ルドルフ・シュタイナー

「カルマの開示」(GA120)を読む

第2講

「カルマと動物界」

 (1910年5月16日)


 第2講「カルマと動物界」-1


1998.11.19

 

 さて、シュタイナーの「カルマの開示」を読む・第2講にはいります。第1講では、カルマについての基本的な考え方を見ましたが、ここでのテーマは、「カルマと動物界」。人間と動物とはどういう関係にあるのだろうか。そのことから人間は動物に対してどのような姿勢が求めれるのか。そうしたことを、カルマという観点から見ていきます。

 この講義の最初に、太古の叡智を有している民族では、動物に対して「深い同情心」「友情」を感じていたのに対して、西洋においては動物に対する共感があまりなく、キリスト教的な世界観のもと、中世から今日に至るまで、動物には固有の魂がないと考え動物を自動機械のようにみなしてきた、ということが述べられています。

 ネイティブアメリカンなどでも、動物との関係が友情、深い畏敬に裏づけられていることは「ダンス・ウィズ・ウルヴズ」というように動物の名前を使ってみずからを表現するような在り方からもよくわかります。アイヌの「熊」についての信仰などもよく知られています。

霊的な生活が理解できず、外なる感性界だけを頼りに生きている人びとは、感性界の印象を通して、動物を可能なかぎり低いものにしようと考えてしまいます。これに対して、太古の叡智に由来する霊的世界観をまだ保持しつづけている人びとは、動物界の中の霊的な働きを認識しています。(P32)

 動物を自動機械のようにみなすのは、ヨーロッパの諸民族のカルマから生じたものだとシュタイナーは述べています。ヨーロッパの諸民族は、「感覚界を観察し、そのなかに深く入り込み、それを作り変えることのできるような、目覚めた思考力や心の働きを育てることにあった。その能力は、直接霊界から刺激を受けて獲得されるものではなかった」(神秘学概論、ちくま文庫、P292)ということから、「動物界の中の霊的な働き」を認識できなくなってきたわけです。「目覚めた思考力や心の働きを育てる」ということは人間の進化の過程においてはどうしても必要だったのですけど、それによって現在のような唯物論的な世界観が生み出されてしまいました。しかし、それは克服されなければなりません。

西洋諸民族が人間として為すべき課題は、唯物論的な土台から離れ、唯物論的な観点や傾向を克服し、最高の霊的観点を獲得することなのです。(P32)

 ここで誤解されてはならないのは、太古の霊性に戻るというのではなく、あえて霊的な働きから遠ざかることで「目覚めた思考力や心の働き」を育てた上で、新たに「最高の霊的観点を獲得すること」が重要だということです。霊的な観点だけが強調されることがありますが、ともすればそれは「プレ」と「ポスト」ということを取り違えてしまうことになります。

 

 

第2講「カルマと動物界」-2


1998.11.20

 

 「動物にはカルマがあるのだろうか」という問いを立ててみましょう。「カルマがある」ということは何を意味しているのでしょうか。

 第1講で、カルマについて語ることができるのは「結果がその結果を生じさせたのと同じ存在に働き返すときにのみ、言いかえれば、存在が同一であり続けるかぎりにおいてのみ」である、ということが述べられていましたが、それは「個人意識」ないし「個性意識」の存在が前提となります。ですから、「カルマがある」ということは、「個人意識」ないし「個性意識」があるということを意味しているといえます。とくに「個性意識」というのは、輪廻転生を繰り返すなかで「存在が同一であり続ける」意識のことですから、「動物にはカルマがあるのだろうか」という問いは、その意識があるかどうかという問いであるともいえます。

 現在の私たちは、一方では霊的世界観の貧困から、動物の魂を理解できないでいるのですが、他方では人間にあてはまるカルマの理念を、そのまま動物界にもあてはめようとする誤謬にも陥りがちです。そしてこれもまた、唯物論的世界観のひとつの結果であると言えます。(P32)

 人間に生じるのと同じ輪廻転生が動物にも生じる、ということはありません。人間の個性は、死の門を通過した後でも存在を維持して、霊界に留まり、そしてふたたびこの世に生まれてきますが、その人間個性と似たもの、あるいは同じものは、動物の中には見出せないのです。動物の死は人間の死と異なります。なぜなら、死後の人間の個性がたどるような運命を、動物界の中には見出すことができないからです。(p33)

