ルドルフ・シュタイナー

「自由の哲学」を読む

第一部「自由の科学」のおわりに&補足


 第一部の終わりにあたって、おそらくこうした議論のなかで生まれるであろう

疑念について補足しておくことにしたいと思います。

 たとえば、多くの宗教家やそれに類する立場の方は、ここで述べたようなシュタイナーの議論とは対立するかのように「思考を落とせ」「思考を捨てよ」「思考から自由になれ」というように「思考」を否定的にとらえるのがもっぱらのことです。

 もちろん、既成の思考方式にとらわれないで、そこから自由になることは必要です。あらゆる恐怖や不安やその他のさまざまは、否定的で固定的な思考図式にとらわれていることから生じるものです。

 しかし、思考の働きなしに、この世界において、現実を理解できないのも確かです。現実を理解できないというのは、それぞれが知覚している内容を、いかなる概念にも結びつけることができないということです。

 つまり、何かを見てもそれを見ているとはいえず、何かを聴いてもそれを聴いているともいえないのです。外界はただの知覚内容の戯れになり、そこには何等の意味も生まれてはきません。それは、生来盲目の方が、手術によって眼の器官を得たところで、それが視覚になることがきわめて難しいということからもわかります。

患者が外科手術で視力を与えられれば、もう外界を見ることができるというのは誤りである。確かに目は見る力を手に入れた。だが、この力の使用法は一から身につかなければならない。そして、これが全体として、見るという行為を構成するのである。手術それ自体には、ものが見えるように目の準備をすること以上の意義はない。教育がその最も重要な要因である。……先天的に目が見えない人に視力を与えるのは、外科医の仕事というより、むしろ教育者の仕事である。(アーサー・ザイエンス「光と視覚の科学」白揚社/19979.25/P16/事例紹介より)

 人間が意味深く生きているという事は、生まれて以来、思考によって知覚内容を概念に結びつけていくという数限りない作業によって、それなりの現実を獲得していくということでもあるのです。

 もちろん、それは、そうした作業を通じて、現実を固定化し、とらわれていくというドグマのプロセスでも同時にあるのも確かですが、最初からその作業をまったくしないで生きると言うことは不可能です。

 ですからむしろ、重要なのは、そうしたドグマのプロセスから自由になるために、みずからの思考を低次なものから高次なものに鍛えていくことではないでしょうか。

 シュタイナーは、そのために「直観」ということを重視しています。これについては、第五章の「世界の認識」でもふれました。

 シュタイナーは「純粋思考」といったことも述べていますが、これは少しアプローチの仕方は違え、西田幾多郎が「善の研究」で述べている「純粋直観」ということと近しい概念だと思われます。

 「思考をはなれよ」という要請は、既成の思考にとらわれていることによるもので、思考がダイナミックなものであるかぎり、思考は否定すべきものというよりは、それを鍛え高めていくのが人間としては必要なことなのではないでしょうか。

 そして、思考がそういう在り方をしている限り、宗教的な意味での高次の在り方と矛盾するものではないと思うのです。むしろ、安易に思考を否定してしまうことの危険性は、権威に盲従してしまうような信仰に安住てしまうことにもなりかねません。そこでは、人間は「自由」であることを否定されています。

 「思考」より高次の在り方を獲得するにせよ、「思考」を最初から放り出してしまうことは無意味なことです。物事を自分でしっかりと考えることができてはじめて、新たな道がそこに開かれているということでなくてはならないと思うのです。


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