ルドルフ・シュタイナー

「自由の哲学」を読む

第九章「自由の理念」


 この章からやっと、「自由」について本格的にとりあげられていきます。これまでの章はそのための基本的な前提事項を検討するためにあったともいえます。その前提が理解されなければ、真に自由について検討することはできないからです。この章はボリュームとしてもかなりありますし、「自由」に関する最も基本的で重要な観点が述べられているので、かなり詳しく見ていきたいと思います。

 自由について検討を加えるにあたって、シュタイナーは「思考」についてこれまで検討してきたことをあらためて確認しています。

思考の本質を解明するには、例えば頭脳の働きとか意識的な思考の背後に存在する無意識的な精神の働きのような、別な何かを持ち込む必要があると考える人がいるが、そのような人は公平な眼で思考を観察することの意味がよく分かっていない。思考を観察する人は、その観察の中で、独立した精神的な本質存在の中に直接生きている。したがって精神の本質を直接表わしている形態を知ろうとする人は、それを自己自身に基づいて働く思考の中に見出すであろう。(P168)

 唯物論的な観点では、思考は脳が生み出したということになりますが、それは思考そのものを観察した結果そうなのではなくて、すべてが物質なのだから、思考もおそらく脳が生み出したに違いない。そう憶断しているにすぎません。

 また、思考は、それを無意識の力が創り出しているのだという考え方もありますが、それも、思考そのものを観察してそう考えているのではなく、思考を観察しないがゆえに生み出された憶断だといえます。思考するとき、思考はそこにあり、思考しないとき、思考はそこにはありません。そういう意味で、思考は「精神の本質」を直接表わしているのだといえます。

思考そのものを考察するときには、概念と知覚内容とが、いつものように別々に現われることなく、ひとつに結びついている。この点を洞察できなければ、知覚内容から取り出された概念の中に、この知覚内容の単なる影絵しか見ることはできず、知覚内容の方が真の実在のように思えるであろう。その人はまた、形而上的世界をも知覚世界を手本にして構築し、それを原子の世界とか意志の世界とか無意識的精神世界とかと名づけるだろう。その名づけ方はその人の表象の仕方によって異なる。その人はこういう仕方で形而上的世界をその人の知覚世界を手本にして、仮説として作り上げたにすぎないということを忘れている。しかし、思考の働きを洞察できる人は、知覚内容の中には現実の一部分しか存在せず、別の現実部分はこの知覚内容を思考することによって体験されるものであり、それによってはじめて現実が完全な姿をとって現われる、ということを知っている。その人は意識の中に現われる思考内容が現実の影絵のようなものではなく、自己に基づく精神的本質であることを理解するであろう。そしてその本質性が直観を通して意識の中に現われることをも知るであろう。直観とは純粋に精神的な内容を純粋に精神的な仕方で意識的に体験することである。直観を通してのみ思考の本質を把握することができる。(P168-169)

 常識的にいうと、客観的世界は、知覚内容で構成された実在だということになりますが、知覚世界だけでは「現実」の一部でしかありません。また、知覚世界なしに、形而上的世界を現実だととらえるのも、それが知覚世界を手本にして、仮説として作り上げたものだといえます。「現実」が完全な姿で現われるのは、思考によって概念と知覚が結びつけられるときなのです。

 私が思考するとき、思考はそこにあり、私が思考しないとき、思考はそこにはないように、思考内容というのは、「自己に基づく精神的本質」なのだといえます。そしてその「精神的本質」が意識の中に現われるのは「直観」を通じてです。

 「直観」を通じてのみ思考の本質を把握することができます。その直観とは、「純粋に精神的な内容を純粋に精神的な仕方で意識的に体験すること」に他なりません。

思考の本質的な働きは二重の仕方で現われる。第一に人間の組織からの働きを退ける。第二にその代わりに自分自身を据える。人体組織の働きを退けるのは、思考が意識の表面に現われるようにするためであると言える。いかなる意味で思考が人体組織に思考像を投影するかは、この点から見て取ることができる。(P169)

 思考と人体との関係を考えてみると、唯物論的には、脳が思考を生み出したという発想になりますし、通常の経験上も私という肉体を通して現われているのだから、人体が思考の本質に影響を及ぼさないというのはおかしく聞こえますし、ここらへんはとてもイメージしにくいところなのですが、シュタイナーは次のようなたとえで、思考が人体組織に思考像を投影するということを説明しています。

