ルドルフ・シュタイナー

「自由の哲学」を読む

第五章「世界の認識」


 第四章では、素朴実在論もそれを批判した批判的観念論も、その証明に説得力はなく、実のところ、批判的観念論は、自分自身を知覚するときだけは、素朴実在論的になってしまうということが述べられました。

さらに、この章では、その批判的観念論には、二つの立場、つまり、「絶対的幻想主義」及び「超越論的実在論」が可能であり、その立場はともに素朴実在論と同じであるということが述べられます。人生を夢と認識しているにしても、その夢を幻想としてとらえ、その幻想の背後にはなにもないととらえるか、その背後には「実在」があるととらえているかという二つの立場で、どちらにしても、自分自身の知覚に関しては、「素朴実在論」でしかなく、結局、どこにも確固とした足場がないわけです。

ありのままの人生を夢と認識している人がこの夢の背後に何も存在していないと思うのか、それとも夢の表象内容を現実の事物と結びつけているのかは、どうでもよい。いずれにしてもその人にとって、人生そのものは学問的な興味の対象にはならなくなるに違いない。われわれの世界が夢以外のものではないと信じる人にとって、すべての学問は無意味なものでしかない。けれども、表象から事物を推理できると信じる人にとっては、学問は「物それ自体」を研究することにあると言えるであろう。前者の世界は絶対的幻想主義という名で呼ぶことができ、後者の立場はその最も徹底した代表者であるエドゥアルト・フォン・ハルトマンの言うように、超越論的実在論と名づけられよう。

この二つの観点は、知覚内容を研究することによって、外界の中に足場を固めようとする点で素朴実在論と同じ立場に立っている。けれども知覚内容のどこにも確かな地点を見いだせないでいる。(P100-101)

 こうしたことを踏まえながら、「思考」の重要性が示唆されていきます。

 知覚内容について何かを語るためには、思考が不可欠だといえます。

私が知覚内容について何事かを語ろうとすれば、思考の助けを借りなければならないのである。世界は私の表象であると語るとき、私は思考のいとなみの成果を語っているのである。私の思考が世界を対象にできなければ、思考のこの成果は誤謬だったことになる。知覚内容とそれについての言表との間には、思考が介在している。(P103)

 また、意識を事物とは関係のないものであり、関係のないところから世界を考察しているのが思考であるとし、その思考内容を人の頭の中だけに存在するものだという考え方があるが、そういう人に対しては、次のように問わねばならないとシュタイナーは言います。

どのような根拠から、君たちは思考内容なしの世界を出来上がったものと主張できるのか。世界が人間の頭の中に思考を、植物の中に花が咲きでるのと同じ必然性をもって、生じさせるのではないか。種子を地面にまけば、そこから根が生え、茎が生じ、葉を拡げ、花を咲かせる。そのような植物を眼の前に置いてみたまえ。その植物は、君たちの魂の中で、特定の概念と結びつく。一体なぜそのような概念が葉や花と同じようにこの植物界全体に属している、とは言えないのか。葉や花はそれを知覚する主観なしにも存在するが、概念は人間がその植物の前に立ったときはじめて現われる、と君たちは言うのか。その通りかもしれない。しかし花や葉もまた、大地に種がまかれ、そこに光や空気や水が存在するとき、つまり葉や花に成長する条件が与えられたとき、はじめて生じてくるのではないのか。植物についての概念もまた、同じように、思考する意識がその植物に出会ったときにはじめて生じてくるのだ。(P104)

 「世界が人間の頭の中に思考を、植物の中に花が咲きでるのと同じ必然性をもって、生じさせる」という示唆は、とても重要な点です。こうした点を「いかにして超感覚的世界の認識を得るか」に述べられている点と比較して読まれればとても興味深いところなのですが、ここではそれにはふれません。ここで重要なのは、思考と事物を切り離して考えることはできないという点です。

単なる知覚内容の総計をひとつの全体であり、それに対する思考による考察を事物と無関係の付加物であると見なすのは、まったく恣意的なことである(P105)

 

 「現実」は、「知覚」と「思考」という二つの側面から現われてきます。

はじめは対応する概念なしに、対象だけが与えられる。このことは対象に基づく事柄ではなく、われわれ自身の精神構造に基づく事柄である。どのような事物の場合にも、現実は二つの側面から考察する者の前に現われてくる。つまり知覚と思考の両面からである。そしてこのことは、われわれ人間存在の全体的な在り方に基づいている。(P106)

