ルドルフ・シュタイナー

「カルマの開示」(GA120)を読む

第11講

「個人のカルマと共同体のカルマ       

       ーー人間のカルマと高次存在のカルマ」

 (1910年5月28日) 

 

その1「個人のカルマと共同体のカルマ」


2003.1.23

 

 「カルマの開示」も、最後の第11講になりました。この講義では、章につけられているタイトルからもおわかりのように、カルマを個人のものとしてだけではなく、共同体や高次存在のものとしてもとらえ、それらが個人のカルマとどのように関係しているのかについて語られています。

 実際、私たちはさまざまなカルマ的連関のなかで、みずからの「生活貸借表」に応じた運命を享受しているわけですけど、それだけでは説明のつかないことはたくさんあります。戦争や地震や災害などで一度にたくさんの人が亡くなるときなども、それをすべて個人のカルマ的連関としてとらえるのはやはり無理がありそうです。

歴史上の大事件、たとえばペルシア戦争に眼を向けますと、この戦争がそれに参加した個人のカルマにとってのみ意味をもつとはとても思えません。戦いの犠牲となって死んでいった戦士の一人ひとりの戦場での行為は、その人個人のカルマの貸借表に書き込めばすむことでしょうか。いいえ、そんなことはありません。なぜなら、民族全体に関わる出来事の場合、個人が自分のカルマを成就させるだけですむとは考えられないからです。歴史はそのような大きな出来事を繰り返してきました。そうした場合、個人ではなく、人類全体の進化の中に、その出来事の意味を見出さなければなりません。その出来事が個人のカルマと同じはずはないのです。(P218-219)

 歴史的な出来事を個人と切り離して考えることはできませんけれど、それを個人を超えた共同のカルマとしてとらえるとすれば、その共同に体験するというところにその出来事の意味を見出す必要があるわけです。

 私たちも今この時代においてさまざまな体験をしていますが、そこで同時代の出来事として共有されるということのなかに今ここにいる私のカルマとの関係性とその意味をとらえてみなければなりません。

 自分がこの時代にこうして生きているということを最も広義にとらえるとすれば、この地上で起こるあらゆることで、自分に無関係であることは何もないとさえいえます。

 そういう意味で、人類の歴史を少し考えてみるだけでも、現代という時代は、これまでの時代と比べるとすれば、この地球の上で起こっているさまざまなことが、ますますそれぞれの個々人と関係性を持たざるをえなくなっていることが多くなっているように思えます。経済の問題にしても、戦争の問題にしても、メディアの問題にしても、単なる一エリアだけの問題としてとらえることはできなくなっています。時間を共有するということにおいても、現代においてはある出来事に対して世界中が同時に同じ映像や情報を共有することが可能となっています。そしてさらにインターネットを使えば、個人レベルにおいて、送り手であることと受け手であることを相互的なものにすることさえ可能になっています。

 そういう時代に私たちがいるということを、個人レベルのカルマと同時に、共同に体験することになっているカルマ的連関においても見ていかなければなりません。過去の歴史においても、また今こうして生きている現在進行形の歴史においても。

 そうしたときに重要なのは、歴史においては、「持続する流れ」と「変化する流れ」との二つの流れがあるということです。

人類進化における文化の興亡、民族の興亡をふりかえってみましょう。ある民族が新しい文化を生み出します。そしてその中のある部分は不滅なものとして残りますが、それを生み出した民族は消えていきます。そのような過程を見るとき、人類史の中には二つの流れが区別できる、という神智学の教えが理解できなければなりません。(P221)

 たとえば、日本民族云々ということを誇り、それがいかに特別なことであるかとかいうことを信じていたとしても、それは否応なく変化している流れのなかにあります。かつては日本民族など存在せず、いずれはまた存在しなくなるように。もちろん、現在でも、それはある種の共同幻想でしかないわけですが。

