ルドルフ・シュタイナー

「自由の哲学」を読む

第七章「認識に限界はあるのか」


 この章で、第一部「自由の科学」が終了し、次章の第八章から第十四章までの第二部「自由の現実」が始まります。

 「1918年の新版のためのまえがき」の最初に、次のような人間の魂が抱えている二つの根本問題が提示されていました。

問題の一つは、われわれが人間の本性を考察する場合、いくら体験や学問を深めていっても、それだけでは十分に解明できない事柄にどうしても行き着いてしまうが、そういう事柄のすべてにも有効な考察方式が存在するのか、ということである。懐疑論や批判主義はこの問題を解決不可能な領域に追いやっている。もう一つは次のような問題である。意志する存在である人間は自分を自由だと見なすことができるのか、それともそのような自由があるように思えるのは、自然の現象だけでなく、人間の意志をも支配している必然の糸を、人間が見落としているからなのか、自由とは単なる幻想なのか。(略)

この二つの根本問題の中の第二の問いを通してどのような体験を持つかは、第一の問いにどう対処するかによって定まる。(略)

人間本性を考える上で、一切の他の認識の支えになってくれるような、ひとつの観点が存在することを証明しようと思う。この観点を持つことができれば、意志の自由を完全に是認することができるのである。しかしそのためには、まずはじめに、意志が自由に生きられる魂の領域が見出されねばならない。

 この第一部の「自由の科学」で扱っているのが、前者の問題で、そのまとめとなっているのが、章題にもなっているように、この第7章「認識に限界はあるのか」です。人間の自由の可能性は、そこに基盤を持っているといえますから、「思考」についてあれこれと細かく検討していく作業が必要だったわけです。

 さて、第一部の「自由の科学」のまとめにあたって、シュタイナーは、世界を二元性としてとらえる二元論ではなく、基本原理として一元論哲学、一元論を提示しています。

 カントのいう「物自体は認識できない」というような知覚対象と物自体を分裂させるようなとらえ方、世界を二元性としてとらえることは、そのことによって「認識の限界」を最初から設定しているに等しいことになります。

 世界は二元性として(二元論的に)われわれの前に現われている。しかし認識行為がそれを統一性(一元論)に作り上げる。この基本原理から出発する哲学は一元論哲学又は一元論と呼ばれる。

 二元論はわれわれが認識と名づけるものを誤って理解している。全存在を二つの領域に分け、その各々がそれぞれ固有の法則を持つと考え、そしてその二つの領域を外から互いに対立させている。

 カントが学問に導入して以来、今日に到るまでそこから抜け出せずにいる知覚対象と物自体との分裂は、このような二元論に由来している。(p132)

 二元論者は、認識には限界があるということを前提にしています。それは、主観と客観の対立ということを前提としているからです。

 しかし、その対立は知覚の領域内のことなのです。前章まで、特に第五章で検討したように、外的事物を知覚するのも、自分自身を意識するというのも、その対象は違っても、知覚行為に基づいているわけです。シュタイナーのいう一元論者は、「現象世界の解明に必要なすべて」が「この現象世界の領域内にある」ということを理解しています。

 それにもかかわらず、「現象世界の解明」が不十分なのは、私たちが時間的空間的に制約されている存在であるからなのです。そして、それは「自分の特殊な個的な在り方の問題」です。

 いずれにせよ二元論者は、人間の認識能力に越えがたい壁を設けなければならない、と思いこんでいる。一元論的世界観の信奉者は現象世界の解明に必要なすべてが、この現象世界の領域内にあることを理解している。ただそれを手に入れることができずにいるのは、今の自分の在り方がたまたま時間的空間的にまだ制約されているからなのである。しかしそれは人間一般の在り方ではなく、自分の特殊な個的な在り方の問題である。(p135)

 「自我は自分自身に認識の問いを立て」ますが、その問いは、「場所、時間並びにわれわれの主観的な在り方に条件づけられた知覚領域」と「宇宙の全体性に関わる概念領域」との相互関係についての問いです。

 シュタイナーがこの「自由の哲学」で課題としているのは、その二つの領域を互いに融和させることです。「私」は、「思考」によって、「外界の個別的な知覚内容」も自分自身の知覚内容も、世界に関連づけることができます。

