ルドルフ・シュタイナー

「カルマの開示」(GA120)を読む

第3講

カルマとの関係における健康と病気

 (1910年5月18日) 


 第3講-1


1998.12.19

■シュタイナー「カルマの開示」を読む

 第3講「カルマとの関係における健康と病気」-1

 

 この第3講でのテーマは、標題にもあるように、「カルマとの関係における健康と病気」です。

 しかしこのテーマは、この講義の最初にシュタイナーが述べているように「非常に誤解を招きやすい問題」だといえます。そのひとつには、カルマ的連関というのは、「現代の思潮」である唯物論的科学と「正反対の立場に立つ」からですし、また、それは安易な形で病人に対する非難としても用いられかねません。逆にそれが認識に裏付けられそれへの積極的な取り組みを意図していたとしてもそれが非難だというふうに誤解して受け取られかねないというところもあります。

 まず、それが現代の医療の基本的な姿勢からみて、病気に関するカルマ的連関がなぜ受け入れがたいのかを見ていくことにします。精神科学は、現代の科学や医療を否定するのではなく、その不十分なところを補完、拡充していくというのがその基本的な姿勢なのですが、「現代の思潮」からするとなぜそれが受け入れがたいのかということです。

 現代人は、今日の科学の「高い水準」の上に立って、過去数世紀における医療や保健の在り方を軽蔑の眼で見ています。医療や保健を扱った書物の著者の多くは、この分野での最近数十年間の成果は絶対的な正しさを示している、と思いこんでいます。その成果は、補足を必要とすることはあっても、否定されるようなことはありえない、というのです。「まさにこの点で、昔はひどい迷信に陥っていた」としばしば治療法のひどい例があげられます。人が特にひどいと考えるのは、とうにその意味が忘れられてしまっているような言葉に出会うときです。というのも、人々はその言葉を知ってはいても、その意味をどう考えたらよいのかわらなくなっているからです。

 たとえば、「昔の人はどんな病気も、神か悪魔のせいにした」とよく言われますが、このことはひどい迷信であるとは言えません。ただ現代人は、「神」や「悪魔」という概念を昔の人がどう考えていたのか、知らないだけなのです。(P53)

 唯物論科学におけるいわば進歩史観からすれば、過去は無知蒙昧であたっということになります。まだ解明されていない事実、真実はたくさんあるかもしれないが、それが科学によって、「迷信」を打ち砕き、真理が次々に解明されてきている、というわけです。ですから、その基本的認識が間違っているかもしれない、別の認識の可能性があるかもしれない、ということは考えにくくなっています。「事実、医療は確実に進歩してきたではないか」というわけです。

 ソクラテスの「無知の知」ではないのですが、そうした認識は、自分がかつて行なわれていた治療やそれにあたって使われる言葉を知らないということを知らないでいるということにすぎない可能性もあります。しかし、自分が知らないということを認めなければ、そこに新たな光を投げかける可能性もまた閉ざされてしまうことになるでしょう。

 シュタイナーは面白いたとえ話をしています。このたとえは、シュタイナーはよくつかうものです。

 Aが次のように語ります。「今見てきた部屋には、蝿がいっぱい飛んでいたが、それは当然なことだ。とても部屋の中が汚れていたのだから」。汚れが蝿のいる理由だというのはよくわかります。一度きれいに部屋を掃除すれば蝿はいなくなる、というのも正しい意見だと思います。

 しかしもう一人のBは、「蝿がいっぱいいる原因は、その部屋に以前からとても不精な女が住んでいるせいだ」と言うのです。

 それに対してAが応じます。「不精を一種の人格のように言うのはひどい迷信だ。不精が眼で合図をすれば、蝿がいっぱい飛んでくるとでもいうのか。蝿がいるのは、部屋がひどく汚れているからだ」。

 私たちの問題にとっても同じような例がいくらでもあると思います。「彼が病気になったのは、病原菌をうつされたからだ。身体の中の菌を追い出せば、病気は直る。もっと根深いところに霊的な原因がある、というこようなことを考えなくても、病原菌を殺すだけでいいのだ。」(P54) 

 シュタイナーは、「精神科学と医学」でも、病気の原因を「病原菌」に求めるという「現代の思潮」を批判し、むしろ「病原菌」の「土壌」とでもいうべきもののほうの認識を求めています。それをここでは、「蝿」、「部屋の汚れ」、「不精」との関係で表現しています。「蝿」は病気、「汚れ」が病原菌、「不精」が土壌とでもいえるでしょうか。

