ルドルフ・シュタイナー

「自由の哲学」を読む

第三章「世界認識に仕える思考」


 この章では、「思考」について検討が加えられます。少し難しい部分もありますが、非常に重要であり、また出発点でもありますので、少し詳しく見ていきます。

 まず、「観察」と「思考」について。

観察と思考こそは、それが意識化されたものである限り、あらゆる精神行為の二つの出発点なのである。どんな常識的な判断も、どんな高度の科学研究も、われわれの精神のこの二つの柱に支えられている。これまで哲学者はいろいろな基本的な対立から出発した。観念と現実、主観と客観、現象と物自体、自我と非我、概念と物質、力と素材、意識と無意識である。けれどもこれらすべての対立に観察と思考の対立が先行していること、これが人間にとっての最も重要な対立であることは、容易に理解できよう。(P51-52)

 「あらゆる精神行為」の出発点には、「観察」と「思考」があります。上記の引用にもあるような二元論の二項に橋を架けるというか、そうした二項対立に先行するものとして「観察」と「思考」があるということです。もちろん、ここで「それが意識化されたものである限り」とあるように、意識化されない精神行為というのもありえますが、通常、私たちは、何かを観察しそれを思考するというのが、精神行為の基本であるというのは間違いありません。

時間的な経過からいえば、観察は思考に先立っている。なぜなら思考をもわれわれは観察を通して知るのだから。・・・われわれの体験領域の中に入ってくるものは、すべてがまず観察を通して認められる。感覚、知覚、直観、感情、意志行為、夢や空想、表象、概念や理念、幻想や幻覚はすべて、観察を通してわれわれに与えられる。

ただ思考だけは、観察対象として、それ以外のすべてから本質的に区別される。・・・対象を観察し、それについて思考するのは、どんな生活にも見られる日常的な行為である。けれども思考を観察するのは、一種の例外の状態である。・・・思考を観察しようとする場合、それ以外の世界内容を観察する場合には正常な態度なのであるが、その正常な状態のままでは思考そのものを対象にできないような態度を思考に対して適用することになる。このことを人ははっきり意識していなければならない。(P52-53)

 私たちの体験はすべて「観察」を通じて与えられます。「観察」されないものを体験することはできないのです。しかし、「思考」だけは、通常の意味での「観察」の対象とはなりません。思考活動は、観察するほうの側にあるからです。通常、「思考」は、「観察」されたものについての「思考」という形をとります。

考えている人は、今自分が考えていることを忘れている。そしてこのことが思考の特徴をよく示している。思考する人が心を向けてるのは思考そのものではなく、自分が観察している思考対象なのである。

したがって思考を観察してまず第一に気がつくのは、それが通常の精神生活の中では観察の対象になっていないということである。・・・思考する私は、自分自身が生み出す思考にではなく、自分が生み出すのではない思考対象に眼を向けている。

さらにいえば、例外的な状態を設定して、私の思考そのものを考察の対象にしようとする場合でさえ、同じことがいえる。私は現在の思考活動を決して観察することはできず、ただ自分の思考過程についての経験を後から思考対象にすることができるだけなのである。(P55-56)

 「思考」が「観察」の対象となるのは、自分が「思考」したことを後でその対象とするときだけです。今まさに行なっている「思考」そのものを「観察」の対象とすることはできません。

生産的な活動をすることとそれを観察対象にすることは決して両立しない。このことはすでに旧約聖書の創世記が物語っている。最初の六日間に神は宇宙を創造する。そして宇宙を創造した後ではじめて、それを観察する可能性が生じる。「そして神は創造されたすべてを見、そしてそれが満足すべきものであると思われた」。このことはわれわれの思考活動にもあてはまる。それを観察しようとするのなら、それを創造していなければならないのである。

今行なっている思考の働きが観察できない理由は、思考が世界の他のいかなる働きよりもわれわれにとって直接身近に認識できる理由と同じである。われわれは思考の働きを自分で生み出す。だからこそその経過の特徴を知り、その働きの行なわれる仕方を理解する。他の一切の観察領域においては、間接的な仕方でしか、事実の対応関係や相互関係を知ることはできない。けれども思考の場合だけは、まったく直接的な仕方でそのような関連や関係を知ることができる。(P57)

 ここでは、聖書の創世記の興味深い例が引かれていますが、自らの思考活動を観察するためには、まずそれを創造していなければなりません。そして、「思考の働きを自分で生み出」しているのは、私たち自身ですし、その思考活動については、まったく直接的にそれを知ることができます。「思考」の重要性がここにあります。

