ルドルフ・シュタイナー

「自由の哲学」を読む

第六章「人間の個体性」


 第四章から五章では、素朴実在論と批判的観念論の考え方が検討されました。

 それは、「樹木を見るとき、その樹木が見える通りの姿で、それぞれの部分が示す通りの色彩で、今見ているその場所に立っている、と信じている」ような通常多くの方が持っているような素朴実在論の余りの素朴さ。そして、それを批判する知覚像の主観性から、「知覚行為そのものなしにはそもそもいかなる知覚対象の存在も考えられない」という見方や知覚されなければ外的世界は存在しないというのではなく、私たちが知覚するのは表象だけであって、「物自体」について知ることはできないというような見方も、結局は、「自分自身の生体を知覚するときだけは、それを客観的に通用する事実であると考えている」というように素朴実在論になってしまっているということが述べられていました。

 その上で、「現実」は、「知覚」と「思考」という二つの側面から現われてくるが、「私」は「思考」を通して、「外界の個別的な知覚内容」だけでなく、自分自身の知覚内容をも世界に関連づけるということが述べられ、「思考」の普遍性ということ、つまり、「思考」においてだけは、素朴実在論が妥当性をもっていることが述べられました。

 ここでいう「思考の普遍性」は、「考えることはいつも正しいのだ」というようなことではないというのはもちろんのことです。私が外界にせよ自分自身にせよ、その知覚内容を世界に関連づけるのは「思考」なのだということがここでは述べられているのです。

 さらに、「思考」は、普遍性をもってはいるが、個別的な感覚や感情に結びついていることで、個別的な性格もまた有しているということもまた述べられていました。

 この章では、その「人間の個体性」について検討されていきます。「個」が問題にならないところでは、「自由」は意味をもちません。その意味で、「個」であることの意味を見ていく必要があり、そこに「思考」と「感情」のダイナミズムがあるといえます。

 思考は私たちを世界に結びつけます。そして、感情が私たちを個体にします。私たちが「個的存在」として独自の価値をもって生きているということは、自己認識とともに自己感情を持っていることによっています。

 思考の普遍的性質への方向性は、私たちの個としての独自性を失っていく方向であり、感情生活の方向は、普遍的存在から切り離されていく方向です。感情生活が世界全体にとって意味を持ち、真の個性をもった存在となるためには、感情が概念と結びつけられ、それが宇宙に組み込まれていく必要があります。つまり、自分の感情を理念の世界にまで高めていくことです。

 思考はわれわれを世界に結びつける。感情はわれわれを自分自身の中に連れ戻し、はじめてわれわれを個体にする。もっぱら思考し、知覚するだけの存在であったとすれば、われわれの生涯は何の特徴もないものとして、どこかへ消え去ってしまうであろう。自我が単なる認識の機能しか果たすことができないとしたら、われわれはどうでもよい存在になってしまう。自己認識と共に自己感情を、事物の知覚とともに快、不快を感じることによってこそ、われわれは個的存在として生きている。個的存在の意味は自分と周囲の世界との概念関係によって汲み尽くすことはできない。存在自身が独自の価値を担っているからでる。

 人は思考による世界考察よりも、感情生活の方が現実的な性格をより豊かに担っている、と思うかもしれない。それに対しては、感情生活はまさに私の個体にとってのみ、そのような豊かな意味を持っている、と答えることができる。私の感情生活が、世界全体にとっても価値を持ち得るのは、感情、つまり自分の自我を知覚するときの知覚内容が概念と結びつき、その廻りを辿って宇宙に組み込まれるときだけである。

 われわれの人生は、普遍的な宇宙事象と自分の個的存在との間を絶えず行ったり来たりしている。思考の普遍的性質の方へ昇っていけばいくほど、そしてその結果個的なあり方がもっぱら概念の例証となり範例となってしまえばしまうほど、われわれは個人としての独自のあり方を失ってしまう。個的生活の深みへ降りていけばいくほど、そして感情を遠く外界の経験に共鳴させればさせるほど、われわれは普遍的存在から切り離される。自分の感情を遠く理念の世界にまで高めていくことができる人こそ、真の個性をもった存在であると言えるであろう。頭の中に収められた最も普遍的な諸理念でさえもはっきりとその人との特別の関係を示しているような人もいるし、個人的性質の痕跡をまったく持たない概念だけを示している人もいる。後者の概念はまるで血や肉をもった人間のものとは思えないくらいである。(P128-129)

 さて、ここで「表象」ということについて見ていくことにします。

 なにかを知覚するとき、その知覚によって知覚内容が形成されます。そして、それが眼の前から取り去られた場合にも、それを思い浮かべるというのが「表象」です。

 花を見るとします。その後、その花が目の前からなくなってしまっても、それを思い浮かべることができます。それが、花の表象です。

 花を見てその知覚内容を得るときには、私の中では思考も同時に働きはじめます。私の「思考組織に組み込まれている直観や概念」が、その花の知覚内容と結びつきます。その結びつきがないとしたら、花は花として認識されることはありません。そして、その花の知覚内容が目の前から消えてしまった後残るのは、その見るという知覚行為が形成した「この知覚内容に関する私の直観」です。それが花の「表象」であり、そこに大きな個人差が生じてきます。花についての豊かな表象を得られる人もいれば、そうでない人もいるわけです。