 対症療法的にいえば、部屋を掃除すればきれいになって蝿はいなくなります。そしてまたなぜかわからないけれど部屋が汚くなって蝿がたくさん飛ぶようになります。そしてまた部屋を掃除します。そして蝿はいなくなります。その繰り返しということになります。

そこに「不精」というのを問題にするのは「科学的」ではないわけです。

 その「科学」でいえば、たとえばある人がAという町からBという町に毎週通っているとし、その人の肉体の隅々やAという町、Bという町のあらゆることを調べたとしても、なぜその人がA町からB町に毎週通っているのかは問題になりません。もし問題にしようとしても、なぜかということに対する答えはでてきません。その答えが、ただ自分の住んでいるA町からB町に住んでいる恋人のところに会いに出かけるためだとしても、「会いたい」ということを問題にするのはまったく「科学的」ではないわけです。

 で、もしその二人が喧嘩分かれしたことが原因でその人がA町からB町に通わなくなったとしても、なぜそうなったかではなく、そういう現象の変化しか問題にしません。

 不精を直して(直すのは、ぼくの場合にも非常に困難ではありますが^^;)、部屋をきれいにして蝿が飛ばないようにするということにしても、不精を問題にできない以上、「不精」は認識のできない領域にしかないとされます。

 霊的原因を通常の物質的原因と同じ仕方で理解したり、議論したりはできません。また、霊的原因を主張することで、物質的原因を無視することもできまん。さもなければ、部屋を汚れたままにしておいて、女の不精だけを攻撃すればいいことになってしまいます。(略)

 現代人は、病気の原因をすぐ身近なところに見ようとします。なぜなら、現代の世界観の根幹神経とでもいうべきものは、都合のいいほうを選ぶ、ということだからです。すぐ身近なところに原因を求めるほうが都合がいいのです。ですから、病気にかかったときには、すぐそばにある原因だけに眼を向けます。病人自身がとりわけそうします。

 患者は医者からそのような原因を教えてもらいます。そのため、どの病気にもそのような原因がある、と一般に信じられています。しかしそのせいで、多くの不十分な医療体制が生じたのです。医者も身近なところに病気の原因を見つけだせないと、能力がないと思われてしまいます。医療はこのようにして、安易な判断に傾いてしまうのです。(P55-56)

 「不精」という原因を物質的に認識することはできませんので、それを直接的な原因として理解することはもちろんできません。また、汚れた部屋という直接的原因を無視することもできません。その直接的原因を取り去れば、「蝿」はいなくなるのですから。

 しかし、原因を直接的に見えるものだけにしか求めないということで目に見えるかたちであらわれている原因の原因に目を向けなくなります。ウィルスが原因だとなるとウィルスさえ取り去ればいいということになります。ガン細胞が増殖してくるとしたらそれさえきちんと取り去ればいいことになります。

 通常の生活のなかでは、たとえば人があまりにも短気なので、仕事や人間関係がうまくいかないとしますと、直接的な原因はその都度いろいろあるとしても、それを改善するためには、そのそのもの短気をなんとかしなければなりません。自分の短気に根気よく向き合いそれを暴走させないようにすることが必要です。しかしそれが医療になりますと、直接的原因からの治療になります。もちろん生活指導としては示唆することはあるでしょうけど、それを原因とすることは非科学的なことになってしまいます。あくまでも、部屋の汚れていることが蝿の原因なのです。

 カルマを考察するときには、前に起こったことと後に起こったこととの関連を取り上げなければなりません。カルマの観点から健康と病気を考察するということは、ある人の健康状態の原因を、以前の行為や体験の中に見るということに他なりません。(P55) 

 病気に関するカルマ的連関を認識するためには、直接的原因だけを云々することではなく、その真の原因を「以前の行為や体験の中に見る」ということが必要なのです。

 

 第3講-2


1998.12.22

 

  さて、第二講では、人間と動物を比較しながら、人間であるがゆえのカルマ的連関ということを見ていきましたが、この第三講では、「病気とカルマ」ということについて見ていくことにします。

