ルドルフ・シュタイナー

「カルマの開示」(GA120)を読む

第1講

人、個性、地球、宇宙におけるカルマの本質とその意味

 (1910年5月16日)


「カルマの開示」を読む●第一講-1


1998.10.19

 

 まず最初に、この「カルマ論」がいったいなにを目的としたものなのか。そのことについて、この講義集全体の前提事項とでもいえることが力強く述べられています。

 これから行なう連続講義は、霊学すなわち神智学の観点から深刻な人生問題を扱うことになります。これまで行なってきたさまざまな講義の中でも明らかにしてきたように、神智学は抽象的な理論ではありません。それは教義ではなく、生きるための力の源泉であろうとしているのです。神智学は、その認識の成果が私たちの中に流れ込み、それによって人生が豊かになり、理解できるものになり、行動意欲を駆り立てるものになりえたときにのみ、課題に応えたと言えるのです。(中略

 きっと私たちは、この講義のどの時間においても、神智学の力を生活に役立たせるための努力は、いくらしすぎてもしすぎることがないことを学ぶでしょう。真剣にカルマに関わっていくなら、いつかはやらなければならないことを、カルマ自身が私たちに教えてくれることを学ぶでしょう。私たちがみずからの世界観から得た力をまだ有効に行使できないでいるとすれば、それはカルマがその力で社会に働きかける可能性をまだ私たちに与えてくれないからなのです。

 ですからこの講義を通して、カルマについての認識を学ぶだけではなく、いつでもカルマへの信頼を呼び起こすことができるようにしなければなりません。いつなのかはわかりませんが、時が来たときには、みずからの世界観を信奉する私たちに、カルマがふさわしい課題を遂行させてくれるはずです。カルマを学ぶことは、人生におけるそれぞれの事情がよく見えてくるというだけではなく、社会の中で人びとと共に生きる喜びと高揚感とを受けとるということでもあるのです。

 もちろんそのためには、私たち自身がカルマの法則をよく理解し、カルマが社会に及ぼす作用についての考察をも深めなければなりません。(P4-5)

 この1910年の時期には、まだ人智学協会は設立されていませんので人智学を意味する言葉として「神智学」が使われていますので、そのことを念頭に置いてください。

 さて、カルマといえば、因果応報というように、通常はかなり否定的なイメージで受けとられているように思います。場合によれば、それが親の因果が子に報い・・・、というようなかなり混乱した血縁幻想などにも流用されていることもあるようです。

 また、それを現世の法として適用しようとしたように見えるハムラビ法典の「目には目を」というようなものもありました。モーゼの十戒のなかに「盗むな」とか「殺すな」とかいう今でいえば法律で扱われているようなことが含まれていますが、こういう内容も、かつては因果応報というかたちかまたは律法というかたちでしかなかなか理解しがたいことだったといえるのかもしれませんね。

 しかし、現代において「カルマ」ということを認識しそれに学ぶということは、そういう因果応報や戒律のようなあり方ではありません。そういうかつてのあり方は、教育においていうならば、いわば性悪説の教育ということになります。子供はほうっておくとろくなことはないから、調教しなければならないというような考え方です。

 ここでいう「カルマ論」は、それに対して、性善説。シュタイナーの教育に関する観点が示唆するように、人がまさに「自由」を得るための重要な認識を与えてくれるものです。ドイツ語で教育するということをerziehenといいますが、これは「引き出す」ということを意味しているように、人間のなかに可能性としてあるものを引き出すということにほかなりません。

 そして「自己教育」ということが重要であるように、カルマについての認識を学ぶことによりそれに基づいた「自己教育」のための重要な示唆を得ることができます。さらに、上記の引用にもあるように、「いつでもカルマへの信頼を呼び起こす」ということも重要です。

 カルマは、「因果応報」という消極的なものではなく、自分がこの人生でなにを課題としているのかを教えてくれる積極的な視点だということを理解する必要があります。

 そしてそれは、この第一講の標題に「個人、個性、地球、宇宙におけるカルマの本質とその意味」とあるようにこの生まれてから死ぬまでの個人レベルにおいてだけではなく、転生を通じた「個性」や社会、世界、地球、宇宙というように自分が関わっているすべてのレベルにおけるカルマとの連関でとらえていかなければなりません。私たちひとりひとりは宇宙とさまざまに関係を持っているということです。仏教では、そのことを「縁起」ということで表現しています。宇宙においてはどんな事象も、すべて関係しあっているわけです。

