ルドルフ・シュタイナー

「自由の哲学」を読む

第四章「知覚内容としての世界」


 この章も前章に引き続き、「思考」の重要性についての基礎の部分について述べられていますので、少し難しい部分もありますが、少し詳しく見ていきます。

 まず、思考から概念が生じることについて。

概念と理念は思考によってはじめて獲得される。それらは思考をあらかじめ前提にしている。したがって、それ自身に基礎を持ち、他の何者からも規定されないという思考の本質を、そのまま概念に当てはまることはできない。(P74)

 たとえば、木を観察するとします。そのとき、その人の思考が、その木という観察対象に観念上の対応物を結びつけます。その観察対象が目の前から消えても、その観念上の対応物は残っています。それが、対象の「概念」だということができます。

 もちろん、そうした「概念」は、その他のさまざまな「概念」と「合法則的な仕方で全体として互いに関連づけられて」います。しかし、そうした概念は思考によってはじめて獲得されるといえます。

 また、次のことも重要です。

概念を観察の中から取り出すことはできない。(P74)

 いくら観察を重ねてみても、それだけではそこから概念をとりだすことはできません。たとえば、何か物音を聞いたとしても、その物音を何かの結果としてとらえ、その原因を探すためには、物音を聞くという知覚と結果や原因という概念とを結びつけるということがなければなりません。そこに「思考」が必要となるわけです。

 そうした「思考」と「観察」が結びつけられるのは、「人間の意識」という場においてです。

概念と観察とが出会い、互いに結び合うのは人間の意識という舞台においてである。そしてこう述べることで、この(人間)意識が特徴づけられたことになる。すなわち意識とは思考と観察の仲介者なのである。対象を観察するだけなら、対象は外からわれわれに与えられたものとして現われるが、思考する場合には、人間は自分を能動的な存在にする。その人は対象を客観と見、自分を思考する主観と見る。思考を観察するものへ向け、対象意識を持つ一方で、思考を自分自身へ向け、自分についての意識、つまり自己意識を持つ。人間の意識は思考する意識である故に、必然的に自己意識でもなければならない。なぜなら思考の眼を自分自身の活動に向けるとき、思考は自分の最も固有の本性である主観を客観対象として持つのだから。しかもわれわれは思考の助けを借りてのみ自分を主観として措定し、そして自分と対象とを対置させることができる。だから思考を単なる主観的な活動であると解することは許されない。思考は主観と客観の彼方にあって、この二つの概念をすべての他の概念と同じように作り上げるのである。(P76-77)

 思考は、主観と客観という両概念を超えています。思考が外的対象に向けられたときそれが「客観」と呼ばれ、思考が自分自身の意識活動に向けられたときそれが「主観」と呼ばれるわけです。そこに、人間の「二重の本性」がでてきます。それについて、この章から次の章に渡って詳細に見ていくことになります。そういう視点から「思考」を検討していくことで、最初の問いかけの一つである「認識の限界」についての問題に迫っていきます。

人間の二重の本性は次の点に基づいている。第一に人間は思考することによって自分と世界を包摂する。第二に人間は思考によって自分を事実と向かい合う個体にする。(P77)

 さて、ここでシュタイナーはいまだ概念と結びつけられることのない「観察対象」という要素、いわば、「純粋観察内容」ということを提示し、その直接的に与えられている観察内容と意識する主観との関係を、思考による省察を通して明らかにしようとしています。また、シュタイナーは、そうした直接的な知覚対象を「知覚内容」と名づけています。

そこで次のような問いが生じる。「それでは一体、これまで観察対象と名づけてきた、意識の中で思考と出会うところの要素は、どのような仕方で意識の中へ入ってくるのか」。この問いに答えるには、われわれの観察領域の中から、思考によって持ち込まれたすべてを取り除かなければならない。なぜならわれわれのその時々の意識内容は、常に多様極まりない仕方で概念と絡み合っているからである。

