ルドルフ・シュタイナー

「自由の哲学」を読む

第二章「学問への根本衝動」


 第一章では、「自由」な行為の前提としての「思考」について述べてありましたが、この第二章では、その「思考」の重要性を認識するための前提となる観点について、二元論と通常の一元論の問題について検討が加えられます。

二元論は人間の意識によって生み出された自我対世界の対立だけに眼を向ける。二元論の考え方はすべて、精神対物質、主観対客観もしくは思考対現象という対立を宥和させようとする無駄な努力なのである。二元論は二つの世界に橋を架けねばならないという感情を持ってはいるが、そのような橋を見出せないでいる。(P42)

 主観−客観をはじめとした二元論では、その二つの世界に橋を架けることはできません。「私」と「世界」はどこまでも平行線を辿らざるをえないのです。いわゆる「物と心」といったテーマもまったく同じです。

一元論の場合もまた、今日に到るまで、事情はそれと大して変わってはいない。これまで一元論は三つの仕方で自己救済策を講じてきた。第一に精神を否定して唯物論になった。第二に物質を否定して唯心論に救済を求めた。そして第三にどんな単純な宇宙存在の場合にも、物質と精神は分かち難く結びついており、したがって人間の中でこの二つの存在方式が分けられずに現われても驚くには当たらない、というのである。(P43)

 その分裂を避けるために、唯物論や唯心論、観念論などが提示されもしたわけですが、唯物論は、たとえば「心」の働きをすべて物質に還元してとらえようとし、反対に唯心論は、すべてを心に還元しようとしますし、協調策として物質と精神は分離できないのだという論法で解決を図ろうとします。唯物論といえば、説明するまでもなく、現代に支配的な世界観ですし、唯心論といえば、たとえば仏教などの唯識などがそうだといえます。

以上に述べたすべての立場を考えるとき、基本となる根源的な対立はまずわれわれ自身の意識の中に現われてくる、という点をはっきりさせておく必要がある。われわれを自然という母体から引き離して、「自我」と成し、そしてそれを「世界」に向かい合わせるようにしたのは、われわれ自身なのである。(中略)

われわれが自然から疎外されているのは本当だが、同じようにわれわれが自然の中で、自然の一部を成している、と感じるのも本当である。われわれの中で生きているのは、自然そのものの働きなのである。(P46-47)

われわれは自然へ帰る道を再び見つけださねばならない。この道がどこにあるのかを、ひとつの単純な考え方が教えてくれる。確かにわれわれは自然から切り離されてしまった。しかしわれわれはそこから何かを内なる自然として自分の本質の中に持ち込んでいるに違いない。この内なる自然を見出さねばならない。そうできれば、関連が再び見出されるであろう。このことを二元論はやろうとはしていない。人間の内面を自然とは異なる精神存在と見なし、この存在と自然とをつなぎあわせようとするが、そのような連結部分が見出せないのは当然である。われわれが自然をまず自分の内部に認めるのでなければ、それを外に見出すこともできないであろう。われわれ自身の内部にあって、自然と同質の働きをするものが導き手となってくれる筈である。こう述べることで、道の行く手をあらかじめ指し示したことになる。精神と自然との相互作用についてあれこれ考えようとは思わない。しかし自分自身の存在の深みへ降りていこうと思う。そしてかつて人間精神が自然から逃れ出た時に、そこから持ち出してきた要素を、今この深みの中に見つけだそうと思う。

われわれ自身の本質を探究することこそが謎を解く鍵を提供してくれるに違いない。ここにいるわれわれは、もはや単なる「自我」ではない、「自我」以上の何かなのだ、と言えるような地点にまで到達できなければならない。 (P47-48)

 根深い対立を解決できない二元論や単なる還元論としての通常の一元論を克服するためには、「自分自身の存在の深みへ降りて」いかなければなりません。

 私たちの内を自然と異なる存在とみなすのではなく、また私たちの内部にあるものを自然存在に還元されるものとみなすのでもなく、「われわれ自身の内部にあって、自然と同質の働きをするもの」を「導き手」としなければならないというわけです。

 そこに、「思考」の重要性が認識されなければなりません。次章の「世界認識に仕える思考」では、その「思考」について考察がなされていきます。


 ■シュタイナー「自由の哲学」を読むメニューに戻る

 ■シュタイナー研究室に戻る

 ■神秘学遊戯団ホームページに戻る