 さて、そういう視点で「カルマ」ということをとらえていきますと、「カルマ」は人生の羅針盤のような働きをしていることがわかります。シュタイナーの自伝を読んでいると、シュタイナーは人生の時々において、自分のカルマをかぎりなく積極的に引き受けていたことがわかりますし、それを自分にとって必要なこととであるとして認識することを

極めて重要なことだと考えていたのがわかります。たとえば、こういう箇所があります。

運命の力であると明確に認識したものを排除することは、私にとって自分の霊体験の冒涜を意味していた。私は、当時暫くの間、オットー・レーリッヒ・ハルトレーベンと私とが組み合わされた事実だけを見たのではなく、「運命(カルマ)となった事実をも見たのである。(自伝II/人智学出版社/P125)

 

 「カルマ」から逃げたり、排除したりするのではなく、そこに示唆されている課題を深く認識して、視点を過去にではなく、未来に向けていくか。そのことが極めて重要になってきます。

 人は、だれかほかの人の代わりをすることはできません。その人にはその人にしか引き受けることのできないカルマがあります。そのかけがえがないともいえる「カルマ」の事実を見据え、そこにあらわれた課題を未来へと種を蒔いていくための行動へと方向づけること。「蒔いた種は刈り取らねばならない」ということを未来のみずからの生からとらえかえし、未来に向けて種を蒔こうとすること。

神智学は、その認識の成果が私たちの中に流れ込み、それによって人生が豊かになり、理解できるものになり、行動意欲を駆り立てるものになりえたときにのみ、課題に応えたと言えるのです。

とありますが、この「カルマ論」の課題もまさにそこにあります。

 

 

「カルマの開示」を読む●第一講-2


1998.10.20

 

 前回は、この「カルマの開示」という講義の目的についてカルマを消極的にとらえるのではなく、むしろ積極的にとらえかえさなければならないということを述べましたが、今回は、ではカルマとはいったいどういう法則なのかについて少し詳しく見ていくことにします。

 シュタイナーはあまり言葉や用語を「定義付け」したり、なにかを図式的に説明することをしませんし、いつも図式的にとらえないようにということをはっきりと言ったり、「定義付け」によって死んだ概念にならないように注意していますが、

いつもなら、描写することからはじめ、そして事柄をいろいろな側面から性格づけることによって、概念や表象がおのずから生じてくるように努めるのですが(P6)

と述べているように、ここでは、あえて「一種の概念描写」をすることで「カルマ」という言葉の意味への理解を促そうとしています。

カルマとは、抽象的な言い方をすれば「霊的な因果法則」なのです。(P6)

 まず、カルマは霊的な観点からのものであり、法則性のあるもの、しかも、原因と結果が対応する因果法則であるということが示唆されています。ですから、原因と結果がある法則をもって対応するとしても、それは通常の自然科学におけるような物が物に直接働きかける法則ではありませんし、科学技術のように原因と結果の直接的な関連を前提としたものでもありません。

結果が、その結果を生じさせたのと同じ存在に働きを返すときにのみ、言いかえれば、存在が同一存在であり続けるかぎりにおいてのみ、カルマについて語ることができるのです。(P8)

原因と結果とが同時に生じるときも、カルマについて語ることはできない(略)。なぜなら、原因となる存在が結果を直接引き起こしているとき、その存在は結果が生じることを前提に行為しており、結果が生じることを見通しているからです。特定の結果を意図して行動する人や、望む結果を生じさせようとしている人の場合には、カルマについて語ることはできないのです。(P8-9)

 自分で自分に働き返すということということ、つまり原因は自分でつくり、その結果も自分で引き受けるということ。その「自分」が「同一存在であり続ける」ということつまり、「個」であるということが前提になっています。

 しかも、原因と結果が直接的な関係にはないということ、ある結果がほしいためにその結果を意図して直接的に行動するのではないということです。賞金がほしいからコンテストにでてがんばる、いい大学に入りたいから一生懸命勉強する・・・とかいうのはカルマとしてとらえることはできないというわけです。

 さて、その「個」ということに関しては、「個人意識」と「個性意識」の違いを理解する必要があります。

誕生から死に至るまで存在しつづける意識を、「個人意識」と名づけようと思います。しかし、誕生から死までの生涯を超えて働く意識も存在します。それは日常意識によっては把握できませんが、日常意識と同じように活発に働くことのできる意識です。この意識に注意をうながすために、十二歳のときの原因が運命の打撃を生じさせないために、自分からカルマを受け入れ、たとえば四十歳で何かを償う例をはじめに取り上げたのです。その場合のカルマは個人意識の中で働いています。