 動物には輪廻転生する「個性」は見出せないということは、動物にはカルマは存在しないということです。人間におけるカルマを動物にもあてはめようとするのが「唯物論的世界観のひとつの結果である」というのは、猿と人間の共通性を見て人間と猿の差異を見ないようにするようなものです。動物実験を繰り返して人間のための薬などを見出そうとするのも同じです。目に見えない「個性」などというものは存在しないか、存在するとすれば、動物にだって存在するはずだというような短絡的発想です。

 では、人間と動物とはどこかどう違うのでしょうか。それを地球の進化のプロセスにおいて見てみることにします。

 もともと人間と動物とは同じ存在でした。土星紀にまでさかのぼるなら、人間と動物の進化上の相違はまったく存在していません。両者はまったく同じ存在だったのです。(P35)

 宇宙進化に関しては、第1講において見てみましたが、地球進化は土星紀、太陽紀、月紀を経て、現在の地球紀に至っています。土星紀においては、人間しか存在していませんでした。または、動物と人間というような違いは存在していませんでした。太陽紀になってはじめて、人間と動物の違いが生じたのです。つまり、人間は動物を排出したのです。

 人間の段階的な進化は、「精妙化」することによって可能となります。コップの中に、ある物質成分が混ざっている水が入っていると考えてください。はじめは表面から底の部分まで、同じ濃度、同じ色合いをもち、どの部分も一様でしたが、その物質成分が次第に底の方へ沈んでいくにつれて、上のほうに透明な水が現われます。

 土星紀が終わった後の人類に、そのような状況が生じました。人類は、自分の中のある部分を排出し、より精妙な部分を保つようにしました。排出されたものが後に動物となり、他の精妙な部分は、この排出によって一段と進化することができました。人間がより高次の段階に至るためには、それぞれの段階で低次の粗野な本性を排出しなければならなかったのです。

 低次の領界に生きる周囲の本性たちから自己を解放することによってのみ、人間は進化を問えることができました。さきほどの水の中により濃縮した成分が含まれていたように、人間の中にも低次の本性が含まれていました。人間はその成分を底に沈め、そこから上昇し、そうすることによって進化を遂げたのです。そして今、背後に三つの自然界を残しています。その三つの自然界は人間の進化のための土台となってきました。低次の本性たちが下に沈み、人間自身は上昇したのです。(P41)

 人間が進化してきたということは、シュタイナーの宇宙進化論によれば、人間が進化するたびごと、自分のなかの精妙でない部分を排出し、精妙な部分を保ちそれを進化させるということです。ですから、土星紀、太陽紀、月紀、地球紀への進化のプロセスにおいて、人間は、現在の動物、植物、鉱物を排出してきたのだといえます。

 さて、そうした人間と動物との差異に目を向けてみましょう。

 動物と人間の相違を理解するには、外的な感覚だけを働かせるのではなく、内的な現実にも心を開く必要があります。そうすれば、人間にとっての「学習」の意味がわかってきます。人間はごく単純な事柄に際しても、学習しなければなりません。単純な道具を使用するにも、成長の過程で学習しなければなりません。単純な道具の使い方を学にも、それなりの努力が必要です。これに対して、動物はその点はるかにすぐれています。ビーバーがあの複雑な巣をどのように作るのか、考えてみてください。ビーバーは学習したりせずに、もっぱら身体に組み込まれた技術によって巣を作ります。(略)

 一体どうして人間だけが学習を必要とするのでしょうか。なぜ人間は、生まれつきビーバーや鶏がもっているような能力を身につけておらず、努力してそれを習得していかなければならないのでしょうか。これは大問題だということを、感じとらねばなりません。(P33-34)

 実際、動物における、生まれながらに持っている本能といわれるものはここでビーバーの巣作りの例が挙げられているように、多くの場合、驚嘆に値するような素晴らしいものです。逆に人間の場合、歩けるようになるまでにさえ1年ほどかかりますし、人間はあらゆることを努力しながら「学習」していかなければなりません。

 その差異はいったいどういうことを意味しているのでしょうか。動物と人間の相違を理解するために外的な感覚だけを働かせるのは「唯物論的世界観のひとつの結果」に他なりません。真の差異に目を向けるためには、「外的な感覚だけを働かせるのではなく、く、内的な現実にも心を開く必要が」あるのです。人間にいわゆる本能といわれるものがないわけではないのですが、それは動物に比べてかなり少ないということは、だれにでもわかります。重要なのは、それを「外的な感覚」だけから見るのではなく、その「内的な現実」における「なぜ」を追求していくことです。

 

 

第2講「カルマと動物界」-3


1998.11.21

 

 動物と人間の真の違いに目を向けるためには、「外的な感覚だけを働かせるのではなく、内的な現実にも心を開く必要が」あるということについては、第9講でも次のように述べられていますので、前回の補足としてその箇所をご紹介させていただきます。