柔らかい地面の上を歩くと、足あとが地面に残される。その足あとの形が地面の働きで下から創り出される、などと言う人はいない。足あとを作りだすために地面が動いているのでもない。同様に、思考の本質を公平な眼で観察する人は、人体組織の中の思考の痕跡に対してそれを生じさせたのは思考ではなく、人体の方だ、とは考えない。(P170)

 ここでは、足というか歩く人を思考、思考像を足あと、地面を人体にたとえて説明しているのですが、思考は人体に思考像という足跡を残しているというアナロジーで思考をとらえていくのは確かにイメージしやすいかもしれません。

 思考するとき、人は思考存在として立ち現われます。思考は、人体に思考を投影します。人体のほうの条件で、思考を投影することができない場合があるのはもちろんです。

思考の本質そのものの中には、本当の「自我」は存在していても、自我意識は存在していない。公平な眼で思考を観察すれば、このことが洞察できる。「自我」は思考の内部に見出すことができるが、「自我意識」は思考活動の痕跡が(略)一般意識の中に刻印づけられることによって生じる。(P170)

 思考は人体に思考像という足跡を残しているということが述べられていましたが、「自我(Ich)」は思考の内部に存在し、「自我意識(Ich-Bewusstsein)」は、思考活動によって人体組織の上につくられるのだといいます。

 そのことからすると、脳が思考を生み出したかのように思われているのは、「自我意識」が人体組織の上で働いているからなのだといえます。

「自我意識」は人体組織の上につくられる。意志行為はこの組織から現われてくる。(略)

個々の意志行為は常に動機と衝動という二つの要因を持っている。動機は概念や表象による要因であり、衝動は人体組織に直接制約された意志要因である。概念要因としての動機は意志のその時々の規定根拠であり、衝動は個体の持続的な規定根拠である。意志の根拠になるものは、純粋な概念または特定の知覚と結びついた概念である表象のいずれかである。普遍概念や個別概念(表象)が意志の動機になるのは、それが人間に働きかけて、特定の行動をするように促すときである。同じ概念や表象は、ひとりひとりの人間にさまざまな仕方で働きかける。そしてさまざまな人間をさまざまな衝動に駆り立てる。それ故意志行為は概念や表象の結果だけではなく、個人の在り方の結果でもある。そのような個人の在り方を(略)性格学的素質と呼ぶことにしたい。(P171)

 「意志行為」は、人体組織から生じてきます。それがどのように生じてきたかを観察することによって、思考、自我意識、意志行為との関係を洞察することができるようになるのだといいます。

 個々の意志行為は、「動機」と「衝動」という二つの要因を持っていて、「動機」は概念や表象による要因、「衝動」は人体組織に直接制約された意志要因です。

 つまり、「〜しよう」という「動機」があり、その「動機」が人体組織に働きかけ「衝動」となります。その「衝動」は個人の人体組織において働いているわけですから、それは個人のあり方によってさまざまな働き方をすることになります。その個人のあり方をシュタイナーは「性格学的素質」(die charakterologische Anlage)というふうに呼んでいます。これは、エドアルト・フォン・ハルトマンの用語だということです。

われわれは二つの事柄を区別しなければならない。一、特定の表象や概念を動機にすることのできる主観的な素質、二、私の性格学的素質に働きかけて意志を生じさせることのできるような表象や概念である。前者は道徳の衝動を、後者は道徳の目標を表わしている。(P172-173)

 概念や表象が「性格学的素質」に働きかけて、それぞれの人間に「特定の道徳的倫理的な刻印」をするというのですが、その場合、「道徳の衝動」と「道徳の目標」を区別する必要があります。

道徳の衝動を見出すことができるためには、個人の生活がどのような要素から成り立っているのかを知らなければならない。

個人の生活の第一段階は知覚である。しかも感覚による知覚である。われわれの個人生活の領域では、知覚が感情や概念によって媒介されることなく、直接意志に転化される場合がある。そのような場合の人間の衝動は、衝動そのものと呼ぶことができよう。(略)

人間生活の第二の領域は感情である。特定の感情は、外界の知覚内容に結びついて行為の原動力となることができる。(略)