これに対して、より良い人間になるために苦痛を感受するよう私たちを駆り立てる意識は、個人意識からではなく、死から新しい誕生までの、より包括的な意識からやってきます。この意識を担う人間本性を、「個人」ではなく、「個性」と名づけるなら、絶えず個人意識によって中断されるこの意識を、個人意識に対して「個性意識」と呼ぶことができると思います。(P19-20)

 つまり、生まれてから死ぬまでの「個人意識」においてカルマが働く場合と転生を通じて「同一存在であり続け」ている意識である「個性意識」においてカルマが働く場合があるということです。

 「個人意識」のレベルに関していえば、カルマ的な視点を持つことで、一見無秩序に偶然に起こっていることのように思われる人生の事件も大きな流れのなかで広い視野のものとに観察し、原因と結果を関連づけることができるとシュタイナーは述べています。そしてそのことが「慰めの源泉」になり得、喜びとさえ感じることができるというのです。シュタイナーが、25歳のときに運命の打撃を受けた人が、その打撃によって50歳にな

った彼を有能で生き生きとして人間にしたという例を挙げているように、人生に起こる出来事を、結果ではなく、原因と見ることが必要なのです。

人生のある出来事を結果ではなく、原因であると見ることで、私たちは感情を本質的に変化させることができます。人生の出来事を、単なる結果と見るか原因と見るかはどうでもいいことではありません。もちろんつらい出来事が生じた時点では、まだその結果を知ることができませんが、カルマの法則を身につけることができていれば、そのカルマの法則そのものが私たちに次のように語ってくれるでしょう。「今の時点では、この出来事はつらいものであろうし、これまでのことの結果であるとしか思えないであろう。しかしそれを未来への出発点にすることもできるはずだ」「この出発点はいろいろな結果を生じさせるであろう。その結果はこの出来事をまったく別の光の下に照らし出すことになるであろう」と。(P12-13)

 しかし、そうした原因と結果を一回限りの人生の中だけで見ようとしても人生の秘密は解明できません。「個人の中だけに原因と結果を見出そうとするなら、人間生活は十分には理解でき」ないのです。そこに、輪廻転生ということを前提とした「個性」という観点でのカルマという視点がでてきます。

誕生から死に至る人生を見通す意識は、脳の働きによって生み出されますが、死の門を通った後には、別の種類の意識が現われます。この意識は脳から独立しており、本質的に別の条件の下で現われてくるものです。新しく生まれ変わるまで持続するこの意識は、誕生から死に至るまでに経験したすべてについて、一種の回想を行ないます。

自分のすべての行為を見、その行為が自分の魂に何を加え、何を生じさせたかを見ます。(略)たとえば誰かに苦しみを与えたならば、私たちの価値はそれによって下がります。人に苦しみを与えたことによって、それまでよりも値打ちがなくなり、もっと不完全な存在になってしまうのです。(略)

そのことから、「ふたたび機会を得たら、失った価値を取り戻すためにあらゆることをしよう」「人に加えた苦しみに自分なりの決着をつけよう」と望む意志が生じます。(略)

そのようにして、人間はふたたびこの世に生まれます。(略)死後から誕生までのことは思い出せませんし、何かを償おうと意志したことも思い出せません。しかしこの意志は彼の心の中に根づいています。(略)自分では意識していなくても、内部に生きる力によって、償いとなる何かの行為に駆り立てられるのです。(P17-18)

 こうした転生を通じて一貫している「個性」という観点でのカルマという視点を持つことで、運命的ともいえる出来事が起こったときも、それは「個性意識」によって意図された結果であるというふうにとらえることができます。

 しかしそれだけでは消極的なとらえかたになってしまいます。「人生のある出来事を結果ではなく、原因であると見ることで、私たちは感情を本質的に変化させることができ」るというようように、その「意図された結果」が新たな未来をつくる「原因」となるという視点を持つ必要があるのではないでしょうか。

 「カルマ」は過去の清算のためにだけあるのではなく、カルマ的連関を通じて未来を創造していくための原因と結果の法則であるとしてとらえることも必要なのではないかと思うのです。

 

 

「カルマの開示」を読む●第一講-3


1998.10.21

 

 前回は、カルマとはいったいどういう法則なのかということを個人、個性というレベルにおいて見てきましたが、今回はさらに、それを人類、地球、宇宙のレベルにおいてどう働いているのかについて見ていくことにします。

 最初に、ぼくなりの理解を提示しておきますと、カルマの法則は「霊的な因果法則」であり、「結果が、その結果を生じさせたのと同じ存在に働きを返すときにのみ」「存在が同一存在であり続けるかぎりにおいてのみ」語ることができるのですから、民族、人類、地球、宇宙というレベルにおいてもそれぞれ「民族」「人類」「地球」「宇宙」という「存在」がみずからに働きを返すということがいえるのではないかと思います。