 人間は「限界づけられた存在」ではありますが、それ故に、個別的であるということが可能となります。「宇宙の出来事」が即「われわれの出来事」であれば、その両者の間に区別がないということなのですから。

人間は限界づけられた存在です。第一に人間は他の諸存在の中の一存在である。人間の生活は空間と時間に従っている。それ故、常に全宇宙の特定部分だけが彼に与えられている。しかもこの特定部分は、時間的にも空間的にも周囲の他の存在と結びついて存在している。われわれの生活が事物と深く結びつき、すべての宇宙の出来事が同時にわれわれの出来事でもあるとすればわれわれと事物との間の区別は存在しなくなる。しかしその場合には、われわれにとっていかなる個別も存在しない。総ての出来事が持続的になり、互いに移行しあう。宇宙は統一体となり自己完結的な全体性を成し、出来事の流れはどこにおいても中断されない。われわれが限定されているからこそ、実際には個別的でないものも、個別的に現われる。例えば赤色という個別の性質が単独に存在することは決してない。いたるところで他の色に取り巻かれている。そしてそのような他の色なしには、赤色も存在し得ない。しかしわれわれには、世界から特定の断面を切り取り、それを自身として考察することが必要である。われわれの眼は、多様な色彩全体の中から、個々の色を一つ一つ取り出して把握することができ、われわれの悟性は互いに関連し合った概念組織の中から、個別概念を取り出して理解することができる。この取り出す作業はひとつの主観的な行為であって、それはわれわれ自身が宇宙経過と一体なのではなく、多くの存在の中の一存在でしかないという事情によるのである。(P107-108)

 自分自身を意識するということは、私たちが外的な事物を知覚しそれを意識するのと同じく、その対象は違っても、知覚行為に基づくものです。

 「私」は、「私の人格全体」を統一的なものとして把握するために、自分自身を知覚しますが、それはあくまでも「私」の領域においてのものです。

 しかし、「私」は「思考」を通して、「外界の個別的な知覚内容」だけでなく、自分自身の知覚内容をも世界に関連づけます。私たちの感覚や感情は個別的なのに対して、「思考」は普遍的なのだといえます。

 また、「思考」は、個別的な感覚や感情に結びついていることで、個別的な性格もまた有しています。

大切なのは、われわれ自身と他の諸存在との関係を明らかにすることである。この関係を明らかにすることとわれわれが自分を意識することとは異なる。自己の意識化は、すべての他の事物の意識化と同様に、知覚行為に基づいている。自己知覚は、例えば黄色、金属の輝き、硬さ等の諸性質をもとにして、「黄金」という統一体をまとめあげるのと同じような仕方で、私の人格全体をまとめ上げるために必要な諸性質の合計を私に示してくれる。自己知覚は私に属している領域から私を連れ出してはくれない。この自己知覚は、思考による自己規定と区別されねばならない。思考を通して外界の個別的な知覚内容が世界全体に関連づけられるように、私は思考を通して自分自身の知覚内容を宇宙のいとなみの中に組み入れる。自己知覚は私を特性の限界内に閉じこめる。思考はこのような限界にとらわれることがない。この意味で、私は二重存在であると言える。私は自分の人格の領域内に閉じこめられている。けれども私は限定された私の性格を高次の領界から規定する働きの担い手でもある。われわれの思考は感覚や感情のように個別的ではない。思考は普遍的である。思考の中に個別的な特徴があるとすれば、それは思考が個別的な感情や感覚に結びつけられているからに他ならない。普遍的な思考の中に含まれている個別的な色合いによって、人間の思考は互いに区別される。三角形を例にとれば、それはただ一つの概念を表わしている。この概念の内容にとって、Aなる人間がその概念を用いるか、Bなる人間がそれを用いるかはまたくどちらでもいい。それにも拘わらず、この同じ概念が異なる意識の担い手によって、異なる仕方で、それぞれ個別に取り上げられる。(P107-109)

 