人類進化の数千年を通じて、さまざまな民族が相前後して興り、それぞれの文化的特徴を生ぜしめながら、常に一種の幻想にひたって生きてきたのです。その幻想とは、それぞれの民族が自分の創り上げた文化を不滅なもの、永遠のものとみなしていたことです。そうみなすことができなかったなら、民族文化を創造する熱意は生じなかったでしょう。人びとは文化の永続性を信じて、それに心を傾けてきたのです。今日でもこの幻想は生きています。たとえ今日の人々が以前ほどにはそれに心を傾けたり、文化の永続性を論じたりしなくても、いわば不徹底な形で、無意識的にその幻想の中に生きているのです。(P223)

 しかし、こうして日本という場において生み出された文化のある部分は、なんらかの形で「不滅なものとして残り」、継承されていくことになると思われます。おそらく今こうして日本という場においてつくりだされている文化も過去のなんらかの「不滅なもの」を継承しながら、新たなものが付け加わり、また編集・変容を経て、そのなかで展開してきているものであるはずです。

人類史の中には「持続する流れ」があります。歴史の流れの連続する波の中で、過去の波が生み出した文化財は、それに続く波の中でも維持され続けます。(P221)

 ナショナリズムという幻想は、むしろ近代になってからこそ、近代国家というものの形成と展開において燃え上がってくるようになってきています。おそらく近代国家においては、それが幻想であることを隠蔽し、それがさも永遠に続くかのように標榜する民族国家であることを成立させようとしたように見えます。

 そのことを理解するのは、かつては困難な部分もあったのかもしれないものの、現代においてそのことを理解するのは比較的容易なことです。幻想を幻想であると見る力の可能性は現代においては、少しでもものを考えることのできる余裕さえあればそんなに難しいことではありません。しかし、すべては幻想であるということを言ったところで、岸田秀の「唯幻論」の域をでないわけで、やはり幻想を見抜く眼とともに、現代という時代において私たちはいったい何を課題としているのかをーーつまり、それもおそらく共同のカルマということになるのでしょうーー見ようとする必要があるはずなのです。

民族文化には二つの流れがあるのですが、それが今、私たちの時代になって変化しはじめているようなのです。というのは、人間の精神生活のこの第一歩の領域が永遠だという幻想を、もはや人は持ちえなくなってきているからです。そしてそのような領域に、神智学の精神生活も属しているのです。なぜなら、私たちの精神運動の地盤の上に立っている人がもし、その認識内容を表現している形式、私たちの今日の思想表現、つまり神智学の思考、感情、意志から生じたものを永遠に存続するものだ、と信じようとすれば、これほどひどい誤解はない、と言ってもいいくらいだからです。
今日の私たちと同じように、神智学の真実を語る人が、三千年経った後でもまだ存在していると言うとしたら、それは非常に近視眼的な見方です。私たちの時代状況は、持続する文化内容を現代的な形式の中に取り込みます。そして私たちの子孫は、それをまったく別な体験形式の中で表現するのです。(P223)

 なぜ私たちはこれまでのように現われては消えてゆくさまざまな歴史文化を生み出してきたのか、いやむしろなぜその必要があったのか、を問いかけてみるときに、そこに人間が人間であることの課題が見えてきはしないでしょうか。そしてそれこそが「持続していく何か」であるようにも思えます。もちろん、私たちは、今ここだけに生きているのではなく、過去さまざまな時代と文化のなかで生き、またこれからも新たな時代と文化のなかで生きていくわけですから。

なぜでしょうか。それは、すぐれた文化を生み出すために、一人ひとりの人間にできるだけ多様な諸民族の文化を体験させなければならないからです。そのことはすでに何千年来行なわれてきました。
たとえば古代ギリシア人がした無数の異民族体験を考えてみてください。そしてその中から取り出されたエキスは、その後の人類全体に役だっています。歴史の流れの中には、個々の文化所産以上の何かがひそんでいて、多くの事柄がその何かをめぐって生じているのです。
ですから私たちは、二つの流れを観察しなければなりません。第一には、現れ、そして消えていなざるをえないものです。第二には、そのようなものに比べれば、量的にはごくわずかであっても、持続していく何かです。(P224)