 第二講で見たように、動物には自我がないためにカルマは生じませんでした。ですから、「病気とカルマ」ということに関しても、「人間」においてのみ問題になります。

 そこで、人間における「カルマとの関係における健康と病気」について見ていくために、鉱物、植物、動物における「病気」と比較してみることにします。

 まず、鉱物の場合ですが、鉱物は物質体だけの存在ですから、その物質体を切断しても、その切断された状態がそのまま続き、自分でその傷を癒すことはできません。ですから、そもそも「病気」は成立しないといえますし、病気と治癒が相互関係にあるとも言えません。

 さらに、植物の場合ですが、植物は、物質体とエーテル体を有していますが、鉱物の場合とは異なり、病気と治癒の相互関係が成り立っています。エーテル体が内なる治癒力を生じさせるからです。しかし、植物が病気になるとしたら、その「原因」は「外からしか」きません。

 植物の物質体とエーテル体は、本来健康なので、生長、発育に何らかの外的妨害が加えられると、ふたたび健康な状態に戻るためにあらゆる可能な試みを行なおうとします。植物のある部分を切断すると、植物は傷を受けた箇所のまわりからさらに生長しはじめ、生長をはばみ有害な作用をするものを回避しようとします。そのようなとき、外傷を受けた植物の中にどれくらい内なる防衛力、内なる治癒力が存在しているのか、手にとるようにわかります。(P58)

  植物の病気は、外的なところにしか存在していませんから内因性の病気というのは生じないのです。

 動物になりますと、事情は異なってきます。植物の場合ほどエーテル体の内なる治癒力は見られなくなります。とはいえ、イモリのような動物であれば、器官を切断されてもその器官を再生することができるのですが、犬や猫などになると、そういうことはもやはできなくなっています。エーテル体の内なる治癒力の力は制限されているのです。

 エーテル体は本来、活動し、生産し、成長する働きをします。植物や下等動物の場合、その肢体が切断されると、エーテル体はすぐにその部分を補充しはじめます。一方、肢体の活動に強く結びついている高等動物のエーテル体は、物質体が形成されると、その物質的形態がエーテル体を規定しはじめるのです。(P59-61) 

 それはいったいなぜなんでしょうか。

 動物は植物とは異なりアストラル体を有しています。アストラル体の活動が大きくなればなるほど、アストラル体はエーテル体をみずからに依存させようとするのです。

 アストラル体の活動が活発だということは、外界を内的に体験できるということです。しかし外界を内的に体験するためには、エーテル体の力が必要になります。治癒のために使っていたエーテル体の力をそのために使ってしまうわけです。アストラル体がまだ活発でない下等動物の場合には、いまだ植物に近い状態なので、エーテル体の治癒力の力が大きいのです。

 動物の場合、進化すればするほど、物質体とエーテル体だけではなく、アストラル体も活発になります。下等動物は、そのアストラル体の活動が非常にわずかであるため、未だ植物に似た状態にあるのですが、進化が進めば進むほどアストラル体の活動が目立つようになり、アストラル体はエーテル体をみずからに依存させようとします。

 物質体とエーテル体だけからなる植物には、内と外との区別があまりなく、刺激を受けても、それを内的経過として体験することはありません。それに対して、アストラル体が活発な動物の場合には、外的印象が内なる経過の中に映し出されます。活発なアストラル体をもっていない動物は、外界を内的に体験できません。アストラル体が活発に働いていればいるほど、内部が外部を映し出すのですが、そのためにはエーテル体の力をより多く用いなければならないのです。(P61-62)

 

 第3講-3


1998.12.23

 

 それでは、人間の場合はどうなのでしょうか。人間と動物は「病気」ということにおいてどう異なっているのでしょうか。

 動物から人間に眼を転じるなら、さらに別のことが見えてきます。人間のアストラル体の場合、動物のように、あらかじめ定められた機能だけ組み込まれているわけではないからです。動物は生活計画をあらかじめ組み込まれて生きていますから、本能から大きく逸脱したり、普通以上に本能にふけったりはできません。決められた生活計画にしたがわされているのです。

 しかし人間は、善と悪、正と不正、真実と虚偽の間にあって、ありとあらゆる生き方をします。ありとあらゆる仕方で、もっぱら個的な動機にしたがって、外界と関わります。その関わり方がアストラル体に影響を及ぼし、その結果、アストラル体とエーテル体の相互作用もまた、この体験にしたがった在り方をしなければならなくなるのです。