人生の第三段階は思考と表象である。表象も概念も考慮することだけで行動の動機となることができる。表象が動機となるのは、人生の中で多かれ少なかれ変化しては何度でも現われてくる知覚内容に意志の特定の目標が結びつくからである。(略)

個人生活の最高段階は、特定の知覚内容を顧慮することのない概念的思考である。われわれは概念内容を純粋直観を通して理念界から取り出してくる。そのような概念は特定の知覚内容との関係をまったく持っていない。知覚内容を指示する概念(つまり表象)の影響の下に意志を働かせる場合には、この知覚内容が概念的思考の廻り道を通ってわれわれに働きかける。純粋直観の影響の下に行動する場合には、純粋思考が行動の原動力となる。哲学上この純粋思考の能力は通常理性と呼ばれているので、この段階に現われる道徳衝動を実践理性と呼ぶのが正しいであろう。(P173-175)

 まず、「道徳の衝動」が見出される個人生活の要因について説明されています。

 道徳の衝動が「感覚による知覚」から出てくるようなまさに「衝動そのもの」である場合があります。これは、知覚を感情や表象に結びつけずに空腹や食欲、性欲のようにすぐ行動する場合で、このような衝動的な行動を「生き様または人間味」ということができるといいます。

 さらに、「感情」が知覚内容に結びついて衝動になる場合があります。「羞恥心、誇り、名誉心、遠慮、後悔、同情、復讐、報恩、敬虔、忠誠、愛情、義務感」といったものがここでは挙げられています。たとえば、同情することで、それがその人を助ける行動となって現われるわけです。

 また、「思考と表象」によって衝動になる場合があります。人生の中で何度も現われてくるような知覚内容に対して特定の目標が結びついてくることもありますし、さらに行為の表象も意識されるようになり、それが「性格学的素質」の一部になることもあります。ある特定のことについて「〜すべきである」という衝動が起こるのもこれにあたると思います。

 そして、特定の知覚内容とまったく関係をもたないような「概念内容を純粋直観を通して理念界から取り出して」きてその「純粋思考」(理性)が衝動になる場合があります。その衝動は「実践理性」と呼ぶことができます。この「個人生活の最高段階」とでもいえる衝動は、すでに「性格学的素質」と呼ぶことはできないのだといえます。つまり、それはもはや個的なものではなく、直観による理念内容であり普遍的内容になっているからです。

 道徳の動機は、表象と概念である。感情の中にも道徳の動機を見ようとする倫理学者がいる。彼等は例えば、道徳行為の目標が行為する個人の最大限の快の感情の充足にある、と主張している。けれども快の感情そのものは、動機になりえない。ただ表象された快の感情だけがそうなり得る。感情そのものではなく、未来に生じるべき感情の表象が私の性格学的素質に働きかけるのである。なぜなら感情そのものは行為の瞬簡にはまだ存在しておらず、むしろ行為を通じて生み出されるものだからである。(P176)

 感情の中に道徳の動機を見出そうとする倫理学者もいるのですが、「道徳の動機」は、表象と概念であって、感情ではありません。

 たとえば、そうすることが「最大限の快の感情」を充足させるからではなく「表象された快の感情」によって道徳行為は行なわれるのです。

 これは似ているようで、異なっていますのできちんとおさえておきたいところです。「こういう行為をすれば自分はこんな感情を味わうことができるだろう」という表象が「私の性格学的素質」に働きかけて、道徳行為が行なわれ、それを通じてはじめて感情が生み出されるわけです。

 自分または他人の満足感の表象を意志の動機とみなすことは正しい。行動を通して最大限の快の感情を生じさせる原理、個人の幸福を可能にする原理は利己主義である。個人の幸福を盲目的な仕方でもっぱら自分の満足のために、他人の幸せを犠牲にして、獲得しようとする場合(純粋な利己主義)もあれば、他人の幸せを願うことは願うが、それは幸せな他人の存在によって間接的に自分に対する好ましい影響を期待するためにそうしたり、あるいは他人を損なうことで自分の利害が脅かされるのを恐れてそうする場合(打算的道徳)もある。利己主義的道徳原則の内容は自分もしくは他人の幸福についてどんな表象を持つかによって異なる。人生の財宝と見なされるもの(豊かな生活、幸福への希望、さまざまな不幸からの救済等)の如何によって、利己的な努力内容が決まる。(P176-177)