動物の場合、集合魂(群魂)だけが死を体験します。死は、動物の集合魂にとっては、ちょうど夏になって、私たちが頭髪を短めに切らせるときと似た体験を意味しています。髪はまたゆっくりと延びていきます。ある動物(種族)の集合魂は、次第に生え替わる肢体の一部分を切りとるのと同じように、個々の動物の死を感じるのです。

動物の群魂は人間の自我に対応しています。その魂は、誕生のことも死のことも知りません。むしろ誕生に先行するもの、死の後に続くものに眼を向けつづけるのです。動物の誕生と死を人間の場合と同じように考えるのは、ナンセンスです。なぜなら、まったく異なる原因から生じているのですから。外から見て同じものは、内的にも同じ原因によってよって生じる、と思ってしまったら、霊の内的な動きを否定することになります。外から見て同じだと思えても、けっして同一の原因によって生じたことにはなりません。人間の誕生は、動物の場合とは異なる原因によって生じ、同様にその死は、動物の場合とは異なる原因によって生じるのです。(P191-192)

 人間と動物では、誕生と死の意味が異なっているのです。人間は個として誕生と死を体験するのですが、動物はあくまでも「集合魂(群魂)」としてそれを体験します。ですから、動物には輪廻転生する「個性」は見出せず、カルマは存在しないというわけです。

 さて、動物はいろいろな能力を身につけて生まれるのに対し、人間は何もできずに生まれ、あらゆることを努力しながら「学習」していかなければならないのですが、それはいったいなぜなのでしょうか。人間は、動物のそうした能力をただ失ってしまっただけなのでしょうか。

 動物のもっている外的な技術を、人間は浪費してしまったのではありません。人間もそれを大切に扱ってきたのですが、動物とは異なるやり方でそうしてきたのです。動物は潜在的な能力を外的な技術として現わします。たとえばビーバーや蜜蜂は巣を作ります。人間はそのような能力を自分自身に向け、それによって高次の器官を作り出したのです。(P35)

人間は、直立して歩行し、すぐれた頭脳とすぐれた内的諸器官をもつようになりましたが、それはある種の能力のおかげでした。そしてその能力とは、実はビーバーが巣を作るのに用いるのと同じものなのです。同じ能力でビーバーは巣を作り、人間は脳や神経系その他を発達させました。ですから、人間ははじめから外へ向かって働きかける能力を現わしてはいません。同じ能力を、ビーバーは外へ向けて行使し、人間は内的形成のために用いました。人間が地上での進化を成就するためには、どうしてもこのような内的形成が必要だったのです。(P35-36)

 ビーバーや蜜蜂が巣を作る能力を、人間は内的形成のために使い、そのために脳や神経系などといった高次の器官を作り出すことができたというのです。人間は生まれて一年ほどで直立二足歩行をし、言葉を話すようになり、そして思考することができるようになりますが、そうした人間が人間であるためのもっとも基本となる能力は動物が生まれながらに持っている本能的な能力が転化されたものだということになります。

なぜ人間は、動物と共有する能力を、人体組織の形成のために用いなければならなかったのでしょうか。それは、ふさわしい人体組織を作ることによってのみ、その人体を転生する自我の担い手にすることが可能だからです。すぐれた人体組織がなければ、自我を担うことはできません。自我=個性が地上で活動できるかどうかは、人体という担い手の在り方にかかっているのです。(P36)

 動物の本能的能力を転化することで人間は自我の担い手となることのできる人体組織を形成することができました。動物にはカルマがなく集合魂的な現われ方をしているということは動物には自我を担えるだけの組織がないということになります。この、自我を有することができるためには、そのための人体組織が必要であるということはとても重要な視点です。

 

 

第2講「カルマと動物界」-4


1998.11.21

 

 ここで、人間の進化のプロセスをもう一度振り返ってみましょう。人間は、土星紀、太陽紀、月紀、地球紀という進化のプロセスにおいてそれぞれ肉体の萌芽、エーテル体の萌芽、アストラル体の萌芽、自我の萌芽を獲得してきました。現在のような自我を担うことのできるような人間の組織を形成するためにはこうしたプロセスがどうしても必要だったのです。

 宇宙秩序の中に人体のような内的多様性をもった組織を生じさせる必要があるときには、人体各部分に特別の在り方が求められます。人間の思考によって案出されたものを現実化するのとは、まったく違うのです。抽象的になら、どんなことでも考えられますが、神智学においては、現実に即して思考を働かせなければなりません。人体組織はけっして単純ではなく、肉体とエーテル体とアストラル体から成り立っており、この三つの部分は、特定の均衡関係を保って、互いに正しい関係にあらねばなりません。そのために、このような三段階の経過をたどる必要があったのです。