 つまり、人間は「民族」の一部であり、人間は「人類」の一部であり、「地球」の一部であり、「宇宙」の一部である、としてとらえるならば、「個性」も「個人」も、そうしたレベルでのカルマ的連関のなかでとらえていく視点も必要があるということになります。 

 一人の「個人」のカルマも「民族」「人類」「地球」「宇宙」という「存在」のカルマと「独特な仕方で交差している」とうことがいえるわけです。ですから、民族のカルマが個人に働きかけ、人類のカルマが個人に働きかけ、地球のカルマが個人に働きかけ、宇宙のカルマが個人に働きかけているということを、個人のカルマとあわせて理解していく必要があります。

 これについて、テキストから、「地球のカルマ」及び「宇宙のカルマ」について見ていくことにします。

まず、「地球のカルマ」について。

人間、動物、植物は鉱物界を外へ排出しました。鉱物界はふたたびそれらに作用を返します。これが「地球のカルマ」なのです。 (P24)

 とありますが、このことを理解するためには、シュタイナーの宇宙進化論の基本的観点を理解しておく必要があります。この宇宙進化論の考え方は理解しにくいところがありますので、この機会を利用して少し説明しておくことにします。

 それによれば、現在の地球である地球紀という進化段階は、土星紀、太陽紀、月紀の後に生じました。地球をひとつの生物としてイメージしますと、それが「土星」、「太陽」、「月」、そして「地球」というように転生をくり返しながら進化しているというわけです。とりあえず、この「土星」、「太陽」、「月」は通常いわれる意味での「土星」、「太陽」、「月」ではなく、「地球」の前世の名前というくらいで理解しておきましょう。

 また、通常の進化論の考えによれば、最後に人間が登場したということですがシュタイナーの宇宙進化論では、最初の土星紀には人間だけが存在してたということを理解しておく必要があります。 

神智学は、「わたしたちは、周囲にあるものすべてと一体である」と、語る。これは、人間はかつてはすべてを自分のなかに持っていた、ということを言っているのである。事実、地核は、人間がかつて晶出したことによって発生した。かたつむりが殻を作り出したように、人間も、鉱物界、植物界、動物界のすべての存在を自分のなかに持っていたのであり、それらすべてに向かって、「これらの実体は、わたしのなかにあった。わたしが、それらの成分を晶出したのだ」ということができる。(シュタイナー「神智学の門前にて」イザラ書房/P101-102)

人間は最初から人間であって、猿ではなかった。人間は進化するために、動物界全体を自分から分離したのである。色の混ざった液体から色素を取り出し、きれいな水を得るのとおなじである。(同上/P99)

 現在、人間は、物質体、エーテル体、アストラル体、自我を、動物は物質体、エーテル体、アストラル体、植物は物質体とエーテル体、鉱物は物質体だけを持っていますが、

最初の「土星紀」には、人間の最初の萌芽しか存在していませんでした。鉱物、植物、動物は存在していなかったのです。原初の物質的な構成体、原鉱物とでもいえる「熱」状態だったのです。もちろん、それを今日の鉱物界のようなイメージでとらえることはできません。

 続く「太陽紀」には、エーテル体(生命体)の萌芽が加わります。このときの人間は、物質体とエーテル体だけをもっていました。この太陽紀には、鉱物界と植物界の2つが存在していました。人間は、鉱物界を分離、排出することで植物界に高まることができました。

 さらに「月紀」においては、人間にアストラル体の萌芽が加わります。この太陽紀には、鉱物界、植物界、動物界の3つが存在していました。人間は、植物界を分離、排出することで動物界に高まることができました。

 そして、現在の「地球紀」になり、人間は、動物界を分離、排出することで進化することができました。

 この理解を前提とすれは、「地球のカルマ」についてのテキストにある次の説明が少しは理解しやすくなるのではないかと思います。

先行するこれらの三つの進化紀には、私たちが言う意味での鉱物界は存在していませんでした。地球紀になってはじめて、鉱物が現在の形態をとって現われたのです。今日の鉱物界は地球進化の過程で今日の形態を獲得して、それ以来独自の領界として存在しています。それ以前の人間、動物、植物は、生存の根底に鉱物界をもたぬままに、進化を遂げました。しかしそれらは、将来の進化を達成するために、自分の中から鉱物界を排出しなければなりませんでした。そして、鉱物界を排出した後では、固い鉱物の地盤をもった惑星上でしか、進化を遂げることができなくなりました。鉱物界はすでに存在しています。いまや人間、動物、植物その後の運命はすべて、太古の昔に造り出されたこの鉱物界に依存しているのです。