どんな人でもそのつもりになりさえすれば、思考を観察するようになれるのだが、そうできた人にとってはこの観察があらゆる観察の中で最も重要なものになる。なぜなら自分自身が作り出したものを観察するのだし、自分とは無縁な対象にではなく、自分自身の活動に向かい合うのだから。自分の観察している対象がどのようにして生じるのかもわかるし、状況や関係も見通すことができる。そしてそれによって、他のすべての現象を解明することができると期待できるほどに確実な地点を獲得できたことになる。(P59)

 私たちは「思考」から出発することができます。それが私たちにとって、最も確実な「地点」なのです。そして、私たちの精神活動の出発点にある「観察」と「思考」において、その「観察」の最重要なものは、自らの思考についての「思考」であるといえます。

自然の場合には不可能な、この認識以前の創造、それをわれわれは思考行為の中では行なっている。思考を認識する以前には思考という創造行為を控えたい、と思うならば、いつまでたっても思考行為に辿りつくことはないであろう。われわれはともかく思考を始めなければならない。そうすれば後になって、自分の行なったことを観察し、それによって思考を認識できるようになる。思考を観察対象にする場合には、われわれ自身がまずその対象を作り上げる。その他の場合はすべての対象がわれわれの手から離れたところですでに存在している。(P63)

 私たちは「ともかく思考を始めなければ」なりません。同語反復のようになりますが、「思考」を始めなければ決して「思考行為」にたどり着くことはできません。まず、私たち自らが思考行為という創造行為を行ない、それを「観察」の対象とし、そうすることで「思考」を認識していきます。「思考」以外の場合にそうすることはできないのです。

だから疑いもなく、思考行為においてこそ、宇宙の秘密の一端を掴むことができるのである。そこで何かが生じるときには、必ずわれわれ自身がそれに立ち会っている。そしてまさにこのことが大切なのである。なぜ事物が私にとって謎めいた現われ方をするのか。その理由はその事物の成立過程に私が立ち会わなかったからである。私は出来上がった事物を眼前に持っている。けれども思考だけは、それがどのようにして作られるのかを私は知っている。だから宇宙の出来事を考察するとき、思考以上に根源的な出発点はどこにも存在しないのである。(P63-64)

 「思考」だけは、それがどのように生み出されてきたかを自らが辿ることが可能になります。そうした意味で、「根源的な出発点」としての「思考」の重要性を認識する必要があります。

われわれはまず思考をまったく中立の状態で、つまり思考を思考する主観にも思考対象にも関係させずに考察しなければならない。なぜなら主観の中にも、あらかじめ思考によって生み出された概念が含まれているからである。どんな存在の仕方が考えられるにしても、まず思考という形式をとらなければならない。このことを否定する人は、人間しての自分が宇宙創造の発端部分に属しているのではなく、その最後に属しているのだということを忘れている。したがって概念による宇宙認識を行なおうとするなら、時間的に原初の存在要素からではなく、われわれに最も身近なもの、もっとも親しみのあるものから出発しなければならない。ひと飛びで宇宙創成の発端に身を置き、そこから考察を始めるようなことはできない。現在の瞬間から出発し、そして後で生じたものから前に生じたものから前に生じたものへ遡っていかなければならない。地質学は現在の地形を説明するために突発的な天変地異を過去のどこかに想定しようとする限り、闇の中を手探りで行くしかない。どんな経過が現在の地球で演じられているかを探求するところから始め、そこから過去へ遡っていくときに、確かな地質学の基盤がはじめて獲得できたことになる。哲学が原子、運動、物質、意志、無意識のような、あらゆる種類の原理を前提にしようとする限り、その哲学は宙に浮いたものになってしまう。哲学者が最後に生じたものをその出発点にしようとするときにのみ、彼は目標に到ることができる。そして宇宙進化がもたらした最後のものこそ、思考に他ならないのである。(P567-68)

 「思考」は「二元論」を克服するための重要な鍵になります。「思考」を考察するということは、自らが創造したものを考察するということであり、その意味で二元論の以前に立ち戻ることができるからです。

 また、上記の引用に興味深く述べられているように、「宇宙創世の発端」から考察を始めるのではなく、「現在の瞬間」から出発しなければならないことからしても、その出発点としての「思考」が重要になってきます。「宇宙進化がもたらした最後のものこそ、思考に他ならない」のですから。


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