 まず統一体としての宇宙が形成され、地球も太陽も月もその宇宙統一体の中で互いに結びついていました。次いで人間のエーテル体に緩慢な働きかけができるように、太陽が分離しました。そうでなければ、エーテル体はあまりにも急激に進化を遂げてしまったでしょう。さらにアストラル体が人体組織に調和的に作用できるように、月が分離しました。人間の三重の組織体のために、このような三つの経過が必要だったのです。(P38-39)

 人間と動物の違いを、こうした宇宙進化の観点からさらに見ていくことにします。

 太陽の分離と月の分離との中間の時期の肉体は、霊がそれを住処として利用できる状態ではなくなっていました。そこで大多数の人間の霊魂は、一定の間地球から離れごく少数だけが地上に残りました。月が分離すると、そのことで人体組織は精妙化し、離れていた霊魂がふたたび受肉するようになったのです。その際、精妙化され、人間の「個性」の担い手になることのできる人体とその担い手になることのできなかった体組織とに分かれることになりました。後者が今日の動物になったのです。

 人間と動物の分離は宇宙進化の観点から説明できます。進化の過程で二つの種類の体組織が生じたのです。人間が動物の体的構造を保ち続けねばならなかったとすれば、人間の自我は地球の周囲をいつまでも浮遊し続けていたでしょう。組織体があまりに硬化してしまい、その中に入っていけなかったでしょう。そして私たちがより進化していったとしても、動物の 集合魂の段階に留まらざるをえなかったでしょう。しかし人体が精妙化されたために、人間はその中に入り、そこを住処として利用できるようになったのです。一方、集合魂は個別的に組織体の中で生きようとする要求をもちません。霊界から組織体に働きかけるだけなのです。

 動物界は、今述べた方向で私たちが進化しなかったならば、私たち自身がそうなったであろうような在り方をしています。ですから、「動物界の硬化した体組織は、どのようにして生じたのか」という問いに対しては、「それは私たち自身によって作り出された」と答えるべきなのです。

 動物は月の分離後に、人間の魂がそれに結びつこうとしなかった体組織の子孫なのです。私たちはこの体組織を後に残して発達を遂げ、新しい人体を見出しました。(P44-45)

 ここで、太陽の分離と月の分離との中間期に地球を離れた人間とルツィフェルとの重要な関係について見てみることにします。ルツィフェルと人間のカルマの関係について知らなければ、カルマについての認識を深めることができないからです。

 私たちはルツィフェル的な霊的存在たちの指導の下で、あの危機の時代に地球の進化から離れたのです。「地上は今、危機の時代を迎えている。君たちは地球を去らねばならない」彼らはそう人間に語りました。その同じルツィフェル的な霊たちは、当時の私たちのアストラル体にルツィフェル的な原則を組み込み、私たちにあらゆる種類の悪への傾向を抱かせ、そすることで同時に、自由への可能性をも与えたのです。この存在たちが私たちを地球から連れ去ったのでなければ、私たちは当時の人体の姿を取りつづけたでしょう。そして私たちの個性は、その人体の周囲を取り巻いて 存在することしかできず、人体に受肉することはできなかったでしょう。この存在たちが私たちを自分たちの世界へ連れ去り、彼らの本質を私たちの本質と結びつけたのです。

 このことを考えれば、私たちが地球を去ってルツィフェルの影響を受け取ったことの意味が理解できるようになります。ルツィフェルと運命を共にせず、当時の地球に留まりつづけた動物体は、地上でルツィフェルの影響なしに過ごしました。この体組織は私たちと地球の運命を共にしましたが、天上での運命を共にすることはできませんでした。地球に戻ってきたときの私たちの内部には、ルツィフェルの影響が働いていましたが、動物たちはそうではなかったのです。その結果、私たちだけが、肉体内の生活だけではなく、肉体から自由な生活もいとなむことができるようになり、肉体に依存することがますます少なくなりました。しかしルツィフェルの影響を受けなかった地上の存在たちはそうできませんでした。(P45-46)

 最初に述べたように、人間は「精妙化」することによって段階的に進化することができます。自らのなかの低次の部分を排出することでそれを可能にするのです。動物も、植物も、鉱物もかつては人間の内にあったといえます。人間は自らが進化するためにそれらの存在たちを自らの外へと排出してきたわけです。それらの存在たちは、ある意味では人間の犠牲になって供犠を捧げたのだということもできます。