鉱物界の成立とともに、人間、動物、植物は、鉱物界が生じたことの結果を自分で引き受けなければならなくなりました。この場合にも、かつての時代に生じた事柄を、後の時代がカルマ的に引き受けなければならないのです。地球上で準備され、地球上で実 現されるのです。それはかつて生じたこととその後生じたことの関連であり、原因を引き起こした存在に結果となって作用を返す関連なのです。(P24)

 さらに、「宇宙のカルマ」について。

 シュタイナーは、「彗星の中には月紀の法則が働いている」といいます。

月紀から私たちの地球紀へ何かが働きかけるとき、たとえば彗星が地球に光を投げかけるとき、その背後では霊的存在もまた働いています。たとえば、ハレー彗星が地球圏内に入ってくるときに何が起こるかというと、いつでも唯物論への新しい衝動が起こるのです。(P26)

 このように、現在の地球紀は自らの過去の進化段階である月紀に生じたカルマの影響を受けているといえます。月紀のカルマには、ルツィフェル的存在たちに関するものもあり、それが現在の地球紀に深く影響を及ぼしています。これは、人間に「自由意志と悪への可能性」を与えているといいます。

なぜ月紀において霊的存在たちが外へ排除されたのでしょうか。それは、排除された霊的存在たちがふたたび排除した存在たちに特定の作用を返すためにです。ルツィフェル的存在たちが排除されて、別の進化をたどらねばならなかったのは、地球居住者たちのために、自由意志と悪への可能性を地上にもたらすためでした。この場合、私たちの地上生活を超えてカルマが働いています。宇宙のカルマが働いているのです。(P27)

 もし、現在このルツィフェル的存在たちの作用がないとしたならば、人間には「自由意志と悪への可能性」はないということができます。そういう意味で、カルマの法則というのは、宇宙進化という側面を考えても、非常に重要な役割を果たしているというとがいえるのではないかと思います。

 人間は、進化するために鉱物界、植物界、動物界を自分から分離・排出してきました。「悪」についても同じことがいえるのです。

のちに自分の外に持つことになるものを、人間は自分の内に持っていたのである。そして人間は今日なお、のちに自分の外に持つことになるものを、自分の内にもっている。カルマを自分の内に持っているのである。善と悪を、自分の内に持っているのである。人間は動物を、自分の外に出した。それと同じように、人間は善と悪を世界に放出することになる。善は善良な人種を生じさせ、悪は邪悪な人種を分離する。このことは、ヨハネ黙示録にも書かれている。(略)

 内にあるものは、外に現われなければならない。カルマの結果が現われるなら、人間はつねに高次に進化していく。(略)

 まず、この悪が形成されねばならなかったのである。この悪を克服するために使用される力のなかで、最高の神聖さへの力が発展する。畑には、むかむかするような臭いのする肥料を撒かねばならない。肥料は酵素として、最初に畑に撒かねばならない。それと同じように、最高に神聖な状態に到達するためには、悪の肥料を必要とするのである。これが悪の使命である。筋肉を酷使することによって人間は強くなる。同様に、神聖なものに高まろうとするなら、善は、まず対立する悪を克服しなければならない。悪は、人類を高めるという課題を担っているのである。

 このような事柄は、わたしたちに人生の秘密を洞察することを可能にする。のちに人間が悪を克服したとき、自分が進化するために犠牲にし、突き落としてきた被造物を解放することができる。これが進化の意味である。

(シュタイナー「神智学の門前にて」イザラ書房/P99-101)

 人間は、自分が進化するために分離・排出してきた存在に対する責任をカルマ的に担っています。これは「悪」についてもまったく同じです。「悪の解放」という極めて重要なテーマもこのことから深く認識する必要があるのだといえます。 

宇宙が霊的な在り方をしているかぎり、カルマの法則は宇宙のいたるところに見出されます。カルマはさまざまな領域で、さまざまな仕方で開示されています。さまざまなカルマの流れ−−個人のカルマ、人類のカルマ、地球のカルマ、宇宙のカルマ等々−−は互いに交差しあい、作用しあうことによって、人生を理解するのに必要な鍵を私たちに与えているのです。(テキスト/P27)

 この「人生を理解するのに必要な鍵」としてのカルマについて第二講からはより具体的に講義内容が展開されています。

 最初にも述べられていたように、「その認識の成果が私たちの中に流れ込み、それによって人生が豊かになり、理解できるものになり、行動意欲を駆り立てる」ために、カルマ認識を深めていくのがこの講義の目的ですので、それを読んでいくことで、私たちの生そのものを深めていくことができればと思っています。

(第一講・修了)


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