ルドルフ・シュタイナー

「カルマの開示」(GA120)を読む

第10講

人類進化の未来における自由意志とカルマ

 (1910年5月27日) 


2002.12.27

 

第10講では、物質及び魂の本質をめぐる問題がカルマをめぐって考察されています。

人が病気になるとき、それが前世からのカルマ的な結果であることがあります。前世での魂は、自分の行為、体験衝動を身体的特徴として表わします。そのときルシファー的、アーリマン的な影響を受けた魂が、肉体をそこない病気のプロセスをそこに現出させるわけです。そして、その影響を魂的に克服することによって、魂と肉体とが正しく結びつき、健康な状態になります。

それでは、その魂と肉体の関係はどうなっているのでしょうか。その両者の関係によって人は病気になり、また健康になるのですが、その前提として、では魂とは何か、肉体とは何かという問いがでてきます。しかし、その答えはあくまでもこの地球紀における地上の人間にとってのみ意味のある答えでしかないとシュタイナーは前置きしています。

たとえば月紀の存在にとっては、その問いに対する答えは、この地球紀の人間にとっての答えと同じであるとはいえないのです。つまり、宇宙進化のプロセスのなかで、適切な仕方で、物質及び魂の問題を見ていく必要があるということです。

けれども生命存在はすべて進化します。そして人間存在の根底に関わる考え方もまた変化します。ですから「物質とは何か、魂とは何か」という問いへの私たちの答えも変化しますし、私たちの答えは地上の人間の答えにすぎず、地上の人間にとってのみ意味のある答えにすぎないのです。(P198)

その前提に立って、シュタイナーは物質及び魂の本質について語っています。物質の本質は光であり、魂の本質は愛である、と。この光と愛の関係がこうして地球紀の地上に生きている私たちにとって非常に重要な課題となっているといえます。物質は光になろうとしている、というように、私たちの魂も愛になろうとしているのだといえるのでしょうね。

どんな物質も、「基礎物質」から濃縮されたのです。金であれ銀であれ、どんな物質にもこのことがあてはまります。地球上の物質はすべて、ひとつの基礎存在から成り立っており、濃縮過程を通って、そこから今日の形態を獲得したのです。 それでは地球紀におけるこの基礎物質とは、一体どんなものでしょうか。神智学はこの問いに対して、次のように答えますーー「地上のいかなる物質も、濃縮された光なのだ」。(…)

それでは、魂の本質とは何なのでしょうか。(…)

地上のどれほど異なる魂現象も、すべては「愛」の様態、「愛」の多様な変形に他ならないのです。(…)

人間の内なる部分と外なる部分とが、いわば互いに押し込まれ、組み込まれたとき、その外なる身体部分は光で織りなされ、その内なる魂的部分は愛で織りなされて現れました。事実、愛と光とは、私たちの地上生活のすべての現象の中で、互いに織り合わされて存在しています。(…)

愛と光とは、すべての地上存在を貫通している二大要素、二大成分です。魂的な地上存在は愛であり、外的な物質的地上存在は光なのです。

(P201-202)

この光と愛のふたつの要素は、宇宙進化において、光を愛の中へ組み込むための仲介者を必要としているのだといいます。

つまり、地球は「愛の宇宙」であって、「愛をいたるところに織り込む使命」をもっているのですが、その愛の要素の中に光を組み込む力が必要です。しかしその力は地球紀の力ではないというのです。そこに「光を愛に組み込むことに特別の関心をもっている」ルシファー存在たちが働くことになります。

ルツィフェルたちは月紀という「叡智の宇宙」の状態の中に停滞し、光を愛に組み込むことに特別の関心をもっている存在です。ですから、実際にルツィフェル存在たちは、愛から織りなされている私たちの内部が何らかの仕方で光と結びつくとき、そこに光が何らかの形で存在するとき、活動をはじめるのです。私たちが何らかの仕方で物質存在の中に現れる光と結びつくとき、ルツィフェル存在たちが現れて、ルツィフェル的なものを愛の中に織り込むのです。人間はこのことを通してはじめて、輪廻転生の流れの中で、ルツィフェルの要素に関わるようになったのです。 (P203)

ルツィフェルの要素が愛の要素のなかにみずからを織り込むことによって、「もはや無条件的な帰依に終始する愛ではなく、自由なる叡智に貫かれた愛」を、私たちにもたらします。

外的な物質的地上存在は光です。その光を愛に織り込むということは、外的な物質の作用を受けるようになるということです。つまり、愛はルシファーの力でも織りなされているということでもあります。

そのことによって、人間は病気になる可能性を有することになりました。ルシファーが働きかけなければ、私たちは愛の存在として病気にはならないのですが、そこには「自由」の可能性がなくなります。私たちは、自由の可能性を得ることによって、病気の可能性をも得るということになります。

ルツィフェルの要素を受け入れた人間は、自分の身体という物質存在と、愛で織りなされ、ルツィフェルの力でも織りなされている魂とを結び合わせます。そしてこのルツィフェルの要素に貫かれた愛、物質的なものに深く関わっている愛、それこそが内から働きかける病気の原因となるのです。(P204)

さて、たとえば病気になって「痛み」を感じるとします。その「痛み」はルシファーの影響なのだといいます。しかしその「痛み」はむしろ「ルシファーの誘惑に対するカルマの法則の働き」であって、その「痛み」ゆえに、そのルシファーの働きを克服するためのサインにもなっているのです。実際、「痛み」がないと、私たちは自分が病気になったことに気づくことができません。魂と肉体が正常な関係でなくても平気で活動し続けてしまいます。そうなると、ルシファーの働きを克服しようとする衝動を持つことができません。