 ですから、人間が放縦な生活を送ると、その生活がアストラル体に印象を与えそしてそのアストラル体がエーテル体に影響を及ぼします。エーテル体は、善と悪、正と不正、真実と虚偽の間で、人間がどのような人生を送るかによって変化するのです。(P62) 

 動物は、輪廻転生する「個性」を有してはいません。アストラル体は有していますが、それは集合的、本能的な在り方をしていますから、その本能から大きく逸脱した生活を営むことはできません。ですから、アストラル体とエーテル体の相互作用もあらかじめ組み込まれた「生活計画」に従ったものなのだといえます。

 しかし、人間の場合は、自我を持ち、「個的な動機にしたがって、外界と関わります」。その個的な関わり方がアストラル体に影響を与え、そのアストラル体がエーテル体に影響を及ぼすのです。そして、どのような人生を送るかによって変化したエーテル体のエッセンスは死後も残り、再受肉の際に、新たなエーテル体に注ぎ込まれます。「以前の人生の成果」が新たな身体にも刻印されることになるのです。ですから、動物の場合の病気とは異なり、人間の「病気」には、「以前の人生の成果」からの影響が原因となっていることがあるのだといえます。

 つまり、人間の場合、「放縦な生活」がアストラル体に印象を与え、それがエーテル体に影響し、それが病気の原因となる場合と、それらがさらに再受肉する際にも影響して病気の原因となる場合とがあるわけです。

 人間が死の門を通るとき、まず肉体が働きを停止し、エーテル体はアストラル体と自我とに結びついて後に残ります。死後数日が経過すると、そのエーテル体の大部分も第二の死体として脱げ落ちます。しかしエーテル体のエッセンスは後に残り、その後ずっと存続していきます。エーテル体のこのエッセンスの中には、たとえば放縦な生活によって人生の中に取り込まれた、思考、行為、感情のすべてが含まれています。エーテル体はそれらを、人間が新しい誕生を迎えるまで内に保持しつづけるのです。このような体験がない動物には、死の門の中にまで担っていくものはありません。

 さて、人間がふたたびこの世に生まれると、エーテル体のこのエッセンスは新しい形成過程にあるエーテル体の中に注ぎ込まれます。したがって、新しく生まれた人間のエーテル体には、以前の人生の成果が込められているわけです。しかもそのエーテル体は、本来、誕生後の新しい身体の形成者であるため、新しい身体の中にも、この成果のすべてが刻印されることになります。ですから神智学者は、この世に生を享けた人間の身体形式の中に、その人間が前世でどのような行為をしてきたかを、おおよそながら見ることができるのです。(P62-63) 

 また、死後、死者はエーテル体の大部分が第二の死体として脱げ落ちた後、前世のすべてを生き直していくことになります。人生の終わりからはじめまでのすべてを体験し直すのです。その際には、生前のアストラル体がまだ保たれているので、それらのすべての体験が深い感情を喚起することになります。

 カルマについて見ていこうとするならば、そのように「この世における行為が死後強烈な感情に変化」し、その感情が前世での行為を現世に作用し、肉体にまで作用しているのだということに注目しなければなりません。

 非常に自己中心的な考え方、感じ方、行ない方をしてきた人が死後、自分の利己的な思考、感情、行為の結果を知らされるとき、その人は生前の自分の行為に対して、激しい反感を持ち、自分の本性に反発する傾向を持つようになります。そしてその傾向は、それが前世での利己的な本性に由来するものであるかぎり、現世における虚弱な体質となって現われます。(P68) 

 その他、嘘をつく傾向は、まちがって構築された身体組織を作り出すのだといいます。 

 帰依も愛も知らない軽薄な人生、表面的な人生が、次の転生において、虚偽への傾向を生じさせ、そして虚偽への傾向をもった人生が、さらに次の転生において、まちがって形成された器官を生じさせるのです。(P68-69)

  この世で考えたこと、感じたこと、行なったこと、それらすべてが死後、それに応じた「強烈な感情に変化」し、それが次の転生、さらにその次の転生というふうに再受肉する身体にまで影響してくることになるわけです。