 シュタイナーは、「認識の限界について語る必要はない」と言います。現在ある認識の壁も、知覚と思考の進展とともに克服されるのだというのです。認識に限界があるというのは、知覚者が思考をあきらめているわけですから、思考によってそれを止揚するという不断の営為が求められているのだといえます。

 認識の限界について語ることはできない。そのことはわれわれが規定してきた認識の概念からおのずと明らかである。認識行為は一般的な世界事象ではなく、人間自身の内的要求に関わる作業である。事物は説明を要求しない。事物は存在し、そして思考によって見出されるような法則に従って互いに作用しあっている。事物はそのような法則によってひとつに結びついている。

 そのようなところにわれわれの自我意識が現われる。そしてわれわれが知覚内容と名づけたものだけをまず受け取る。しかし自我意識の内部の力は現実のもう一方の部分をも見つけ出す。世界の中で分離し難く結びついている二つの現実要求を、自我意識が自分のためにひとつに結びつけるとき、そのときはじめて認識衝動は満足する。自我は再び現実に辿り着いたのである。

 認識を成り立たせる前提条件は、自我を通して、自我のために存在する。自我は自分自身に認識の問いを立てる。自我は自分の内部の完全に明晰で透明な思考要素の中から、このような問いを取り出してくる。解答できない問いが出された場合、問いの内容はすべての部分において明晰であり判明であるとはいえない。世界がわれわれに問いを立てるのではなく、われわれ自身が問いを立てるのだからである。

 どこか外に記されている問いに答えようとする場合、その問いの内容がどこから取り出されてきたのかを知ることがなければ、その問いにはまったく答えられないと考えられる。

 われわれの認識にとって必要な問いは、場所、時間並びにわれわれの主観的な在り方に条件づけられた知覚領域と宇宙の全体性に関わる概念領域との相互関係についての問いである。私の課題はこの二つのよく知られた領域を互いに融和させることである。そのような場合、認識の限界について語る必要はない。或る時代に或る事柄が説明できなかったとすれば、それは問題になる事物を認識するのに必要な生活の舞台がまだできていなかったからである。しかし今日認識できなかったことも、明日には認識できるようになるかもしれない。認識者の周囲に設けられた壁は一時的なものにすぎず、知覚と思考が進むにつれていつかは克服されるものなのである。

 二元論が犯した誤謬は、主観と客観の対立を設けて、この対立が本来知覚の領域内においてのみ意味を持つにも拘わらず、この領域内の頭で案出した本質存在にそれを当てはめようとしたところにある。事物が知覚領域内で孤立して存在するとすれば、それは知覚者が思考をあきらめたからである。思考だけがそのような事物の孤立化を止揚して、その孤立が単なる主観に条件づけられたものであることを認識させる。(p135-136)

 「現実」は、知覚内容と概念を思考で結びつけることで認識できます。もちろん、知覚内容は、それぞれの個々人の主観に規定されています。

しかし、その主観による認識は、思考によって常に止揚される可能性を持っています。ですから、認識はある限界内に留まっている必要はないということになります。知覚内容と概念を常に高次の在り方に向けて統合させていくという無限の営為がそこにあるということができます。

 「自由」の根拠も、その営為にこそ求められなければならないのではないでしょうか。「自由」は、「〜からの自由」というよりも、「〜への自由」なのだといえます。

一元論は知覚内容と概念との間に、別の現実解明の原則を求めたりはしない。現実のどんな領域の中でも、そのような原則を求める必要のないことを一元論は理解している。この立場は主観の眼前に広がる知覚世界の中に、半分の現実だけを見る。この半分の世界に概念世界が結びつくと、完全な現実が現われる。(略)われわれの主観にとって、全体はわれわれの知覚内容と概念とに二分されている。そしてその両者を結びつけることの中で、真の認識が生じる。(略)

一元論の場合、知覚内容は主観によって規定される。けれどもこの主観は同時に自分自身が規定したものを再び止揚する手段を、つまり思考の働きをもっている。(p145-147)

 

(第七章了)


 ■シュタイナー「自由の哲学」を読むメニューに戻る

 ■シュタイナー研究室に戻る

 ■神秘学遊戯団ホームページに戻る