そういう意味では、「痛み」は良き知らせでもあるのですが、また「痛み」は耐えがたいものでもあります。あまりの「痛み」は意識を錯乱させてしまうこともあります。しかし「痛み」が耐えがたいからといってそれをただただ取り去るだけであったとしたら、魂と肉体の関係はますます逸脱したものになりかねないでしょう。難しい問題がそこにあります。

それでは一体、痛みに対して私たちはどうすればいいのでしょうか。痛みを緩和させてもいいのでしょうか。ルツィフェルの要素から生じた痛みに伴うすべての作用を、何らかの仕方で、なくしてしまってもいいのでしょうか。 魂の本質を考えれば、ルツィフェルの要素を病気の原因として抱えている人は、そのルツィフェルの要素をふさわしい仕方で駆除できなければなりません。では、ルツィフェルの要素を遠ざける正当で有効な手段とは、どんなものであるべきなのでしょうか。(…)

カルマの要素が正当な仕方で働くためには、本来の愛を導入する必要があるのです。結局のところ、この意味で病気の原因となるものすべてのために、魂の中のルツィフェルに妨害された愛の要素に、何かを注ぎ込まなければなりません。私たちは本来の愛を流し込まなければならないのです。一般に「心理療法」はすべて、「愛を注ぎ込む」ことを大切にしています。心理療法は何らかの仕方で愛を供給しようとします。愛は私たちが他の人に流し込む鎮痛剤なのです。治療手段は結局、愛に還元されなければなりません。(P204-205)

治療の側面には、二つあって、ひとつが「心理療法」にみられるような「愛」の側面からの治療であり、もうひとつが、「光」の側面からの治療だといいます。

「心理療法」においては、「治療師のエーテル体が、患者と特定の関係を結ぶことによって、治療対象に対して一種の対極をかたちづくる」、つまり、「内なる心的手段」である「何らかの形に変化した愛の力」が有効な手段であるのですが、それに対して、外的な治療法においては「さまざまに変化した光」、「濃縮された光」を用いるというのです。その光の側面からの治療について見てみることにします。

人間の物質的身体は、愛だけが働きかけるのであれば、決して病気にはならないのですが、アーリマンとルツィフェルの作用を受けることによって、病気の身体が生じることになりました。人間の物質的身体には、人間が「自我」の担い手になったことによって、光と反対のものである「闇」が織り込まれているので、病気の際には、その「闇」をなくす必要があります。

人間は、進化の過程で次第に自分の中から排出してきたもの、つまり動物界、植物界、鉱物界を、自分の物質存在の基礎にしています。この三つの領界は、地球存在のために、光で織りなされたさまざまな物質を含んでいますが、それらの物質には、人間のカルマを通して人間の内面から人間の物質体の中へ入っていった「闇」は、存在していません。私たちの周囲の三つの領界の中の物質は、ルツィフェルかアーリマンの作用を受けた人間の愛がそこに働きかけても、けっして不純なものにはなりません。(…)

このように、外にあるどんな物質も、人体内の物質とは区別することができます。人間がアーリマンとルツィフェルの影響を受けているため、物質は、人間の中に含まれているときと、外界におけるときとでは、異なった在り方をしているのです。多かれ少なかれそこなわれている人体のためにために、なぜそこなわれていない、純粋な状態にある物質を摂取する必要があるのか、その理由はここにあります。そこなわれずに外界に存在している物質は、それに対応する人間の身体疾患に対する治療薬になるのです。正しく使用するなら、外界には必要な薬が見いだせます。そしてそれこそが、人体にふさわしい薬なのです。人体の疾病を特殊な闇であるとすると、外界の光で織りなされた物質には、闇は存在していません。人体の闇に、光で織りなされた純粋な物質を処方すれば、その闇をなくすことができます。(P208-209)

この「そこなわれずに外界に存在している物質は、それに対応する人間の身体疾患に対する治療薬になる」というのは、非常に重要な観点で、医学に関連したシュタイナーの視点の基本でもあるようです。そういう意味で、「肉体の本性に関わる病気には、鉱物界から採られた薬を使う必要」があるのだというのですね。

さて、物質及び魂の本質とそれに関連するカルマに関して、この講義では病気の治療ということがクローズアップされていました。

その重要な観点は、「物質は織りなされた光であり、魂は薄められた愛である」というものでした。そして、ルシファーやアーリマンの影響によって物質的身体と魂との関係がゆがむことで病気になったとき、その光の側面及び愛の側面から、治療の可能性を見出すことができます。

私たちは周囲の環境の濃縮した光から薬を取ってきます。そしてまた、私たち自身の魂の愛の行為、犠牲的行為からも別の治療手段を取りだし、その愛から獲得された魂の力で治療します。一方の愛と他方の愛が結びつくとき、私たちは地球紀のもっとも深い内実と結びつくのです。地球上のすべては、光と愛の均衡状態の上に成り立っています。そして光と愛の均衡における障害が不健康なのです。どこかに愛の障害があれば、愛の力そのものを使って助けの手を差し伸べることができます。光に障害があれば、私たちの中のその闇を除去してくれる光を大自然の中から取り出すことで、手を差し伸べることができます。これが治療にあたるときの基本です。このことは地球上のすべてが、互いに対立しあい、対応しあう両要素の均衡状態の上に成り立っていることを示しています。光と愛とは本来、互いに対立した要素でしたが、地球紀において、両者のいとなみはすべて、互いにしっかりと織りあわされています。(P212-213)

(第10講・了)


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