そこで次のような情景を心に描いてみよう。完全に発達した人間知性を身につけた存在が無から生じて、いきなり今、世界と向かい合っているとするのである。そのような存在が思考活動を行なう以前に見出すところのものが、純粋観察内容であろう。その場合、世界はこの存在に対して、色、音、圧力、熱、味、匂い等の知覚内容の、互いに関連を持たない寄せ集めしか示さないであろう。快、不快の感情もそこには働いているかもしれない。このような寄せ集めが、思考内容を持たない純粋観察の内容である。このような観察内容に対して、思考はそのためのきっかけが見出されるや否や活動を開始しようと待ちかまえている。そしてそのようなきっかけが見出されることを経験が教えてくれる。思考は一つの観察要素から別の観察要素へと糸を張りめぐらす。そして観察要素に対応する概念を結びつけ、それらをひとつの関連の下にもたらす。(P77-78)

そこでこれから私はひとつの言葉を使用しようと思うが、この言葉は色々に使われているので言葉の使用についてここで読者との合意を得ておくことが必要のように思われる。私は上に述べた直接的な知覚対象を、知覚内容と名づけようと思う。これは意識的な主観が観察を通して、対象についての知識を得る場合に用いられる言葉である。したがって、観察の経過ではなく、観察の対象をこう名づけるのである。(P78-79)

 第二章の後半では、素朴実在論の考え方と批判的観念論の考え方が検討され、それがともに妥当なものではないことが詳細に検討されていきます。

 まず検討されるのは、素朴実在論の考え方です。

素朴な人は、自分の知覚内容を観察するとき、それが媒介を経ずに直接現われるので、それを自分からまったく独立したものだと思っている。そのような人は、樹木を見るとき、その樹木が見える通りの姿で、それぞれの部分が示す通りの色彩で、今見ているその場所に立っている、と信じている。(P79)

 こうした素朴実在論があまりに素朴すぎるものだということは明らかですが、通常のものの見方というのは、ほとんどこうしたものだということも確かです。しかし、ヴァーチャルリアリティということが取りざたされるようになっている現代、自分が知覚している世界を素朴に信じることはもはやできません。

 そうした素朴実在論への批判として、知覚像の主観性を挙げる見方があります。そしてそれを押し進めると、「知覚行為そのものなしにはそもそもいかなる知覚対象の存在も考えられない」という見方まで、必然的に行き着くことになります。

 その代表者がバークレーです。バークレーについて見ていくのはとても興味深いのですが、ここでは省略します。そういえば、ヨースタイン・ゴルデルの「ソフィーの世界」にもこのバークレーはとりあげられていたと思います。

知覚像はさしあたり主観的なものであると言える。われわれの知覚内容が主観的な性格を持っているということを認めると、そもそも何か客観的なものがその根底に存するかどうかも疑問に思えてくる。例えば赤い色や特定の音の知覚がわれわれの身体組織の在り方を前提にしなければ不可能だ、ということを知らされるとき、そのような主観的な身体組織の在り方なしにはそもそもいかなる知覚対象の存在も存在し得ない、と思わざるを得ないし、知覚行為そのものなしにはそもそもいかなる知覚対象の存在も考えられない、と思わざるを得ない。ジョージ・バークレーは、このような観点の古典的な代表者である。彼の意見によれば、知覚内容にとっての主観の意味を知った瞬間に、人はもはや意識する精神なしに存在する世界を信じることなどできなくなる。(P82)

 こうした見方に異議を唱えるためには、知覚内容と主観について深く考察していかなければなりません。

以上の主張に反対しようとすれば、知覚内容が私の主観の在り方に規定されている、という観点から一旦は離れなければならない。けれども、どのような知覚機能が知覚内容を生じさせるのかを述べることができれば、この問題は本質的に異なってくる。その場合には、知覚行為を行なっている間に、何が知覚内容として生じてくるかを知るであろうし、知覚される以前の知覚内容の中に何がすでに存在しているのかについても、答えることができるであろう。(P84)

 ここで考察されるのは、「知覚する主観」についてです。

これと共に、われわれの考察は知覚の対象から知覚する主観へ向けられることになる。(P84)

 私たちは、外的な事物を知覚しますが、自分自身をも知覚します。自分自身を知覚する場合、外的な事物を知覚しているのが自分であるということも意識します。

 また、外的な事物を、たとえば「木」を知覚した後、外的な知覚がなくなっても、その木の像は残り、それが自分の自我の内容として取り込まれます。その要素を「木についての私の表象」ということができます。