 「そうすることで自分は満足するだろう。」「そうすることで人は満足するだろう。」そうした表象は「〜しよう」という意志の動機になります。これはわかりやすい部分だと思います。

 「そうすることで自分は「最大限の快の感情」を得ることができるだろう。」「他人を犠牲にしてでも自分の幸福を得よう。」そうした表象を自分の行動の動機にする場合、それを「純粋な利己主義」と呼ぶことができます。

 しかし、一見利己主義でないように見えて実のところ利己主義のバリエーションであるものがあります。「他人の幸せを願うことで、間接的に自分への好ましい影響、利益が得られるだろう。」そうした類の表象を自分の行動の動機にする場合、それを「打算的道徳」と呼ぶことができます。

 つまり、これはなんらかの「見返り」を期待した道徳的行為なのです。これは、世の中を見渡してみたらたくさん見つかることと思います。名誉心などから一見道徳的行為をする方のなんと多いことでしょうか。

 純概念的な行為内容も動機として顧慮されねばならない。この内容は、自分の快楽の表象のように、個々の行為だけに関わるのではなく、行為を体系づけられた道徳原則の基礎の上におこうとする。道徳原則は、個人に概念の根源について思い煩わせることなく、抽象的な概念形式のままに道徳生活を導くことができる。その場合われわれは、命令となり道徳的必然となって行動を支配するその道徳概念にもっぱら従う。その道徳的必然の根拠を問うことなく、服従を求める道徳命令に従う。それは家長、国家、社会道徳、教権、神の啓示等として認められる道徳上の権威からの命令である。この道徳原則の特殊な場合は、その命令が外的な権威からくるのではなく、われわれ自身の道徳的自律性からくる。われわれが服すべき声をわれわれは自分自身の内部に聴く。この声の表現が良心なのである。(P177)

 そうした表象が動機になるだけではなく、「純概念的な行為内容」である「道徳原則」も道徳の動機となることができます。それは、外的な権威からくる道徳原則の命令である場合もあれば、内的な権威からくる道徳原則の命令である場合もあります。

 前者の場合、上記の引用にもあるように、「家長、国家、社会道徳、教権、神の啓示等として認められる道徳上の権威からの命令」など、「そうすべきだということになっているからそうする」のであって、それに対して後者の場合は、「われわれ自身の道徳的自律性」である「良心」からの命令であって、「そうすべきだと思うからそうする」わけです。

 人間が、外的もしくは内的な権威の命令を行動の動機にするのではなく、行為の基準を自分の動機の中に見出し、その行為の根拠を洞察しようと努力することは、道徳上の一大進歩を意味する。その進歩は権威による道徳から認識による行動への進歩である。この段階に立つ人は、道徳生活の要求を意識化して、認識することから個々の行動を決定しようとする。(P177)

 けれど、そうした外的、内的を問わず「そうすべきだからそうする」という「権威の命令」によって道徳的行為を行なおうというのは、認識的な行動であるとはいえません。

 実際、ほとんどの場合、「そうするものだ」から道徳的行為を行なうわけで、「なぜそうするべきなのか」とは問われることはまれなことだと思います。

 「そうするものだ」というような権威からそうするのではなく、道徳生活において必要だという認識によって、そうした行為の基準、根拠を、自分自身の内に、いわば自発として有するようになることは「道徳上の一大進歩」だとシュタイナーはここで明言しています。

 確かに、「そうするものだからそうする」から「なぜそうすべきだと思うのか」を自分で認識することから出発するような道徳的行動を行なうことへは、なかなかシフトし難いところではないかと思います。実際、ほとんどの方は、道徳について、「なぜそうするのか」を自分で根拠づけることなど考えつきもしないのではないでしょうか。

そのような道徳生活の要求とは、一、人類全体の最大限の幸福をもっぱらこの幸福そのもののために求める、二、人類の道徳的進化もしくは文化の進歩をますます完全なものにしようとする、三、まったく直観的に把握された個人の道徳目標を実現しようとするーー以上の三点である。(P177-178)

全体の幸福という原則も文化の進歩という原則も、特定の体験内容(知覚内容)に対する道徳理念の内容の関係もしくはその関係の表象に基づいている。しかし考え得る最高の道徳原則は、このような関係をあらかじめ含んでいる原則ではなく、純粋直観の源泉から発しており、知覚内容(人生)との関係はその後から見出すことのできるような原則である。(P178)