 そうした視点を持ちながら、今こうして生きている歴史、文化を真に「持続していく何か」のなかでとらえていくこと。それが、共同のカルマとの関係において個人のカルマを生きるということでもあり、精神科学(ここでは「神智学」という表現)の重要なテーマでもあるのです。

 

 

その2「人間のカルマと高次存在のカルマ」


2003.1.26

 

 第11講の後半になります。

 前半では、「個人のカルマと共同体のカルマ」について、歴史のなかでの「持続する流れ」、「変化する流れ」の二つの流れについて見てきましたが、ここで重要なのは、「持続していく何か」だけを見ようとするのではなく、二つの流れをしっかり観察してみるということではないでしょうか。

 重要なのはプロセスであって、その結果としてのエッセンスだけではありません。結果主義になってしまい、「持続する流れ」以外は見なくてもいいのだ、変化するものは些末なものなのだから……云々ということになってしまっては、ある種、原理主義のようなになってしまいかねません。精製された砂糖や小麦粉、研がれすぎた米などのようなものだけを摂取していることにも比らべられるでしょうか。

 後半では、私たち人間に個人的なカルマがあるように、高次存在にもカルマがあって、その両者のカルマが関わり合っているということについて見ていきますが、この講義で主にとりあげられているルツィフェルとアーリマンといういわば悪として顕現している高次存在に関しても同様で、それらの存在は決して「持続する流れ」ではなく、むしろ「変化する流れ」ではあるものの、そうした存在なくしては、人間が人間として進化するための重要な契機を失ってしまうということを忘れてはならないのです。

 悪なのだから、自分はそれに関わらないようにしよう…という発想はむしろそうした悪の働きかけを無意識のうちに受けてしまうことにもなりかねません。もしくは、無菌室にいて病気にならないようにしよう、ということになってしまいます。重要なのは、無菌室にいなくても抵抗力をしっかり身につけるということなのであって、滅菌状態に自分を置くことではありません。滅菌状態でいかに健康であったとしても、それはただの特殊状態にすぎず、いわばそこに「自由」はないのですから。

 そういうことを念頭におきながら、後半部では、人間のカルマと高次存在のカルマについて見ています。

 さて、私たちの個人的なカルマ、いわば小宇宙のカルマは、高次存在たちの、いわば大宇宙のカルマと密接に関わっているといいます。

私たち個人のカルマもまた、大宇宙のカルマの中の小宇宙のカルマとして、生きているのです。 (P239)

 マクロコスモスとミクロコスモスが照応しているということは、相互にカルマ的連関のなかにあるということでもあるわけです。

 そこで重要な役割を演じているのが、ルツィフェルとアーリマン。両者は高次存在ではあるものの、もっぱら悪の霊として描かれています。しかし、それをただ人間を堕落させる存在としてしか見ないとすれば、たとえば人間が自由の霊であるといわれる意味も見失ってしまうことになります。その両義性をしっかりと認識しておく必要があるのです。キリストがルツィフェルとアーリマンの「中」を歩むということの意味もその認識が基本になります。逆にいえば、ルツィフェルとアーリマンの両義性をとらえることで、キリストの意味もまた理解されるということにもなるでしょう。

個人の中にカルマが働くようになって以来、人類の進化にルツィフェルとアーリマンという二つの力が働きかけるようになりました。もし私たちがこのことを知らなければ、人類進化の過程を理解することはできません。(P224)

 もちろん、人類進化における持続的な流れは、ルツィフェルとアーリマンからの衝動ではなく、いわば、「正常に進化を遂げたヒエラルキア存在たち」からのものです。しかし、人間が自由の可能性のなかで個性をもった存在として進化していくためには、ルツィフェルとアーリマンからの衝動がどうしても必要だったのです。そういう役割としてそれらの存在を理解する必要があります。