 「表象」というと哲学用語でもあり、少し分かりにくいかもしれませんが、ドイツ語ではその「表象」は、Vorstellungで、何かを眼前にあるかのように思い浮かべる、心に描く、想像することという意味でもあります。

私は自分以外の事物を知覚するだけではなく、自分自身をも知覚する。私自身を知覚する場合、その知覚内容は常に現われては消える知覚像なのではなく、永続する私自身である。他の知覚内容を持っている間にも、私という知覚内容はいつでも意識の中に立ち現われることができる。特定の対象の知覚に専念しているとき、私はまずこの対象についての意識だけをもっている。

しかしそれに加えて私自身についての知覚内容も現われる。その時には、対象について意識するだけではなく、その木を見ているのが私であるということをも意識する。私はまた、木を観察しているとき、私の中に何かが生じていることをも意識する。その木が私の視野から消えてしまっても、私の意識の中にはこの知覚行為の名残として、木の像が残る。この像は、観察している私の自我と結びついていた。私の自我はそれによって豊かにされた。私の自我の内容は新しい要素を自分の中に取り込んだ。この新しい要素を私は木についての私の表象と呼ぶ。私の自我の知覚の中でこの表象を体験しなかったならば、私は決して表象について語れないであろう。知覚内容は現われたり消えたりするかもしれない。私はそれが眼の前を通過するままにしておく。

しかし私が自分の自我を知覚するとき、そしてその自我の内容が知覚内容と共に変化するのを認めるとき、はじめて私は対象の観察と私自身の状態の変化とを関連づけて、そして表象が生じたことに気づかされるである。(P84-85)

 外的な諸事物などを知覚するように、私たちは、こうした「表象」を自我の中に知覚します。そして、外的な対象を「外なる世界」と呼び、自分自身の知覚内容を「内なる世界」と呼び、その両者を区別することができます。その両者の関係が誤解されることで、近代の哲学は大いなる誤謬に導かれました。

 先のバークレーの見方と混同されやすいのですが、この見方はそれとは違い、知覚されなければ外的世界は存在しないというのではなく、私たちが知覚するのは表象だけであって、「物自体」について知ることはできないというのです。これは、カントのような見方に代表されます。

私は、外なる対象の中に色や音を知覚するのと同じ意味で、表象を自我の中に知覚する。このようにしてはじめて私は自分が向かい合う対象を外なる世界と呼び、私自身の知覚内容を内なる世界と呼んで区別することができる。内なる表象と外なる表象の関係を誤解することによって近代哲学は最大の誤謬に陥った。内なる変化の知覚、自我の変容の経験が前面に押し出され、この変化を惹き起こした外なる対象はまったく視界から消されてしまった。そして次のような言い方が現われてきた。「われわれの知覚するものは対象ではなく、われわれの表象にすぎない。私の観察対象である机そのものについて、私は何も知ることができない。机を知覚している私自身の中に生じる変化だけしか知ることができない」。(P84-85)

 しかし、そうした「批判的観念論」の立場は、自分自身を知覚するときだけは、素朴実在論的になっています。「自分自身の生体を知覚するときだけは、それを客観的に通用する事実であると考えている」わけです。ですから、批判的観念論の立場は、自己矛盾しているといえます。

素朴な意識の観点を素朴実在論として退け、自らを批判的観念論と名づけている、以上に述べた立場の誤りは、一つの知覚内容だけを表象であると規定しながら、別の知覚内容を自分が克服したと思っている当の素朴実在論のやり方で受け容れている点にある。この立場は知覚内容も表象であることを証明しようとしているが、素朴なことには、自分自身の生体を知覚するときだけは、それを客観的に通用する事実であると考えている。そしてその上何よりもひどいことには、自分がその間に道をつけることのできなかった二つの観察領域を混同していることに気づいていないのである。(P94)

以上の点から次のことが明らかになる。−−批判的観念論は知覚世界に安住したままでは、何を探究しようとも、自分の立場を証明できないし、知覚内容の客観的性格を否定することもできない。(P95)

 この考察を次章でさらに見ていくことになります。


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