 道徳生活の要求には、上記にあるように、

 1)人類全体の最大限の幸福をもっぱらこの幸福そのもののために求める

 2)人類の道徳的進化もしくは文化の進歩をますます完全なものにしようとする

 3)まったく直観的に把握された個人の道徳目標を実現しようとする

 という三つの点が上げられますが、1)と2)に関しては、特定の体験内容に対する道徳理念の内容の関係またはその表象に基づいているのに対して、3)は、「純粋直観の源泉」からくるものであり、考え得る最高の道徳原則」であるということができます。1)や2)などは、3)の後から出てくるからであって、もちろんその逆ではありえません。ここは非常に重要な部分だと思います。

われわれは性格学的素質の初段階の場合、純粋思考、実践理性として働くものを最高のものと見なし、そして動機の場合の最高のものを概念的直観と名づけた。道徳のこの段階においては、このような衝動と動機が互いに結びつくようになる。言い換えれば、あらかじめ定められた性格学的素質も、規範的に働く外的な道徳原則も、そのいずれもわれわれの行動に働きかけない。規則通りに型にはまっているのでも、外的な刺激を受けて自働機械のように働くのでもなく、もっぱら理念の内実から行動がなされるのである。このような行動は、その前提として道徳的な直観能力を必要とする。個々の場合にそれに応じた道徳原則を取り出す能力のない人は、決して真に個的な意志を実現しないであろう。(P179)

 道徳の動機に関して、前節では自分の利益によって道徳的行為をするありかた、外的な権威、内的な権威によって道徳行為をするあり方、また、「特定の体験内容に対する道徳理念の内容の関係またはその表象」に基づいたあり方などについて見てきましたが、「考え得る最高の道徳原則」は「概念的直観」だといえます。

 その場合、道徳的行動は「理念の内実から」なされますが、そのためには、「道徳的な直観能力」が必要になります。それがない人は、「真に個的な意志」を実現することはできません。

 つまり、だれかに褒められるから行動するとか、それが道徳的行為だといわれているから行動するとか、いうのではなく、自分の内に直観される「道徳的理念」から行動することではじめて、それが「個」としての自由を基盤とした行動となるのだといえるわけです。

人間の直観能力はさまざまである。ある人は溢れるばかりの理念を持ち、他の人は苦労してその一つ一つを手に入れる。人間に行動の舞台を提供する生活状況もまたさまざまである。人間がどの行動をとるかは、直観能力が特定の状況に際してどう働くかにかかっている。われわれの内部に働く理念の総計、われわれの直観の具体的な内容は、たとえ概念界そのものがどれほど普遍的であろとも、常にひとりひとりの中で個別に現われる。直観内容が行動と結びつくとき、それは個人の道徳的内実となる。この内実を十分に生かしきることが最高の道徳衝動なのであり、そして同時に、他の道徳原則がすべて最後にはこの内実に結びつくことを洞察する人にとっては最高の動機でもある。われわれはこのような観点を倫理的個体主義と呼ぶことができる。(P181)

 ここで「倫理的個体主義」という重要な観点が登場します。それは次のような観点です。

 道徳的直観は、常にそれぞれの人において「個別」に現われます。直観能力は人によってさまざまに異なるのですが、それが行動と結びつくのは、具体的現実的な生活の場においてです。個別に現われた直観内容が行動と結びつくとき、それが「個人の道徳的内実」となるのであり、それを限りなく生かそうとすることが、「最高の道徳衝動」であり「最高の動機」なのだということができます。

私が行為している間、道徳原則はもっぱら直観となって私の中で働いている。そうでなければ、その道徳原則は私を突き動かさない。それは私が行為を通して実現しようとする対象への愛と結びついている。(略)対象への愛に従うときにのみ、私は行為する主体であることができる。この段階の道徳においては、私は主人の命に服するから行動するのではない。外的権威やいわゆる内なる声に従って行動するのでもない。私は自分の行動の外的原則を必要としない。なぜなら私自身の内部に行動の根拠を、行為への愛を見出したのだから。(P182-183)