すべての願望、すべての欲望が生じてくるのと同じ地下の深層から、偉大な理想への願いもまた生じてきます。人間に浄福感を与える諸芸術への情熱もまた、そこから生じます。破滅の元になる悪への欲望が生じるのと同じ根底から、地上で達成しうる最高のものへの努力もまた生じます。同じ欲望が、一方で悪徳の中に沈むことができるのでなければ、他方において人間の魂を至高なる善に向かって燃え立たせることもできないでしょう。この可能性を人類のためにもたらしたのは、ルツィフェル的霊たちなのです。ルツィフェル的霊たちが人間のためにもたらした自由は、悪の可能性をも含んだ自由でした。それは人間の魂の中に流れ込む一切を受け取ることのできる自由なのです。しかし、すでに見てきたように、ルツィフェルが可能にするすべては、アーリマンを通して実現されるのです。(P226)

 そうしたルツィフェルとアーリマンという高次存在のカルマを認識する必要があります。

高次の存在たちにもカルマが働いています。自我のあるところには、常にカルマが働いています。そしてルツィフェルとアーリマンも、もちろん自我の存在です。ですから、彼らの行為の結果は、彼ら自身に戻ってきます。(P227)

ルツィフェルたちは常に新たな仕事に取り組み、振り子を一方の側に振るのですが、いつもその仕事をアーリマンがダメにしてしまうのです。このことはルツィフェル的霊たちに大きな幻滅を与えます。彼らは人類の進化の内部で、熱狂と幻滅を繰り返さざるをえないのです。

私たち人間は、この高次の存在たちによって、絶えず新しい力を振るい立たせられますが、この存在たち自身は絶えず幻滅を味わっています。このことが地球紀におけるルツィフェル的霊たちのカルマなのです。人間は、ルツィフェルのこのカルマを、みずからの中に引き受けなければなりませんでした。そうすることによってのみ、本当の自由に至ることができたのです。(P229)

 人間は自由の霊であるともいいます。なぜ自由の霊なのでしょうか。この地球紀において、人間はそうしたルツィフェルの働きのなかにおいて、自由である可能性に向かって開かれているからです。

 ただただ進化していく一本道があって、そこを間違いなく歩いていくというのではなく、踏み迷うさまざまな可能性があるなかで、つまり自由のなかで、人は歩いていかなければならない。ゲーテの言葉に「努力するかぎり人は迷うものだ」というのがあるそうですが、この地球紀において、はじめて自我を賦与された人間の重要課題は自由を獲得するということであるといえます。その「自由」は最初から用意されているものとしてあるのではなく、獲得されるということにその意味がある。そこに、ルツィフェルとアーリマンの働きかけがあり、そうした高次存在のカルマとの関係において、私たち人間の個々のカルマがあるということになります。

かつてルツィフェル存在たちは、私たち人間のために犠牲となって、進化から取り残されました。この霊的存在たちは人間のために、自分のカルマを行使したのですが、それは私たち人間が正常な仕方でルツィフェルの与えてくれたものを成就できるようにするためでした。

ヤハヴェはその息吹を通して、自我の能力を人間に賦与しました。けれども、今私たちの血液の中を流れている神の息吹だけを受け入れて、人間が神の息吹から逸脱することができないとしたら、つまり、ルツィフェル衝動もアーリマン衝動もそこに働いていなかったとしたら、人間はヤハヴェの与えてくれた「なにか」を手に入れることはできたとしても、「いかにして」を手に入れることはできなかったでしょう。人間は自己意識的な自由な自我でそれを感じとることはできなかったでしょう。そう考えてみれば、特定の霊的存在たちが月紀の段階に留まりつづけたのは、宇宙進化に応じたことだったのです。(P232-233)

 自我には、本来の自我と私たちが通常使っている「第二の自我」がありますが、もし本来のヤハヴェ的な自我だけしか持ち得なかったとしたら、つまり誤ることのない道しか歩けなかったとしたら、それは自分で歩いたことにはならないでしょう。自分で、ああではないか、こうではないかと、自己意識的な自由な自我で迷い続ける可能性のなかで、「いかにして」を獲得していくこと。そうすることが、またルツィフェルとアーリマンのカルマに積極的に関わることでもあります。では、ルツィフェルとアーリマンのカルマに積極的に関わる、ということはどういうことなのでしょうか。

