだけ」で、観察するという行為の関わりを認めないし、「経験の外に対象を推定し」てそれをオペレーションすることを目指そうとする。しかし、それは「半分の真実」しか見ようとしないものだといいます。ゆえに、それは人間を自由に向かって開くものではありえない。

一元論は、知覚内容を記述するだけで、それを理念によって補足しようとしない科学の中にも、半分の真実しか見ない。しかしまた知覚内容の補足を受けない抽象概念の中にも、半分の真実しか見ない。そのような概念は、観察できる世界を補足する概念の網目から外れている。一元論は経験の外に対象を推定して、それを仮定された形而上学的な内容を与えようとは思わない。そのものそのようなものはすべて、一元論の眼から見ると、経験界から取ってきた抽象物にすぎない。(P280)

 また、「われわれの行為の目標」を自分の中にではなく、「彼岸」に求めるような在り方も、人間を自由に向かって開くどころか、人間を外にあるさまざまなものの支配下に置こうとする。

 同じ意味で、一元論の考え方に従えば、われわれの行為の目標を人間を超越した彼岸から取ってくることはできない。そのような目標は人間の直観に由来するものでなければならない。人間は彼岸に座す根源存在の目的を自分の個人的な目的にはせず、自分の道徳的想像力が与える自分の目的に従う。人間は行動によって実現される理念を唯一の理念界から取り出し、それを自分の意志の根底に置く。だからその人間の行為の中には、彼岸が此岸に下した命令ではなく、此岸に住む人間の直観が生きて働いている。一元論はわれわれの外からわれわれの行動に目標を与えたり、方向を指示したりする支配者を認めない。人間は自分自身に立ち返ることを求められている。人間自身が自分の行動に内容を与えねばならない。人間の生活圏外に意志行為の根拠を探し求めても、空しい結果しか得られない。母なる自然が与えてくれた本能衝動を満足させるに留まらず、さらに先へ進んでいこうとするなら、自分の道徳的想像力の中に行為を規定する根拠を求めなければならない。そして他人の道徳的想像力に自分を従わせるような安易な態度をやめなければならない。言い換えれば、人間は自分の行動を衝動に委ねるか、それとも自分の理念界から得た規定根拠に従って行動するかしなければならない。そうでなければ、誰か他の人が同じ理念界から取り出してきた規定根拠に従うことになる。人間がもっぱら自分の感覚的衝動や他人の命令に従うのではなく、さらに先へ進んでいくなら、自分以外の何ものかによって左右されたりはしない。自分以外の誰かではなく、自分自身が選んだ動機によって、行動する。……人間が自分から積極的に理念を現実の中へ移し換えるとき、一元論は人間の中にそのための動機の根拠を見つけだすことができる。或る理念が行為となるためには、まずそれを人間の意志にしなければならない。そして意志は人間そのものの中にのみその根拠をもっている。だから人間は自分の行為の最終決定者なのであり、人間は自由なのである。(P281-282)

 結局のところ、問題の根底には、果たして自由になりたいかのかどうか、ということがあるように思える。「自分の行為の最終決定者」として自分を位置づけたいかどうか。科学者は、「恣意」からではなく「客観的」なものをいかに把握するかであって、自分を「自分の行為の最終決定者」とはみなそうとはしないだろうし、宗教者は、まさに自分を「自分の行為の最終決定者」としようとはしないだろう。また、たとえば「ナショナリスト」や伝統的な道徳者なども、その根拠を血族や家、民族や国家などに置こうとするだろう。「公」が重要であって、「私」などを最初に持ってくるのは本末転倒であると。

 ところで、この『自由の哲学』は、やはり「精神科学」の基礎として重要な位置をしめている。この『自由の哲学』が欠如しているままに「精神科学」「人智学」と称する営為をなそうとしても、それは何者かの奴隷行為になってしまうということ。唯物主義者は物質というブラックボックスの奴隷になってしまうだろうし、宗教者はまさに「神」や「高次存在」の奴隷になってしまうだろうし、教育者なども「自分自身に立ち返」らずに「そういうことになっている」ものに従ってしまうのだとすればそれは「シュタイナー教育」とされるものの奴隷になってしまうことになるだろう。

 『自由の哲学』がその基礎にある科学は、もやは単なる興味本位の実験やエスカレートする技術へと向かわず、常にそれらの根拠に自分をおかざるをえないだろうし、医者も、ただ生かす医療や人体実験などへの誘惑へ決然とした意志を持ち得るだろう。宗教者も、みずからをただ高次存在へ委ねる方向にはいかないだろうし、教育者も、自己教育をその基礎におかざるをえないだろう。

 これからも何度もこの『自由の哲学』を読み返すことになるだろうが、おそらくそのたびごとにそうしたことを再確認することになるように思う。

(一応、これで、『自由の哲学』の最終章まで終了です。やれやれ。)

(第15章・了)


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