 とはいえ、前世でのあらゆる行為がカルマとして現世に作用しているのではありません。 

ふたたび生まれ変わってきたときに償いをつけることができるようなこの世の因縁と、死後の魂を生前の特定の生活に執着させるようなこの世の因縁とを注意深く区別しておかなければならない。前の場合は運命の法則、カルマの法則を通して解決されるが、後の場合は死後の魂が自分でその因縁を取り除くことしかできない。(シュタイナー「神智学」イザラ書房/P117) 

 さて、人間の場合、その生活における経験がアストラル体に印象を与えそのアストラル体がエーテル体に影響を及ぼし、肉体にも影響してくるということを見てきましたが、その影響の仕方は、「人生経験」が「意識化された表象内容」を持てる場合と、無意識的な場合とでは異なっています。

 私たちの人生経験は、根本的に二つの種類に分けられるでしょう。すなわち、意識化された表象内容と、無意識的な生活体験とにです。あるいは、印象を記憶し、思い出として残している場合と、思い出せなくなっている場合とに区別することもできます。(中略)

 喜びや悲しみの感情を伴った印象があるとします。たいていの印象は、いえ、本来すべての印象は感情を伴っているのですが、そのような感情は生活意識の表面だけではなく、深く肉体の中にまで作用を及ぼします。(中略)

 ある印象を無意識に受け取ったとします。それは、もし意識的に受け取ったとすれば、私たちにショックを与え、心臓をどきどきさせたであろうような印象です。そのような印象は、意識されることがなかったとしても、肉体の中にまで深く入っていきます。一般に、意識的な表象内容になった印象は、人体組織の中に深く作用としようとしても抵抗を受けてしまいます。しかし印象が無意識的に、私たちの内部に直接作用を及ぼすようなときには、何物もその作用を妨げませんから、強い力を発揮します。そのようにして私たちの内面は、私たちが意識しているよりも、はるかに豊富な印象で満たされているのです。(P63) 

 意識的に受け取った印象は、人体組織に作用しにくいのに対して、無意識的に受け取った印象は、「深く肉体の中にまで作用を及ぼ」すというのです。このことは非常に重要なことではないでしょうか。

 このことからわかるのは、日々の生活において、とくに感情を深くともなった印象から目を逸らさないでそれをできるだけ意識的に受けとめることができれば肉体への影響は少ないわけですから、その観点からの予防医学ということも重要になってくるということです。

 しかし、生まれてからしばらくの間は、「意識化」ということはできません。そういう意味で、その時期の教育の責任ということに目を向ける必要があります。

 人生には、生き生きとした作用を及ぼしながら、思い出すことのない印象が特別豊富な時期があります。それは、出生時から記憶が始まるまでの時期です。この時期に受け取った印象は、その後も心の中に留まり、その人を変化させます。その印象が忘れられているため、意識化された表象内容の抵抗を何も受けずにいるからです。(中略)

 このことが理解できたなら、生後数年間の教育がどんなに責任の重いものであり、後の一生にどんなに重大な影もしくは光を投げかけるか、と思わずにはいられません。

 幼児期のそのような印象は−−とりわけその印象を繰り返して受けたときには−−生きる気分を根本的に左右します。私たちは人生のある時点から、急に説明のつかない不機嫌な気持ちに襲われることがあります。そのことは、過去に遡って、幼児期の印象が今の生活にまで光や影を落としていることを知らなければ、説明がつきません。(P66) 

 自分自身のことをふりかえってみても、今の「生きる気分」にはそうした時期の無意識的に受け取った印象が深く影響しているかもしれないということに思い当たることがあります(^^;)。

 さて、この第3講では、人間の病気の原因を形成する仕方について植物や動物との違いなどもみながら、その概略をみてきました。そして、同一の人生の中にその原因を見出せる病気、前世での体験が原因となっている病気など、人間の病気には、さまざまなものが作用しているということがわかりました。 

 幼児期の体験は、前述したような後年の心の働きに際して、軽度な病気を生じさせます。このように神経症、ノイローゼ、ヒステリーその他の病因は、同一の人生の中に見出せますが、しかし、より重い病気の原因は、前世の中に求められなければなりません。なぜなら、新たな誕生に際して、前世での道徳的・知的体験がすでにエーテル体の中に深く作用しているからです。(P70)

 さて、次の第4講では、カルマと病気という観点からの治療ということについてさらに見ていくことになります。


 ■シュタイナー「『カルマの開示』を読む」メニューに戻る

 ■シュタイナー研究室に戻る

 ■神秘学遊戯団ホームページに戻る