私たちは、ルツィフェルとアーリマンの誘惑を克服しつつ、みずからの中に叡智と愛を生かさなければなりません。そうすることで、かつて地球進化の前半期の私たちが自由を獲得できるようにと、みずからを犠牲にしてくれたルツィフェルとアーリマンに、私たちの魂そのものの中から愛と叡智を流し込むのです。これらの霊たちにこそ、私たちは自分の内部に育てた叡智と愛を贈らなければなりません。(P237)

私たち人間は、自分たちのためだけではなく、宇宙にまで働きを及ぼす愛を発達させるためにも働くのですが、それは高次存在たちのカルマのためでもあります。私たちよりも高次の存在たちの中に、私たちが愛を流し込み、そしてその存在たちがこの愛を供犠として受け取るとき、それは「魂の供犠」であり、かつて贈り物を私たちに送り届けてくれた存在たちへの供犠なのです。人間が霊的な文化をまだ所有していた時代、供犠の煙が霊たちの所にまで立ち昇っていきました。当時の人間は、象徴的な仕方で、供犠としての煙を神々の所にまで立ち昇らせることができました。未来の人間は、愛の流れを霊たちのところにまで送り届けます。そうすると、その愛の供犠から、ふたたび何かがこちらに流れてきます。高次の力が人間のところにまで流れてくるのです。その力は霊的なものに導かれながら、ますます大きな力となって、物質界の中に働きかけてきます。その働きは真の意味で魔術的と言えます。このようにして人類の進化の過程で、人間のカルマと高次の存在たちのカルマとが結びつくのです。

(P238-239)

 そうしたカルマ的連関のためにも、人間における「自由」ということが非常に重要になります。シュタイナーは、自分の著書がすべてなくなっても、『自由の哲学』だけは残るだろうと言ったそうですが、その「自由」にこそ、この地球紀における人間進化の最重要課題がある。そうとらえたからなのではないでしょうか。

人間は地球紀における自我の課題をみずからに与えるのでなければ、自由に至ることはありません。地球紀の進化が終わり、人間の課題がすべて成就されたときの人間の自我には、自由はもはやありえません。地球紀におけるすべての所産を人間の自我の中に流し込ませることは、あらかじめ定められていたことでした。人間は、誤謬を犯すことのできるもうひとつの自我をこの自我と結びつけたときにのみ、自由になれたのです。この第二の自我は繰り返し、善の側から悪の側へ、悪の側から善の側へと左右に振れながら、地球紀の進化がもたらすすべての内容に向かって努力することのできる自我なのです。この「低次の自我」がルツィフェルによって人間に賦与されたのは、高次の自我へ向けて努力を重ねる行為こそが、人間のもっとも本源的な行為であるべきだからなのです。そうでなければ、人間の「自由意志」が存在することはできません。自由意志はそのようにして、少しずつ獲得されるべきものなのです。(…)

生まれたときの私たちは、けっして「自由意志」をもっていません。自由意志に近づくことができるのは、ルツィフェルとアーリマンの影響を克服できたときなのです。しかし私たちがルツィフェルとアーリマンの影響を克服できるとすれば、それは認識によってのみ可能です。まず自己認識によって、思考・感情・意志という三つの魂の在り方の中の弱点を知ることができるようになることです。認識を通してどんな幻想にも陥らないように努めるなら、私たちの自我の中にルツィフェルの影響から自由になることのできる力が育っていきます。実際そのときの私たちは、これまでに少しずつ獲得されてきた人類の所産がどんなとき有効に活用できるかを、みずから決定できるようになります。自己認識の一方では、外界認識もまた必要です。この二つは互いに結びついていなければなりません。自己認識と外界認識を私たちの存在と結びつけるときはじめて、ルツィフェルに対してはっきりとした関係をもつことができるのです。(P229-231)