 「倫理的個体主義」における道徳的行為は、「外的原則」からのものではなく、つまり、人に命令されてとか、外的な権威や内的な権威からものではなく、自分自身の内部に「行動の根拠」、「行為への愛」を見出したからこそ行動するものです。

 その場合にはじめて、私は「行為する主体」であるといえます。自分自身の内部にその根拠がない場合、その行動は「主体的」だとはいえないのです。

 或る行為が自由な行為と感じられるのは、その根拠が私の個体の理念部分に見出せるときである。そうでない時の行為は、それが自然の強制によるものであろうと、倫理的規範が要求するものであろうと、すべて自由でないと感じられる。

 どんな瞬間にも自分自身に従える人間だけが自由なのである。どんな道徳的な行為も、この意味で自由であると言えるときにのみ、私の行為となる。それでは意志された行為がどのような条件の下で自由な行為と感じられるのだろうか。倫理的な意味での自由の理念は人間の本質の中でどのように自己を実現させていくのだろうか。

 自由からの行為は道徳法則を退けるのではなく、それを受け入れる。その行為は道徳法則の命じるままに行なう行為よりも高次の在り方をしている。私が愛によって行為しているときにも、人類の幸福のために働くことができる。私が人類の幸福のために働くことを義務と感じるという理由だけから行為するときに比べても、その行為が道徳的に劣っているとは言えない。単なる義務の概念は自由を排除する。なぜならこの概念は、個人の個的な在り方を肯定しようとはせず、それを一般的な規範に従属させようとするのだから。行為の自由は、倫理的個体主義の観点からのみ可能となる。(P185-186)

 自分の行動の根拠が自分自身の内部の「個体の理念部分」にあるとき、はじめてその行為は「自由な行為」であるということができます。外的な強制による行為はもちろん「自由な行為」だとはいえませんし、それが倫理的だとされているからする行為も「自由な行為」だとはいえません。

 「どんな瞬間にも自分自身に従える人間だけが自由なのである」。このことこそが重要なことです。

 自分自身以外に従うのはどんな場合も「自由」だとはいえません。もちろん、それはエゴに従うということとは対極にあることです。それはエゴにふりまわされているだけであって、わがままであるに過ぎません。

 真の自由な行為は、高次のあり方で道徳法則を受け入れます。同じ行為でも、義務からするのではなく、自分自身の内部の「個体の理念部分」から自由に行なうこと。自由な行為というのは、「倫理的個体主義」の観点から可能になるのです。

自分が他者の力に支配されているのに、その行為を自分の行為だと呼ぶことだけはしないでもらいたい。自由な精神の持ち主は、外からの強制から自分を引き離す。そして慣習や掟やタブー等のガラクタの中にいつまでも留まろうとはしない。人間は自分に従う限り自由なのであり、自分を従わせる限り不自由なのである。おまえのすべての行為が本当に自由なのか、と問われることはあり得よう。けれどもわれわれひとりひとりの中にはより深い本性が宿っており、その中で自由な人間が語っているのである。

 われわれの人生は自由な行動と不自由な行動とから成り立っている。けれども人間本性の最も純粋な現われである自由な精神に到ることなしには、「人間」という概念は究極まで理解されたことにはならない。自由である限りにおいてのみ、われわれは真に人間であり得るのだから。(P189)

 前節では、自由な行為、真の道徳的行為は、「倫理的個体主義」の観点から可能になるのだということが述べられていましたが、この章(第九章)の終わりになって、それが高らかに唱われています。

 自分自身の内部の「個体の理念部分」からでなく、内的にしろ外的にしろ権威や強制によって行なわれる行為は、「自分の行為」だということはできないとさえ言っています。

 これは、至極当然のことなのですけど、こういう言い方をすると、したい放題してなにが自由だ!というような批判が容易に聞かれることでしょう。しかし、そういう批判者こそが、不自由極まりないにもかかわらず、自分の行為でもないものを「べきだ」というお仕着せで塗り固めて人間でないものへとみずからを貶めているのだとさえいえるでしょう。

 もちろん、「倫理的個体主義」における自由は、わがままとはもっとも遠いあり方で、自由、つまり自らの由である自分自身の内部の「個体の理念部分」を行動へと導くものであるのだといえます。

 シュタイナーの神秘学の根幹には、こうした、自由に基礎づけられた人間観があります。「自由である限りにおいてのみ、われわれは真に人間であり得る」というように人間であるための必要条件こそが「自由」なのだというのです。