 ですから、「表象」というのは、特定の知覚内容と結びつき、それと関わり続けている特殊な概念であるといえます。

 また、それは「私の直観」であるという意味で、「個体化された概念」です。

 そして、「そこから表象が作り出されるものの総体を経験と呼ぶ」ことができます。

 豊かな経験を持っているというのは、「個体化された概念」を豊富に持っているということです。花を見ても、それを豊かな経験にできる人も、できない人もいます。花と関わるための概念を持っていないらば、それは経験にならないわけです。また、いくら豊富な概念を持っていても、花に対する感覚の能力に欠ければ、それも生き生きとした経験になるとはいえません。

ひとつの知覚内容が私の観察地平の上に立ち現われる瞬間に、思考も私の中で働き始める。私の思考組織に組み込まれている直観や概念がこの知覚内容と結びつく。この知覚内容が私の視界から消えてしまうと、後に何が残るのか。それは知覚行為が形成したこの知覚内容に関する私の直観である。後になってこの知覚内容との関係をどれほど生き生きと眼前に思い浮かべることができるかは、私の精神的、身体的な組織の機能如何にかかっている。表象とは特定の知覚内容に関わる直観に他ならない。それはかつての知覚内容と結びつき、そして常にこの知覚内容との関わりを保ち続けている一種の概念でもある。(P126)

 表象とは個体化された概念なのである。だからこそ現実の事物を表象が表現できるのである。或る事物のまったき現実性は、概念と知覚内容との結びつきによって観察する瞬間に生じる。概念は知覚内容から個的な形姿を、特定の知覚内容との関係を受け取る。知覚内容の特徴を担った概念が私たちの中に生き続けて、その事物の表象を作り出す。この同じ概念が別の第二の事物と結びつくとき、われわれはその第二の事物を第一の事物と同じ種類に属するものとして認識する。われわれは同じ事物と二度目に出会う場合、自分の概念組織の中にそれに対応する概念を個体化された概念として見出す。この概念は対象に独特の関わり方をしているので、それによってわれわれは対象を再び認識するのである。

 このように表象は知覚内容と概念の間に立っている。それは知覚内容を指示する特殊な概念なのである。

 そこから表象が作り出されるものの総体を経験と呼ぶことができる。多数の個体化された概念を持っている人は、豊かな経験の所有者であろう。直観の能力を持たない人は、経験を手に入れることが下手である。その人は対象を自分の視界から失ってしまう。なぜならその人には対象と関わり合うべき概念が欠けているからである。よく発達した思考能力を持ちながら、感覚能力が粗雑なので十分な知覚活動を行なえない人も、同じように豊かな経験を集めることができにくい。そのような人は何らかの仕方で概念を手に入れることはできるであろうが、その人の直観には特定の事物に対する生き生きとした関わりが欠けているのである。うわの空で旅行する人も、抽象的な概念組織の中に埋没している学者も、豊かな経験を獲得することができない。(P126-127)

 「表象活動は、概念の営みに個的な特徴を与え」ます。知覚内容には、人それぞれに特有の概念が結びついています。また、私たちの身体も個々人でそれぞれ異なっていますから、感情と知覚内容の結びつきもさまざまです。

 感情が私たちを個体にします。感情によってはじめて、概念が具体的な生命を獲得することができます。思考は私たちを世界に結びつけます。思考内容に欠けた感情は、世界と結びつくことができません。

 真の意味の個性、人格を育てていくためには、感情を高次の普遍的な理念へと高めることができるような感情と思考のダイナミックな総合、止揚がなされなければなりません。

 表象活動は、概念の営みに個的な特徴を与える。どんな人も世界を観察する独自の立場を持っている。どんな人の知覚内容にもその人の概念が結びついている。それぞれ特別な仕方で普遍的な概念を思考するのであろう。この個別な在り方は世界における各人の立場から生じたものであり、それぞれの生活環境と結びついた知覚領域の所産なのである。

 この特定の在り方に身体組織に依存した別の在り方が相対している。われわれの身体組織は完全に個的な在り方をしている。われわれはひとつひとつの感情を、さまざまな強さの度合いをもって知覚内容に結びつける。そしてこのことがわれわれの独自な人格の特徴となっている。生活環境のすべての特殊性を考慮に入れたとしても、このことがなお残余の部分として残される。

 思考内容を欠いている感情のいとなみは、世界との関連を失っている。全体との関係を失わないでいる人の事物認識は感情の育成、発達と手を取り合って進んでいく。

 感情は概念が具体的な生命を獲得するための最初の手段である。

(P129-130)

(第六章・了)


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