 その「認識」ということが重要で、まさにそれが「精神科学」の最重要課題でもあります。

カルマについては意志の自由を問題にしたりはできなくなります。「自由意志」という言葉そのものがまちがっています。なぜなら、人間は認識を深めること、霊界に参入することによってのみ、自由になるからです。人間は認識を深めれば深めるほど、ますます霊界の内容に満たされます。そしてますます自分で自分の意志を規定する存在になります。意志が自由になるのではなく、人間そのものが自由になるのです。そしてこのことは、人間が宇宙に働く霊的内実を身につけたときにのみ可能となるのです。(P235)

 シュタイナーは『自由の哲学』のなかで、感情的な神秘主義や意志の形而上学を批判し、「思考」の一元論ということを示唆しました。それは暗い、無意識からの感情や意志の働きかけではなく、思考の明るさ、認識の重要性から出発する必要性を強調したかったからなのではないでしょうか。もちろんその「思考」というのは、ただの「想念」ではなく、死んだ思考でもなく、生きで直観的に働く、自由に向かって開かれている思考です。

 その思考をなおざりにしてしまうということはルツィフェルとアーリマンの影響を克服するどころか、その影響を無意識のうちに肯定してしまうことになり、右に左に振り子を極端に振らせるように、自分の内から燃え上がる渇愛と物質の本質がわからないがゆえの唯物論との間で翻弄されてしまうことになります。そういう意味でも、「自己認識と外界認識を私たちの存在と結びつけるときはじめて、ルツィフェルに対してはっきりとした関係をもつことができる」といえます。

 そうした自己認識と外界認識によってこそ、私たちの個人的カルマとルツィフェルとアーリマンのカルマとを積極的に関わらせることができるようになるのだといえるでしょう。

ルツィフェルとアーリマンの本質が理解できるようになったとき、私たちは、この霊たちと新しい関係を結び、この霊たちがすでに成し遂げたことの果実を受け取り、この霊たちのかわりに、いわばその仕事を引き受けることができるようになるのです。そして、ルツィフェルが幻滅せざるをえなかった諸行為を、私たち自身が行なうことによって、それを反対の行為に転化させなければなりません。これまでのルツィフェルの行為は、欲望を刺激し、人間を悪にいざなう行為でした。私たちが、このルツィフェルの行為を引き受け、それによってルツィフェルに働きかけ、いつか未来にルツィフェルのための働くことができるとすれば、そのとき私たちがルツィフェルの行為に代わって為しうることとしては、愛の行為しかありえないのです。(P235-236)

私たちの神智学的認識の特徴は、人間の行為に対して、傾向と情念が、ルツィフェルとアーリマンが、どの程度影響しているかを明示することなのです。ルツィフェルとアーリマンの力は、多様極まりない仕方で、私たちの生活に働きかけています。私たちはこの連続講義の中で、まさにこのことを明らかに示そうとしました。ルツィフェルとアーリマンの力を明るみに出すことは、まさに現代においてこそ可能なのです。地上の人間の目標に至るためには、まずこのことをはっきり認識しなければなりません。(P231)

 そういう意味でも、シュタイナーが広範囲な分野で示唆し続けてきた自己認識と外界認識のためのさまざまを、こうして知ることのできる現代だからこそ、そして、おそらくシュタイナーの生きていた時代よりもそれをまとまった形で得ることのできる状況だからこそ、シュタイナーが示したような精神科学的認識を部分的にではなく、ただ教えてもらうというような在り方でもなく、「自由」の可能性を顕現させる仕方で、できるだけ総合的な形で学んでいく必要があるように思います。そのための教材はシュタイナーの講義だけでも夥しくありますし、まただれにでも開かれてある「自由」として確かにそれにふれることができます。そのとき重要なのは、その「自由」であることに向かって開こうとするか、それとも、閉じてしまおうとするかという、まさに「自由」の問題になると思われます。

 この「カルマの開示を読む」も、ぼくの能力不足もあり、ずいぶんと舌足らずで不十分なまま終わることになりますが、やはり「自由の哲学」がその根底にあるということ、そしてそれは「自己認識と外界認識を私たちの存在と結びつける」ことだけでもお伝えすることができたとしたらいいなと、そう思っています。

(第11講・了)


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