 ルツィフェル的存在たちも、宇宙進化の過程で自らを供犠に捧げた存在であるということができます。月紀において、ルツィフェル的存在たちが進化のプロセスから「停滞」することで「悪」が生じたのですが、それによって人間に自由の可能性が与えられました。人間は、自らが排出した存在たちだけではなく、高次存在たちの犠牲の下に進化することができたということを認識しなければなりません。

 さて、人間と動物の関係に戻りましょう。人間がみずからの進化のために犠牲にしたともいえる動物に対して人間はどのような態度であることが求められるのでしょうか。

 動物たちは、アストラル体を私たちと共有しています。苦しみを感じとる能力をも共有しています。けれども、今述べたように、この苦しみを克服して、ますます高く進歩していく可能性は持つことができずにいます。なぜなら、個性と自由をもっていないからです。動物は私たちよりも、はるかに不幸な立場にいるのです。私たちも苦しみに耐えなければなりませんが、どんな苦しみも、私たちにとっては進歩への手段となりえます。苦しみを克服することによって、私たちは高みへ昇って行きます。そして動物たちを後に取り残しました。動物たちは苦しみを感じとることはできるのですが、苦しみを克服して進歩する可能性はもつことができません。それが動物の目下の宿命なのです。(P47)

 動物たちは、人間と同じくアストラル体を持ち、苦しみや悲しみ、喜びなどを感じる存在ですが、集合魂的な在り方をしていて自我を有してはいないためにカルマを持つことができません。ですから、過去のカルマを引き受ける必要がないのと同時に未来へと担っていくカルマを形成することができません。個としての進化の道が現在は閉ざされているのです。

 太古の叡智を有していた時代には、人間は動物への理解と共感を持っていたのですが、人間と動物との宇宙的関連が分からなくなっている現在、人間と動物との深い関係がわからなくなってしまっています。

 この講義で述べられているような地球進化のプロセスでの人間と動物との深い関係を私たちは深く共感とともに認識する必要があります。

暗い見霊意識の中で根元的な叡智を記憶に留めていた時代の人類は、動物に対する共感をまだ高度に保っていました。私たちは今、ふたたびこの霊 的叡智を認識して、人類のカルマと宇宙のカルマとの結びつきを洞察しな ければなりません。そうすれば、この共感がふたたび私たちのなかに生じてくることでしょう。唯物論的な思考が支配する現代というこの暗黒の時代には、宇宙的関連が何もわからなくなっています。地上のすべての存在が統一的な根元をもち、進化の過程で分離してきたにすぎない、ということを人びとは考えようともしません。ですからもちろん、人間と動物との深い結びつきなど考えようともしません。(略)

 このことは、私たちと世界観と感情生活との結びつきをよく示しています。感情とは結局、世界観の現われなのですから、世界観が変化すれば、世界感情もまた変化するのです。人間は、自分だけしか高度に進化させられませんでした。そしてまた、自分を高めるために、他の存在を奈落へ突き落とすことも平気でした。人間は、動物がカルマを解決する手段としての個性を発達させることに協力しませんでした。動物はひたすら悩むしかなかったのです。人間は、動物にカルマの法則に応えるすべを教えず、ただ苦しみだけを与えてきました。しかしその償いを、いつかはしなければなりません。それができるのは、人間が個性の自由と無私の態度とを真に身につけたときです。そうなったとき、人間は意識的な態度で、動物と自分のカルマ的連関を理解し、そして次のように語れるでしょう。「私が今ここにいるのは、動物のおかげだ。私は個々の動物を影の存在におとしめてきた。しかしこれまでは直接提供できなかったものを、これからの行動を通して、動物に提供する道を見出さなければならない」 (P48-49)

 こうした観点から、人間を治療するために行なわれる動物実験などのことをもう一度見つめ直してみることが必要だと思われます。しかし、だからといって人類はすべて菜食主義にならなければならないということはいえないのではないでしょうか。食肉の問題はとても難しく微妙な問題を多く持っているのですが、少なくとも、食べられるための動物とそうでない動物というような詭弁などは避けていかなければならない部分ではないかという気がします。自分が動物の肉を食べているという現実をまずはごまかさないこと。そして動物に限らず、食べることの犠牲になってくれている存在に対して深い感謝を捧げることだけは、少なくとも必要なことだと思います。そして、「これまでは直接提供できなかったものを、これからの行動を通して、動物に提供する道」について模索していくこと。それが個としてのカルマを担うことのできるまでに進化することのできた人間の義務ではないかと思うのです。

 

(第2講・修了)

 


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