外界の事物における理念は知覚内容なしには存在し得ない。理念と知覚内容との関連を認識する過程で、われわれは自分の外界を明確に把握していくのである。一方、人間の場合にはそのような言い方はできない。人間存在の総体は人間自身に依存している。道徳的人間(自由な精神)という人間の真の概念は、「人間」という知覚内容とあらかじめ客観的に結びつき、後になって認識の過程で明確にされていく、というものではない。人間は自分から進んで自分の概念を自分の知覚内容に結びつけなければならない。ここでの概念と知覚内容は、当人自身によって重ね合わせられるときにのみ、互いに合致する。そして自由な精神の概念、つまり人間自身の概念を見出したときにのみ、そうすることができる。客観世界の中では、主体の組織を通じて知覚と概念との間に境界線が引かれている。認識がその限界を超える。主観世界の中でもこの境界線は存在しており、人間は進化の過程でその境界を克服するために、この世を生きる人間として自分の概念を完成させなければならない。したがって知的生活も道徳生活も、われわれを知覚(直接体験)と思考という二重性へ導く。この二重生活を知的生活は認識を通して克服し、道徳生活は自由な精神の実現を通して克服する。(P189-190)

 さて、思考は知覚内容と概念とを結びつけるものでした。われわれが「倫理的個体主義」という立場に立つならば、自由な精神という概念、真の人間という概念を自分の知覚内容と積極的に結びつけなければなりません。

 しかし、「知的生活も道徳生活も、われわれを知覚(直接体験)と思考という二重性へ導」くことになります。その「二重性」を克服するためには、「知的生活」においては「認識」が、「道徳生活」においては「自由な精神」が必要とされるというのです。

 人間は自分の外にある道徳的世界秩序を実現するために存在しているのではない。そのような主張をする人の人間学はあたかも牡牛に角があるのは突くことができるためであると信じる自然科学と同じ立場に立っているといえよう。幸いなことに自然科学者はこのような目的概念をすでに死んだものの仲間に加えている。しかし倫理学が同じところから脱け出すのはもっと困難らしい。角が突くために存在するのではなく、角によって突くのであるように、人間は道徳のために存在するのではなく、人間によって道徳行為が存在するのである。自由な人間が道徳的な態度をとるのは、道徳理念を所有しているからである。しかしその人は道徳を成立させるために行為するのではない。個的な人間の本質に属する道徳理念こそが道徳的世界秩序の前提なのである。

 個的人間こそが一切の道徳の源泉なのであり、地上生活の中心点なのである。国家も社会も、個人生活の必然の結果としてのみ存在する。国家と社会とが再び個人生活に作用を及ぼす事情は角によって可能となった突く行為が、牡牛の角の発達をさらに促す結果となる事情に似ている。角は使用しなければ衰えてしまう。個人もまた、人間共同体の外で孤独な生活を営み続ければ、その個性を衰えさせてしまう。好ましい仕方で再び個人に作用し返すためにこそ、社会秩序が形成されるのでなければならない。(P193-194)

 道徳はどこかの高みにあって、人間を規定しているのだという発想こそが、むしろ道徳そのものを固定化させ、風化させていきます。

 人間は、どこかからもってきた道徳を実現するために生きているのではなく、「個的な人間の本質に属する道徳理念」があって、それが真の意味での「道徳的世界秩序」を形成することができるのです。国家があってこそ個人があるとか、共同体があってこそ個人があるとか、家族があってこそ個人があるとかいう観点は、ことごとく「自由」を破壊するものです。

 宗教にしても、ほんらいそれは人間を自由にするためのものであるはずが、実際のところ、人間を戒律によって不自由にして、その宗教の説く道徳的秩序をメカニカルに形成しているだけです。

 もちろん、その「個人」とは真に「自由」な人間でなければならないという前提があります。そのことをとらえまちがうと、「自由の哲学」は無意味になります。

 人間は、常に高次の意味での「自由」へとみずからを高めていく存在であり、そうでない限り、人間であるための条件を自らが手放していることになります。

 この第九章は「自由の理念」についてのシュタイナーの熱い語りがこちらに伝わってくるような内容となっています。おそらくそれは、人智学という「人間学」の根幹にある理念でもあるように思います。

(第九章・了)


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