 感覚、感情、知覚は私たちを個別存在とし、「思考」はその個別性を宇宙全体と関連づけ、普遍化します。そして、「思考」によって私たちには「認識衝動」が生み出されます。なにかを認識したいと思うのは、私たちに「思考」があるからなのです。私たちは、思考することによって、外的な事物に概念を結びつけることができます。そのことによって、内的なものと外的なものが結びつけられます。私たちは、知覚内容に概念を結びつけることによて認識行為を行ない、事物を明らかにしようとするのです。

思考はわれわれの特殊な個性を宇宙全体と関連づける。感覚と感情と(さらに知覚と)は、われわれを個別的な存在にする。思考するとき、われわれはすべてに通用する全一の存在となる。われわれの本性が二重であることの深い根拠は、まさにこの点にある。われわれは自分の中にそれ自身絶対的な力が生まれでようとしているのを見る。その力は普遍的である。しかしわれわれがその力と出会うのは、宇宙の中心からそれが流出するときではなく、周辺の一点においてである。宇宙の中心から流出するときのその力を知ることができたとすれば、われわれは、意識を持った瞬間に、全宇宙の謎を解くことができたであろう。けれどもわれわれは周辺の一点に立っている。そして自分の存在が一定の限界内にとらわれていることを知っている。だからこそわれわれは、自分の外に存る領域を、宇宙の普遍存在からわれわれの中に突出してくる思考の助けを借りて、認識していかなければならない。われわれの内なる思考は、われわれの特殊存在を覆い、われわれを宇宙の普遍存在に結びつける。その結果われわれの中には認識衝動が生み出される。思考を持たぬ存在はこのような衝動を持たない。そのような存在に別の事物が相対するときにも、そこにどんな問いも生じない。別の事物は外的なものであり続ける。思考する存在の場合、外なる事物に概念が結びつく。事物を外からではなく、内から受けとめることができるのは、この概念のおかげである。内なる要素と外なる要素との調整と結合は認識によって果たされる。このように、知覚内容は完結したものではなく、総体としての現実の一側面なのである。他の側面が概念である。認識行為とは知覚内容と概念との総合に他ならない。或る事物の知覚内容と概念とがその事物の全体を明らかにする。(P109-110)

 ここで、シュタイナーは、思考内容が内から最初に現われるときの形式を「直観」と呼び、その重要性について述べています。何かを認識しようとするときに、その「直観」と「観察」が源泉となります。われわれは世界を観察し知覚内容を得、直観によって思考内容を得るわけです。

外からわれわれに与えられる知覚内容とは反対に、思考内容は内部から現われる。その内からの内容が最初に現われる際の形式を、われわれは直観と呼びたい。直観の思考に対する関係は、観察の知覚に対する関係に等しい。直観と観察はわれわれの認識の二大源泉である。内部にふさわしい直観を持たぬ限り、われわれはもっぱら異質な存在として、観察する世界に向かい立つことになる。直観は知覚だけでは不十分な現実部分をわれわれのために補ってくれる。事物に対応する直観を見出す能力のない人には完全な現実は閉ざされ続ける。(P114-115)

 個々の事物は「世界」から切り離されているのではなく、われわれの主観によって、切り離されたものとしてとらえられるのです。ですから、世界を統一的にとらえようとするならば、観察−知覚によって個別的に切り離されたものを、直観−思考によって再統合していくことが必要になります。

世界全体から切り離された事物など存在しない。すべての区別はわれわれの主観的な在り方の中でのみ存在する。上と下、前と後、原因と結果、対象と表象、素材と力、客観と主観等々において、世界全体がわれわれの中ではばらばらな状態で存在している。観察するわれわれに対して個別的に現われるものが、直観によって関連づけられた統一世界の中でひとつに結びあわされる。知覚によって分けられたものを、われわれは思考によって再びひとつに関連づけるのである。(P115)

 われわれに直接与えられているのは、「思考」と「知覚」だけです。そして、ある知覚内容と別の知覚内容とを組み合わせ、それらの相互関係を明らかにするのが「思考」です。たとえば、Aという知覚内容があるとします。そして、別のB、C、D・・・といった知覚内容があるとします。その両者を結びつけるためには、どうしても思考が必要です。ある原因とされる知覚内容と結果とされる知覚内容を関連づけるのも思考です。思考がなければ、その関連づけは不可能なのです。


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